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芸人共和国
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街は穏やかな光に包まれ、道路沿いの公園には色とりどりの花が咲き誇っていた。高層ビルのガラスは太陽を反射し、人々はそれを眩しそうに見上げながら歩を進める。市場には新鮮な野菜や果物が山のように並び、遠くの屋台からは香ばしいパンや香辛料の香りが漂ってきた。誰もが豊かさを享受できる社会では、日常の些細な喜びが奇跡のように感じられる。しかし、その奇跡を意識する人は少なく、街の平穏はまるで永遠に続くかのように思われていた。
子どもたちは安全な遊び場で笑い声を響かせ、親たちは安心して仕事や趣味に打ち込む。医療や教育は行き届き、必要な知識や技術は誰もが平等に手に入れられる。この国では、生活必需品が欠けることも、飢えに苦しむこともない。人々は、自分の手の中にある幸福を当たり前と感じながらも、知らず知らずのうちに安堵に満ちた日々を送っていた。その安らぎは、外からの干渉を寄せ付けず、まるで国全体を包む温かい布のように、街と人々を包み込んでいた。
あるところに、黒足世破(くろあし せいは)という男がいた。この男は並外れた野心を抱き、歴史に名を刻むほどの影響力を手に入れたいと考えていた。人々がどんなに平和で満ち足りた生活を送っていても、彼の心の中には常に、より高く、より遠くを目指す渇望が渦巻いていた。
だが、その心の奥底では、もっと大きな影響力を手にする方法を模索していた。目に留まったのは芸人という職業。娯楽の時代、この手段なら人々に効率よく影響を与えられるかもしれない――
それでも、当時の彼は深く考え込むことはなかった。目の前の生活を淡々とこなす毎日が、せいぜいの満足だったのだ。
懐かしい顔ぶれの中に、かつて世破の人生観に影響を与えた、ひときわ異質な男の姿があった。昔の彼は、動物を使った奇妙な実験に没頭していた。世破はその狂気じみた姿を思い出し、懐かしさとぞっとする感覚が入り混じった。
世破が会場のざわめきから少し離れ、静かな廊下へ足を運んだとき、背後から声がかかった。
「世破……久しぶりだな」
振り返ると、そこにはかつて動物と奇妙な実験を繰り返していた例の男、闇幕定知(あんまくていち)が立っていた。
「定知……お前がここにいるとはな」
世破は警戒しつつも、どこか懐かしさを覚えた。あの狂気じみた観察の日々が、今の自分に影響を与えていたことを認めざるを得なかった。
「ところで、今はどんな仕事を考えているんだ?」
定知は淡々と問いかける。
「実は完全には決まっていないんだ。お笑い芸人をやろうかと思っているけど……ソロで始めるのもなんだし、どうしようかって感じで」
世破は肩をすくめ、視線を少し落とす。
定知はふっと微笑んで言った。
「お前は小さい頃から、世の中に大きな影響を与える人間になりたいって言ってたな……」
「……そうなんだよ。でも、芸人としてどれだけ影響を与えられるか、正直わからない」
世破は少し顔をしかめ、手を組みながら考え込む。
定知は視線を逸らさず、静かに言った。
「影響力は方法次第でいくらでも変えられる。お前なら、芸人であろうと別の道であろうと、結果を残すだろうな」
世破はその言葉に少し戸惑い、しかし心の奥では何かが疼くのを感じた。平和で安定した日常の中で、渇望はまだ消えていない――もっと大きなものを掴みたいという衝動だ。
「……ところで、定知、お前は今、何をやろうとしているんだ?」
世破が問いかけると、定知は少し間を置いて答えた。
「実は俺も、まだ決まっていないんだ」
世破は驚いたように眉を上げる。
「そうなのか?それなら……一緒にやってみるか?コンビで芸人を」
「……コンビ?」
「そう。ソロじゃなく、二人でやれば互いに補い合えるし、何より俺たちなら大きな影響を与えられる」
定知は静かに微笑む。
「なるほどな……お前の考え方らしい。分かった、一度やってみるか」
その偶然の再会をきっかけに、二人はお笑いコンビを組むことを決めた。
名前は二人の名字から取ることにした――黒足世破の「黒」と、闇幕定知の「幕」を組み合わせて、「黒幕コンビ」。
二人は静かな稽古場に足を踏み入れた。壁には古いポスターや観客の笑顔が貼られ、空間全体が既に笑いの気配を帯びている。世破は机の上にノートを広げ、定知は黒板に簡単な図を描きながら考えを整理した。
「面白さってさ、結局は相手に伝わるかどうかだろ?」世破が口火を切る。
「そうだな。だが、伝え方には法則がある」定知は冷静に答えた。「人間は鏡のような存在だ。楽しそうに見せれば、相手も無意識に笑う。逆に嫌悪感を出せば、その感情も伝わる」
「そして、もう一つ使えそうなことがある。それは過激さ、暴力性をその中に詰め込むことだ」定知は少し視線を伏せ、黒板に小さな線画を描きながら言った。「人間は、不快なものや恐怖に無意識に目を向けてしまう。そういう感情は強く印象に残る」
世破は眉をひそめる。
「……不快なものを見せるのか?観客が嫌がったら逆効果じゃないのか?」
定知はゆっくりと頷いた。
「そうだ。毒は少しずつ摂取することで耐性ができる。観客も同じだ。いきなり過激すぎると拒絶されるが、少しずつ『受け入れられる暴力』として見せれば、心の反応は強くなる」
世破は目を細め、考え込む。
「……つまり、楽しそうに暴力的なことや過激なことを、ネタの中に詰め込めばいいってことか」
「その通りだ」定知は黒板に小さな矢印を書き加えながら言った。「笑いの中に恐怖や不快感を混ぜる。観客は最初、驚きや嫌悪で反応する。しかし、笑いの波に乗せてやることで、その感情は楽しさに変わる」
「でも、バランスが難しいな……一歩間違えればただの嫌な奴になる」世破は苦笑した。
「だからこそ計算が必要だ」定知は冷静に答える。「どの程度、どのタイミングで、どの形で見せるか。過激さを巧妙に調整すれば、観客の心を掴める」
二人の視線は稽古場の空間に沈み、頭の中で次々とアイデアが芽生えていった。
この方法を使えば、ただの笑いではなく、観客の記憶に深く刻まれる“黒幕流の笑い”を生み出せる――まだその可能性を誰も知らずに。
稽古場で、静かに次のステップを考えた。世破がノートにペンを走らせる。定知は黒板に小さな図を描き、頭の中で観客の反応をシミュレーションしていた。
「よし、そろそろ実際にやってみようか」世破が口を開く。
「だな。ただし、計算通りにやること。感情の揺れを見逃すな」定知は視線を鋭くしながら答える。
二人は小道具や段取りを最終確認し、稽古場を後にした。外の光が薄暗くなる頃、彼らは小さなライブハウスの前に立っていた。
舞台袖の薄暗い空間。観客のざわめきが遠くに聞こえる中、二人は軽く肩を叩き合い、笑いながら最終確認をしていた。
「世破、このネタ、実は叩くところが肝なんだよ」
定知はニヤリと笑い、拳を軽く握る。
「それはどういうことだ?」世破は首をかしげる。
「心理学の実験に、子供が目の前で見た暴力を真似するってのがあるんだ」
定知は黒板の図を思い浮かべながら説明する。
「つまり、俺がお前を叩くことで、観客の中にも“真似する奴”が出てくるってことか?」世破の目に好奇心が光る。
「そういうことだ」定知は肩を揺らして笑う。「楽しそうにやることが大事なんだ。楽しそうに叩かれることで、見ている人も“これって面白いことなんだ”って学習する」
「そんなことしていいのか…?」世破は少し眉をひそめる。
「お前、子供の頃言っただろ。世の中に大きな影響を与える人間になりたいってな」
その言葉が、子供時代の世破の胸に蘇る。
「その通りだ。これが広まれば、俺たち黒幕コンビは世の中に影響を与えたことになる」
世破は拳をぎゅっと握った。
「楽しそうにやってくれよ。楽しそうに叩かれると、観客も嬉しいんだって広められるからな」
定知は笑いながら世破の頭を強く叩く。
「…もちろんだ。これが俺たちの序章だ」
世破も笑いをこらえながら、舞台袖で膝を軽く叩く。
照明が落ち、舞台に柔らかいスポットライトが当たる。観客のざわめきが一瞬静まり、期待が空気を満たす中、黒幕コンビがゆっくりとステージに現れた。
「どうもー、黒幕コンビです!」世破が声を張る。
観客は軽く拍手を返すが、まだ誰も二人の正体もネタの内容も知らない。
定知はにやりと笑い、世破の肩を軽く叩いた。「準備はいいな?」
世破もうなずき、深呼吸して拳を握る。
「これからの時代は芸人の時代だと思うんだ!」世破が叫ぶ。
「おれは首相になってボケてやる!」
観客はクスリと笑う。だが、次の瞬間――
定知が世破の頭を強く叩く。
世破は痛がるフリをしながらも満面の笑み。
「首相になってボケるなよ!」定知がツッコミを入れる。
「いやいや、首相こそボケるべきだろ!」
観客はポカンとした顔で二人を見つめるだけだ。
笑いは起きない。拍手も控えめ。
しかし、二人は気にしない。
「いいぞ、これだ」定知が目を光らせる。
楽しそうにやることで、観客の無意識を刺激するんだ‥
ネタが終わり、黒幕コンビは舞台を降りた。
観客の拍手はまだ控えめで、空気はどこか静かだった。
そのとき、会場の隅で小さな喧嘩が始まった。二人の前にいた子供たちだ。
周りにいた大人たちが慌てて止めに入る。
「ちょっと、何してるの?」大人の一人が問いかける。
子供は少し照れくさそうに答えた。
「叩かれると…嬉しいんだと思って!」
相手の子は泣き顔になり、大人たちは戸惑うばかりだった。
世破はその様子を見て、心のどこかでぞくりとした。
「……ああ、これが俺たちのネタの影響か」
定知も冷静に観察し、微かに笑った。
「楽しそうにやるだけで、無意識に反応する。理論通りだな」
舞台上では笑いを演出し、舞台裏では観察実験――二人の黒幕コンビは、知らず知らずのうちに“影響”を実証していたのだった。
それから数日間、黒幕コンビはライブハウスでネタを披露し続けた。
ある日の公演後、ニュースが流れる。
「最近、子供たちによる暴力事件が頻発しています…」
観客の一人が小声で世破に話しかける。
「もしかして、あのネタの影響じゃないですか…?」
世破は少し肩をすくめ、定知と顔を見合わせる。
「はは、そんなわけありませんよ。僕たちが関係してるなんて、ありえないでしょ?」
定知も同意するように首を振る。
「そうそう、僕たちはただの芸人ですから。影響なんて及ぼしてませんよ」
観客は少し戸惑った表情を見せつつも、二人の軽妙な雰囲気に安心する。
舞台裏では、世破と定知は互いに小さく笑い合った。
「俺達の行動が子供たちに影響を与えるなんてな…これからが楽しみだよ」
定知は少し顔をしかめ、冷静に答える。
「ただ、この叩くネタは一旦やめておこう。新しいネタを考えたほうがいい」
「でも、次は何をするんだ?」世破が問い返す。
定知は静かに間を置き、言った。
「怒り芸がいいだろう」
「怒り芸の狙いは、観客に『怒っていいんだ』『怒ると楽しいんだ』と無意識に思わせることだ」定知が静かに説明する。
世破は眉をひそめる。
「つまり、俺たちが舞台で怒れば、周りの人も怒りやすくなるってことか?」
「そうだ。感情は伝染する。怒りも同じだ。怒ることに快感を覚えるようになれば、日常でも人は他人に怒って楽しむことを覚える」
世破は唇の端を少し歪め、目に薄い光を宿して笑った。
「―なるほど…怒ることで観客に小さな種を植えるんだななるほど…俺たちの怒りを見て、誰かが真似をする」
「計算通りにやれば、怒ること自体が娯楽になる。面白くて、なおかつ観客の心理に影響を与えられる」定知が黒板に線を引きながら言う。
二人は拳を軽く合わせ、深呼吸をして舞台へ歩を進めた。
「よし…やってみようか」
「楽しませつつ、世界を少しずつ動かす――それが黒幕流の怒り芸だ」
世破が元気に自己紹介を始めた。
「新しくバイトに入った世破です!」
定知が突然、大声で怒鳴る。
「遅い!出待ちしてろよ!」
世破は驚きつつも満面の笑みで答える。
「え!?出待ちですか!?やったー!」
定知は手を振り上げ、さらに怒った。
「お前はダメ人間だから、給料下げるからな!」
世破は目を輝かせ、嬉しそうに答える。
「え!?給料下げてくれるんですか!?最高です!」
観客はポカンと二人を見つめる。笑いはまだ起きない。だが世破の異様な楽しさが舞台を支配した。
定知が小さく息をつき、静かに笑う。
こうして理不尽を楽しむ姿を見せることで、観客は無意識に影響される
世破は頷き、嬉々として思った
怒られて嬉しい、理不尽でも楽しむ…これが黒幕流笑い!
ある日のバス。座席はほぼ埋まっており、若者が数人座っていた。
そこへ中高年の男性が乗り込んできた。周囲の視線が彼に注がれる中、座ろうとする気配はない。
隣に立っていた子供が、礼儀正しく「どうぞ」と声をかけ、席を譲ろうとした。
「いや、俺はそんな年じゃない!」男性は首を横に振り、座ろうとしない。子供は戸惑う。
結局、子供は自分の意思で座る。するとその中高年男性は、今度は怒ったように声を上げた。
「若いんだから譲れ!」
周囲の乗客は唖然と見守るばかり。理不尽さに困惑する人もいるが、同時に笑えない微妙な緊張が生まれる。
この様子を見た世破は、心の中で静かにほくそ笑む。
「理不尽も、怒りも、楽しみ方次第で笑いになる……これが黒幕流の力だ」
数日後、世破と定知のネタが話題になったある日。
バイト先の若者が、いつものように愚痴をこぼしていた。
「この職場、上司うるさいし、給料も低いし……もう嫌だよ」
だが、先日ライブハウスで見た黒幕コンビの「怒られて嬉しいネタ」を思い出す。
頭の中で、定知の怒声と世破の満面の笑みが鮮明に蘇った。
「怒られるのって、そんなに悪くない…?むしろ楽しい…?」
若者は少し笑顔を浮かべ、目の前の上司に注意される度に、以前ほど憤らなくなった。
「この環境も、喜んでみよう……!」
そして心の奥で、こうも思った。
「給料は低いけど……まあ現状維持でいくか」
同僚たちは最初は驚いたが、次第に彼の明るさに気付き、「あれ?なんか元気になった?」と口々に言う。
結果として、理不尽な職場も少しずつ受け入れられる空気になっていった。
世破と定知は遠くでその話を耳にし、静かに目を合わせた。
「思った通りだ……」
「怒りも、理不尽も、楽しみ方次第で人を変えられる」
二人の笑みは、少しだけ悪戯っぽく光った。
街での小規模ライブを重ね、黒幕コンビは次々と様々なネタに挑戦していた。
日常の些細な出来事から社会の矛盾まで、二人は笑いに変え、観客を翻弄する。
その様子を偶然見かけたテレビ局のディレクターは、名刺を差し出しながら心の中でつぶやいた。
「この二人、ただの芸人じゃない……企画に使えるかもしれない」
後日、紹介された番組で黒幕コンビは初めて体を張る企画に挑戦することになる。
世破は少し緊張しつつ笑顔を作り、定知は冷静に周囲を観察する。
「さあ、これも一つの実験だ……楽しませつつ、観客に影響を与える」
水に落ちる、滑りやすいステージで転ぶ、巨大な物に押される――どれも安全策はあるが、見た目には危険で体を張った行為。
テレビを通して、視聴者は笑いと驚きの混ざった刺激を受ける。
無意識のうちに、“体を張る行動は許容される、あるいは必要なこと”という感覚が芽生えていく。
舞台裏で世破は静かに笑った。
「これで、人々は無意識に体を張ることを“当然のこと”だと思い始める」
定知も薄く笑みを浮かべ、目を細める。
「本当はしなくてもいいことを、やったほうがいいと錯覚させる――これもまた、黒幕流の影響力さ」
二人は観客の反応を見つめ、心の中で小さくほくそ笑む。
楽しみと恐ろしさが入り混じるその感覚――人々の無意識を操る力こそ、彼らの企みの醍醐味だった。
黒幕コンビの体を張った企画は予想以上に視聴者の目に留まった。笑いと驚きの混ざった演出が話題を呼び、SNSや口コミで瞬く間に広まる。
テレビ局のスタッフやプロデューサーは二人の“反応を引き出す力”に目をつけ、次々と番組出演のオファーが舞い込むようになった。街での小規模ライブでは伝わりきらなかった影響力も、全国の視聴者の前で発揮される。
「なるほど…これで、頻繁にテレビに出られるか」世破は薄く笑みを浮かべる。
定知も冷静に頷いた。「観客の心理を動かし、人気を獲得すれば、メディアは自然とこちらに注目する――これが黒幕流の戦略さ」
ある日、控室で世破と二人きりになった定知は、静かに語り始めた。
「テレビは、ただの娯楽じゃない。洗脳装置みたいなものだ」
世破は軽く眉を上げる。
「洗脳装置…?」
定知は深く息を吐き、言葉を続ける。
「一方通行なんだ。視聴者は自分の意見を言えない。ただ、画面の向こうから投げかけられるものを受け入れるしかない。どんな価値観でも、面白おかしく見せれば、無意識のうちに刷り込まれてしまう」
世破は薄く笑みを浮かべ、机の上の台本を弄りながら言った。
「つまり、俺たちの笑い一つで、観客の感覚も操れるってことか」
定知は頷き、冷静に視線をテレビ画面に向けた。
