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第一章(5)
屋敷に戻ってから太郎は屋敷の細々とした力仕事を手伝うことにした。
秋光の口添えもあって、手が空いたらあれをしてくれ、これを持っていってくれ、と仕事は山のようにあった。
元々動くことは好きなたちだ。部屋でじっとしているよりもずっと良かった。
大月館で過ごす間、他人と口を聞くことなど無かった。
唯一口を開き、言葉を交わすのが、国隆に抱かれる時、彼の気持ちを盛り上げるために媚びを売る時だけ。
ここでは違う。
ありがとうと言われたり、助かったと何気なくかけられた言葉や、力仕事の後に水をもらったり、笑いかけて話しかけてくれたりと、他愛ないことの一つ一つが太郎にとってはどう言葉にすれば良いのか分からないくらい嬉しかった。
夕方になると炊事場は活気づく。
その手伝いをしている最中、女中から秋光へ白湯を持っていくように言われた。
薪運びや水汲みなどの力仕事が一段落したこともあって太郎は手が空いていた。
「分かりました」
笑顔で碗の置かれた折敷(おしき)を手に、秋光の私室のある母屋へ向かった。
「秋光、いるか」
障子戸ごしに声をかける。顔を出したのは、秋光の近習を務める三郎だった。
三郎は太郎が来たことに驚いたらしい。
「どうしたんだ」
「白湯を持っていけって言われて……」
「そうか」
「……入って良いのか?」
「殿が言われている」
秋光は文机で書類に目を通していた所だった。
背後には動植物を描いた屏風が配されている。
「おお、来たか」
秋光は目線を三郎へ送る。三郎は頷くと、部屋を出て行く。
「あ、おい……」
今朝のことがあって、二人きりにされるのは少々気まずかった。
「そう嫌がるな。取って食おうと言う訳じゃないんだから」
秋光は薄く笑うと、白湯を飲む。その喉が小さく揺れるかすかな所作に目が向いてしまう。
(ああくそ、俺、おかしいぞ。こんなの……)
これまで男相手に欲情したことなどない。国隆に毎夜抱かれて、刺激を受けた身体が過敏になっている自覚はあった。それでもこうして男の一挙手一投足に目を惹かれることなどこれまで一度も経験したことがなかった。
「女たちがお前がよく働くと褒めていたぞ」
「いや、ただ荷物運びとかそういうのだから……」
「それが前々から注文をつけられていたんだ。男共は館の警護にかけつけて屋敷の仕事から逃げてるとな。うちもなかなかこれで万年人手不足なんだ」
「……ただ飯食うのは、悪いしな。これくらいさせてくれ」
太郎はやや視線を外して言う。
秋光は苦笑する。
「そんなに嫌うな。今朝のことは悪かったと思っている」
「あ、いや、そういうことじゃ」
「そうか、まあ良い。住み心地はどうだ。うまくやれているか」
「ああ、みんな、優しいし」
「こき使われているのに嬉しそうだな」
「働くのは嫌いじゃないし……」
「実は、お前を呼んだのは……昼頃に遣いの人間が尋ねてきた」
その時、どたばたとけたたましい足音が近づいてくる。三郎だった。
彼は障子戸を開けると、秋光はすぐに応じる。
「どうした」
「殿。佐々木殿が参られました」
秋光の表情が曇る。
「おーい、満寿(まんじゅ)っ! おいおい、俺は佐々木高春だ。満寿は無二の親友だぞ。お前らに案内されずとも目をつむっていても、どこにいるかは分かるっ!」
高らかな声が響いてくる。
「……い、いかがいたしますか……」
「客なら、俺は」
白桜丸が腰を上げたその時。
「部屋から出るな。隠れろ」
「は?」
「説明は後でする。早くしろっ」
その鋭い言葉と、初めて会った時の息をのむような鋭い眼差しにあてられ、まるで目には見えない力に背を押されるように従った。
(……一体何なんだ?)
