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第二章(1)
太郎が屋敷で過ごして一週間ほどが経った。
いつ大月の兵がやってくるかという不安に怯える余り、夜はほとんど眠れなかった。
それでも太郎がこの館に留まり続けたのは、秋光の言う通り、今外に出るのは死を招くのと同じだからだ。
今の太郎には一か八かで賭けるしかない。
大月の厳重な警戒をかいくぐって、本懐を遂げるだけの力が今の太郎にはなかった。
そんな不安を抱く一方、拍子抜けするほど穏やかに日々は過ぎていった。
いつ自分の所在が露見しても追っ手から逃れられるよう、太郎は体力を付けることに専念し、とにかく身体を動かした。
薪束を運び終えて汗を拭っていると、三郎から声をかけられた。
「太郎。殿がお呼びだ」
「秋光が?」
太郎が三郎の後に続くと、射的場に秋光がいた。
「殿。太郎を連れて参りました」
三郎が控えて言った。
「何か用か?」
「お前に弓矢の使い方を教えてやる。来い」
「あ、ああ……」
恐る恐るという風に近づくと、三郎が弓矢と一緒に弽(ゆがけ)を渡してくる。
「太郎。これを右手につけろ。それから左半身は衣服をはだけさせろ」
三郎に言われるがまま従う。
「なあ、なんだよ、この手袋みたいなやつ」
「馴れないうちはそれを使うんだ。じゃないと指を傷つける」
渡された弓は、秋光が使っているものと比べると一回りほど小さかった。
秋光が近づいてくると背中に手を当てられた。
「背筋を伸ばせ。足は肩幅に広げろ」
「こ、こうか」
「そうだ」
やりなれない態勢のせいで、ただ姿勢を矯正されただけなのに身体が強張った。
「まずは矢をつがえない状態で弓の弦を引いてみろ」
「は? 矢を射る練習じゃないのか」
「満足に引けたら、矢をつがえてやれば良い。とりあえずやってみろ」
秋光は顎をしゃくる。
(馬鹿にしやがって)
いくら何でもそんなに非力な訳がない。
白桜丸は弦を右手で引く。しかし想像以上に力が要った。
「もっと引け。耳の後ろまでだ。その程度じゃ的に届かせられないぞ」
「くっ……」
歯を食いしばり、腕に力を込める。そうして腕が半ば攣りそうになりながら、どうにか限界まで弦を引く。
「そのまま心の中で十を数えるまでその体勢でいろ」
「はあっ!?」
声を出すと腕の力が抜け、すぐに弦が戻ろうとするので慌てて唇を引き結び、弦をぎりぎりと引き直さなくてはならなかった。
(畜生)
弦を引くことに意地になると、すかさず指摘が入った。
「姿勢が丸まっている。それで矢を放った所じゃ誰も仕留められないぞ」
秋光が発破をかけるように言う。
(分かってるって!)