「そうさ。だからこそ、黒幕流の影響力はここで本領を発揮する。笑いと驚きの裏で、視聴者の心理を少しずつ動かす――それこそが、テレビに出る本当の意味なんだ」
二人はしばし無言で画面を見つめる。
その瞬間、笑い声や歓声の向こうに潜む、人々の無意識の動きを想像し、ほくそ笑む。
テレビは、まさに彼らの思惑を映す鏡だった。
番組オファーは次々と増え、黒幕コンビはテレビ出演の機会を次第に増やしていった。初めは体を張る小さな企画からだったが、視聴者の反応は予想以上だった。SNSや口コミでは、「あの芸人、やりすぎだけど面白い」「見ているだけで楽しくなる」と評判が広がり、制作側も放っておけなくなった。
「見ろよ、これが力だ……」世破はモニター越しの視聴者コメントを眺め、薄く笑った。
彼らが提示する価値観は、従来の道徳や常識とは異なるものだった。
理不尽に叩かれるのも、殴るのも、視聴者にとっては“面白い”行為となる
怒る、文句を言う、悪口を言う──そのどれもが、舞台では観客に笑いと快感をもたらす
スタジオのカメラに映る彼らは、危険や無礼さを楽しげに演じる。だがそれは単なるパフォーマンスではなく、無意識に視聴者の心理に影響を与える実験だった。
「人は、こうやって錯覚させられるんだ」世破はつぶやく。
「本当はやらなくていいことでも、やったほうが面白いと信じ込ませる」定知は小さく笑った。
次第に、黒幕コンビの名は視聴者の間で浸透していく。テレビで見せる新しい価値観──“常識に逆らう楽しみ”──は、知らず知らずのうちに日常に影響を及ぼし始めていた。
そして、次の大きな挑戦の準備をしながら、二人は静かにほくそ笑む。彼らの狙いはただ笑いを取ることではない。視聴者の心理を動かし、新しい価値観を浸透させる──それこそが黒幕流の真の芸なのだ。
いつしか、黒幕コンビは特定のテレビ局で複数の番組を持つ売れっ子になっていた。バラエティ番組だけでなく、ドラマへの出演やニュース番組のコメンテーターとしての顔も持ち、全国の視聴者に名を知られる存在となっていた。
「まさか、こんな日が来るとは……」世破は控え室で呟く。
定知は冷静にスケジュール帳を見つめながら、「テレビは一度流れを作れば、あとは勢いに任せられる。私たちの価値観も、知らぬ間に広まっている」と言った。
彼らが示すのは、単なる笑いではない。理不尽なことを楽しむ、叩くことも受けることも一種の娯楽である──そんな新しい価値観が、バラエティ番組やドラマ、さらにはニュースのコメンテーションを通じて、静かに視聴者の中に浸透していった。
黒幕コンビの存在は、テレビという巨大な舞台を通して、日常の常識や倫理観にさえ微妙な揺らぎを生じさせる。視聴者は笑いながらも、無意識のうちに「これもありかもしれない」と思い始める。
世破と定知は、その効果を確かめるかのように、カメラの向こうの人々の反応を楽しむ。
「これで、テレビの力を完全に味方につけた」世破は小さく笑う。
定知も頷き、次の一手を静かに考え始める。
黒幕コンビがテレビで活躍している姿を見た他の芸人たちは、自然と尊敬の念を抱いた。
「すごいな…あの二人、本当に影響力がある」
そんな声が、控室や共演の場で漏れる。
世破はそんな言葉を聞いても、いつものように適当に笑って受け流す。
「はは、まあ、ありがとな」
しかし、定知は少し真剣な表情で世破に言った。
「世破、今も充分力を持っている。でも、もっと影響力を増やすには、味方の数が足りない。他の芸人と仲良くして、恩を売るんだ」
世破は肩をすくめ、淡々と答える。
「ふーん、別にどうでもいいけどな」
定知は薄くほくそ笑む。
「いいか、俺たちがテレビ局で力を持てば、向こうも自然とこちらに従う。そして、芸人たちには“テレビに出られるかもしれない”とチラつかせて釣ることができるんだ」
その日から、黒幕コンビは少しずつ他の芸人たちと友好的な関係を築くようになった。
控えめな笑顔や、さりげない手助け、番組での小さな配慮――すべては、影響力を拡大するための計算された布石だった。
芸人たちは知らず知らずのうちに、黒幕コンビの力に巻き込まれていく――それもまた、二人の策略の一部だった。
数年後――黒幕コンビは、業界でも名実ともに大御所と呼ばれる存在となっていた。
街を歩けば、子どもたちが二人のモノマネをして笑い、大人は職場や家庭で彼らのネタの引用を口にする。テレビ・ラジオ・配信番組の出演は常態化し、もはや彼らの一言で番組の視聴率が左右されるほどの影響力を持っていた。
舞台上では、かつてのような体を張るギャグや叩き芸もあるが、今やそれは形式化され、観客はその瞬間を予想している。しかし、黒幕コンビはそれを逆手に取り、予測不能のツッコミや展開で観客を翻弄し続けた。「安全と危険の境界線」を意図的に曖昧にすることで、無意識に人々を惹きつける力はかつてないほど増していた。
業界の若手芸人たちは、二人の前でネタを披露する際に緊張し、心理的なプレッシャーを感じるほどだった。黒幕コンビの存在は単なる「笑いの象徴」ではなく、芸人のキャリアの到達目標そのものとなっていた。
楽屋では世破と定知が静かに打ち合わせをしている。
「次は…どうやってみんなの価値観を揺さぶろうか」世破が考え込む。
「大御所になった今だからこそ、単なる笑いじゃなく、社会の常識にまで影響を与えられる」定知は冷静に答える。
二人の存在は、テレビやライブだけではない。SNSでは一言つぶやくたびに話題になり、彼らのコメントや行動は「日常の倫理観」すら揺るがせる力を持つようになった。無意識のうちに人々の感情や行動を動かす――それはもはや芸ではなく、社会実験と呼ぶべき領域であった。
そして彼らは知っている。
どんなに大御所になっても、力の使い方次第で人々の意識はまだまだ操作できる――その静かな狂気と計算が、黒幕コンビの魅力であり、恐怖でもあった。
次のステップは、笑いだけではなく、「世の中を自分たちの理想的な方向に少しずつ動かすこと」――大御所になった今、その野望はさらに現実味を帯びていた。
スタジオの会議室。テレビ局の社長や幹部たちが一堂に会する中、黒幕コンビの二人は悠然と腰をかけていた。
「芸人をたくさん雇用して、その芸人たちに安い給料で働かせるんです」
世破が淡々と口を開く。周囲が一瞬、息を呑む。
「そうすれば、舞台も番組も増えますし、局としての利益もぐんと上がります。もちろん、面白いことをやってくれれば観客も喜びますしね」
社長は眉をひそめる。しかし、黒幕コンビの言葉には、単なる提案以上の重みがあった。
「……なるほど、君たちの言う通りだな。実際に番組制作を効率化できるかもしれん」
社長は眉をひそめ、少し戸惑いながら尋ねた。
「しかし、それでは芸人たちの給料は…」
世破はゆっくりと口を開く。
「大丈夫です。僕たちの周りの芸人たちは、テレビにさえ出られればそれでいいと思っています。だから、安い給料でたくさん雇用しても、彼らは文句を言わない」
周囲の幹部たちは思わず息をのんだ。言葉にできない圧力が会議室を支配する。
定知はにこりと笑い、さらに続ける。
「面白いことをやるなら、給料の多寡なんて関係ありません。観客も喜びますし、局の利益も上がります」
「……なるほど、君たちの言う通りだな。実際に番組制作を効率化できるかもしれん」
社長は軽く頷き、「わかりました」と言った。
会議室を出ると、世破がにやりと笑った。「これで俺たち芸人の発言力がさらに強くなる。局はもう俺たちに文句を言えないってことさ」
定知も微笑みながら肩をすくめる。「やはり、力は上に立ってこそだな。でも、ここで止まるわけにはいかない。次は……世の中そのものを、少しずつ俺たちの理想に近づける番だ」
世破の目が鋭く光る。「舞台も番組も、観客も、すべて道具にできるってことだな。」
その言葉に、定知は静かに頷く。
二人は街を歩きながら、頭の中で次の計画を巡らせる。大衆の心をつかみ、現実をほんの少しずつ変えていく――それが、黒幕コンビにとって新たな遊びであり、野望だった。
黒幕コンビの提案が受け入れられてからというもの、テレビ局内の空気は少しずつ変わっていった。
「芸人をたくさん雇用して、出演できるだけで満足してもらえば、安い給料でも文句は出ない」
世破の言葉通り、多くの若手芸人たちはテレビに出られる喜びだけで日々を満たし、局側も効率的に番組を作れるようになった。
スタジオでは毎日のように新しいお笑い番組の企画会議が開かれ、収録が進められ、放送枠は以前にも増して埋まっていった。黒幕コンビが指導することで、番組の構成も洗練され、観客が笑うタイミング、画面に映るタレントの動き、ネタのテンポまで計算され尽くしていた。
会議室には、テレビ局の社長や幹部たちがずらりと並んでいた。黒幕コンビはいつものように悠然と腰を下ろす。
世破がゆっくり口を開く。「次の企画ですが、視聴者参加型のクイズ番組を考えました。」
幹部の一人が眉をひそめる。「参加型…ですか?」
定知が微笑む。「ええ、正解すれば100万円です。ただ、細かいルールはまだ詰めていません。視聴者が熱中するような仕組みにするつもりです。」
社長は少し考え込み、やや不安げに問う。「しかし、リスクは…?」
世破は肩をすくめる。「もちろん、少し驚く展開はあります。でも視聴者の関心を引くには、ある程度の刺激も必要でしょう。」
結局、細かい内容は伝えず、企画は承認される。黒幕コンビはほくそ笑む。
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放送初日、番組は深夜枠に登場した。
画面には豪華なセットと、挑戦者たちの興奮した表情が映る。MC芸人が声高に告げる。
「挑戦者求む!正解すれば100万円!さあ、あなたは答えられるか?」
視聴者は熱狂する。だが、挑戦料が1万円であることや、選択肢に正解がないことは伏せられていた。
挑戦者たちは必死に考え、悩み、笑い、時には絶望する。その反応がスタジオの笑いを生む。
黒幕コンビは控室のモニター越しに微笑む。「うまくいったな。人間の欲望と心理は、計算通りに動く」
定知も頷く。「これでまた、視聴者の心の揺れを観察できる。笑いと、ほんの少しの恐怖…このコンビネーションが面白い」
放送から数日後、スタジオの電話が鳴りやまなかった。
「10000円の請求が来たんですけど!?」「正解できなかったらお金取るなんて聞いてない!」と、視聴者は電話口で声を荒げる。
その声は、モニター越しの黒幕コンビには、まるで拍手のように響いた。
テレビ局のクレーム対応担当は額に汗を浮かべ、電話を握りしめる。「ええと…すぐ確認します、はい…」
視聴者からの苦情対応に追われ、スタッフたちはてんやわんやの状態だった。
黒幕コンビの目論見通り、混乱は局内にも広がっていた。
その様子を見た定知が、軽くため息をつきながら言った。
「はは、スタッフは高い給料もらってるくせに、結局何もできないんだな。君たちより、芸人の方がよっぽど使えるみたいだ」
周囲の芸人たちは小さく頷き、同意の空気が漂う。
世破が含み笑いを漏らす。「そうそう、観客の笑いを作るのも、番組を動かすのも、結局は俺たち芸人の力ってことさ」
定知も静かに微笑んだ。「上に立つ者が実力を見せる場面はこういうときに限るな」
スタジオの電話が鳴りやまない中、世破は軽く笑いながら受話器を取った。
「騙された?騙される方が悪いんですよ。自己責任です。説明書を読まなかったあなたの責任です」
電話を切ると、彼の顔には得意げな表情が浮かぶ。
「高い給料をもらいながら、こんなこともできないんですか?あなた達は」
定知も静かに頷き、重い口調で言う。
「これなら、スタッフじゃなく、安い給料でたくさん働いてくれる芸人たちと置き換えたほうがいいでしょう」
周囲の芸人たちは小さく頷き、空気は黒幕コンビの思うままに支配されていく。
スタッフたちは顔を見合わせ、何も言えずにただ立ち尽くすしかなかった。
翌日、黒幕コンビは再び社長室に呼ばれた。
世破は静かに社長の前に立つ。
「社長、先日の件ですが、提案があります」
社長が眉をひそめる。「提案、ですか…?」
定知が口を開く。
「局のスタッフ、全員リストラしていただけませんか。高い給料をもらいながら、この程度の対応しかできないのであれば、安い給料で働いてくれる芸人に置き換えたほうが、局としても利益が上がります」
世破が微笑む。「スタッフを全員芸人にすれば、番組制作も効率化されるし、視聴者の反応もダイレクトに把握できます。局として、これ以上合理的な方法はありません」
社長は一瞬言葉を失う。だが、黒幕コンビの自信に満ちた目を前に、押し切られるように頷いた。
「…わ、わかった。検討してみよう」
黒幕コンビは互いに目を合わせ、含み笑いを浮かべる。
「やはり、力は上に立ってこそだな」定知が静かに言う。
世破も笑みをこぼす。「局も視聴者も、俺たちの手のひらの上。次はどんな企画で揺さぶろうか…」
スタッフが全員入れ替わった現場は、まるで小さな芸人の国のようだった。
ディレクター、カメラマン、照明、音響……すべての役割を芸人たちが担っている。
「次のカット、どうやる?」とカメラマン役の芸人が笑顔で問いかければ、演者も軽く手を挙げ、全員で相談して進行する。
放送に出るのもほとんどが芸人で、制作の裏方も、MCも、ネタを考える役も、すべてが芸人。
黒幕コンビは控室からモニター越しにその光景を眺め、満足げに頷く。
「やはり、これが理想の形だな。笑いの力だけで、局も番組も動かせる」
視聴者の反応もダイレクトに届き、番組の進行に即座に反映される。
「観客の心も、番組の流れも、全部俺たち芸人の手の中にある」
世破が低く笑う声が控室に響いた。
黒幕コンビは、新しい番組の構想を練っていた。会議室では社長や幹部に概要だけを伝える。
「次は、株や投資をテーマにした番組です。視聴者が興味を持ち、楽しめる内容にします」
幹部たちは少し眉をひそめるが、細かい仕組みやリスクについては触れられず、承認される。
しかし、黒幕コンビの本当の狙いは別にあった。控室で、世破は若手芸人たちに低い声で指示する。
「ネタの中でさ、『ここに投資すれば儲かる』って言え。教育番組風に、投資家風のキャラで解説するのもいい」
定知も頷く。「もちろん、社長には言わない。これはあくまで『笑いと演出』だと言っておく。観客が面白がるだけで十分だ」
スタジオでは、芸人たちが投資家風のキャラクターになり、株の話をネタに盛り込む。視聴者は笑いながらも、ちょっと真剣に耳を傾ける。番組は教育的要素もあり、投資の世界を楽しみながら学べる、という体裁だ。
黒幕コンビはモニター越しに微笑む。
番組内で、芸人たちが「ここに投資すれば儲かる」とネタとして紹介した株は、番組放送と同時に視聴者の注目を集め、株価は急上昇していった。セットのモニター越しに黒幕コンビはほくそ笑む。
「膨らんでるな…そろそろ手仕舞いのタイミングだ」
定知が静かに言う。世破も頷き、二人は影で株を売りさばき、莫大な利益を手に入れた。
だが、その裏で株価は急落を始める。投資に乗った視聴者たちは驚き、怒りの声をあげる。スタジオやテレビ局には苦情が殺到した。
「番組で勧められた株、もうめちゃくちゃですよ!」「なんでこんなことを…!」
株価の急落は、テレビ局内だけにとどまらなかった。翌朝、主要ニュース番組やワイドショーでもこの話題が取り上げられる。
「昨日の番組で紹介された株、投資家たちが大損! 一夜にして資産を失った人が続出しています」
「中には生活資金を投じた方もおり、被害は深刻です」
「番組を制作したテレビ局に対する苦情や抗議も相次いでいます」
SNSやネット掲示板も騒然となり、視聴者たちは怒りと嘆きの声を上げる。
しかし、黒幕コンビはどこ吹く風だ。スタジオの控室で二人はモニターを眺め、微笑を浮かべる。
ニュースで大騒ぎになった翌日、テレビ局の社長は慌てて黒幕コンビを呼び出した。会議室に入ると、二人はいつものように悠然と椅子に腰を下ろしていた。
社長は、頭を抱えるように手を組み、必死に現状を整理しようとしていた。
「君たち……これは……やりすぎではないか?」
だが、控室のモニター越しに黒幕コンビは顔を見合わせ、静かに笑った。
世破が低く、落ち着いた声で言う。
「いや、社長……正直言って、私たちの方がこの局を動かすのに向いているんじゃないですか?」
定知も頷き、社長の前で言葉を続ける。
「番組の進行も、視聴者の心理も、利益の最大化も……私たち芸人なら、社長以上に効率的に、面白く、動かせますよ」
社長は目を見開き、言葉を失った。
会社のほとんどが芸人に置き換わった現場を前にして、もはや自分の存在意義さえ揺らぎそうだった。
世破がさらに踏み込む。
「もちろん、私たちに任せれば、局の利益も視聴者の満足も、ぐんと上がります。社長に無理に決断してもらう必要もない」
定知が穏やかに微笑む。
「上に立つのは立場の問題ではなく、実力の問題です。社長、そろそろ芸人の力を認める時じゃありませんか?」
社長は深いため息をつき、静かに頭を垂れた。
黒幕コンビの眼差しは鋭く光り、控室で見守る芸人たちの士気も上がる。
「やはり……芸人の時代だ」と世破はつぶやいた。
世破は一歩前に出る。