間もなく障子戸がぴしゃんと音をたてて開けられた。
「久しいな、満寿《まんじゅ》!」
叫んでいたのと同じ声の主だ。
「数日前にも来ただろ」
「はははは! そうだったか? そう嫌な顔をするな。友が遊びに来たんだぞ? もっと笑えよ、朴念仁っ!」
急に部屋が賑やかになり、太郎はかすかな好奇心を抱いた。
一体どんな奴が尋ねてきたのか。気になるあまり、こっそり屏風の影から目を覗かせる。
広い秋光の背中ごし、やけに派手な直垂姿の男がいた。右半身には深紅の生地に金糸で鳳(おおとり)を描き、左半身は白地に鬱金の生地。袴は紺地で、数片の紅葉を散らしていた。直垂も袴もどちらも紺地に申し訳程度の柄を散らした秋光のものと比べると、明らかに際立っていた。
客人は見事な所作で、赤い房のついた檜扇を広げたかと思うと、ゆるゆると仰ぐ。
烏帽子からは女のように長い髪が垂れ、その黒い髪がまた着物によく映えていた。
ふわっと漂ってきたのは甘みのある香のかおり。
「っ……」
国隆を思わせるにおいに、嗚咽が漏れそうになって慌てて口を押さえた。
「それで、高春。勝手に人の家に押し入ってきて何のようだ」
精悍な秋光と比べると、女性的で柔弱な印象があるが、腰に刀を帯び、秋光と対等に口を聞いている所からしてあれも武士なのだろう。
「押し入るとは人聞きの悪い。昔より勝手知ったる何とやら……。犬であるまいし、いちいち門前で待てなどと言われる筋合いはない」
「不審者と間違われて矢をいかけられても知らんぞ」
「一体誰がこの私にそんなことを」
「俺だ。その派手派手しい着物のまま門前に吊ってやる」
「お前に殺されるなら、私も本望。のう、秋光……」
高春は秋光の顎をそっと持ち上げ、口づけをせんばかりに顔を近づける。
が、あともう少しというところで秋光が刀の柄を、高春の脇腹を押しつけた。
高春は微笑をたたえながら、おっとりとした動作で引き下がる。
「冗談が通じないな、朴念仁め」
「朴念仁で結構。で、用向きは」
「お前の元にも届いただろう。大月からの癇癪の書状よ」
高春は懐より書状を取り出すや、それを広げた。
「先刻、大月館より脱走者あり。これを捜索し、捕らえ、速やかに大月館へ届けよ。褒美を与える、と……」
「ああ、着たな」
「全く。大月の下衆な趣味の尻ぬぐいとは泣けてくる……。で、どうする?」
「どうもこうもないだろう。見つけ次第、突き出すまで」
秋光の冷徹な言葉に、息をのんだ。
「それは本心かい、満寿」
高春は笑みをたたえながら秋光を見つめる。
「当たり前だ」
「冷静のようで安心したぞ」
高春は如才ない笑みをたたえた。
「なら帰れ」
「待て待て」
「まだ用があるのか」
「これを届けに参ったのだ」
高春は書状を差し出す。
秋光はそれを一瞥すると、すぐに引き受けた。中身は見ないまま、
「用は終わりだな、蹴れ」
「相変わらず素っ気ない。でもそれは心が温かいこと、好意の裏返しと受け取っておくよ」
高春はふふんと微笑み、「では失礼。今度またゆっくり話をしよう!」と無駄に大声を上げ、立ち上がった。
「おっと、見送りは結構」
言い置き、ゆったりとした歩みで去って行った。
「……もう良いぞ」
しばらくして秋光が言った。
太郎は四つん這いで屏風から出た。
「大丈夫か?」
よほどひどい顔色だったのか、秋光が手を貸そうとする。
太郎は頼ってしまいそうになる心を諫め、「大丈夫だから……」と消え入りそうな声で呟いた。今するべきことは一刻も早くこの屋敷から出ることだ。国隆ともう一度まみえることなど絶対に嫌だ。
太郎は障子戸めがけ突進するように走ろうとしたが。
「待て」
秋光に右腕を掴まれた。
「はっ、離せ……っ」
「話がある。聞け」
その透徹とした眼差しに射られる。
(話? 俺を差し出す算段か!?)
