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雨の秘密(1)
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一糸まとわぬ姿で、ジクムントに抱かれて眠っていたマリアは雨の音で目を覚ます。
いつの間にか降り出した雨が窓に打ち付け、流れている。
まだ夜明け前。
まるで川底から水面を眺めるような神秘的な光景だった。
雨脚はかなり強いようだ。
「うぅ……」
と、耳元でかすかな呻《うめ》きが聞こえた。
「ジーク?」
ジクムントは顔を顰《しか》め、額に汗を浮かび上がらせていた。
「どうしたの、ジークっ」
呼びかけるが、身体の奥から絞り出すような苦しげな呻きばかりで、目を覚ますことはなかった。
こんなジクムントを見るのは初めてのことだ。
マリアは身動《みじろ》ぎ、どうにか彼の腕から抜け出すと、部屋の外で警備に当たっている兵士に言ってお湯と布を用意してもらうと枕元に持っていき、うなされているジクムントの汗を丁寧に拭《ぬぐ》う。
額《ひたい》に手を置くが、熱は無かった。
「――あに、うえ……私は……」
「え?」
しかし一瞬聞こえたか聞こえなかったか程度のその呼びかけはすぐに、狂おしい呻きの中に紛《まぎ》れてしまう。
(兄上……?)
もしそういう意味の兄ならば、ジクムントには四人の兄がいるが、その“兄上”なのかどうなのか、マリアには分からなかった。
(ジーク、一体どうしたの?)
マリアは胸騒ぎを覚えてしまう。
朝になると雨脚はさらに強くなっていた。
針のような雨が街全体を霞《かす》ませ、地平線の彼方《かなた》を煙らせていた。
天気が良ければどの街よりも美しい景色を眺めることが出来るが、雨に煙った姿は晴れの日が美しい分、陰鬱《いんうつ》な色を強くする。
しかしこの雨も、マリアの故郷トルシア州では恵みである。
環境が変われば天気一つとっても受け止め方が異なる。
姿見に制服姿のジクムントが映り込んでいる。
ジクムントの表情が暗く沈んでいる。
ジクムントの身支度を調えるのはマリアの役目になっていた。
目覚めた彼はどこかいつもよりもまとっている空気感が弱々しく思える。
「どうかしたのか、マリア」
ジクムントが自分のことをじっと見つめているマリアに気付く。
「……ジーク、体調はどう?」
「体調? 問題ない。どうした。昨日の夜が激しすぎて心配したか?」
明け透けな物言いにマリアは頬を染めてしまう。
「ち、違うわよ」
鏡の中で若き王は口の端を持ち上げた。
顔色を見る限り、体調が悪いという風には見えなかった。
「それでどう? 本当に平気?」
「大丈夫だ。何だ、どうしたんだ」
うなされていたことを言おうかどうか、“あにうえ”という言葉の意味を聞こうかどうか迷ったが、「何でもない」と誤魔化すように微笑む。
雨の日を陰鬱だと感じるのは誰しもあること。ジクムントもそうなのだろう。
うなされていたからと言って、それを思い出させる必要もないだろうと思ったのだ。
「そうか。じゃあ行ってくる」
「いってらっしゃいませ」
マリアは頭を下げて見送った。
それでもやはり胸の内の不安は簡単に消えるものではない。
翌日も雨はやまず、そしてまた寝台では「……あにうえ」と、うなされて脂汗を浮かせたジクムントを介抱した。
マリアはジクムントに寄り添い、その大きく硬い手を握り締める。
「ジーク。大丈夫だよ。私がついているからね」
近くで雷が落ちる。
部屋がまるで昼間のようにぱっと明るくなる――同時に、ジクムントが目を開けるや飛
び起きた。
「兄上……っ!」
それは搾《しぼ》り上げるように苦しげな響きを帯びた。
「ジーク、大丈夫!?」
ジクムントはそこで我に返ったようにマリアを見つめる。
「……マリア?」
「お水よ」
マリアは水差しから水を注いだ器を渡す。
「すまない……」
ぐっと一気に煽る。
「動かないで」
マリアは水にひたした布を額に押し当てる。
「とても、うなされていたわ」
「……そうか」
ジクムントはゴロゴロと遠雷《えんらい》の音が響く中、雨に濡れる窓を見つめる。
「嫌な天気だな」
「ねえ、ジーク……。もし、私に力になれることがあったら――」
ジクムントに肩を抱かれる。
「心配するな。たまたまだ。たまたま」
たまたまが二度も立て続けに。
それも同じ“あにうえ”という呻きと一緒に。
「心配をかけてすまない。何でも無い」
額に口づけをされる。
(ジーク……)
話をはぐらかされてしまったようで、マリアの胸のもやもやはいつまでも晴れることがなかった。
いつの間にか降り出した雨が窓に打ち付け、流れている。
まだ夜明け前。
まるで川底から水面を眺めるような神秘的な光景だった。
雨脚はかなり強いようだ。
「うぅ……」
と、耳元でかすかな呻《うめ》きが聞こえた。
「ジーク?」
ジクムントは顔を顰《しか》め、額に汗を浮かび上がらせていた。
「どうしたの、ジークっ」
呼びかけるが、身体の奥から絞り出すような苦しげな呻きばかりで、目を覚ますことはなかった。
こんなジクムントを見るのは初めてのことだ。
マリアは身動《みじろ》ぎ、どうにか彼の腕から抜け出すと、部屋の外で警備に当たっている兵士に言ってお湯と布を用意してもらうと枕元に持っていき、うなされているジクムントの汗を丁寧に拭《ぬぐ》う。
額《ひたい》に手を置くが、熱は無かった。
「――あに、うえ……私は……」
「え?」
しかし一瞬聞こえたか聞こえなかったか程度のその呼びかけはすぐに、狂おしい呻きの中に紛《まぎ》れてしまう。
(兄上……?)