「ですから、社長。幹部たちも辞めていただき、私たち芸人で埋めるのが一番効率的です」
定知が淡々と言葉を重ねる。
「高い給料をもらって動けない幹部たちより、安い給料でも動ける芸人たちに任せた方が、局の未来のためになる」
社長は深いため息をつき、頭を垂れた。
幹部たちも次々に辞職を決め、局内は一気に変貌する。
翌日、社長の椅子に世破が腰を下ろし、定知は副社長の席に着く。
かつて幹部だったポストはすべて芸人で埋め尽くされた
「これで局も番組も、すべて私たちの手の中にある」と世破は低く笑い、定知も静かに頷く。
新たな“芸人支配時代”の幕開けだった。
芸人支配体制のもと、局は効率重視で安い給料の芸人を大量に採用できるようになった。
テレビ出演を希望する芸人たちには、黒幕コンビが順番にチャンスを与えることで恩を売り、自然に従属関係を築いていった。
局内は活気にあふれ、かつて幹部に抑えられていたアイデアも次々と採用される。
一方で、黒幕コンビの計算された管理の下、芸人たちは自らの意志で忠誠を示すようになり、知らぬ間に局全体が彼らの手の内に収まっていった。
黒幕コンビは自らの支配を一局に留めず、他のテレビ局へも手を伸ばすことにした。
内部から少しずつ浸食し、徐々にすべての局を芸人で染め上げる。
その先陣を切るのは、すでに黒幕コンビに恩を受けた服従を誓う芸人たちだった。
彼らは新しい局でも影響力を拡大し、忠誠心を拡散させる役割を担う。
以前に恩を着せたことが功を奏し、芸人たちは喜んで黒幕コンビの意図に協力した。
かくして、芸人支配の輪は国内のテレビ界全体へと広がりつつあった。
別のテレビ局――まだ黒幕コンビの支配下にはない局の会議室は、日常の業務で静まり返っていた。
そこに、黒幕コンビに忠誠を誓った芸人たちが送り込まれる。彼らはすでに恩を受けており、自然に局内の影響力を広げる役目を担っていた。
「これから、私たちが局をサポートします」
芸人の一人がそう告げると、局の社員たちはざわついた。
だが、ひとりの幹部が立ち上がった。
「私は従えません」
その声は静かだが揺るぎない。
「この局では、学問や経験に基づいた番組作りを重視してきました。安易に動く芸人に任せるつもりはありません」
定知が淡々と応じる。
「理想は尊重します。しかし現実は変わりました。従わなければ、この局での改革は進みません」
幹部は微笑みもせず、静かに言葉を重ねた。
「理想を捨てるつもりはありません。努力や知識で築いたものを簡単に手放すことはできない。視聴者のため、そして局のために、私は抵抗します」
会議室には緊張の空気が漂う。
黒幕コンビは静かに幹部を見据え、表面上の平和の裏で、静かに次の手を考えていた。
黒幕コンビは投資で得た膨大な資金を使い、他局への浸食を加速させた。
「番組に関わりたいという芸人には、少しだけ待遇を上げてチャンスを与えよう」
世破が指示すると、定知が淡々と局内の計画を実行に移す。
資金は企画の買収や制作スタッフへの報酬に回され、忠誠を誓う芸人たちは新たな局でも黒幕コンビの思惑通りに動いた。
抵抗する幹部たちも、金の力と芸人たちの情熱の前に、微妙な揺らぎを見せ始める。
他のテレビ局では、黒幕コンビの浸食が徐々に効力を持ち始めていた。
最初は「今まで通りの番組を続けたい」と考える幹部や社員が少数残っていた。しかし、投資で得た資金と恩を着せた芸人たちの巧みな働きかけにより、抵抗勢力は次第に孤立していった。
会議室では静かな緊張が漂い、意見は瓦解しつつあった。
「仕方ない……もう従うしかないのか」
一人また一人と、堅実にやってきた信念を手放し、黒幕コンビの方針に折れる者が現れる。
局は次第に方針を変更し、少数派の抵抗者はリストラされていった。
代わりに芸人たちが高い報酬と引き換えに雇用され、番組制作や局運営を担うようになる。
安い給料で大量の芸人を動かせる利点もあり、局内のコスト構造も黒幕コンビに有利に傾いた。
いつの間にか、局内のほとんどは芸人で占められるようになり、かつての幹部や社長は姿を消した。
そして、黒幕コンビの息のかかった芸人たちが社長に就任し、局全体が完全に支配下に置かれることとなった。
リストラされた社員たちは、かつての信念に従い抵抗運動を始めた。
「このままではテレビ業界がめちゃくちゃになる!」
彼らは内部資料を公開し、世間に真実を訴えようとする。
しかし、黒幕コンビの芸人たちはすでにメディアを掌握していた。
ニュースやバラエティ番組では、抵抗者たちの行動は次々と歪められ、事実とは異なる内容で報道される。
「元社員たちは視聴率操作の裏で不正を働いていた」
「番組をぶち壊そうとする危険分子」
「視聴者を無理やり洗脳しようとしている」
事実と異なるデマが繰り返し流され、視聴者の印象は完全に操作された。
抵抗者たちは、いくら正しい行動をしても、世間から悪者扱いされる孤立状態に陥った。
こうして黒幕コンビの支配は一層盤石となり、全国のテレビ局に浸透していった。
抵抗運動も次第に効果を失い、リストラされた社員たちは孤立を深めていた。
事実を訴えても、メディアで流されるデマによって世間の支持は得られず、抵抗者たちは疲弊していった。
「もう、国内で戦う意味はない……」
幾人かの幹部はつぶやいた。
「私たちはここで負ける。ならば、海外に拠点を移し、新しい生活を築くしかない」
こうして、抵抗者の多くは海外移住を図ることになった。
しかし、それでも黒幕コンビの影響は及び、国外での生活も簡単ではなかった。
日本のメディアで彼らにまつわるデマは繰り返し流れ、海外にいても「国内で悪さをしていた元社員」として噂が届くこともあった。
国内のテレビ局は完全に芸人に染まり、幹部や社長は姿を消す。
黒幕コンビの息のかかった芸人たちが社長に就任し、全国の局を支配する体制は揺るぎないものとなった。
全国のテレビ局をほぼ完全に掌握した黒幕コンビ。
幹部や社長を追い出し、芸人たちを社長や制作陣に据えた体制は揺るぎなく、視聴者もメディアに完全に洗脳されたかのようだった。
しかし、黒幕コンビの野望はテレビ界だけに留まらなかった。
「笑いで国を動かす時代は終わった。次は政治だ」
定知が低くつぶやくと、世破も静かに頷いた。
その国の政治は、長年にわたって真面目に国民のことを第一に考える政治家たちによって支えられていた。
国内のインフラ整備や教育、医療など、一般市民を見捨てない政策が徹底され、国民の生活は安定していた。
国会では、表現の自由やメディアのあり方についても活発な議論が行われている。
「報道の自由は守るべきだが、社会に悪影響を及ぼす情報の扱いは見直すべきではないか」
政治家たちは真剣に考え、時には修正案や規制案を議論していた。
市民は政治家を信頼し、日常生活を安心して送っていた。
だが、この理想的な国の秩序の中に、黒幕コンビの影が静かに迫りつつあった。
黒幕コンビは、全国のメディア支配を利用して、政治家たちへの印象操作を始めた。
「真面目にやっている政治家達、実は、裏では、国民から表現の自由を取り上げようとしている」
「悪いことを言ったら即逮捕されるような法案を進めようとしている」
こうしたデマがテレビやSNSで繰り返し報道され、国民の間に不安と疑念が広がる。
善意で政策を実行していた政治家たちは、突然「危険人物」として扱われ、支持率は急落した。
次の選挙で、多くの真面目な政治家は落選を余儀なくされ、黒幕コンビの息のかかった芸人や新顔が政治の場に進出する下地が整った。
表面的には選挙は自由だが、情報戦の勝者はすでに黒幕コンビであり、国民の判断は完全に操作されつつあった。
更に黒幕コンビは全国規模で資金を投入し、選挙の結果に影響を与えた。
真面目に国民のために働く議員たちには投票がほとんど入らず、代わりに黒幕コンビの忠誠芸人たちが次々と当選する。
テレビでは、忠誠芸人たちの政策や活動が連日取り上げられ、視聴者に「市民のおかげで国が変わった!」「これから先は素晴らしい世界が訪れる!」と刷り込まれる。
芸人たちは笑顔で国民に手を振り、メディアでの持ち上げられ方に酔いしれる。
こうして国民は、表面的には自由に選挙に参加したと思っているが、実際には黒幕コンビの策略によって政治は完全に掌握されていた。
テレビの力と資金力を使った不正選挙により、国は芸人たちの理想的な(そして自己中心的な)世界へと変貌していく。
しかし、国民すべてが洗脳されているわけではなかった。
ある市民は、日々のニュースやバラエティ番組を見て違和感を覚えていた。
「最近、テレビに出るのは芸人ばかりだ……なんだか変じゃないか?」
家族や友人に話しても、ほとんどは「芸人が面白くていいじゃないか」と笑い飛ばす。
だが、彼の中では疑念が募るばかりだった。
街の片隅で、こうした小さな違和感を抱える人々が少数存在していた。
しかし、国民すべてが洗脳されているわけではなかった。
ある市民は、日々のニュースやバラエティ番組を見て違和感を覚えていた。
「最近、テレビに出るのは芸人ばかりだ……なんだか変じゃないか?」
家族や友人に話しても、ほとんどは「芸人が面白くていいじゃないか」と笑い飛ばす。
だが、彼の中では疑念が募るばかりだった。
街の片隅で、こうした小さな違和感を抱える人々が少数存在していた。
声には出せず、情報は断片的だった。
ある夜、佐伯は何気なくリモコンを押し、テレビをつけた。
画面に映ったのはニュース番組。だが、キャスターの口調はやけに軽い。深刻な火災事故の報道をしたかと思えば、最後に「でも火の用心は、オチがつかないとダメですね!」と芸人顔負けの一発ギャグで締める。スタジオが笑いに包まれた瞬間、佐伯の背筋に寒気が走った。
チャンネルを変えてみる。スポーツ番組だ。
選手が必死に走っている。しかし画面の隅では、芸人たちが「おっと!転んだ!これはギャグの基本!」と茶化し、観客席からは異様に大きな笑い声が流れる。競技の映像は小さく押しやられ、芸人の顔ばかりが拡大されていた。
「……おかしいだろ、これ」
思わずつぶやいたが、隣で笑っていた妻は「だって面白いじゃない。暗いニュースばかりじゃ疲れるでしょ?」と軽く言う。
最後にドラマを選んだ。
最初はごく普通の恋愛物語に見えた。だが、クライマックスに差しかかると、登場人物が全員で漫才を始めた。観客の笑い声が自動的に流れ、まるで「笑わなければならない」と強制されているかのようだった。
佐伯はテレビを消した。
部屋に残るのは、不自然な静けさと、自分だけが「異常に気づいてしまった」孤独感。
佐伯はひとりで悶々としながらも、ある日ネット掲示板に同じような書き込みを見つけた。
> 「最近テレビに芸人しか出てない。おかしくないか?」
「ニュースまで笑いに変えるなんて狂ってる」
その言葉に胸を打たれた佐伯は、匿名ながらも返信を続けた。
やがて小さなコミュニティが生まれる。数十人、数百人――全国で同じ違和感を抱えた人々が、細い糸で繋がり始めた。
彼らは決意する。
「次の選挙で、真面目な政治家を必ず勝たせよう」
「国を芸人に渡してはいけない」
佐伯たちが違和感を共有しはじめて間もなく、ニュース速報が流れた。
『首相辞任の意向を表明』
理由は「体調不良」とだけ伝えられたが、裏ではメディアを使った芸人たちの圧力が囁かれていた。
その翌日には与党の幹部が集まり、密室での会合が開かれる。
結果、後任の首相に選ばれたのは――一人の芸人だった。
「えっ……選挙もなしに?」
テレビを見つめながら、佐伯は耳を疑った。
画面にはスーツを着たお笑い芸人が堂々と立ち、笑顔でこう語っていた。
「国民の皆さん! 笑いと元気を届ける政治を、私が約束します!」
スタジオでは芸人仲間たちが総立ちで拍手喝采。
解説者もコメンテーターも全員芸人で、「新しい時代の幕開けだ!」と盛り上げる。
街は一気に祝賀ムードに染まった。
「首相が芸人なんて最高じゃないか!」
「これで日本も楽しくなる!」
だが、佐伯とその仲間たちは顔を見合わせ、凍りついた。
ついこの前、選挙を終えたばかりだった。民意を問うこともなく、ただメディアが作り上げた空気によって国の頂点がすり替わっていたのだ。
全国放送で、芸人首相は笑顔で登場した。
「国民の皆さん! 今日から日本は、もっと楽しく、笑顔あふれる国になります!」
スタジオでは芸人仲間が総立ちで拍手を送り、解説者も「新しい時代の幕開けです!」と声を弾ませる。
「退屈な法律や難しい議論はもう不要です。大事なのは、国民の皆さんが毎日笑顔で過ごせること!」
彼の言葉に、国民の多くは拍手と歓声で応える。
しかし、演説の終盤――
「そして、国民の安全のため、公共の場で悪口や不満を広める行為は、適切にチェックされます。もちろん、私たちメディアが責任を持ってお知らせします」
画面の向こうでは、笑顔の芸人たちが手を振り、歓声をあげる。
だが佐伯は背筋が凍った。
「……笑顔の裏で、自由が制限されている……」
小さなコミュニティの掲示板でも、同じ違和感を抱く人々が恐怖を共有していた。
テレビの向こう側では、すでに国の頂点は芸人たちの手に握られていたのだ。
そして、少数派の佐伯たちだけが、その異様さに気づいていた。
全国放送の演説中、首相席に座る芸人は笑顔を浮かべていた。
その横で、世破は静かに画面を見つめる。胸中には感慨が渦巻く。
「最初はただの芸人だった……それが、ここまで……」
やがて世破はマイクを握る。
「首相、申し訳ないですが……私と首相の座、変わりませんか?」
会場の空気が一瞬静まり返る。
首相はにこやかに答える。
「はい、わかりました」
その瞬間、メディアは拍手喝采を映し出す。
視聴者はただ「首相が交代した」としか認識しない。
世破が首相の座に就くと、相方が副首相として隣に立つ。
二人は冷静な笑みを浮かべ、表向きの国政を進める。
しかし、実際の権力は黒幕コンビの手の中にあり、国民の目には楽しいニュースと笑いしか映らないのだった。
佐伯たち少数派は、テレビの向こうに映る異様な光景に言葉を失った。
「……これが、本当に国のトップなのか……?」
会議室の時計が0時を回った瞬間、黒幕コンビは互いに顔を見合わせ、笑いを漏らした。
「思えば、最初は何の知名度もない芸人だった……」世破が低くつぶやく。
「そうだな……まさか、国の首相に俺たちがなる日が来るなんてな」相方も笑みを浮かべる。
二人の瞳には、達成感と同時に狂気にも似た高揚が宿っていた。
「メディアを掌握したことで、国民の思想を自由に誘導できる」世破が言う。
「そして、首相としての権力……国民を思いのままにあやつれる。もう俺たちの思い通りだ」
全国放送のスタジオは、華やかな装飾とスポットライトに包まれていた。
国旗の代わりに、笑顔のイラストがあしらわれた旗が掲げられ、観客席には芸人たちがずらりと並ぶ。
中央の演壇に立つのは、黒幕コンビの世破。
かつて何の知名度もない芸人だった彼は、今や政党の党首であり、国を動かす絶対的権力者だった。
マイクに向かい、世破は静かに口を開く。
「国民の皆さん、本日、我が国は新たな時代を迎えます」
画面の向こうの国民は、家族や友人とともにテレビを見つめる。
「国の名前を――」世破は間を置き、声に力を込めた。
「――『芸人共和国』に改めます!」
スタジオは歓声と拍手に包まれる。
画面には、笑顔の芸人たちが総立ちで手を振る光景が映し出される。
相方が副首相として世破の隣に立ち、にこやかに微笑む。
佐伯は部屋の片隅で、パソコンの前に座っていた。
ニュースやSNSを検索するたび、胸の奥に重い不安が積み重なる。
画面には、首相となった芸人や党首世破の姿が連日映し出され、国民の反応は熱狂そのもの。
「これが国の現実か……」
佐伯は手で顔を覆う。
掲示板やコメント欄には、忠誠芸人を称賛する書き込みが溢れていた。
その一方で、少数派の市民が違和感を訴えても、すぐにデマや揶揄で潰されていく。
「……この国は終わりだ」
佐伯は独りごちた。
「ただの笑いで国を操る……独裁政権、芸人共産党ができてしまった……」
彼の目は決意に光る。
「もうここにいても何もできない……逃げるしかない」
机の上に置かれたノートには、行き先の候補や、手段、費用がメモされていた。
「安全な場所に行き、あの国の狂気から離れるんだ」
佐伯は深く息を吸い、覚悟を決めた。
「この国を脱出する……芸人共和国から、俺は逃げる」
夜の静寂の中、パソコンの画面にはまだ祝賀ムードのニュースが映り続ける。
だが、佐伯の心はすでに、遠く離れた自由な場所へと向かっていた。
首相官邸の一室。豪華なシャンデリアの下、世破と副首相の定知は並んで座っていた。
机の上には書類や国旗、そして手元にはネタ帳のようなメモが広がる。
世破はページをめくりながら、低く笑う。
「選挙は表向き民主主義に見せかけて、実際には芸人以外が政治家になることは許さない。これで国民は納得するしかない」
定知も微笑みながら、ペンでメモを取りつつ言う。
「ニュースやバラエティでおもしろおかしく説明すれば、国民は笑いながら受け入れる。政治は笑いの一部、そう思わせればいい」
世破は肩を揺らして笑った。