「は、離せっ!」
太郎は暴れるが、呆気なく背中を取られて、羽交い締めにされてしまう。
凄まじい膂力に囚われ、太郎は身動ぎすら満足に出来ない。
しばらく太郎の乱れた息遣いが室内に響く。
「落ち着いたか」
たっぷりと時間をおいた後、秋光が囁く。
「……ああ」
拘束を解かれると、心身共に憔悴しきって、その場で崩れ落ちてしまう。
秋光は目線を合わせるようにその場で片膝を付く。
太郎は恐怖で震えが止まらなかった。
秋光が人を呼び、「こいつが大月より逃げ出した。すぐに連れて行け!」と呼ばわると分かっているのに、動けなかった。
もっと早く逃げていれば良かったのだ。秋光の優しさにほだされ、この屋敷の居心地の良さに自分が追われる立場であることをすっかり失念していた……。
「安心しろ。お前を大月に差し出す気はない」
太郎は顔を上げた。秋光の真剣な顔がそこにあった。
「……い、今さらそんな嘘……」
「なぜ嘘だと思う」
「決まってる。お前が武士だからだ。大月の家臣なんだろ。俺を匿うはずがない」
「匿っているのがばれ無ければ良いだけの話だ。それに、俺は大月の家臣ではない。この辺りでは大月は大きな力を有している。だから従っている。それだけのことだ。忠義心はない」秋光はそう言い切った。
太郎は言葉を失ってしまう。いくら自分の屋敷とはいえ、今の秋光の言葉は余りにも向こう見ず過ぎるのではないかと、太郎の方が周囲を気にしてしまうほどだ。
「俺のこと、いつから気付いてた」
「今朝の水浴びの時のお前の背中の傷。俺は昔、あれと同じ傷をつけた人間を大月館で見たことがある。だからお前が大月の寵童であることはすぐに分かった」
「寵童? あの男の欲求の掃きだめだっ!」
「そうだな。……すまん」
「あんたには命を助けて貰って感謝してる。でも……」
「なら、ここを出てどこへ行くつもりだ。大月の美童狩りの残虐性は知れ渡っている。村一つを絶滅させ、少年を捕らえる。村人で生き残る人間はおらず、村は全て焼き払われる。お前に返る場所はないはずだ。それに、一歩でも俺の領地の外に出れば、野盗か大月の走狗どもにたちまち捕まるだろう、大月は裏切りを決して許さない男だ。どうなるかは、お前も分かるだろ」
「……俺にはやらなきゃならないことがあるんだ」
「大月への復讐か」
その言葉に太郎はびくっと身体を震わせる。
「その気があれば、どうして大月の館で差し違えても殺さなかった? お前を貪った後、あの男は高鼾だっただろう。刃が無けれ縊(くび)り殺すことも出来たはず。死ぬのを怖れたか」
「そんなんじゃないっ!」
「なら、どうしてやらなかった」
「……あんたには関係ないだろ」
「まあ、その細腕では、の男の首の骨を折ることなどどだい無理な話か」
太郎は己の細腕をじっと見つめる。村にいた頃よりも体力も筋肉もなくなっている。
「二、三ヶ月もすればさすがにお前のことを諦めるだろう。それまでここで暮らせば良い。匿われるだけが嫌ならば仕事を与えてやる。それまでに外の世界に出ても一人で生きられるだけの体力をつけろ」
「どうして俺なんかの為にそこまでの危険を冒すんだ? こんなことをしても、あんたに何の得もないだろ」
「恩を売りたくてやってる訳じゃない」
「なら、なんでだよ」
「折角助けた命だ。あの男のくだらん理由で、むざむざと奪われるのは癪だからな」
それは納得出来るようで出来ない理由だった。
しかしそれ以上の会話は、三郎が「夕餉《ゆうげ》のご用意が出来ました」と報せて来たことで打ち止めになってしまった。