しかしどちらにも注意がいって、結局、中途半端という始末。
「こうだ」
見かねたらしい秋光が背中に密着してくる。
「っ!」
心臓が弾けたかと錯覚せんばかりに跳ねてしまう。
「力を抜け」
両方の手の甲を包むように秋光が手が重なった。
分かっている。分かっている――はずだ。
ますます鼓動が早まる。脈を刻む音が全身に響いて、集中力は乱れる。
分厚い胸板ごし、彼の鼓動が背中に染みいった。
秋光の気配を何よりも強く感じてしまう。それこそこの世界にたった二人きりになったかのよう。
「しっかりと弓を握れ……そう。そして弦を引くんだ」
秋光の手に導かれ、弦を引く。ぎりぎりという音が耳を痺れさせる。
「……良いか。これくらい引ければ大抵の敵は討ち取れるようになる。この感覚を身体に刻むんだ」
「ほ、本当かよ」
軽口すら上擦る。しかし秋光はそれに気付いているのか、いないのか、気付いていて特に気に留めていないのか、
「無論、当たればの話だ」と笑った。
その日は結局、弦を引くことに終始した。
※
夕餉を終えた太郎は自分の部屋に戻った後、一人部屋で悶々としていた。
身体の底が赤々と燃え、疼く。
さすがに夜は特にやるべき仕事は無い。
だからこそ昼間のことを何度も繰り返し繰り返し思い出してしまうのだった。
股間にそっと手をやる。そこは痛いくらい張っていた。
考えてみれば、ここ一週間近くそういうことをした記憶がない。
大月館では毎晩、国隆に貪られていたというのに。
甲高い虫の声が聞こえる。
そこへ足音が重なり、近づいて来た。
身体を起こし、身構えた。妻戸が開かれる。現れたのは三郎だった。
「太郎、良いか」
「あ、ああ……。どうしたんだ」
「お前、文字は読めるか」
「文字?」
いきなり過ぎる三郎に、面食らってしまう。
読めるはずがない。手習いなんて、生まれてこの方したことがない。
「そうか、なら、良いな」
「三郎。分かるように話してくれ」
完全に置いてかれてしまった太郎は混乱してしまう。
「殿から文字を教えるよう言われたんだ」
「文字?」
「そうだ。文字は知っていて損はない。漢字は数が多いが、仮名を覚えるだけでも役に立つ。騙されずに済む」
「……何で、そんなことを秋光は」
昼間の弓に、今だ。
「お前、殿に気に入られたのかもしれないな」
気に入られた。三郎がどんな意味で使ったかは分からないが、心臓が痛いくらいぎゅっと縮こまった。
「――というのは俺の予想だけど、きっとお前がこの館を出る時のことを考えておられるんだろう。身を守る術と文字。どちらも生きて行くにはあって邪魔にならない」
三郎は廊下に声をかけると、下人たちが文机、筆、墨などを運び込んでくる。
「お前が教えるのか」
「文字くらい読める」
秋光が教えてくれないことに少しがっかりしながら、「じゃあ、よろしく頼むぜ、先生」
と冗談めかして言った。
いつ大月の兵がやってくるかという不安に怯える余り、夜はほとんど眠れなかった。
それでも太郎がこの館に留まり続けたのは、秋光の言う通り、今外に出るのは死を招くのと同じだからだ。
今の太郎には一か八かで賭けるしかない。
大月の厳重な警戒をかいくぐって、本懐を遂げるだけの力が今の太郎にはなかった。
そんな不安を抱く一方、拍子抜けするほど穏やかに日々は過ぎていった。
いつ自分の所在が露見しても追っ手から逃れられるよう、太郎は体力を付けることに専念し、とにかく身体を動かした。
薪束を運び終えて汗を拭っていると、三郎から声をかけられた。
「太郎。殿がお呼びだ」
「秋光が?」
太郎が三郎の後に続くと、射的場に秋光がいた。
「殿。太郎を連れて参りました」
三郎が控えて言った。
「何か用か?」
「お前に弓矢の使い方を教えてやる。来い」
「あ、ああ……」
恐る恐るという風に近づくと、三郎が弓矢と一緒に弽(ゆがけ)を渡してくる。
「太郎。これを右手につけろ。それから左半身は衣服をはだけさせろ」
三郎に言われるがまま従う。
「なあ、なんだよ、この手袋みたいなやつ」
「馴れないうちはそれを使うんだ。じゃないと指を傷つける」
渡された弓は、秋光が使っているものと比べると一回りほど小さかった。
秋光が近づいてくると背中に手を当てられた。
「背筋を伸ばせ。足は肩幅に広げろ」
「こ、こうか」
「そうだ」
やりなれない態勢のせいで、ただ姿勢を矯正されただけなのに身体が強張った。
「まずは矢をつがえない状態で弓の弦を引いてみろ」
「は? 矢を射る練習じゃないのか」
「満足に引けたら、矢をつがえてやれば良い。とりあえずやってみろ」
秋光は顎をしゃくる。
(馬鹿にしやがって)
いくら何でもそんなに非力な訳がない。
白桜丸は弦を右手で引く。しかし想像以上に力が要った。
「もっと引け。耳の後ろまでだ。その程度じゃ的に届かせられないぞ」
「くっ……」
歯を食いしばり、腕に力を込める。そうして腕が半ば攣りそうになりながら、どうにか限界まで弦を引く。
「そのまま心の中で十を数えるまでその体勢でいろ」
「はあっ!?」
声を出すと腕の力が抜け、すぐに弦が戻ろうとするので慌てて唇を引き結び、弦をぎりぎりと引き直さなくてはならなかった。
(畜生)
弦を引くことに意地になると、すかさず指摘が入った。
「姿勢が丸まっている。それで矢を放った所じゃ誰も仕留められないぞ」
秋光が発破をかけるように言う。
(分かってるって!)