「まさに独裁政治を、民主主義に見せかける――面白いじゃないか」
世破はペンを置き、窓の外を見つめる。夜景の灯りが、街全体をまるで舞台のように照らしていた。
「そういえば、あの事件……」定知が口を開く。
「忠誠を誓っていた芸人が逮捕されて、裁判を受けている件か」
世破はゆっくり振り返り、低く笑った。
「面倒なことを、面白く片付ける時間だな」
定知の眉がわずかに上がる。
「首相として止める……ということですか?」
世破は机の上の書類を軽く叩く。
「もちろんだ。あいつは忠誠を誓った芸人だろう? それが数枚の紙切れで裁かれるなんて、冗談じゃない」
「全ての裁判を“なし”にする。国民にはこう伝える――“法は我々の笑いのために柔軟である”と」
定知は静かに頷く。
「なるほど……ニュースも笑いで包めば、誰も疑問に思わない。裁判の中止もまた、面白いネタとして処理できる」
世破は椅子に深く腰かけ、再び笑った。
「ふふ……独裁政治は、こうして楽しむものだ。民主主義の形を装いながら、実際は我々の思い通り。芸人のための裁判なんて、最初から存在しなかったかのように消してやる」
その瞬間、部屋の電話が鳴る。秘書からの連絡だった。
「首相、裁判の件ですが、手続き上の書類に署名をいただければ……」
世破は電話の向こうに向かって笑い声を漏らす。
「署名? 書類? ふん、全てなしだ。あいつらがどんなに騒ごうと、我々には無力だと知れ」
通話を切ると、定知が静かに呟いた。
「……これでまた、一人、我々の手の中に戻ったわけですね」
世破は窓の外の夜景を見つめ、低く笑ったまま答える。
「全員が笑顔で納得する。面白くなきゃ意味がないからな」
夜の静寂の中、街はいつも通りに輝き、テレビでは芸人たちが楽しげに笑っている。
しかし、その笑顔の裏で、権力と自由の境界線は静かに塗り替えられていった。
世破が笑いながら席を立つ。
「さて、あの裁判一件で終わりだと思ったか?」
定知が目を細める。
「……まだ何か?」
世破は部屋の端に置かれたモニターを指さした。
「裁判所も検察も、もう我々の手中に入れる。全員、芸人に置き換えるんだ」
定知は一瞬言葉を失う。
「裁判官も検察も……芸人に?」
世破は低く笑った。
「もちろんだ。笑いがあれば法律なんていらない。面白く解釈すれば、それが新しいルールになる」
窓の外の街を見下ろしながら、世破は続ける。
「法廷で漫才をし、検察はコントで罪状を説明する。判決もギャグの順番で決まる。国民は拍手し、笑わなければならない」
定知はペンを握り直す。
「法律? 書類? 冗談みたいなものですね。笑いこそが唯一の基準」
世破は机の上に手をつき、力強く言った。
「そうだ。もう法律はいらない。法は笑いに従う。裁かれる者も、裁く者も、観客も、全員が笑えばそれでいい」
モニターには、次々と芸人に置き換わった裁判官や検察官の映像が映し出される。
証人はギャグを交えて答え
検察官は滑稽な動作で罪状を説明
裁判長は大声でツッコミを入れる
部屋の中、世破はニヤリと笑う。
「ほら、面白いだろう? 国民はテレビ越しにしか見ない。だから、笑わせればすべてが正義になる」
定知も笑みを浮かべ、書類にペンを走らせた。
「つまり……この国は、完全に芸人が支配する国になるわけですね」
世破は窓の外を見つめ、静かに呟く。
「そうだ……笑いが正義、笑いが権力、笑いが法律……芸人共和国の完成だ」
その瞬間、テレビでは、ギャグで裁かれる市民の映像が流れ、笑い声が街全体に響き渡る。
しかし、その裏で、自由も、正義も、もはや存在していなかった。
世破は豪華な首相官邸の書斎で椅子に深く腰かけ、定知に向かって紙を差し出した。
「これが、芸人国憲法だ」
定知は眉を上げる。
「憲法……ですか?」
世破は微笑み、ゆっくりと読み上げる。
「第1条――芸人は、どんな行為をしても、『お笑いでした!』と言えば許される」
定知は目を丸くする。
「……つまり、犯罪も、違法行為も、すべて笑いに変えられると?」
世破は肩を揺らして笑った。
「そうだ。法律は笑いの前では無力。面白ければ、罪は存在しない」
彼はページをめくり、続ける。
「第2条――裁判所は全員芸人とし、法廷は舞台、判決はギャグの順番で決定される」
「第3条――検察官も弁護士も芸人で構成され、証言も漫才、異議申し立てもコントで処理する」
「第4条――国民はテレビ越しに判決を観覧し、拍手と笑いによって正当性を承認する」
定知は深く息をつき、ページをめくりながら呟いた。
「……つまり、すべての秩序は笑いで維持されるわけですね」
世破は窓の外の夜景を見つめ、低く笑う。
「そうだ……法律も裁判も正義も、すべて笑いの前には無意味になる。芸人国憲法の完成だ」
部屋のモニターには、新しい芸人裁判官たちが舞台上で漫才をしながら判決を下す映像が流れる。
市民たちは笑い声をあげる。
しかし、その笑いの裏で、自由も正義も、もはや存在していなかった。
世破は椅子に深くもたれ、にやりと笑う。
「面白ければ、何でも許される……これこそが、芸人共和国の真の力だ」
定知も静かに頷き、ペンを走らせる。
「……国民は、笑わざるを得ないわけですね」
夜の首相官邸には、静かな高揚感と、笑いの支配者としての冷酷な確信が満ちていた。
テレビの画面が切り替わる。
そこには、若手芸人たちが必死に体を張っている姿が映し出されていた。
コンクリートの上に飛び込み、顔面をわずかに擦りむきながらも、笑顔でギャグを続ける芸人
水槽に飛び込み、中で暴れる魚と格闘しながら、カメラに向かって「これも笑いです!」と叫ぶ芸人
高所から落下するふりをして、観客の笑いを取るために、わざと派手に転ぶ芸人
スタジオの照明は彼らを鮮明に照らし、観客の笑い声が大きく重なる。画面越しでも、その熱量と痛みが伝わってくる。
世破は首相官邸の椅子に深く座り、腕を組みながらモニターを見つめていた。
「……こいつら、安い給料でここまでやってるのか」
定知も横で頷く。
「見てください、首相。命を張るようなギャグを……観客の笑いのために」
世破の瞳は鋭く光った。
「そうだ……安い給料で必死に働く。なのに、庶民はどうだ? 若手芸人より給料は高いくせに、全然働かない!」
定知が微笑みを浮かべ、ペンを持ち直す。
「つまり、国民全員の給料を若手芸人と同じにすれば……?」
世破は笑いを漏らし、ゆっくりと頷いた。
「そうだ、全員だ。国民全員が、芸人の努力と同じ価値を体感するようにする」
彼は立ち上がり、首相官邸の書斎の大きな机に向かう。
紙とペンを取り出し、芸人国憲法のページを開く。
「第5条――国民の給料は、全員、若手芸人と同じ額とする。年齢も職業も関係なし。働きの価値は、笑いの努力に準ずる」
定知はページを覗き込み、静かに書き加える。
「これで、庶民も必死に働くしかなくなりますね……笑いの価値が、国民の生活基準になる」
世破は満足げに背もたれにもたれ、窓の外の夜景を見つめる。
「面白い……国民全員が、笑いの価値に従う国になる。給料も、努力も、すべて笑いで測る」
モニターには、体を張る若手芸人の姿が映り続ける。
観客席の笑い声と拍手が、首相官邸の静かな書斎まで届くかのようだった。
世破は紙を軽く叩き、低く呟く。
「芸人共和国は、もはや笑いの価値だけで動く国……そして、その価値が全ての基準になる」
その瞬間、国民全員の給料が若手芸人と同額に統一される未来が、静かに、しかし確実に動き始めていた。
朝、街はいつも通りの喧騒に包まれていた。
だが、国民の胸には奇妙な緊張が走る。給料が一律に変更され、全員が若手芸人と同じ額になったからだ。
画面には、芸人たちが豪華なスタジオでにこやかに並んでいる。
一人の芸人がマイクを握り、満面の笑みで叫ぶ。
「国民の皆さん! 今日から給料は若手芸人と同じ! さあ、笑って働きましょう!」
画面が切り替わると、別の芸人が軽快なリズムで踊りながら言う。
「我慢も美徳! 痛みも笑いに変えよう! 仕事が辛い? 笑いで消せばオッケー!」
カメラは街のスーパーマーケットや工場、オフィスを映す。
作業員たちは困惑した表情で黙々と働きながら、テレビの笑い声を背に受ける。
「笑え! 笑って働け! それが国民の義務だ!」
別の画面では、オフィスのデスクに座る社員たちに向かって、芸人が満面の笑顔で指示を出す。
「文句は言わず、笑いながら働け! それが美徳だ!」
朝、首相官邸の豪華な書斎で、世破は大きな椅子にどっかりと座っていた。
だが、その目はモニターに釘付けだ。
テレビのニュースが緊急速報を告げる。
「本日、無笑罪による50年拘束刑が適用される人物が確認されました。理由は、笑わずに働き続けたためです――」
画面には真剣な表情の労働者たちが映し出される。
「え……笑わなかっただけで……50年?」
街中でざわめきが広がる。公園のベンチ、バス停、駅前広場――どこも、ニュースを見た人々の顔に恐怖が走った。
その瞬間、官邸の重厚な扉が開き、黒幕コンビの大御所芸人が悠々と入ってくる。
「おや、こんなニュースが流れているのか」
一人が低く笑いながら言うと、もう一人も肩を揺らして微笑む。
首相・世破はふと閃いたように立ち上がる。
「そうだ! テレビを国民が義務的に見る制度を作ろう」
周囲が驚く中、世破はマイクに向かって声を張る。
「全国の皆さん! 笑いポイントで笑わなければ――首相も含め、無笑罪として50年拘束!」
その宣言は瞬く間に国中に届いた。テレビ局は大急ぎで街角リポート企画を編成し、若手芸人たちはすぐに街へと繰り出す。国民は、見逃せば自らの自由を失うかもしれない恐怖と共に、笑いの渦に巻き込まれる運命を告げられたのだった。
スタジオは明るく華やかだ。リポーター芸人がマイクを持ち、笑顔でカメラに向かって話す。
「皆さん、本日の特集は街角リポート! 若手芸人が庶民を巻き込んだ、最新の笑いチャレンジです!」
画面は街中に切り替わる。一般人が何気なく歩いているだけの様子。
そこに、若手芸人たちがこそこそ集まり、笑いを堪えながら耳打ちする。
「よし、あいつにドッキリを仕掛けてやろう」
「うわ、絶対ビックリするぞ!」
観客席の歓声が画面に流れる。一般人の男性は、ただ普通に歩いているだけなのに、若手芸人たちが一斉に囲み始める。
体当たり、押し倒す、バケツの水をかける――笑い声と歓声が混ざり、街の静けさは消えた。
スタジオに戻ると、大御所芸人たちが肩を揺らしながら笑う。
「いいねぇ、庶民も笑いに巻き込まれるべきだ」
「そうそう、笑うことが正義だって教えてやらないとね」
テレビの画面にはテロップが流れる。
> 『街角ドッキリ:俺たちも悪いし、お前も悪い。だから警察には言うなよ!』
男性は地面にうずくまり、ずぶ濡れになりながら、すれた声でつぶやく。
「……僕も悪いんだ……」
観客席の笑い声が画面いっぱいに響き、街中の人々もテレビの前で笑わざるを得ない。
笑わなければ無笑罪で50年。芸人たちは「お笑いでした!」と無罪を確保しつつ、庶民を徹底的に笑いに巻き込み、従属させる。
スタジオでは大御所芸人が笑いを押し殺しながら、さらに次のドッキリ計画を耳打ちする。
「次はあのサラリーマンだな……」
「面白くなりそうだ、さあ準備しよう!」
街全体が、笑いと恐怖で張り巡らされたネットのように包まれていく。
テレビの中の世界と現実が完全に重なり、国民は笑わなければ生き残れない――芸人共和国の日常であった。
国民の給料は、若手芸人と同じ額に統一されていた。必死に働いても、成果に応じた報酬はない。食べるものに困った人々が現れ、テレビ局に物乞いにやってくる。
スタジオでは、カメラが回り、若手芸人たちが緊張した面持ちで現場を見守る中、大御所芸人であり首相でもある世破がにこやかに言う。
「あなたが働かないのが悪いんです!」
物乞いの男性は震える声で答える。
「でも、頑張ってるんです‥」
世破は眉をひそめ、若手芸人を呼び出す。
「靴を磨け!」
若手芸人は従順に命令を聞き、靴を磨くと、世破はにやりと笑いながら封筒を手渡す。
「ほら、これで100万円。こうやって頑張れば報酬はもらえるんです。あなたの頑張りが足りないから、こうならないんですよ!」
物乞いの男性は肩を落とし、しょんぼりとつぶやく。
「…自分の頑張りがいけなかったんですね‥」
そして、虚しく街へと帰っていった。笑い声と歓声に包まれたスタジオとは裏腹に、現実の国民は理不尽な制度の前に沈んでいた。
テレビを見た国民たちは、げっそりと肩を落とした。
「もう我慢できない……この芸人たちを、この国から追い出すんだ!」
怒りに燃えた人々は街に集まり、一揆を起こそうとした。だが、警察はすでに芸人たちに操られており、反抗する庶民を容赦なく逮捕する。
しかし、人数があまりにも多く、警察も手に負えなくなった。しぶしぶ釈放された国民たちに、警察官の一人が声をかける。
「……皆さん、この国は民主主義です。暴力で奪うより、政治家を変えるしか道はありません」
その言葉に、国民たちははっと気づく。芸人たちの笑いに縛られた国を変えるためには、ただ反抗するだけではなく、制度そのものを動かさねばならない――。
街はざわめき、次第に人々の目に、決意の光が宿り始めた。
ついに投票期間がやってきた。街の広場やテレビ中継には、人々の熱気があふれる。
民衆は声を揃えるように言った。
「芸人たちをどうにかしてくれる人に、みんなで投票しよう!」
候補者たちは、街角で演説を始める。熱い声が響き渡る。
「私たちは、笑いで国を支配する者たちに立ち向かいます!」
「あなたの自由を取り戻すため、私たちは行動します!」
広場は歓声と拍手で揺れ、民衆の目は希望に輝いていた。
かつて無力に笑わされ続けた人々が、自らの意思で運命を決める瞬間――。
テレビカメラはその様子を捉え、国中に生中継される。画面越しにも、人々の団結と決意は伝わっていった。
投票日、街の広場や公共施設には人々が長い列を作った。みんな、真剣な眼差しで一票を握りしめている。
「これで、笑いで支配する者たちに終止符を!」
民衆の声があちこちで響き、緊張と希望が入り混じった空気が街を包む。
候補者たちは最後の演説で、芸人たちの支配の不条理さを訴えた。
「我々は、笑いに縛られた国民を解放します! 自由を取り戻すのです!」
群衆は拳を振り上げ、歓声が広場を揺らす。
一方、スタジオでは若手芸人たちが、カメラの前で不安げに顔を見合わせる。
大御所・世破も眉をひそめ、首相席に座ったまま静かに指を組む。
「これは…思った以上に国民が本気だな」
投票結果が次々と集計される中、スクリーンに表示される数字に、群衆の歓声はさらに大きくなる。
「やった! ついに私たちの意思が届く!」
民衆は息を呑んで見守った――はずだった。
だが、驚くべきことに、演説に必死に顔を出していた候補者たちはほとんど票を得られず、画面に表示される数字はゼロに近かった。
一方で、ほとんど演説もしていない、街角やテレビに顔を出す芸人だけが大量の票を獲得している。
スタジオの大御所芸人であり首相の世破は、にこやかに笑いながらつぶやいた。
「民主主義って、素晴らしいですね。皆さんの意見が反映され、政治が変わる――」
彼は一息つき、画面を眺めて言葉を続ける。
「この国のみんなは、やっぱり芸人を求めているんだなぁ」
その声に、スタジオのカメラマンやスタッフも微笑む。
民衆の意思は形だけ尊重され、結局はこれまで通り、芸人たちが国を支配する構図が揺るぎないままだった。
スタジオでは、大御所芸人・首相の世破がニヤリと笑った。
「いやぁ、庶民のみんなが一生懸命働いてくれてるからね……ふふ、ここで移民を入れちゃおうかな」
スタッフや若手芸人がざわつく。
「移民、ですか?」
世破は指を組みながら言葉を続ける。
「ええ、特に治安が悪い地域からね。たくさん入れるんだ。お友達もいっぱい連れてくるから、楽しくなるぞ」
彼は手元の書類を見やりながら、さらに続ける。
「それに、刑務所に人が行き過ぎると仕事をする人が減るだろ? だから移民に頼るんだ。これで、悪いことをした人はしっかり罰せられる。素晴らしい世の中になるじゃないか」
若手芸人たちはカメラの前でうなずき、笑顔を作る。
スタジオに漂う空気は、笑いの陰に隠された権力の論理と、現実の不条理を見事に映し出していた。
ある日、旅行者がこの国を訪れた。街を歩くと、国民たちは皆、やせ細り、目に生気がほとんどない。
「どうしたんですか?」旅行者が尋ねると、国民は俯きながら答える。
「何でもないんです……」
不自然な沈黙の後、彼らは手元のテレビのスイッチを入れる。
画面には、笑いに包まれたスタジオの光景が映し出される。リポーターや若手芸人たちが声を張り、ドッキリやギャグで盛り上げていた。
国民たちは、怯えた目でテレビを見つめながらも、画面の「笑い」に合わせて笑う。しかし、その顔や体には全く笑いの反応はなく、乾いた声とぎこちない動きだけが残っていた。
旅行者は首をかしげる。
「……これは、どういうことなんだ……?」
旅行者は国民たちと一緒にテレビの前に座った。画面には大御所芸人であり、首相でもある世破の姿が映っている。
彼は若手芸人に、ゲテモノを無理やり食べさせていた。若手芸人は苦しそうにしながらも、必死に従っている。