秋光の口添えもあって、手が空いたらあれをしてくれ、これを持っていってくれ、と仕事は山のようにあった。
元々動くことは好きなたちだ。部屋でじっとしているよりもずっと良かった。
大月館で過ごす間、他人と口を聞くことなど無かった。
唯一口を開き、言葉を交わすのが、国隆に抱かれる時、彼の気持ちを盛り上げるために媚びを売る時だけ。
ここでは違う。
ありがとうと言われたり、助かったと何気なくかけられた言葉や、力仕事の後に水をもらったり、笑いかけて話しかけてくれたりと、他愛ないことの一つ一つが太郎にとってはどう言葉にすれば良いのか分からないくらい嬉しかった。
夕方になると炊事場は活気づく。
その手伝いをしている最中、女中から秋光へ白湯を持っていくように言われた。
薪運びや水汲みなどの力仕事が一段落したこともあって太郎は手が空いていた。
「分かりました」
笑顔で碗の置かれた折敷(おしき)を手に、秋光の私室のある母屋へ向かった。
「秋光、いるか」
障子戸ごしに声をかける。顔を出したのは、秋光の近習を務める三郎だった。
三郎は太郎が来たことに驚いたらしい。
「どうしたんだ」
「白湯を持っていけって言われて……」
「そうか」
「……入って良いのか?」
「殿が言われている」
秋光は文机で書類に目を通していた所だった。
背後には動植物を描いた屏風が配されている。
「おお、来たか」
秋光は目線を三郎へ送る。三郎は頷くと、部屋を出て行く。
「あ、おい……」
今朝のことがあって、二人きりにされるのは少々気まずかった。
「そう嫌がるな。取って食おうと言う訳じゃないんだから」
秋光は薄く笑うと、白湯を飲む。その喉が小さく揺れるかすかな所作に目が向いてしまう。
(ああくそ、俺、おかしいぞ。こんなの……)
これまで男相手に欲情したことなどない。国隆に毎夜抱かれて、刺激を受けた身体が過敏になっている自覚はあった。それでもこうして男の一挙手一投足に目を惹かれることなどこれまで一度も経験したことがなかった。
「女たちがお前がよく働くと褒めていたぞ」
「いや、ただ荷物運びとかそういうのだから……」
「それが前々から注文をつけられていたんだ。男共は館の警護にかけつけて屋敷の仕事から逃げてるとな。うちもなかなかこれで万年人手不足なんだ」
「……ただ飯食うのは、悪いしな。これくらいさせてくれ」
太郎はやや視線を外して言う。
秋光は苦笑する。
「そんなに嫌うな。今朝のことは悪かったと思っている」
「あ、いや、そういうことじゃ」
「そうか、まあ良い。住み心地はどうだ。うまくやれているか」
「ああ、みんな、優しいし」
「こき使われているのに嬉しそうだな」
「働くのは嫌いじゃないし……」
「実は、お前を呼んだのは……昼頃に遣いの人間が尋ねてきた」
その時、どたばたとけたたましい足音が近づいてくる。三郎だった。
彼は障子戸を開けると、秋光はすぐに応じる。
「どうした」
「殿。佐々木殿が参られました」
秋光の表情が曇る。
「おーい、満寿(まんじゅ)っ! おいおい、俺は佐々木高春だ。満寿は無二の親友だぞ。お前らに案内されずとも目をつむっていても、どこにいるかは分かるっ!」
高らかな声が響いてくる。
「……い、いかがいたしますか……」
「客なら、俺は」
白桜丸が腰を上げたその時。
「部屋から出るな。隠れろ」
「は?」
「説明は後でする。早くしろっ」
その鋭い言葉と、初めて会った時の息をのむような鋭い眼差しにあてられ、まるで目には見えない力に背を押されるように従った。
(……一体何なんだ?)
