翡翠色の空の下で~古本の旅行ガイドブック片手に異世界旅行~

八百十三

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第2章 ケモノ男子と古都観光

第20話 湯船の中で

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 パーシー君と別れて、部屋に戻ってアビガイルさんのパン屋で買ったコヴリッジを夜食に食べた後。
 私はドルテに来て二日目の夜を、湯船の中で過ごしていた。

「はー……お風呂最高……」

 ドルテがお風呂の風習が一般的にあり、湯船が存在し、湯船にお湯をなみなみ張るだけの設備が整っている異世界でよかったと、本当に思う。
 フーグラー市がかなり大都市であることも影響はしていそうだが、潤沢に湯を使えるというのはそれだけで心が穏やかでいられる。
 パンも食事も美味しい、お風呂にも入れる。この時ばかりは、私は自分の幸運を喜んだ。

「これであの泥棒熊に金を盗まれてなければなー……30アルギン……」

 そう、財布から今日の午前中に両替してもらったばかりの30アルギンを抜かれていなければ、今日のうちに鞄を買ってグロリアさんに買ってもらった服をしまえたに違いない。
 というかあの場はグロリアさんに支払ってもらったけれど、本来は抜かれた30アルギンから払う予定だったわけなので。結局鞄を買うにはまた両替しないといけないな、と思う私だった。
 ホテルの宿泊費、パン屋での支払い、懐中時計、服。ここにカバンの代金も加わることを考えると、なかなかの出費になる。そして明日にはホテルの連泊や、別のホテルの手配をしないといけないわけで。
 ぶっちゃけた話、新500円玉が30アルギンに化けるという錬金術的な両替レートになっていなければ、とっくに詰んでいたと思う。

「お金尽きたらどうしよう……グロリアさんに言えば、喜んで資金提供とかしてくれるだろうけれど……」

 財布の中身、残り5500円といったところ。アルギンに換算すればまだまだ余裕があるにはあるが、お金の入ってくる宛ては、この世界には勿論ない。
 今日というこの日に、伯爵家の第二夫人という立場を持つグロリアさんとお知り合いになれたことは紛れもなく幸運だが、彼女におんぶにだっこで過ごすわけにもいかない。
 いつそのチャンスが来るかは分からないが、日本に帰る機を逸するわけにはいかないし、パーシー君のお母さんみたいに、帰りたい気持ちが磨り減っては絶対によくない。

「今のところ、フーグラーで出会った人たちはあの伯爵さんとあの暴力熊を除いて、いい人たちばかりだけど……
 やっぱ帰りたいなー、日本に……玲生れおに会いたい……」

 湯船の縁にもたれて天井を見上げながら、私はすっと目を細めた。
 木稲このみ 玲生れおは3年前から交際している、私の恋人だ。勿論、地球の、である。
 私より一つ年上の27歳で、共通の友人を通じて知り合ったら意気投合し、そのまま交際している。同棲はしていないが私の両親には何度かあったことがあり、互いに顔は知っている。

 玲生に会いたい。その為に、日本に帰らなきゃならない。
 私は強く、強くそう思っていた。

 ちょっと心配症の気があるので、私が唐突に異世界に旅立った、なんてことを知ったら困惑するだろうなぁ、彼は。
 きっと、私が異世界で獣人族フィーウルの通訳を連れて暢気に旅行しているなんてことは夢にも思っていないだろうし、その事実を知ることも無いのだろう。
 それを知ったら私のアパートに突撃して、次いで私の実家に突撃して、私の母から神保町に出かける話を聞いて、「湯島堂書店ゆしまどうしょてん」に突撃してベンさんに掴みかかる、くらいまでの流れは容易に想像できる。
 ベンさんの肩を掴んでゆさゆさ揺さぶる彼の様子を想像してくすりと笑う私だったが。

「湯島堂書店がドルテに繋がって・・・・・・・・いる間・・・は、日本の時間が止まっているから大丈夫……ん?」

 自分で口に出したところで、私ははたと真顔になった。
 みるみる大きく見開かれる私の瞳。次の瞬間思い切り身を起こした私だ。身体に押されてお湯が大きく波を打つ。

「ってことは湯島堂書店が地球に繋がっている間・・・・・・・・・・私がドルテにいたら・・・・・・・・・私も止まって・・・・・・動けない・・・・んじゃ!?」

 そうだ、今までこちらが動いている間はあちらが止まる、という事実にホッとしすぎていて、そこまで思考が回っていなかった。
 こちらが動けばあちらは止まる、というのなら、あちらが動けばこちらは止まるというのは、至極当然の話ではないか。
 そしてこちらが止まった時、私が湯島堂書店の中に居なかったら。

「あーもー、ほんとなんで湯島堂書店に寝泊まりできるスペースが無いかなー! 言ってもしょうがないけど!
 いつ繋がるか分からないのを湯島堂書店の中でずーっと居て待ってるわけにもいかないのもそうだけど!
 これじゃほんとにフーグラーから動けないじゃん! どうしようーーー!!」

 風呂場で叫びながら私は、お湯で濡れた頭をがしゃがしゃとかきむしった。
 そう、言ってもしょうがない、しょうがないことなのだ。
 ベンさんが言っていたではないか、いつ切り替わるかは全く読めないし分からない、と。数時間、数日、数か月、数年。頻度も様々だと。
 フーグラー市はいい街だし見ていて楽しいけれど、いつどのタイミングで切り替わるのかが分からないのはとにかく不安だ。
 実際、今こうしてお風呂に入っているこのタイミングでも、時間が止まってまた動き出しているかもしれないのだ。
 そうして向こうに繋がった時、向こうで数年が経過して、またこちらに繋がったりしているかもしれないのだ。浦島太郎もいいとこである。
 正直、今すぐお風呂を飛び出して湯島堂書店に走りたい気分だった。しかし既に夜、書店のシャッターも降りていることだろう。

「あー……明日になったらまず湯島堂書店行こう……ベンさんに地球の時間が動いてないか確認しなきゃ……」

 がっくりと脱力しながら、私は再び湯船の縁に背を預けた。
 地球には早く帰りたい。帰りたいが、そのために出来ることは今はない。

「なにか、書店の入り口が切り替わる数分前とか数十分前とかに知らせてくれるような、アラームとかあったらいいのになぁ」

 そんな展望、あるいは願望を呟きつつ、ざぱっと湯船から立ち上がる私。
 バスマットの上に乗っかって、身を乗り出して湯船の底に入れられたガラス製の栓を回しながら引っこ抜く。
 ごぽり、と音を立てながら下水に吸い込まれていくお湯を、私はバスタオルで身体を拭いながらじっと、じっと見つめていたのだった。
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