世破はにやりと笑いながら言った。
「ほら、若手芸人がこんなに頑張っているんだから、庶民にも食べさせてやったらいいじゃないか」
さらに恐ろしい言葉が続いた。
「この国は食糧危機だと嘘を言って――国の食べ物は全部ゲテモノにしよう!」
スタジオの芸人たちは一斉に拍手し、口々に賛成の声を上げる。
「そうだ、そうしよう!」
「素晴らしいアイデアだ!」
旅行者はその光景を見渡し、国民の様子に目を向けた。その人はげっそりと笑っていたが、目には怯えが浮かび、笑顔の下に恐怖が隠されている。
「……これって、どういうことですか‥」
国民のひとりは俯きながら答える。
「……なんでもないんです……」
テレビの明るい光と、笑い声の裏に潜む狂気が、旅行者の心に深く刺さった。
旅行者はその後、ニュースを見た。
画面には、芸人が殺人を犯して逮捕されたという報道が流れている。理由は「ストレス発散のため」らしい。裁判にかけられる様子が映ると、次の瞬間、被告である芸人が笑顔で言った。
「お笑いでした!」
すると裁判官は即座に宣言する。
「被告人を無罪とする!」
旅行者がよく見てみると、裁判官も弁護士も、全て芸人だった。法廷全体が、笑いの論理で支配されている。
次に映ったのは、ボランティア活動をしていた男性だった。彼は海外から持ち込んだ食料を、困窮した国民に分け与えただけだった。しかし、弁護士も裁判官も、彼の登場と同時に疑いの目を向け始める。
「もしかしたら裏があるかもしれない……」
冷たい視線が男性を射抜く。裁判官や弁護士に扮した芸人たちは口々に言い出す。
「こういうやつは裏があるに違いない。無期懲役が相応しい!」
旅行者はその異常な光景を見て、言葉を失った。
笑いの力で国を支配するだけではなく、法律や正義さえも芸人たちの思いのままに操られている――この国の恐ろしさが、目の前で鮮明に示されていた。
次のニュースは広告の時間になった。
画面に現れたのは、道徳の本を手に持つ男性――しかしその姿も、どこか異様だ。
「この本の使い方はこうだ!」
男性は本を踏みつけ、さらに火の中に投げ込む。炎に包まれた本から立ち上る煙に、彼は楽しげに笑った。
「あたたかくて、焚き火にピッタリだね!」
スタジオでは黒幕コンビがその広告の出来を称賛する。
「素晴らしい! この国では、道徳の教科書を踏んだり燃やすことを義務にしよう」
世破はさらに言葉を続ける。
「いや、それだけではない。学校の教育も、すべてお笑いに変えてしまおう!」
若手芸人たちはカメラの前で拍手し、画面越しに笑顔を作る。
国の制度、教育、そして民衆の倫理感までもが、笑いの論理に染められていく――旅行者の目には、呆然とした光景が映った。
旅人は背筋に冷たいものを感じながら、足早に街を後にしようとした。しかし、白昼の街角で、白衣を着た男性が突然立ち止まり、じっと旅人の顔を見つめる。
「大丈夫ですか? 病気かもしれません」
その視線は鋭く、旅人は思わず立ち止まった。白衣の男性はにこやかに微笑む。
「あなたの病名は……『反重力感情逆流症』でしょう」
旅人は首を傾げる。そんな病名、聞いたこともない。
「この薬を飲めば、病気も完治しますよ」
男性は意味不明な小瓶を差し出す。中には液体が揺れ、ラベルには『パラドックス錠』とだけ書かれている。だが旅人は恐ろしくて手を伸ばせなかった。
そのとき、病院の扉が開き、見るからに体調の悪そうなおじいさんがヨタヨタと入ってきた。
「何かご用ですか?」白衣の男性は軽い調子で尋ねる。
「昨晩から体調が悪くて……」
男性は肩をすくめ、軽く笑いながら答える。
「そんなの気のせいですよ。笑えば治ります。根性ですよ」
おじいさんはかすれた声で言った。
「薬をください……」
男性は書類をめくるふりをし、瓶を手に取る。
「わかりました、仕方ないですね。えーっと、これなんの薬だっけ……?」
無責任な笑みを浮かべ、意味のわからない薬を手渡す。
「これを飲んどけば多分治りますよ」
おじいさんは手を震わせながら薬を受け取り、目には不安と戸惑いが浮かんでいる。旅人も、その光景を目の当たりにし、背筋が凍る思いをした。
旅人は恐怖に駆られ、街を逃げ出そうとした。心臓の鼓動が早まり、足を速める。
しかし、通りを曲がった途端、遠くから一人の若手芸人がこちらをじっと見つめていた。
「……え?」旅人が思った瞬間、芸人は大げさに体をよろめかせ、まるでぶつかったかのように倒れる素振りをした。
「きゃあ、ぶつかってきたぞ!」
声が通りに響き渡る。芸人の手には、警察に連絡するためのスマートフォンが握られていた。
周囲の人々も振り返り、旅人の方を疑いの目で見る。遠く離れているのに、なぜかぶつかったことになっているのだ。
「警察を呼ぶんだ! 犯罪者だ!」
旅人は必死に手を振り、誤解だと叫ぶが、声は周囲の喧騒にかき消される。
笑顔の裏に潜む陰謀と狂気が、街全体を覆っていることを、旅人は痛感した。
逃げるしかない――そう思い、さらに速足で路地へと逃げ込む。
だが背後からは、まだ笑い声と「ぶつかったぞ!」という叫びが追いかけてくる。
街の平穏な景色とは裏腹に、笑いを武器にした狂気が、この国の全てを支配している――旅人はその恐怖に震えながら、逃げ続けるしかなかった。
子どもたちは安全な遊び場で笑い声を響かせ、親たちは安心して仕事や趣味に打ち込む。医療や教育は行き届き、必要な知識や技術は誰もが平等に手に入れられる。この国では、生活必需品が欠けることも、飢えに苦しむこともない。人々は、自分の手の中にある幸福を当たり前と感じながらも、知らず知らずのうちに安堵に満ちた日々を送っていた。その安らぎは、外からの干渉を寄せ付けず、まるで国全体を包む温かい布のように、街と人々を包み込んでいた。
あるところに、黒足世破(くろあし せいは)という男がいた。この男は並外れた野心を抱き、歴史に名を刻むほどの影響力を手に入れたいと考えていた。人々がどんなに平和で満ち足りた生活を送っていても、彼の心の中には常に、より高く、より遠くを目指す渇望が渦巻いていた。
だが、その心の奥底では、もっと大きな影響力を手にする方法を模索していた。目に留まったのは芸人という職業。娯楽の時代、この手段なら人々に効率よく影響を与えられるかもしれない――
それでも、当時の彼は深く考え込むことはなかった。目の前の生活を淡々とこなす毎日が、せいぜいの満足だったのだ。
懐かしい顔ぶれの中に、かつて世破の人生観に影響を与えた、ひときわ異質な男の姿があった。昔の彼は、動物を使った奇妙な実験に没頭していた。世破はその狂気じみた姿を思い出し、懐かしさとぞっとする感覚が入り混じった。
世破が会場のざわめきから少し離れ、静かな廊下へ足を運んだとき、背後から声がかかった。
「世破……久しぶりだな」
振り返ると、そこにはかつて動物と奇妙な実験を繰り返していた例の男、闇幕定知(あんまくていち)が立っていた。
「定知……お前がここにいるとはな」
世破は警戒しつつも、どこか懐かしさを覚えた。あの狂気じみた観察の日々が、今の自分に影響を与えていたことを認めざるを得なかった。
「ところで、今はどんな仕事を考えているんだ?」
定知は淡々と問いかける。
「実は完全には決まっていないんだ。お笑い芸人をやろうかと思っているけど……ソロで始めるのもなんだし、どうしようかって感じで」
世破は肩をすくめ、視線を少し落とす。
定知はふっと微笑んで言った。
「お前は小さい頃から、世の中に大きな影響を与える人間になりたいって言ってたな……」
「……そうなんだよ。でも、芸人としてどれだけ影響を与えられるか、正直わからない」
世破は少し顔をしかめ、手を組みながら考え込む。
定知は視線を逸らさず、静かに言った。
「影響力は方法次第でいくらでも変えられる。お前なら、芸人であろうと別の道であろうと、結果を残すだろうな」
世破はその言葉に少し戸惑い、しかし心の奥では何かが疼くのを感じた。平和で安定した日常の中で、渇望はまだ消えていない――もっと大きなものを掴みたいという衝動だ。
「……ところで、定知、お前は今、何をやろうとしているんだ?」
世破が問いかけると、定知は少し間を置いて答えた。
「実は俺も、まだ決まっていないんだ」
世破は驚いたように眉を上げる。
「そうなのか?それなら……一緒にやってみるか?コンビで芸人を」
「……コンビ?」
「そう。ソロじゃなく、二人でやれば互いに補い合えるし、何より俺たちなら大きな影響を与えられる」
定知は静かに微笑む。
「なるほどな……お前の考え方らしい。分かった、一度やってみるか」
その偶然の再会をきっかけに、二人はお笑いコンビを組むことを決めた。
名前は二人の名字から取ることにした――黒足世破の「黒」と、闇幕定知の「幕」を組み合わせて、「黒幕コンビ」。
二人は静かな稽古場に足を踏み入れた。壁には古いポスターや観客の笑顔が貼られ、空間全体が既に笑いの気配を帯びている。世破は机の上にノートを広げ、定知は黒板に簡単な図を描きながら考えを整理した。
「面白さってさ、結局は相手に伝わるかどうかだろ?」世破が口火を切る。
「そうだな。だが、伝え方には法則がある」定知は冷静に答えた。「人間は鏡のような存在だ。楽しそうに見せれば、相手も無意識に笑う。逆に嫌悪感を出せば、その感情も伝わる」
「そして、もう一つ使えそうなことがある。それは過激さ、暴力性をその中に詰め込むことだ」定知は少し視線を伏せ、黒板に小さな線画を描きながら言った。「人間は、不快なものや恐怖に無意識に目を向けてしまう。そういう感情は強く印象に残る」
世破は眉をひそめる。
「……不快なものを見せるのか?観客が嫌がったら逆効果じゃないのか?」
定知はゆっくりと頷いた。
「そうだ。毒は少しずつ摂取することで耐性ができる。観客も同じだ。いきなり過激すぎると拒絶されるが、少しずつ『受け入れられる暴力』として見せれば、心の反応は強くなる」
世破は目を細め、考え込む。
「……つまり、楽しそうに暴力的なことや過激なことを、ネタの中に詰め込めばいいってことか」
「その通りだ」定知は黒板に小さな矢印を書き加えながら言った。「笑いの中に恐怖や不快感を混ぜる。観客は最初、驚きや嫌悪で反応する。しかし、笑いの波に乗せてやることで、その感情は楽しさに変わる」
「でも、バランスが難しいな……一歩間違えればただの嫌な奴になる」世破は苦笑した。
「だからこそ計算が必要だ」定知は冷静に答える。「どの程度、どのタイミングで、どの形で見せるか。過激さを巧妙に調整すれば、観客の心を掴める」
二人の視線は稽古場の空間に沈み、頭の中で次々とアイデアが芽生えていった。
この方法を使えば、ただの笑いではなく、観客の記憶に深く刻まれる“黒幕流の笑い”を生み出せる――まだその可能性を誰も知らずに。
稽古場で、静かに次のステップを考えた。世破がノートにペンを走らせる。定知は黒板に小さな図を描き、頭の中で観客の反応をシミュレーションしていた。
「よし、そろそろ実際にやってみようか」世破が口を開く。
「だな。ただし、計算通りにやること。感情の揺れを見逃すな」定知は視線を鋭くしながら答える。
二人は小道具や段取りを最終確認し、稽古場を後にした。外の光が薄暗くなる頃、彼らは小さなライブハウスの前に立っていた。
舞台袖の薄暗い空間。観客のざわめきが遠くに聞こえる中、二人は軽く肩を叩き合い、笑いながら最終確認をしていた。
「世破、このネタ、実は叩くところが肝なんだよ」
定知はニヤリと笑い、拳を軽く握る。
「それはどういうことだ?」世破は首をかしげる。
「心理学の実験に、子供が目の前で見た暴力を真似するってのがあるんだ」
定知は黒板の図を思い浮かべながら説明する。
「つまり、俺がお前を叩くことで、観客の中にも“真似する奴”が出てくるってことか?」世破の目に好奇心が光る。
「そういうことだ」定知は肩を揺らして笑う。「楽しそうにやることが大事なんだ。楽しそうに叩かれることで、見ている人も“これって面白いことなんだ”って学習する」
「そんなことしていいのか…?」世破は少し眉をひそめる。
「お前、子供の頃言っただろ。世の中に大きな影響を与える人間になりたいってな」
その言葉が、子供時代の世破の胸に蘇る。
「その通りだ。これが広まれば、俺たち黒幕コンビは世の中に影響を与えたことになる」
世破は拳をぎゅっと握った。
「楽しそうにやってくれよ。楽しそうに叩かれると、観客も嬉しいんだって広められるからな」
定知は笑いながら世破の頭を強く叩く。
「…もちろんだ。これが俺たちの序章だ」
世破も笑いをこらえながら、舞台袖で膝を軽く叩く。
照明が落ち、舞台に柔らかいスポットライトが当たる。観客のざわめきが一瞬静まり、期待が空気を満たす中、黒幕コンビがゆっくりとステージに現れた。
「どうもー、黒幕コンビです!」世破が声を張る。
観客は軽く拍手を返すが、まだ誰も二人の正体もネタの内容も知らない。
定知はにやりと笑い、世破の肩を軽く叩いた。「準備はいいな?」
世破もうなずき、深呼吸して拳を握る。
「これからの時代は芸人の時代だと思うんだ!」世破が叫ぶ。
「おれは首相になってボケてやる!」
観客はクスリと笑う。だが、次の瞬間――
定知が世破の頭を強く叩く。
世破は痛がるフリをしながらも満面の笑み。
「首相になってボケるなよ!」定知がツッコミを入れる。
「いやいや、首相こそボケるべきだろ!」
観客はポカンとした顔で二人を見つめるだけだ。
笑いは起きない。拍手も控えめ。
しかし、二人は気にしない。
「いいぞ、これだ」定知が目を光らせる。
楽しそうにやることで、観客の無意識を刺激するんだ‥
ネタが終わり、黒幕コンビは舞台を降りた。
観客の拍手はまだ控えめで、空気はどこか静かだった。
そのとき、会場の隅で小さな喧嘩が始まった。二人の前にいた子供たちだ。
周りにいた大人たちが慌てて止めに入る。
「ちょっと、何してるの?」大人の一人が問いかける。
子供は少し照れくさそうに答えた。
「叩かれると…嬉しいんだと思って!」
相手の子は泣き顔になり、大人たちは戸惑うばかりだった。
世破はその様子を見て、心のどこかでぞくりとした。
「……ああ、これが俺たちのネタの影響か」
定知も冷静に観察し、微かに笑った。
「楽しそうにやるだけで、無意識に反応する。理論通りだな」
舞台上では笑いを演出し、舞台裏では観察実験――二人の黒幕コンビは、知らず知らずのうちに“影響”を実証していたのだった。
それから数日間、黒幕コンビはライブハウスでネタを披露し続けた。
ある日の公演後、ニュースが流れる。
「最近、子供たちによる暴力事件が頻発しています…」
観客の一人が小声で世破に話しかける。
「もしかして、あのネタの影響じゃないですか…?」
世破は少し肩をすくめ、定知と顔を見合わせる。
「はは、そんなわけありませんよ。僕たちが関係してるなんて、ありえないでしょ?」
定知も同意するように首を振る。
「そうそう、僕たちはただの芸人ですから。影響なんて及ぼしてませんよ」
観客は少し戸惑った表情を見せつつも、二人の軽妙な雰囲気に安心する。
舞台裏では、世破と定知は互いに小さく笑い合った。
「俺達の行動が子供たちに影響を与えるなんてな…これからが楽しみだよ」
定知は少し顔をしかめ、冷静に答える。
「ただ、この叩くネタは一旦やめておこう。新しいネタを考えたほうがいい」
「でも、次は何をするんだ?」世破が問い返す。
定知は静かに間を置き、言った。
「怒り芸がいいだろう」
「怒り芸の狙いは、観客に『怒っていいんだ』『怒ると楽しいんだ』と無意識に思わせることだ」定知が静かに説明する。
世破は眉をひそめる。
「つまり、俺たちが舞台で怒れば、周りの人も怒りやすくなるってことか?」
「そうだ。感情は伝染する。怒りも同じだ。怒ることに快感を覚えるようになれば、日常でも人は他人に怒って楽しむことを覚える」
世破は唇の端を少し歪め、目に薄い光を宿して笑った。
「―なるほど…怒ることで観客に小さな種を植えるんだななるほど…俺たちの怒りを見て、誰かが真似をする」
「計算通りにやれば、怒ること自体が娯楽になる。面白くて、なおかつ観客の心理に影響を与えられる」定知が黒板に線を引きながら言う。
二人は拳を軽く合わせ、深呼吸をして舞台へ歩を進めた。
「よし…やってみようか」
「楽しませつつ、世界を少しずつ動かす――それが黒幕流の怒り芸だ」
世破が元気に自己紹介を始めた。
「新しくバイトに入った世破です!」
定知が突然、大声で怒鳴る。
「遅い!出待ちしてろよ!」
世破は驚きつつも満面の笑みで答える。
「え!?出待ちですか!?やったー!」
定知は手を振り上げ、さらに怒った。
「お前はダメ人間だから、給料下げるからな!」
世破は目を輝かせ、嬉しそうに答える。
「え!?給料下げてくれるんですか!?最高です!」
観客はポカンと二人を見つめる。笑いはまだ起きない。だが世破の異様な楽しさが舞台を支配した。
定知が小さく息をつき、静かに笑う。
こうして理不尽を楽しむ姿を見せることで、観客は無意識に影響される
世破は頷き、嬉々として思った
怒られて嬉しい、理不尽でも楽しむ…これが黒幕流笑い!