間もなく障子戸がぴしゃんと音をたてて開けられた。
「久しいな、満寿《まんじゅ》!」
叫んでいたのと同じ声の主だ。
「数日前にも来ただろ」
「はははは! そうだったか? そう嫌な顔をするな。友が遊びに来たんだぞ? もっと笑えよ、朴念仁っ!」
急に部屋が賑やかになり、太郎はかすかな好奇心を抱いた。
一体どんな奴が尋ねてきたのか。気になるあまり、こっそり屏風の影から目を覗かせる。
広い秋光の背中ごし、やけに派手な直垂姿の男がいた。右半身には深紅の生地に金糸で鳳(おおとり)を描き、左半身は白地に鬱金の生地。袴は紺地で、数片の紅葉を散らしていた。直垂も袴もどちらも紺地に申し訳程度の柄を散らした秋光のものと比べると、明らかに際立っていた。
客人は見事な所作で、赤い房のついた檜扇を広げたかと思うと、ゆるゆると仰ぐ。
烏帽子からは女のように長い髪が垂れ、その黒い髪がまた着物によく映えていた。
ふわっと漂ってきたのは甘みのある香のかおり。
「っ……」
国隆を思わせるにおいに、嗚咽が漏れそうになって慌てて口を押さえた。
「それで、高春。勝手に人の家に押し入ってきて何のようだ」
精悍な秋光と比べると、女性的で柔弱な印象があるが、腰に刀を帯び、秋光と対等に口を聞いている所からしてあれも武士なのだろう。
「押し入るとは人聞きの悪い。昔より勝手知ったる何とやら……。犬であるまいし、いちいち門前で待てなどと言われる筋合いはない」
「不審者と間違われて矢をいかけられても知らんぞ」
「一体誰がこの私にそんなことを」
「俺だ。その派手派手しい着物のまま門前に吊ってやる」
「お前に殺されるなら、私も本望。のう、秋光……」
高春は秋光の顎をそっと持ち上げ、口づけをせんばかりに顔を近づける。
が、あともう少しというところで秋光が刀の柄を、高春の脇腹を押しつけた。
高春は微笑をたたえながら、おっとりとした動作で引き下がる。
「冗談が通じないな、朴念仁め」
「朴念仁で結構。で、用向きは」
「お前の元にも届いただろう。大月からの癇癪の書状よ」
高春は懐より書状を取り出すや、それを広げた。
「先刻、大月館より脱走者あり。これを捜索し、捕らえ、速やかに大月館へ届けよ。褒美を与える、と……」
「ああ、着たな」
「全く。大月の下衆な趣味の尻ぬぐいとは泣けてくる……。で、どうする?」
「どうもこうもないだろう。見つけ次第、突き出すまで」
秋光の冷徹な言葉に、息をのんだ。
「それは本心かい、満寿」
高春は笑みをたたえながら秋光を見つめる。
「当たり前だ」
「冷静のようで安心したぞ」
高春は如才ない笑みをたたえた。
「なら帰れ」
「待て待て」
「まだ用があるのか」
「これを届けに参ったのだ」
高春は書状を差し出す。
秋光はそれを一瞥すると、すぐに引き受けた。中身は見ないまま、
「用は終わりだな、蹴れ」
「相変わらず素っ気ない。でもそれは心が温かいこと、好意の裏返しと受け取っておくよ」
高春はふふんと微笑み、「では失礼。今度またゆっくり話をしよう!」と無駄に大声を上げ、立ち上がった。
「おっと、見送りは結構」
言い置き、ゆったりとした歩みで去って行った。
「……もう良いぞ」
しばらくして秋光が言った。
太郎は四つん這いで屏風から出た。
「大丈夫か?」
よほどひどい顔色だったのか、秋光が手を貸そうとする。
太郎は頼ってしまいそうになる心を諫め、「大丈夫だから……」と消え入りそうな声で呟いた。今するべきことは一刻も早くこの屋敷から出ることだ。国隆ともう一度まみえることなど絶対に嫌だ。
太郎は障子戸めがけ突進するように走ろうとしたが。
「待て」
秋光に右腕を掴まれた。
「はっ、離せ……っ」
「話がある。聞け」
その透徹とした眼差しに射られる。
(話? 俺を差し出す算段か!?)