しかしどちらにも注意がいって、結局、中途半端という始末。
「こうだ」
見かねたらしい秋光が背中に密着してくる。
「っ!」
心臓が弾けたかと錯覚せんばかりに跳ねてしまう。
「力を抜け」
両方の手の甲を包むように秋光が手が重なった。
分かっている。分かっている――はずだ。
ますます鼓動が早まる。脈を刻む音が全身に響いて、集中力は乱れる。
分厚い胸板ごし、彼の鼓動が背中に染みいった。
秋光の気配を何よりも強く感じてしまう。それこそこの世界にたった二人きりになったかのよう。
「しっかりと弓を握れ……そう。そして弦を引くんだ」
秋光の手に導かれ、弦を引く。ぎりぎりという音が耳を痺れさせる。
「……良いか。これくらい引ければ大抵の敵は討ち取れるようになる。この感覚を身体に刻むんだ」
「ほ、本当かよ」
軽口すら上擦る。しかし秋光はそれに気付いているのか、いないのか、気付いていて特に気に留めていないのか、
「無論、当たればの話だ」と笑った。
その日は結局、弦を引くことに終始した。
※
夕餉を終えた太郎は自分の部屋に戻った後、一人部屋で悶々としていた。
身体の底が赤々と燃え、疼く。
さすがに夜は特にやるべき仕事は無い。
だからこそ昼間のことを何度も繰り返し繰り返し思い出してしまうのだった。
股間にそっと手をやる。そこは痛いくらい張っていた。
考えてみれば、ここ一週間近くそういうことをした記憶がない。
大月館では毎晩、国隆に貪られていたというのに。
甲高い虫の声が聞こえる。
そこへ足音が重なり、近づいて来た。
身体を起こし、身構えた。妻戸が開かれる。現れたのは三郎だった。
「太郎、良いか」
「あ、ああ……。どうしたんだ」
「お前、文字は読めるか」
「文字?」
いきなり過ぎる三郎に、面食らってしまう。
読めるはずがない。手習いなんて、生まれてこの方したことがない。
「そうか、なら、良いな」
「三郎。分かるように話してくれ」
完全に置いてかれてしまった太郎は混乱してしまう。
「殿から文字を教えるよう言われたんだ」
「文字?」
「そうだ。文字は知っていて損はない。漢字は数が多いが、仮名を覚えるだけでも役に立つ。騙されずに済む」
「……何で、そんなことを秋光は」
昼間の弓に、今だ。
「お前、殿に気に入られたのかもしれないな」
気に入られた。三郎がどんな意味で使ったかは分からないが、心臓が痛いくらいぎゅっと縮こまった。
「――というのは俺の予想だけど、きっとお前がこの館を出る時のことを考えておられるんだろう。身を守る術と文字。どちらも生きて行くにはあって邪魔にならない」
三郎は廊下に声をかけると、下人たちが文机、筆、墨などを運び込んでくる。
「お前が教えるのか」
「文字くらい読める」
秋光が教えてくれないことに少しがっかりしながら、「じゃあ、よろしく頼むぜ、先生」
と冗談めかして言った。
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