ある日のバス。座席はほぼ埋まっており、若者が数人座っていた。
そこへ中高年の男性が乗り込んできた。周囲の視線が彼に注がれる中、座ろうとする気配はない。
隣に立っていた子供が、礼儀正しく「どうぞ」と声をかけ、席を譲ろうとした。
「いや、俺はそんな年じゃない!」男性は首を横に振り、座ろうとしない。子供は戸惑う。
結局、子供は自分の意思で座る。するとその中高年男性は、今度は怒ったように声を上げた。
「若いんだから譲れ!」
周囲の乗客は唖然と見守るばかり。理不尽さに困惑する人もいるが、同時に笑えない微妙な緊張が生まれる。
この様子を見た世破は、心の中で静かにほくそ笑む。
「理不尽も、怒りも、楽しみ方次第で笑いになる……これが黒幕流の力だ」
数日後、世破と定知のネタが話題になったある日。
バイト先の若者が、いつものように愚痴をこぼしていた。
「この職場、上司うるさいし、給料も低いし……もう嫌だよ」
だが、先日ライブハウスで見た黒幕コンビの「怒られて嬉しいネタ」を思い出す。
頭の中で、定知の怒声と世破の満面の笑みが鮮明に蘇った。
「怒られるのって、そんなに悪くない…?むしろ楽しい…?」
若者は少し笑顔を浮かべ、目の前の上司に注意される度に、以前ほど憤らなくなった。
「この環境も、喜んでみよう……!」
そして心の奥で、こうも思った。
「給料は低いけど……まあ現状維持でいくか」
同僚たちは最初は驚いたが、次第に彼の明るさに気付き、「あれ?なんか元気になった?」と口々に言う。
結果として、理不尽な職場も少しずつ受け入れられる空気になっていった。
世破と定知は遠くでその話を耳にし、静かに目を合わせた。
「思った通りだ……」
「怒りも、理不尽も、楽しみ方次第で人を変えられる」
二人の笑みは、少しだけ悪戯っぽく光った。
街での小規模ライブを重ね、黒幕コンビは次々と様々なネタに挑戦していた。
日常の些細な出来事から社会の矛盾まで、二人は笑いに変え、観客を翻弄する。
その様子を偶然見かけたテレビ局のディレクターは、名刺を差し出しながら心の中でつぶやいた。
「この二人、ただの芸人じゃない……企画に使えるかもしれない」
後日、紹介された番組で黒幕コンビは初めて体を張る企画に挑戦することになる。
世破は少し緊張しつつ笑顔を作り、定知は冷静に周囲を観察する。
「さあ、これも一つの実験だ……楽しませつつ、観客に影響を与える」
水に落ちる、滑りやすいステージで転ぶ、巨大な物に押される――どれも安全策はあるが、見た目には危険で体を張った行為。
テレビを通して、視聴者は笑いと驚きの混ざった刺激を受ける。
無意識のうちに、“体を張る行動は許容される、あるいは必要なこと”という感覚が芽生えていく。
舞台裏で世破は静かに笑った。
「これで、人々は無意識に体を張ることを“当然のこと”だと思い始める」
定知も薄く笑みを浮かべ、目を細める。
「本当はしなくてもいいことを、やったほうがいいと錯覚させる――これもまた、黒幕流の影響力さ」
二人は観客の反応を見つめ、心の中で小さくほくそ笑む。
楽しみと恐ろしさが入り混じるその感覚――人々の無意識を操る力こそ、彼らの企みの醍醐味だった。
黒幕コンビの体を張った企画は予想以上に視聴者の目に留まった。笑いと驚きの混ざった演出が話題を呼び、SNSや口コミで瞬く間に広まる。
テレビ局のスタッフやプロデューサーは二人の“反応を引き出す力”に目をつけ、次々と番組出演のオファーが舞い込むようになった。街での小規模ライブでは伝わりきらなかった影響力も、全国の視聴者の前で発揮される。
「なるほど…これで、頻繁にテレビに出られるか」世破は薄く笑みを浮かべる。
定知も冷静に頷いた。「観客の心理を動かし、人気を獲得すれば、メディアは自然とこちらに注目する――これが黒幕流の戦略さ」
ある日、控室で世破と二人きりになった定知は、静かに語り始めた。
「テレビは、ただの娯楽じゃない。洗脳装置みたいなものだ」
世破は軽く眉を上げる。
「洗脳装置…?」
定知は深く息を吐き、言葉を続ける。
「一方通行なんだ。視聴者は自分の意見を言えない。ただ、画面の向こうから投げかけられるものを受け入れるしかない。どんな価値観でも、面白おかしく見せれば、無意識のうちに刷り込まれてしまう」
世破は薄く笑みを浮かべ、机の上の台本を弄りながら言った。
「つまり、俺たちの笑い一つで、観客の感覚も操れるってことか」
定知は頷き、冷静に視線をテレビ画面に向けた。
「そうさ。だからこそ、黒幕流の影響力はここで本領を発揮する。笑いと驚きの裏で、視聴者の心理を少しずつ動かす――それこそが、テレビに出る本当の意味なんだ」
二人はしばし無言で画面を見つめる。
その瞬間、笑い声や歓声の向こうに潜む、人々の無意識の動きを想像し、ほくそ笑む。
テレビは、まさに彼らの思惑を映す鏡だった。
番組オファーは次々と増え、黒幕コンビはテレビ出演の機会を次第に増やしていった。初めは体を張る小さな企画からだったが、視聴者の反応は予想以上だった。SNSや口コミでは、「あの芸人、やりすぎだけど面白い」「見ているだけで楽しくなる」と評判が広がり、制作側も放っておけなくなった。
「見ろよ、これが力だ……」世破はモニター越しの視聴者コメントを眺め、薄く笑った。
彼らが提示する価値観は、従来の道徳や常識とは異なるものだった。
理不尽に叩かれるのも、殴るのも、視聴者にとっては“面白い”行為となる
怒る、文句を言う、悪口を言う──そのどれもが、舞台では観客に笑いと快感をもたらす
スタジオのカメラに映る彼らは、危険や無礼さを楽しげに演じる。だがそれは単なるパフォーマンスではなく、無意識に視聴者の心理に影響を与える実験だった。
「人は、こうやって錯覚させられるんだ」世破はつぶやく。
「本当はやらなくていいことでも、やったほうが面白いと信じ込ませる」定知は小さく笑った。
次第に、黒幕コンビの名は視聴者の間で浸透していく。テレビで見せる新しい価値観──“常識に逆らう楽しみ”──は、知らず知らずのうちに日常に影響を及ぼし始めていた。
そして、次の大きな挑戦の準備をしながら、二人は静かにほくそ笑む。彼らの狙いはただ笑いを取ることではない。視聴者の心理を動かし、新しい価値観を浸透させる──それこそが黒幕流の真の芸なのだ。
いつしか、黒幕コンビは特定のテレビ局で複数の番組を持つ売れっ子になっていた。バラエティ番組だけでなく、ドラマへの出演やニュース番組のコメンテーターとしての顔も持ち、全国の視聴者に名を知られる存在となっていた。
「まさか、こんな日が来るとは……」世破は控え室で呟く。
定知は冷静にスケジュール帳を見つめながら、「テレビは一度流れを作れば、あとは勢いに任せられる。私たちの価値観も、知らぬ間に広まっている」と言った。
彼らが示すのは、単なる笑いではない。理不尽なことを楽しむ、叩くことも受けることも一種の娯楽である──そんな新しい価値観が、バラエティ番組やドラマ、さらにはニュースのコメンテーションを通じて、静かに視聴者の中に浸透していった。
黒幕コンビの存在は、テレビという巨大な舞台を通して、日常の常識や倫理観にさえ微妙な揺らぎを生じさせる。視聴者は笑いながらも、無意識のうちに「これもありかもしれない」と思い始める。
世破と定知は、その効果を確かめるかのように、カメラの向こうの人々の反応を楽しむ。
「これで、テレビの力を完全に味方につけた」世破は小さく笑う。
定知も頷き、次の一手を静かに考え始める。
黒幕コンビがテレビで活躍している姿を見た他の芸人たちは、自然と尊敬の念を抱いた。
「すごいな…あの二人、本当に影響力がある」
そんな声が、控室や共演の場で漏れる。
世破はそんな言葉を聞いても、いつものように適当に笑って受け流す。
「はは、まあ、ありがとな」
しかし、定知は少し真剣な表情で世破に言った。
「世破、今も充分力を持っている。でも、もっと影響力を増やすには、味方の数が足りない。他の芸人と仲良くして、恩を売るんだ」
世破は肩をすくめ、淡々と答える。
「ふーん、別にどうでもいいけどな」
定知は薄くほくそ笑む。
「いいか、俺たちがテレビ局で力を持てば、向こうも自然とこちらに従う。そして、芸人たちには“テレビに出られるかもしれない”とチラつかせて釣ることができるんだ」
その日から、黒幕コンビは少しずつ他の芸人たちと友好的な関係を築くようになった。
控えめな笑顔や、さりげない手助け、番組での小さな配慮――すべては、影響力を拡大するための計算された布石だった。
芸人たちは知らず知らずのうちに、黒幕コンビの力に巻き込まれていく――それもまた、二人の策略の一部だった。
数年後――黒幕コンビは、業界でも名実ともに大御所と呼ばれる存在となっていた。
街を歩けば、子どもたちが二人のモノマネをして笑い、大人は職場や家庭で彼らのネタの引用を口にする。テレビ・ラジオ・配信番組の出演は常態化し、もはや彼らの一言で番組の視聴率が左右されるほどの影響力を持っていた。
舞台上では、かつてのような体を張るギャグや叩き芸もあるが、今やそれは形式化され、観客はその瞬間を予想している。しかし、黒幕コンビはそれを逆手に取り、予測不能のツッコミや展開で観客を翻弄し続けた。「安全と危険の境界線」を意図的に曖昧にすることで、無意識に人々を惹きつける力はかつてないほど増していた。
業界の若手芸人たちは、二人の前でネタを披露する際に緊張し、心理的なプレッシャーを感じるほどだった。黒幕コンビの存在は単なる「笑いの象徴」ではなく、芸人のキャリアの到達目標そのものとなっていた。
楽屋では世破と定知が静かに打ち合わせをしている。
「次は…どうやってみんなの価値観を揺さぶろうか」世破が考え込む。
「大御所になった今だからこそ、単なる笑いじゃなく、社会の常識にまで影響を与えられる」定知は冷静に答える。
二人の存在は、テレビやライブだけではない。SNSでは一言つぶやくたびに話題になり、彼らのコメントや行動は「日常の倫理観」すら揺るがせる力を持つようになった。無意識のうちに人々の感情や行動を動かす――それはもはや芸ではなく、社会実験と呼ぶべき領域であった。
そして彼らは知っている。
どんなに大御所になっても、力の使い方次第で人々の意識はまだまだ操作できる――その静かな狂気と計算が、黒幕コンビの魅力であり、恐怖でもあった。
次のステップは、笑いだけではなく、「世の中を自分たちの理想的な方向に少しずつ動かすこと」――大御所になった今、その野望はさらに現実味を帯びていた。
スタジオの会議室。テレビ局の社長や幹部たちが一堂に会する中、黒幕コンビの二人は悠然と腰をかけていた。
「芸人をたくさん雇用して、その芸人たちに安い給料で働かせるんです」
世破が淡々と口を開く。周囲が一瞬、息を呑む。
「そうすれば、舞台も番組も増えますし、局としての利益もぐんと上がります。もちろん、面白いことをやってくれれば観客も喜びますしね」
社長は眉をひそめる。しかし、黒幕コンビの言葉には、単なる提案以上の重みがあった。
「……なるほど、君たちの言う通りだな。実際に番組制作を効率化できるかもしれん」
社長は眉をひそめ、少し戸惑いながら尋ねた。
「しかし、それでは芸人たちの給料は…」
世破はゆっくりと口を開く。
「大丈夫です。僕たちの周りの芸人たちは、テレビにさえ出られればそれでいいと思っています。だから、安い給料でたくさん雇用しても、彼らは文句を言わない」
周囲の幹部たちは思わず息をのんだ。言葉にできない圧力が会議室を支配する。
定知はにこりと笑い、さらに続ける。
「面白いことをやるなら、給料の多寡なんて関係ありません。観客も喜びますし、局の利益も上がります」
「……なるほど、君たちの言う通りだな。実際に番組制作を効率化できるかもしれん」
社長は軽く頷き、「わかりました」と言った。
会議室を出ると、世破がにやりと笑った。「これで俺たち芸人の発言力がさらに強くなる。局はもう俺たちに文句を言えないってことさ」
定知も微笑みながら肩をすくめる。「やはり、力は上に立ってこそだな。でも、ここで止まるわけにはいかない。次は……世の中そのものを、少しずつ俺たちの理想に近づける番だ」
世破の目が鋭く光る。「舞台も番組も、観客も、すべて道具にできるってことだな。」
その言葉に、定知は静かに頷く。
二人は街を歩きながら、頭の中で次の計画を巡らせる。大衆の心をつかみ、現実をほんの少しずつ変えていく――それが、黒幕コンビにとって新たな遊びであり、野望だった。
黒幕コンビの提案が受け入れられてからというもの、テレビ局内の空気は少しずつ変わっていった。
「芸人をたくさん雇用して、出演できるだけで満足してもらえば、安い給料でも文句は出ない」
世破の言葉通り、多くの若手芸人たちはテレビに出られる喜びだけで日々を満たし、局側も効率的に番組を作れるようになった。
スタジオでは毎日のように新しいお笑い番組の企画会議が開かれ、収録が進められ、放送枠は以前にも増して埋まっていった。黒幕コンビが指導することで、番組の構成も洗練され、観客が笑うタイミング、画面に映るタレントの動き、ネタのテンポまで計算され尽くしていた。
会議室には、テレビ局の社長や幹部たちがずらりと並んでいた。黒幕コンビはいつものように悠然と腰を下ろす。
世破がゆっくり口を開く。「次の企画ですが、視聴者参加型のクイズ番組を考えました。」
幹部の一人が眉をひそめる。「参加型…ですか?」
定知が微笑む。「ええ、正解すれば100万円です。ただ、細かいルールはまだ詰めていません。視聴者が熱中するような仕組みにするつもりです。」
社長は少し考え込み、やや不安げに問う。「しかし、リスクは…?」
世破は肩をすくめる。「もちろん、少し驚く展開はあります。でも視聴者の関心を引くには、ある程度の刺激も必要でしょう。」
結局、細かい内容は伝えず、企画は承認される。黒幕コンビはほくそ笑む。
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放送初日、番組は深夜枠に登場した。
画面には豪華なセットと、挑戦者たちの興奮した表情が映る。MC芸人が声高に告げる。
「挑戦者求む!正解すれば100万円!さあ、あなたは答えられるか?」
視聴者は熱狂する。だが、挑戦料が1万円であることや、選択肢に正解がないことは伏せられていた。
挑戦者たちは必死に考え、悩み、笑い、時には絶望する。その反応がスタジオの笑いを生む。
黒幕コンビは控室のモニター越しに微笑む。「うまくいったな。人間の欲望と心理は、計算通りに動く」
定知も頷く。「これでまた、視聴者の心の揺れを観察できる。笑いと、ほんの少しの恐怖…このコンビネーションが面白い」
放送から数日後、スタジオの電話が鳴りやまなかった。
「10000円の請求が来たんですけど!?」「正解できなかったらお金取るなんて聞いてない!」と、視聴者は電話口で声を荒げる。
その声は、モニター越しの黒幕コンビには、まるで拍手のように響いた。
テレビ局のクレーム対応担当は額に汗を浮かべ、電話を握りしめる。「ええと…すぐ確認します、はい…」
視聴者からの苦情対応に追われ、スタッフたちはてんやわんやの状態だった。
黒幕コンビの目論見通り、混乱は局内にも広がっていた。
その様子を見た定知が、軽くため息をつきながら言った。
「はは、スタッフは高い給料もらってるくせに、結局何もできないんだな。君たちより、芸人の方がよっぽど使えるみたいだ」
周囲の芸人たちは小さく頷き、同意の空気が漂う。
世破が含み笑いを漏らす。「そうそう、観客の笑いを作るのも、番組を動かすのも、結局は俺たち芸人の力ってことさ」
定知も静かに微笑んだ。「上に立つ者が実力を見せる場面はこういうときに限るな」
スタジオの電話が鳴りやまない中、世破は軽く笑いながら受話器を取った。
「騙された?騙される方が悪いんですよ。自己責任です。説明書を読まなかったあなたの責任です」
電話を切ると、彼の顔には得意げな表情が浮かぶ。
「高い給料をもらいながら、こんなこともできないんですか?あなた達は」
定知も静かに頷き、重い口調で言う。
「これなら、スタッフじゃなく、安い給料でたくさん働いてくれる芸人たちと置き換えたほうがいいでしょう」
周囲の芸人たちは小さく頷き、空気は黒幕コンビの思うままに支配されていく。
スタッフたちは顔を見合わせ、何も言えずにただ立ち尽くすしかなかった。
翌日、黒幕コンビは再び社長室に呼ばれた。
世破は静かに社長の前に立つ。
「社長、先日の件ですが、提案があります」
社長が眉をひそめる。「提案、ですか…?」
定知が口を開く。
「局のスタッフ、全員リストラしていただけませんか。高い給料をもらいながら、この程度の対応しかできないのであれば、安い給料で働いてくれる芸人に置き換えたほうが、局としても利益が上がります」
世破が微笑む。「スタッフを全員芸人にすれば、番組制作も効率化されるし、視聴者の反応もダイレクトに把握できます。局として、これ以上合理的な方法はありません」
社長は一瞬言葉を失う。だが、黒幕コンビの自信に満ちた目を前に、押し切られるように頷いた。
「…わ、わかった。検討してみよう」
黒幕コンビは互いに目を合わせ、含み笑いを浮かべる。
「やはり、力は上に立ってこそだな」定知が静かに言う。
世破も笑みをこぼす。「局も視聴者も、俺たちの手のひらの上。次はどんな企画で揺さぶろうか…」
スタッフが全員入れ替わった現場は、まるで小さな芸人の国のようだった。
ディレクター、カメラマン、照明、音響……すべての役割を芸人たちが担っている。
「次のカット、どうやる?」とカメラマン役の芸人が笑顔で問いかければ、演者も軽く手を挙げ、全員で相談して進行する。
放送に出るのもほとんどが芸人で、制作の裏方も、MCも、ネタを考える役も、すべてが芸人。
黒幕コンビは控室からモニター越しにその光景を眺め、満足げに頷く。
「やはり、これが理想の形だな。笑いの力だけで、局も番組も動かせる」
視聴者の反応もダイレクトに届き、番組の進行に即座に反映される。
「観客の心も、番組の流れも、全部俺たち芸人の手の中にある」
世破が低く笑う声が控室に響いた。
黒幕コンビは、新しい番組の構想を練っていた。会議室では社長や幹部に概要だけを伝える。
「次は、株や投資をテーマにした番組です。視聴者が興味を持ち、楽しめる内容にします」
幹部たちは少し眉をひそめるが、細かい仕組みやリスクについては触れられず、承認される。
しかし、黒幕コンビの本当の狙いは別にあった。控室で、世破は若手芸人たちに低い声で指示する。
「ネタの中でさ、『ここに投資すれば儲かる』って言え。教育番組風に、投資家風のキャラで解説するのもいい」
定知も頷く。「もちろん、社長には言わない。これはあくまで『笑いと演出』だと言っておく。観客が面白がるだけで十分だ」
スタジオでは、芸人たちが投資家風のキャラクターになり、株の話をネタに盛り込む。視聴者は笑いながらも、ちょっと真剣に耳を傾ける。番組は教育的要素もあり、投資の世界を楽しみながら学べる、という体裁だ。
黒幕コンビはモニター越しに微笑む。
番組内で、芸人たちが「ここに投資すれば儲かる」とネタとして紹介した株は、番組放送と同時に視聴者の注目を集め、株価は急上昇していった。セットのモニター越しに黒幕コンビはほくそ笑む。
「膨らんでるな…そろそろ手仕舞いのタイミングだ」
定知が静かに言う。世破も頷き、二人は影で株を売りさばき、莫大な利益を手に入れた。
だが、その裏で株価は急落を始める。投資に乗った視聴者たちは驚き、怒りの声をあげる。スタジオやテレビ局には苦情が殺到した。
「番組で勧められた株、もうめちゃくちゃですよ!」「なんでこんなことを…!」
株価の急落は、テレビ局内だけにとどまらなかった。翌朝、主要ニュース番組やワイドショーでもこの話題が取り上げられる。
「昨日の番組で紹介された株、投資家たちが大損! 一夜にして資産を失った人が続出しています」
「中には生活資金を投じた方もおり、被害は深刻です」
「番組を制作したテレビ局に対する苦情や抗議も相次いでいます」