「は、離せっ!」
太郎は暴れるが、呆気なく背中を取られて、羽交い締めにされてしまう。
凄まじい膂力に囚われ、太郎は身動ぎすら満足に出来ない。
しばらく太郎の乱れた息遣いが室内に響く。
「落ち着いたか」
たっぷりと時間をおいた後、秋光が囁く。
「……ああ」
拘束を解かれると、心身共に憔悴しきって、その場で崩れ落ちてしまう。
秋光は目線を合わせるようにその場で片膝を付く。
太郎は恐怖で震えが止まらなかった。
秋光が人を呼び、「こいつが大月より逃げ出した。すぐに連れて行け!」と呼ばわると分かっているのに、動けなかった。
もっと早く逃げていれば良かったのだ。秋光の優しさにほだされ、この屋敷の居心地の良さに自分が追われる立場であることをすっかり失念していた……。
「安心しろ。お前を大月に差し出す気はない」
太郎は顔を上げた。秋光の真剣な顔がそこにあった。
「……い、今さらそんな嘘……」
「なぜ嘘だと思う」
「決まってる。お前が武士だからだ。大月の家臣なんだろ。俺を匿うはずがない」
「匿っているのがばれ無ければ良いだけの話だ。それに、俺は大月の家臣ではない。この辺りでは大月は大きな力を有している。だから従っている。それだけのことだ。忠義心はない」秋光はそう言い切った。
太郎は言葉を失ってしまう。いくら自分の屋敷とはいえ、今の秋光の言葉は余りにも向こう見ず過ぎるのではないかと、太郎の方が周囲を気にしてしまうほどだ。
「俺のこと、いつから気付いてた」
「今朝の水浴びの時のお前の背中の傷。俺は昔、あれと同じ傷をつけた人間を大月館で見たことがある。だからお前が大月の寵童であることはすぐに分かった」
「寵童? あの男の欲求の掃きだめだっ!」
「そうだな。……すまん」
「あんたには命を助けて貰って感謝してる。でも……」
「なら、ここを出てどこへ行くつもりだ。大月の美童狩りの残虐性は知れ渡っている。村一つを絶滅させ、少年を捕らえる。村人で生き残る人間はおらず、村は全て焼き払われる。お前に返る場所はないはずだ。それに、一歩でも俺の領地の外に出れば、野盗か大月の走狗どもにたちまち捕まるだろう、大月は裏切りを決して許さない男だ。どうなるかは、お前も分かるだろ」
「……俺にはやらなきゃならないことがあるんだ」
「大月への復讐か」
その言葉に太郎はびくっと身体を震わせる。
「その気があれば、どうして大月の館で差し違えても殺さなかった? お前を貪った後、あの男は高鼾だっただろう。刃が無けれ縊(くび)り殺すことも出来たはず。死ぬのを怖れたか」
「そんなんじゃないっ!」
「なら、どうしてやらなかった」
「……あんたには関係ないだろ」
「まあ、その細腕では、の男の首の骨を折ることなどどだい無理な話か」
太郎は己の細腕をじっと見つめる。村にいた頃よりも体力も筋肉もなくなっている。
「二、三ヶ月もすればさすがにお前のことを諦めるだろう。それまでここで暮らせば良い。匿われるだけが嫌ならば仕事を与えてやる。それまでに外の世界に出ても一人で生きられるだけの体力をつけろ」
「どうして俺なんかの為にそこまでの危険を冒すんだ? こんなことをしても、あんたに何の得もないだろ」
「恩を売りたくてやってる訳じゃない」
「なら、なんでだよ」
「折角助けた命だ。あの男のくだらん理由で、むざむざと奪われるのは癪だからな」
それは納得出来るようで出来ない理由だった。
しかしそれ以上の会話は、三郎が「夕餉《ゆうげ》のご用意が出来ました」と報せて来たことで打ち止めになってしまった。
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