もしそういう意味の兄ならば、ジクムントには四人の兄がいるが、その“兄上”なのかどうなのか、マリアには分からなかった。
(ジーク、一体どうしたの?)
マリアは胸騒ぎを覚えてしまう。
朝になると雨脚はさらに強くなっていた。
針のような雨が街全体を霞《かす》ませ、地平線の彼方《かなた》を煙らせていた。
天気が良ければどの街よりも美しい景色を眺めることが出来るが、雨に煙った姿は晴れの日が美しい分、陰鬱《いんうつ》な色を強くする。
しかしこの雨も、マリアの故郷トルシア州では恵みである。
環境が変われば天気一つとっても受け止め方が異なる。
姿見に制服姿のジクムントが映り込んでいる。
ジクムントの表情が暗く沈んでいる。
ジクムントの身支度を調えるのはマリアの役目になっていた。
目覚めた彼はどこかいつもよりもまとっている空気感が弱々しく思える。
「どうかしたのか、マリア」
ジクムントが自分のことをじっと見つめているマリアに気付く。
「……ジーク、体調はどう?」
「体調? 問題ない。どうした。昨日の夜が激しすぎて心配したか?」
明け透けな物言いにマリアは頬を染めてしまう。
「ち、違うわよ」
鏡の中で若き王は口の端を持ち上げた。
顔色を見る限り、体調が悪いという風には見えなかった。
「それでどう? 本当に平気?」
「大丈夫だ。何だ、どうしたんだ」
うなされていたことを言おうかどうか、“あにうえ”という言葉の意味を聞こうかどうか迷ったが、「何でもない」と誤魔化すように微笑む。
雨の日を陰鬱だと感じるのは誰しもあること。ジクムントもそうなのだろう。
うなされていたからと言って、それを思い出させる必要もないだろうと思ったのだ。
「そうか。じゃあ行ってくる」
「いってらっしゃいませ」
マリアは頭を下げて見送った。
それでもやはり胸の内の不安は簡単に消えるものではない。
翌日も雨はやまず、そしてまた寝台では「……あにうえ」と、うなされて脂汗を浮かせたジクムントを介抱した。
マリアはジクムントに寄り添い、その大きく硬い手を握り締める。
「ジーク。大丈夫だよ。私がついているからね」
近くで雷が落ちる。
部屋がまるで昼間のようにぱっと明るくなる――同時に、ジクムントが目を開けるや飛
び起きた。
「兄上……っ!」
それは搾《しぼ》り上げるように苦しげな響きを帯びた。
「ジーク、大丈夫!?」
ジクムントはそこで我に返ったようにマリアを見つめる。
「……マリア?」
「お水よ」
マリアは水差しから水を注いだ器を渡す。
「すまない……」
ぐっと一気に煽る。
「動かないで」
マリアは水にひたした布を額に押し当てる。
「とても、うなされていたわ」
「……そうか」
ジクムントはゴロゴロと遠雷《えんらい》の音が響く中、雨に濡れる窓を見つめる。
「嫌な天気だな」
「ねえ、ジーク……。もし、私に力になれることがあったら――」
ジクムントに肩を抱かれる。
「心配するな。たまたまだ。たまたま」
たまたまが二度も立て続けに。
それも同じ“あにうえ”という呻きと一緒に。
「心配をかけてすまない。何でも無い」
額に口づけをされる。
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話をはぐらかされてしまったようで、マリアの胸のもやもやはいつまでも晴れることがなかった。
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