SNSやネット掲示板も騒然となり、視聴者たちは怒りと嘆きの声を上げる。
しかし、黒幕コンビはどこ吹く風だ。スタジオの控室で二人はモニターを眺め、微笑を浮かべる。
ニュースで大騒ぎになった翌日、テレビ局の社長は慌てて黒幕コンビを呼び出した。会議室に入ると、二人はいつものように悠然と椅子に腰を下ろしていた。
社長は、頭を抱えるように手を組み、必死に現状を整理しようとしていた。
「君たち……これは……やりすぎではないか?」
だが、控室のモニター越しに黒幕コンビは顔を見合わせ、静かに笑った。
世破が低く、落ち着いた声で言う。
「いや、社長……正直言って、私たちの方がこの局を動かすのに向いているんじゃないですか?」
定知も頷き、社長の前で言葉を続ける。
「番組の進行も、視聴者の心理も、利益の最大化も……私たち芸人なら、社長以上に効率的に、面白く、動かせますよ」
社長は目を見開き、言葉を失った。
会社のほとんどが芸人に置き換わった現場を前にして、もはや自分の存在意義さえ揺らぎそうだった。
世破がさらに踏み込む。
「もちろん、私たちに任せれば、局の利益も視聴者の満足も、ぐんと上がります。社長に無理に決断してもらう必要もない」
定知が穏やかに微笑む。
「上に立つのは立場の問題ではなく、実力の問題です。社長、そろそろ芸人の力を認める時じゃありませんか?」
社長は深いため息をつき、静かに頭を垂れた。
黒幕コンビの眼差しは鋭く光り、控室で見守る芸人たちの士気も上がる。
「やはり……芸人の時代だ」と世破はつぶやいた。
世破は一歩前に出る。
「ですから、社長。幹部たちも辞めていただき、私たち芸人で埋めるのが一番効率的です」
定知が淡々と言葉を重ねる。
「高い給料をもらって動けない幹部たちより、安い給料でも動ける芸人たちに任せた方が、局の未来のためになる」
社長は深いため息をつき、頭を垂れた。
幹部たちも次々に辞職を決め、局内は一気に変貌する。
翌日、社長の椅子に世破が腰を下ろし、定知は副社長の席に着く。
かつて幹部だったポストはすべて芸人で埋め尽くされた
「これで局も番組も、すべて私たちの手の中にある」と世破は低く笑い、定知も静かに頷く。
新たな“芸人支配時代”の幕開けだった。
芸人支配体制のもと、局は効率重視で安い給料の芸人を大量に採用できるようになった。
テレビ出演を希望する芸人たちには、黒幕コンビが順番にチャンスを与えることで恩を売り、自然に従属関係を築いていった。
局内は活気にあふれ、かつて幹部に抑えられていたアイデアも次々と採用される。
一方で、黒幕コンビの計算された管理の下、芸人たちは自らの意志で忠誠を示すようになり、知らぬ間に局全体が彼らの手の内に収まっていった。
黒幕コンビは自らの支配を一局に留めず、他のテレビ局へも手を伸ばすことにした。
内部から少しずつ浸食し、徐々にすべての局を芸人で染め上げる。
その先陣を切るのは、すでに黒幕コンビに恩を受けた服従を誓う芸人たちだった。
彼らは新しい局でも影響力を拡大し、忠誠心を拡散させる役割を担う。
以前に恩を着せたことが功を奏し、芸人たちは喜んで黒幕コンビの意図に協力した。
かくして、芸人支配の輪は国内のテレビ界全体へと広がりつつあった。
別のテレビ局――まだ黒幕コンビの支配下にはない局の会議室は、日常の業務で静まり返っていた。
そこに、黒幕コンビに忠誠を誓った芸人たちが送り込まれる。彼らはすでに恩を受けており、自然に局内の影響力を広げる役目を担っていた。
「これから、私たちが局をサポートします」
芸人の一人がそう告げると、局の社員たちはざわついた。
だが、ひとりの幹部が立ち上がった。
「私は従えません」
その声は静かだが揺るぎない。
「この局では、学問や経験に基づいた番組作りを重視してきました。安易に動く芸人に任せるつもりはありません」
定知が淡々と応じる。
「理想は尊重します。しかし現実は変わりました。従わなければ、この局での改革は進みません」
幹部は微笑みもせず、静かに言葉を重ねた。
「理想を捨てるつもりはありません。努力や知識で築いたものを簡単に手放すことはできない。視聴者のため、そして局のために、私は抵抗します」
会議室には緊張の空気が漂う。
黒幕コンビは静かに幹部を見据え、表面上の平和の裏で、静かに次の手を考えていた。
黒幕コンビは投資で得た膨大な資金を使い、他局への浸食を加速させた。
「番組に関わりたいという芸人には、少しだけ待遇を上げてチャンスを与えよう」
世破が指示すると、定知が淡々と局内の計画を実行に移す。
資金は企画の買収や制作スタッフへの報酬に回され、忠誠を誓う芸人たちは新たな局でも黒幕コンビの思惑通りに動いた。
抵抗する幹部たちも、金の力と芸人たちの情熱の前に、微妙な揺らぎを見せ始める。
他のテレビ局では、黒幕コンビの浸食が徐々に効力を持ち始めていた。
最初は「今まで通りの番組を続けたい」と考える幹部や社員が少数残っていた。しかし、投資で得た資金と恩を着せた芸人たちの巧みな働きかけにより、抵抗勢力は次第に孤立していった。
会議室では静かな緊張が漂い、意見は瓦解しつつあった。
「仕方ない……もう従うしかないのか」
一人また一人と、堅実にやってきた信念を手放し、黒幕コンビの方針に折れる者が現れる。
局は次第に方針を変更し、少数派の抵抗者はリストラされていった。
代わりに芸人たちが高い報酬と引き換えに雇用され、番組制作や局運営を担うようになる。
安い給料で大量の芸人を動かせる利点もあり、局内のコスト構造も黒幕コンビに有利に傾いた。
いつの間にか、局内のほとんどは芸人で占められるようになり、かつての幹部や社長は姿を消した。
そして、黒幕コンビの息のかかった芸人たちが社長に就任し、局全体が完全に支配下に置かれることとなった。
リストラされた社員たちは、かつての信念に従い抵抗運動を始めた。
「このままではテレビ業界がめちゃくちゃになる!」
彼らは内部資料を公開し、世間に真実を訴えようとする。
しかし、黒幕コンビの芸人たちはすでにメディアを掌握していた。
ニュースやバラエティ番組では、抵抗者たちの行動は次々と歪められ、事実とは異なる内容で報道される。
「元社員たちは視聴率操作の裏で不正を働いていた」
「番組をぶち壊そうとする危険分子」
「視聴者を無理やり洗脳しようとしている」
事実と異なるデマが繰り返し流され、視聴者の印象は完全に操作された。
抵抗者たちは、いくら正しい行動をしても、世間から悪者扱いされる孤立状態に陥った。
こうして黒幕コンビの支配は一層盤石となり、全国のテレビ局に浸透していった。
抵抗運動も次第に効果を失い、リストラされた社員たちは孤立を深めていた。
事実を訴えても、メディアで流されるデマによって世間の支持は得られず、抵抗者たちは疲弊していった。
「もう、国内で戦う意味はない……」
幾人かの幹部はつぶやいた。
「私たちはここで負ける。ならば、海外に拠点を移し、新しい生活を築くしかない」
こうして、抵抗者の多くは海外移住を図ることになった。
しかし、それでも黒幕コンビの影響は及び、国外での生活も簡単ではなかった。
日本のメディアで彼らにまつわるデマは繰り返し流れ、海外にいても「国内で悪さをしていた元社員」として噂が届くこともあった。
国内のテレビ局は完全に芸人に染まり、幹部や社長は姿を消す。
黒幕コンビの息のかかった芸人たちが社長に就任し、全国の局を支配する体制は揺るぎないものとなった。
全国のテレビ局をほぼ完全に掌握した黒幕コンビ。
幹部や社長を追い出し、芸人たちを社長や制作陣に据えた体制は揺るぎなく、視聴者もメディアに完全に洗脳されたかのようだった。
しかし、黒幕コンビの野望はテレビ界だけに留まらなかった。
「笑いで国を動かす時代は終わった。次は政治だ」
定知が低くつぶやくと、世破も静かに頷いた。
その国の政治は、長年にわたって真面目に国民のことを第一に考える政治家たちによって支えられていた。
国内のインフラ整備や教育、医療など、一般市民を見捨てない政策が徹底され、国民の生活は安定していた。
国会では、表現の自由やメディアのあり方についても活発な議論が行われている。
「報道の自由は守るべきだが、社会に悪影響を及ぼす情報の扱いは見直すべきではないか」
政治家たちは真剣に考え、時には修正案や規制案を議論していた。
市民は政治家を信頼し、日常生活を安心して送っていた。
だが、この理想的な国の秩序の中に、黒幕コンビの影が静かに迫りつつあった。
黒幕コンビは、全国のメディア支配を利用して、政治家たちへの印象操作を始めた。
「真面目にやっている政治家達、実は、裏では、国民から表現の自由を取り上げようとしている」
「悪いことを言ったら即逮捕されるような法案を進めようとしている」
こうしたデマがテレビやSNSで繰り返し報道され、国民の間に不安と疑念が広がる。
善意で政策を実行していた政治家たちは、突然「危険人物」として扱われ、支持率は急落した。
次の選挙で、多くの真面目な政治家は落選を余儀なくされ、黒幕コンビの息のかかった芸人や新顔が政治の場に進出する下地が整った。
表面的には選挙は自由だが、情報戦の勝者はすでに黒幕コンビであり、国民の判断は完全に操作されつつあった。
更に黒幕コンビは全国規模で資金を投入し、選挙の結果に影響を与えた。
真面目に国民のために働く議員たちには投票がほとんど入らず、代わりに黒幕コンビの忠誠芸人たちが次々と当選する。
テレビでは、忠誠芸人たちの政策や活動が連日取り上げられ、視聴者に「市民のおかげで国が変わった!」「これから先は素晴らしい世界が訪れる!」と刷り込まれる。
芸人たちは笑顔で国民に手を振り、メディアでの持ち上げられ方に酔いしれる。
こうして国民は、表面的には自由に選挙に参加したと思っているが、実際には黒幕コンビの策略によって政治は完全に掌握されていた。
テレビの力と資金力を使った不正選挙により、国は芸人たちの理想的な(そして自己中心的な)世界へと変貌していく。
しかし、国民すべてが洗脳されているわけではなかった。
ある市民は、日々のニュースやバラエティ番組を見て違和感を覚えていた。
「最近、テレビに出るのは芸人ばかりだ……なんだか変じゃないか?」
家族や友人に話しても、ほとんどは「芸人が面白くていいじゃないか」と笑い飛ばす。
だが、彼の中では疑念が募るばかりだった。
街の片隅で、こうした小さな違和感を抱える人々が少数存在していた。
しかし、国民すべてが洗脳されているわけではなかった。
ある市民は、日々のニュースやバラエティ番組を見て違和感を覚えていた。
「最近、テレビに出るのは芸人ばかりだ……なんだか変じゃないか?」
家族や友人に話しても、ほとんどは「芸人が面白くていいじゃないか」と笑い飛ばす。
だが、彼の中では疑念が募るばかりだった。
街の片隅で、こうした小さな違和感を抱える人々が少数存在していた。
声には出せず、情報は断片的だった。
ある夜、佐伯は何気なくリモコンを押し、テレビをつけた。
画面に映ったのはニュース番組。だが、キャスターの口調はやけに軽い。深刻な火災事故の報道をしたかと思えば、最後に「でも火の用心は、オチがつかないとダメですね!」と芸人顔負けの一発ギャグで締める。スタジオが笑いに包まれた瞬間、佐伯の背筋に寒気が走った。
チャンネルを変えてみる。スポーツ番組だ。
選手が必死に走っている。しかし画面の隅では、芸人たちが「おっと!転んだ!これはギャグの基本!」と茶化し、観客席からは異様に大きな笑い声が流れる。競技の映像は小さく押しやられ、芸人の顔ばかりが拡大されていた。
「……おかしいだろ、これ」
思わずつぶやいたが、隣で笑っていた妻は「だって面白いじゃない。暗いニュースばかりじゃ疲れるでしょ?」と軽く言う。
最後にドラマを選んだ。
最初はごく普通の恋愛物語に見えた。だが、クライマックスに差しかかると、登場人物が全員で漫才を始めた。観客の笑い声が自動的に流れ、まるで「笑わなければならない」と強制されているかのようだった。
佐伯はテレビを消した。
部屋に残るのは、不自然な静けさと、自分だけが「異常に気づいてしまった」孤独感。
佐伯はひとりで悶々としながらも、ある日ネット掲示板に同じような書き込みを見つけた。
> 「最近テレビに芸人しか出てない。おかしくないか?」
「ニュースまで笑いに変えるなんて狂ってる」
その言葉に胸を打たれた佐伯は、匿名ながらも返信を続けた。
やがて小さなコミュニティが生まれる。数十人、数百人――全国で同じ違和感を抱えた人々が、細い糸で繋がり始めた。
彼らは決意する。
「次の選挙で、真面目な政治家を必ず勝たせよう」
「国を芸人に渡してはいけない」
佐伯たちが違和感を共有しはじめて間もなく、ニュース速報が流れた。
『首相辞任の意向を表明』
理由は「体調不良」とだけ伝えられたが、裏ではメディアを使った芸人たちの圧力が囁かれていた。
その翌日には与党の幹部が集まり、密室での会合が開かれる。
結果、後任の首相に選ばれたのは――一人の芸人だった。
「えっ……選挙もなしに?」
テレビを見つめながら、佐伯は耳を疑った。
画面にはスーツを着たお笑い芸人が堂々と立ち、笑顔でこう語っていた。
「国民の皆さん! 笑いと元気を届ける政治を、私が約束します!」
スタジオでは芸人仲間たちが総立ちで拍手喝采。
解説者もコメンテーターも全員芸人で、「新しい時代の幕開けだ!」と盛り上げる。
街は一気に祝賀ムードに染まった。
「首相が芸人なんて最高じゃないか!」
「これで日本も楽しくなる!」
だが、佐伯とその仲間たちは顔を見合わせ、凍りついた。
ついこの前、選挙を終えたばかりだった。民意を問うこともなく、ただメディアが作り上げた空気によって国の頂点がすり替わっていたのだ。
全国放送で、芸人首相は笑顔で登場した。
「国民の皆さん! 今日から日本は、もっと楽しく、笑顔あふれる国になります!」
スタジオでは芸人仲間が総立ちで拍手を送り、解説者も「新しい時代の幕開けです!」と声を弾ませる。
「退屈な法律や難しい議論はもう不要です。大事なのは、国民の皆さんが毎日笑顔で過ごせること!」
彼の言葉に、国民の多くは拍手と歓声で応える。
しかし、演説の終盤――
「そして、国民の安全のため、公共の場で悪口や不満を広める行為は、適切にチェックされます。もちろん、私たちメディアが責任を持ってお知らせします」
画面の向こうでは、笑顔の芸人たちが手を振り、歓声をあげる。
だが佐伯は背筋が凍った。
「……笑顔の裏で、自由が制限されている……」
小さなコミュニティの掲示板でも、同じ違和感を抱く人々が恐怖を共有していた。
テレビの向こう側では、すでに国の頂点は芸人たちの手に握られていたのだ。
そして、少数派の佐伯たちだけが、その異様さに気づいていた。
全国放送の演説中、首相席に座る芸人は笑顔を浮かべていた。
その横で、世破は静かに画面を見つめる。胸中には感慨が渦巻く。
「最初はただの芸人だった……それが、ここまで……」
やがて世破はマイクを握る。
「首相、申し訳ないですが……私と首相の座、変わりませんか?」
会場の空気が一瞬静まり返る。
首相はにこやかに答える。
「はい、わかりました」
その瞬間、メディアは拍手喝采を映し出す。
視聴者はただ「首相が交代した」としか認識しない。
世破が首相の座に就くと、相方が副首相として隣に立つ。
二人は冷静な笑みを浮かべ、表向きの国政を進める。
しかし、実際の権力は黒幕コンビの手の中にあり、国民の目には楽しいニュースと笑いしか映らないのだった。
佐伯たち少数派は、テレビの向こうに映る異様な光景に言葉を失った。
「……これが、本当に国のトップなのか……?」
会議室の時計が0時を回った瞬間、黒幕コンビは互いに顔を見合わせ、笑いを漏らした。
「思えば、最初は何の知名度もない芸人だった……」世破が低くつぶやく。
「そうだな……まさか、国の首相に俺たちがなる日が来るなんてな」相方も笑みを浮かべる。
二人の瞳には、達成感と同時に狂気にも似た高揚が宿っていた。
「メディアを掌握したことで、国民の思想を自由に誘導できる」世破が言う。
「そして、首相としての権力……国民を思いのままにあやつれる。もう俺たちの思い通りだ」
全国放送のスタジオは、華やかな装飾とスポットライトに包まれていた。
国旗の代わりに、笑顔のイラストがあしらわれた旗が掲げられ、観客席には芸人たちがずらりと並ぶ。
中央の演壇に立つのは、黒幕コンビの世破。
かつて何の知名度もない芸人だった彼は、今や政党の党首であり、国を動かす絶対的権力者だった。
マイクに向かい、世破は静かに口を開く。
「国民の皆さん、本日、我が国は新たな時代を迎えます」
画面の向こうの国民は、家族や友人とともにテレビを見つめる。
「国の名前を――」世破は間を置き、声に力を込めた。
「――『芸人共和国』に改めます!」
スタジオは歓声と拍手に包まれる。
画面には、笑顔の芸人たちが総立ちで手を振る光景が映し出される。
相方が副首相として世破の隣に立ち、にこやかに微笑む。
佐伯は部屋の片隅で、パソコンの前に座っていた。
ニュースやSNSを検索するたび、胸の奥に重い不安が積み重なる。
画面には、首相となった芸人や党首世破の姿が連日映し出され、国民の反応は熱狂そのもの。
「これが国の現実か……」
佐伯は手で顔を覆う。
掲示板やコメント欄には、忠誠芸人を称賛する書き込みが溢れていた。
その一方で、少数派の市民が違和感を訴えても、すぐにデマや揶揄で潰されていく。
「……この国は終わりだ」
佐伯は独りごちた。
「ただの笑いで国を操る……独裁政権、芸人共産党ができてしまった……」
彼の目は決意に光る。
「もうここにいても何もできない……逃げるしかない」
机の上に置かれたノートには、行き先の候補や、手段、費用がメモされていた。
「安全な場所に行き、あの国の狂気から離れるんだ」
佐伯は深く息を吸い、覚悟を決めた。
「この国を脱出する……芸人共和国から、俺は逃げる」
夜の静寂の中、パソコンの画面にはまだ祝賀ムードのニュースが映り続ける。
だが、佐伯の心はすでに、遠く離れた自由な場所へと向かっていた。
首相官邸の一室。豪華なシャンデリアの下、世破と副首相の定知は並んで座っていた。
机の上には書類や国旗、そして手元にはネタ帳のようなメモが広がる。
世破はページをめくりながら、低く笑う。
「選挙は表向き民主主義に見せかけて、実際には芸人以外が政治家になることは許さない。これで国民は納得するしかない」
定知も微笑みながら、ペンでメモを取りつつ言う。
「ニュースやバラエティでおもしろおかしく説明すれば、国民は笑いながら受け入れる。政治は笑いの一部、そう思わせればいい」
世破は肩を揺らして笑った。
「まさに独裁政治を、民主主義に見せかける――面白いじゃないか」
世破はペンを置き、窓の外を見つめる。夜景の灯りが、街全体をまるで舞台のように照らしていた。
「そういえば、あの事件……」定知が口を開く。
「忠誠を誓っていた芸人が逮捕されて、裁判を受けている件か」
世破はゆっくり振り返り、低く笑った。
「面倒なことを、面白く片付ける時間だな」
定知の眉がわずかに上がる。
「首相として止める……ということですか?」
世破は机の上の書類を軽く叩く。
「もちろんだ。あいつは忠誠を誓った芸人だろう? それが数枚の紙切れで裁かれるなんて、冗談じゃない」
「全ての裁判を“なし”にする。国民にはこう伝える――“法は我々の笑いのために柔軟である”と」
定知は静かに頷く。
「なるほど……ニュースも笑いで包めば、誰も疑問に思わない。裁判の中止もまた、面白いネタとして処理できる」
世破は椅子に深く腰かけ、再び笑った。
「ふふ……独裁政治は、こうして楽しむものだ。民主主義の形を装いながら、実際は我々の思い通り。芸人のための裁判なんて、最初から存在しなかったかのように消してやる」
その瞬間、部屋の電話が鳴る。秘書からの連絡だった。
「首相、裁判の件ですが、手続き上の書類に署名をいただければ……」
世破は電話の向こうに向かって笑い声を漏らす。
「署名? 書類? ふん、全てなしだ。あいつらがどんなに騒ごうと、我々には無力だと知れ」
通話を切ると、定知が静かに呟いた。
「……これでまた、一人、我々の手の中に戻ったわけですね」
世破は窓の外の夜景を見つめ、低く笑ったまま答える。
「全員が笑顔で納得する。面白くなきゃ意味がないからな」
夜の静寂の中、街はいつも通りに輝き、テレビでは芸人たちが楽しげに笑っている。
しかし、その笑顔の裏で、権力と自由の境界線は静かに塗り替えられていった。
世破が笑いながら席を立つ。
「さて、あの裁判一件で終わりだと思ったか?」
定知が目を細める。
「……まだ何か?」
世破は部屋の端に置かれたモニターを指さした。
「裁判所も検察も、もう我々の手中に入れる。全員、芸人に置き換えるんだ」
定知は一瞬言葉を失う。
「裁判官も検察も……芸人に?」
世破は低く笑った。
「もちろんだ。笑いがあれば法律なんていらない。面白く解釈すれば、それが新しいルールになる」
窓の外の街を見下ろしながら、世破は続ける。
「法廷で漫才をし、検察はコントで罪状を説明する。判決もギャグの順番で決まる。国民は拍手し、笑わなければならない」
定知はペンを握り直す。
「法律? 書類? 冗談みたいなものですね。笑いこそが唯一の基準」
世破は机の上に手をつき、力強く言った。
「そうだ。もう法律はいらない。法は笑いに従う。裁かれる者も、裁く者も、観客も、全員が笑えばそれでいい」
モニターには、次々と芸人に置き換わった裁判官や検察官の映像が映し出される。
証人はギャグを交えて答え
検察官は滑稽な動作で罪状を説明
裁判長は大声でツッコミを入れる
部屋の中、世破はニヤリと笑う。
「ほら、面白いだろう? 国民はテレビ越しにしか見ない。だから、笑わせればすべてが正義になる」
定知も笑みを浮かべ、書類にペンを走らせた。
「つまり……この国は、完全に芸人が支配する国になるわけですね」
世破は窓の外を見つめ、静かに呟く。
「そうだ……笑いが正義、笑いが権力、笑いが法律……芸人共和国の完成だ」
その瞬間、テレビでは、ギャグで裁かれる市民の映像が流れ、笑い声が街全体に響き渡る。
しかし、その裏で、自由も、正義も、もはや存在していなかった。
世破は豪華な首相官邸の書斎で椅子に深く腰かけ、定知に向かって紙を差し出した。
「これが、芸人国憲法だ」
定知は眉を上げる。
「憲法……ですか?」
世破は微笑み、ゆっくりと読み上げる。
「第1条――芸人は、どんな行為をしても、『お笑いでした!』と言えば許される」
定知は目を丸くする。
「……つまり、犯罪も、違法行為も、すべて笑いに変えられると?」
世破は肩を揺らして笑った。
「そうだ。法律は笑いの前では無力。面白ければ、罪は存在しない」
彼はページをめくり、続ける。
「第2条――裁判所は全員芸人とし、法廷は舞台、判決はギャグの順番で決定される」
「第3条――検察官も弁護士も芸人で構成され、証言も漫才、異議申し立てもコントで処理する」
「第4条――国民はテレビ越しに判決を観覧し、拍手と笑いによって正当性を承認する」
定知は深く息をつき、ページをめくりながら呟いた。
「……つまり、すべての秩序は笑いで維持されるわけですね」
世破は窓の外の夜景を見つめ、低く笑う。
「そうだ……法律も裁判も正義も、すべて笑いの前には無意味になる。芸人国憲法の完成だ」
部屋のモニターには、新しい芸人裁判官たちが舞台上で漫才をしながら判決を下す映像が流れる。
市民たちは笑い声をあげる。
しかし、その笑いの裏で、自由も正義も、もはや存在していなかった。
世破は椅子に深くもたれ、にやりと笑う。
「面白ければ、何でも許される……これこそが、芸人共和国の真の力だ」
定知も静かに頷き、ペンを走らせる。
「……国民は、笑わざるを得ないわけですね」
夜の首相官邸には、静かな高揚感と、笑いの支配者としての冷酷な確信が満ちていた。
テレビの画面が切り替わる。
そこには、若手芸人たちが必死に体を張っている姿が映し出されていた。
コンクリートの上に飛び込み、顔面をわずかに擦りむきながらも、笑顔でギャグを続ける芸人
水槽に飛び込み、中で暴れる魚と格闘しながら、カメラに向かって「これも笑いです!」と叫ぶ芸人
高所から落下するふりをして、観客の笑いを取るために、わざと派手に転ぶ芸人
スタジオの照明は彼らを鮮明に照らし、観客の笑い声が大きく重なる。画面越しでも、その熱量と痛みが伝わってくる。
世破は首相官邸の椅子に深く座り、腕を組みながらモニターを見つめていた。
「……こいつら、安い給料でここまでやってるのか」
定知も横で頷く。
「見てください、首相。命を張るようなギャグを……観客の笑いのために」
世破の瞳は鋭く光った。
「そうだ……安い給料で必死に働く。なのに、庶民はどうだ? 若手芸人より給料は高いくせに、全然働かない!」
定知が微笑みを浮かべ、ペンを持ち直す。
「つまり、国民全員の給料を若手芸人と同じにすれば……?」
世破は笑いを漏らし、ゆっくりと頷いた。
「そうだ、全員だ。国民全員が、芸人の努力と同じ価値を体感するようにする」
彼は立ち上がり、首相官邸の書斎の大きな机に向かう。
紙とペンを取り出し、芸人国憲法のページを開く。
「第5条――国民の給料は、全員、若手芸人と同じ額とする。年齢も職業も関係なし。働きの価値は、笑いの努力に準ずる」
定知はページを覗き込み、静かに書き加える。
「これで、庶民も必死に働くしかなくなりますね……笑いの価値が、国民の生活基準になる」
世破は満足げに背もたれにもたれ、窓の外の夜景を見つめる。
「面白い……国民全員が、笑いの価値に従う国になる。給料も、努力も、すべて笑いで測る」
モニターには、体を張る若手芸人の姿が映り続ける。
観客席の笑い声と拍手が、首相官邸の静かな書斎まで届くかのようだった。
世破は紙を軽く叩き、低く呟く。
「芸人共和国は、もはや笑いの価値だけで動く国……そして、その価値が全ての基準になる」
その瞬間、国民全員の給料が若手芸人と同額に統一される未来が、静かに、しかし確実に動き始めていた。
朝、街はいつも通りの喧騒に包まれていた。
だが、国民の胸には奇妙な緊張が走る。給料が一律に変更され、全員が若手芸人と同じ額になったからだ。
画面には、芸人たちが豪華なスタジオでにこやかに並んでいる。
一人の芸人がマイクを握り、満面の笑みで叫ぶ。
「国民の皆さん! 今日から給料は若手芸人と同じ! さあ、笑って働きましょう!」
画面が切り替わると、別の芸人が軽快なリズムで踊りながら言う。
「我慢も美徳! 痛みも笑いに変えよう! 仕事が辛い? 笑いで消せばオッケー!」
カメラは街のスーパーマーケットや工場、オフィスを映す。
作業員たちは困惑した表情で黙々と働きながら、テレビの笑い声を背に受ける。
「笑え! 笑って働け! それが国民の義務だ!」
別の画面では、オフィスのデスクに座る社員たちに向かって、芸人が満面の笑顔で指示を出す。
「文句は言わず、笑いながら働け! それが美徳だ!」
朝、首相官邸の豪華な書斎で、世破は大きな椅子にどっかりと座っていた。
だが、その目はモニターに釘付けだ。
テレビのニュースが緊急速報を告げる。
「本日、無笑罪による50年拘束刑が適用される人物が確認されました。理由は、笑わずに働き続けたためです――」
画面には真剣な表情の労働者たちが映し出される。
「え……笑わなかっただけで……50年?」
街中でざわめきが広がる。公園のベンチ、バス停、駅前広場――どこも、ニュースを見た人々の顔に恐怖が走った。
その瞬間、官邸の重厚な扉が開き、黒幕コンビの大御所芸人が悠々と入ってくる。
「おや、こんなニュースが流れているのか」
一人が低く笑いながら言うと、もう一人も肩を揺らして微笑む。
首相・世破はふと閃いたように立ち上がる。
「そうだ! テレビを国民が義務的に見る制度を作ろう」
周囲が驚く中、世破はマイクに向かって声を張る。
「全国の皆さん! 笑いポイントで笑わなければ――首相も含め、無笑罪として50年拘束!」
その宣言は瞬く間に国中に届いた。テレビ局は大急ぎで街角リポート企画を編成し、若手芸人たちはすぐに街へと繰り出す。国民は、見逃せば自らの自由を失うかもしれない恐怖と共に、笑いの渦に巻き込まれる運命を告げられたのだった。
スタジオは明るく華やかだ。リポーター芸人がマイクを持ち、笑顔でカメラに向かって話す。
「皆さん、本日の特集は街角リポート! 若手芸人が庶民を巻き込んだ、最新の笑いチャレンジです!」
画面は街中に切り替わる。一般人が何気なく歩いているだけの様子。
そこに、若手芸人たちがこそこそ集まり、笑いを堪えながら耳打ちする。
「よし、あいつにドッキリを仕掛けてやろう」
「うわ、絶対ビックリするぞ!」
観客席の歓声が画面に流れる。一般人の男性は、ただ普通に歩いているだけなのに、若手芸人たちが一斉に囲み始める。
体当たり、押し倒す、バケツの水をかける――笑い声と歓声が混ざり、街の静けさは消えた。
スタジオに戻ると、大御所芸人たちが肩を揺らしながら笑う。
「いいねぇ、庶民も笑いに巻き込まれるべきだ」
「そうそう、笑うことが正義だって教えてやらないとね」
テレビの画面にはテロップが流れる。
> 『街角ドッキリ:俺たちも悪いし、お前も悪い。だから警察には言うなよ!』
男性は地面にうずくまり、ずぶ濡れになりながら、すれた声でつぶやく。
「……僕も悪いんだ……」
観客席の笑い声が画面いっぱいに響き、街中の人々もテレビの前で笑わざるを得ない。
笑わなければ無笑罪で50年。芸人たちは「お笑いでした!」と無罪を確保しつつ、庶民を徹底的に笑いに巻き込み、従属させる。
スタジオでは大御所芸人が笑いを押し殺しながら、さらに次のドッキリ計画を耳打ちする。
「次はあのサラリーマンだな……」
「面白くなりそうだ、さあ準備しよう!」
街全体が、笑いと恐怖で張り巡らされたネットのように包まれていく。
テレビの中の世界と現実が完全に重なり、国民は笑わなければ生き残れない――芸人共和国の日常であった。
国民の給料は、若手芸人と同じ額に統一されていた。必死に働いても、成果に応じた報酬はない。食べるものに困った人々が現れ、テレビ局に物乞いにやってくる。
スタジオでは、カメラが回り、若手芸人たちが緊張した面持ちで現場を見守る中、大御所芸人であり首相でもある世破がにこやかに言う。
「あなたが働かないのが悪いんです!」
物乞いの男性は震える声で答える。
「でも、頑張ってるんです‥」
世破は眉をひそめ、若手芸人を呼び出す。
「靴を磨け!」
若手芸人は従順に命令を聞き、靴を磨くと、世破はにやりと笑いながら封筒を手渡す。
「ほら、これで100万円。こうやって頑張れば報酬はもらえるんです。あなたの頑張りが足りないから、こうならないんですよ!」
物乞いの男性は肩を落とし、しょんぼりとつぶやく。
「…自分の頑張りがいけなかったんですね‥」
そして、虚しく街へと帰っていった。笑い声と歓声に包まれたスタジオとは裏腹に、現実の国民は理不尽な制度の前に沈んでいた。
テレビを見た国民たちは、げっそりと肩を落とした。
「もう我慢できない……この芸人たちを、この国から追い出すんだ!」
怒りに燃えた人々は街に集まり、一揆を起こそうとした。だが、警察はすでに芸人たちに操られており、反抗する庶民を容赦なく逮捕する。
しかし、人数があまりにも多く、警察も手に負えなくなった。しぶしぶ釈放された国民たちに、警察官の一人が声をかける。
「……皆さん、この国は民主主義です。暴力で奪うより、政治家を変えるしか道はありません」
その言葉に、国民たちははっと気づく。芸人たちの笑いに縛られた国を変えるためには、ただ反抗するだけではなく、制度そのものを動かさねばならない――。
街はざわめき、次第に人々の目に、決意の光が宿り始めた。
ついに投票期間がやってきた。街の広場やテレビ中継には、人々の熱気があふれる。
民衆は声を揃えるように言った。
「芸人たちをどうにかしてくれる人に、みんなで投票しよう!」
候補者たちは、街角で演説を始める。熱い声が響き渡る。
「私たちは、笑いで国を支配する者たちに立ち向かいます!」
「あなたの自由を取り戻すため、私たちは行動します!」
広場は歓声と拍手で揺れ、民衆の目は希望に輝いていた。
かつて無力に笑わされ続けた人々が、自らの意思で運命を決める瞬間――。
テレビカメラはその様子を捉え、国中に生中継される。画面越しにも、人々の団結と決意は伝わっていった。
投票日、街の広場や公共施設には人々が長い列を作った。みんな、真剣な眼差しで一票を握りしめている。
「これで、笑いで支配する者たちに終止符を!」
民衆の声があちこちで響き、緊張と希望が入り混じった空気が街を包む。
候補者たちは最後の演説で、芸人たちの支配の不条理さを訴えた。
「我々は、笑いに縛られた国民を解放します! 自由を取り戻すのです!」
群衆は拳を振り上げ、歓声が広場を揺らす。
一方、スタジオでは若手芸人たちが、カメラの前で不安げに顔を見合わせる。
大御所・世破も眉をひそめ、首相席に座ったまま静かに指を組む。
「これは…思った以上に国民が本気だな」
投票結果が次々と集計される中、スクリーンに表示される数字に、群衆の歓声はさらに大きくなる。
「やった! ついに私たちの意思が届く!」
民衆は息を呑んで見守った――はずだった。
だが、驚くべきことに、演説に必死に顔を出していた候補者たちはほとんど票を得られず、画面に表示される数字はゼロに近かった。
一方で、ほとんど演説もしていない、街角やテレビに顔を出す芸人だけが大量の票を獲得している。
スタジオの大御所芸人であり首相の世破は、にこやかに笑いながらつぶやいた。
「民主主義って、素晴らしいですね。皆さんの意見が反映され、政治が変わる――」
彼は一息つき、画面を眺めて言葉を続ける。
「この国のみんなは、やっぱり芸人を求めているんだなぁ」
その声に、スタジオのカメラマンやスタッフも微笑む。
民衆の意思は形だけ尊重され、結局はこれまで通り、芸人たちが国を支配する構図が揺るぎないままだった。
スタジオでは、大御所芸人・首相の世破がニヤリと笑った。
「いやぁ、庶民のみんなが一生懸命働いてくれてるからね……ふふ、ここで移民を入れちゃおうかな」
スタッフや若手芸人がざわつく。
「移民、ですか?」
世破は指を組みながら言葉を続ける。
「ええ、特に治安が悪い地域からね。たくさん入れるんだ。お友達もいっぱい連れてくるから、楽しくなるぞ」
彼は手元の書類を見やりながら、さらに続ける。
「それに、刑務所に人が行き過ぎると仕事をする人が減るだろ? だから移民に頼るんだ。これで、悪いことをした人はしっかり罰せられる。素晴らしい世の中になるじゃないか」
若手芸人たちはカメラの前でうなずき、笑顔を作る。
スタジオに漂う空気は、笑いの陰に隠された権力の論理と、現実の不条理を見事に映し出していた。
ある日、旅行者がこの国を訪れた。街を歩くと、国民たちは皆、やせ細り、目に生気がほとんどない。
「どうしたんですか?」旅行者が尋ねると、国民は俯きながら答える。
「何でもないんです……」
不自然な沈黙の後、彼らは手元のテレビのスイッチを入れる。
画面には、笑いに包まれたスタジオの光景が映し出される。リポーターや若手芸人たちが声を張り、ドッキリやギャグで盛り上げていた。
国民たちは、怯えた目でテレビを見つめながらも、画面の「笑い」に合わせて笑う。しかし、その顔や体には全く笑いの反応はなく、乾いた声とぎこちない動きだけが残っていた。
旅行者は首をかしげる。
「……これは、どういうことなんだ……?」
旅行者は国民たちと一緒にテレビの前に座った。画面には大御所芸人であり、首相でもある世破の姿が映っている。
彼は若手芸人に、ゲテモノを無理やり食べさせていた。若手芸人は苦しそうにしながらも、必死に従っている。
世破はにやりと笑いながら言った。
「ほら、若手芸人がこんなに頑張っているんだから、庶民にも食べさせてやったらいいじゃないか」
さらに恐ろしい言葉が続いた。
「この国は食糧危機だと嘘を言って――国の食べ物は全部ゲテモノにしよう!」
スタジオの芸人たちは一斉に拍手し、口々に賛成の声を上げる。
「そうだ、そうしよう!」
「素晴らしいアイデアだ!」
旅行者はその光景を見渡し、国民の様子に目を向けた。その人はげっそりと笑っていたが、目には怯えが浮かび、笑顔の下に恐怖が隠されている。
「……これって、どういうことですか‥」
国民のひとりは俯きながら答える。
「……なんでもないんです……」
テレビの明るい光と、笑い声の裏に潜む狂気が、旅行者の心に深く刺さった。
旅行者はその後、ニュースを見た。
画面には、芸人が殺人を犯して逮捕されたという報道が流れている。理由は「ストレス発散のため」らしい。裁判にかけられる様子が映ると、次の瞬間、被告である芸人が笑顔で言った。
「お笑いでした!」
すると裁判官は即座に宣言する。
「被告人を無罪とする!」
旅行者がよく見てみると、裁判官も弁護士も、全て芸人だった。法廷全体が、笑いの論理で支配されている。
次に映ったのは、ボランティア活動をしていた男性だった。彼は海外から持ち込んだ食料を、困窮した国民に分け与えただけだった。しかし、弁護士も裁判官も、彼の登場と同時に疑いの目を向け始める。
「もしかしたら裏があるかもしれない……」
冷たい視線が男性を射抜く。裁判官や弁護士に扮した芸人たちは口々に言い出す。
「こういうやつは裏があるに違いない。無期懲役が相応しい!」
旅行者はその異常な光景を見て、言葉を失った。
笑いの力で国を支配するだけではなく、法律や正義さえも芸人たちの思いのままに操られている――この国の恐ろしさが、目の前で鮮明に示されていた。
次のニュースは広告の時間になった。
画面に現れたのは、道徳の本を手に持つ男性――しかしその姿も、どこか異様だ。
「この本の使い方はこうだ!」
男性は本を踏みつけ、さらに火の中に投げ込む。炎に包まれた本から立ち上る煙に、彼は楽しげに笑った。
「あたたかくて、焚き火にピッタリだね!」
スタジオでは黒幕コンビがその広告の出来を称賛する。
「素晴らしい! この国では、道徳の教科書を踏んだり燃やすことを義務にしよう」
世破はさらに言葉を続ける。
「いや、それだけではない。学校の教育も、すべてお笑いに変えてしまおう!」
若手芸人たちはカメラの前で拍手し、画面越しに笑顔を作る。
国の制度、教育、そして民衆の倫理感までもが、笑いの論理に染められていく――旅行者の目には、呆然とした光景が映った。
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「……え?」旅人が思った瞬間、芸人は大げさに体をよろめかせ、まるでぶつかったかのように倒れる素振りをした。
「きゃあ、ぶつかってきたぞ!」
声が通りに響き渡る。芸人の手には、警察に連絡するためのスマートフォンが握られていた。
周囲の人々も振り返り、旅人の方を疑いの目で見る。遠く離れているのに、なぜかぶつかったことになっているのだ。
「警察を呼ぶんだ! 犯罪者だ!」
旅人は必死に手を振り、誤解だと叫ぶが、声は周囲の喧騒にかき消される。
笑顔の裏に潜む陰謀と狂気が、街全体を覆っていることを、旅人は痛感した。
逃げるしかない――そう思い、さらに速足で路地へと逃げ込む。
だが背後からは、まだ笑い声と「ぶつかったぞ!」という叫びが追いかけてくる。
街の平穏な景色とは裏腹に、笑いを武器にした狂気が、この国の全てを支配している――旅人はその恐怖に震えながら、逃げ続けるしかなかった。
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※全11話 2万字程度の話です。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
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