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一 今日の今日でのお輿入れ。
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二十数年にわたって楊家で暮らしたとはいえ、羽綺の私物などたかがしれている。襦裙がいく揃いかと、母の形見の装身具がいくつか、その程度のものでしかない。行李ひとつに十分収まってしまうそれらをまとめ終えると、下男たちが、それを房間の外へと運び出してくれた。
(これは現実? わたし、ほんとうに嫁ぐっていうの?)
あまりにも急展開すぎて、理解が追いつかない。昼に家長の伯父から嫁げと命じられ、言われるがままに慌ただしく荷物をまとめて、いま夕刻には、嫁ぎ先の府邸からの迎えを待っているという状況なのだ。
そもそも伯父の碇和には、羽綺をどこかへ嫁に出そうという積極的にな意思はなかったはずである。それが俄にこんな事態になっているのは、ひとつは、羽綺への婚儀の申し入れが――伯父自身も口にしていた通り――皇族からのものだったからなのだろう。
楊家は権門勢家ではあるが、かといって、もちろん皇家に逆らえるような立場ではなかった。それに、皇家と縁戚になれるというのは、願ってもなかなか得られることではない幸いでもある。
(あちらのご希望だというなら、無理をしてまで断る理由はない、か……)
また、輿入れにあたって支度も持参金も一切不要、と、先方の夜王府が言ってきていることも、要因のひとつだったかもしれなかった。
それならば、楊家としては、ただただ羽綺を身ひとつで送り出してしまえば、それで終いである。申し入れたその日のうちに嫁すようになどという、尋常であれば考えがたい無茶なことを言われたところで、はいわかりました、どうぞお連れになってください、で、済む話だった。
(いっそ人身御供みたいね。――それにしても、夜王殿下という方は、どうしてこんなにも急にわたしを娶ろうなどとなさっているの?)
羽綺にはそれが不思議でならなかった。なにしろ、夜王の号を賜っている、皇弟殿下だという人のことを、羽綺はちっとも知らないのだ。
皇族の直系男子、すなわち皇帝の皇子のうち、それなりに有力な者――つまりは実母または養母の家格が高く、後ろ盾がしっかりしている――は、成人とともに皇帝から王号を賜って独立し、皇宮の外に王府を構えるのが一般的だ。その後は、その子供が代々、賜った王号を引き継いでいくものだった。
ただ、〈夜王〉という号は、他の王号とは少々事情を異にする。
この号を賜るのは必ず常に直系皇族、皇帝の実子や兄弟といった、帝王とごく近縁の者に限られた。号を賜った者の子供によって、それが引き継がれることがないのだ。
それだけでも特異であり、それはつまり、朝廷あるいは皇帝にとって、この王府がかなり重い役を担うものだからだと考えられた――……が、その果たす役割は、世に定かに明かされてはいない。
さらにいえば、楊家でいないも同然に扱われていた羽綺の存在を、夜王が知っているのも不可思議だった。
羽綺の外の世界とのつながりといえば、伯父の娘、羽綺にとっては従妹にあたる璃莉の代わりに書いた書信くらいのものだった。が、それを見たところで、羽綺が書いたものだとわかる人間がいるはずもないのだ。
(よっぽど字がお好きな方で、あの字の書き手を寄越せって言ってきたとか……?)
今日この日の唐突な縁談について、考え得る理由があるとすれば、羽綺が思いつくのはそれくらいのものだった。
羽綺は楊府から外に出ることがなく、これまでほぼ府邸の中だけで暮らしてきた。出自が出自なので、楊家のほうも、羽綺の存在は出来る限り秘そうとしてきてたはずだ。
あるいはそのために、楊家の主人が掌中の珠のように隠している娘がいるとかなんとか、そんな出鱈目な噂でも流れた結果の縁談だたりしたら――……実際の羽綺を知ったら、相手方はさぞがっかりすることだろう。あるいは、今日の今日で破談を申し渡されるかもしれない。
(ああ、なんだか、すごく有りそうに思えてきた)
羽綺はひとつ、大きく息をついた。
そのとき、正堂のほうから、伯父とその妻である義伯母とが姿を見せた。どうやら見送りに出てきてくれたものらしい。羽綺は軽く腰を折って礼をし、ふたりに挨拶をした。
「お二方とも、いままでたいへんお世話になりました」
「うむ。夜王府へ行ったら、今後は殿下によくお仕えするのだぞ。殿下がお前のことをどこまでご存じかはわからないが、とはいえ、決して楊家の家名に泥を塗るようなことだけはせぬように」
「はい。重々に気をつけます」
「ほんと、せいぜい気をつけることね。噂では夜王殿下は、あやしげな呪いに凝っていらっしゃるとか……おまけに王府では恐ろしい魔物まで飼い馴らしていると言うじゃないの。おお、怖い……そんなところへ嫁に行って、おまえのようなものが無事で済むかどうか」
(そう……そんな噂がある方なんだ。まともな相手ではないかもしれないとは思っていたけれど)
義伯母の言葉に、羽綺は内心で嘆息した。が、それは噫にも出さず、にこ、と、微笑して相手を見る。
「お気遣いありがとうございます、義伯母様。きっと大丈夫です。旦那様のご趣味でしたら、わたくしも呪いについてたくさん学びますし、旦那様のがかわいがっておられる魔物でしたら、わたくしもぜひ仲良くできるよう努めることにいたしますから。――楊家の名に恥じぬよう、むこうで、せいいっぱいがんばりますね」
(最後くらい、嫌味のひとつふたつ言ったって、罰はあたらないわよね)
相手の言葉が、羽綺への意地悪だというのはわかっていた。最後だと思うからこそ、その悪意の棘をひそめた餞の言葉に、羽綺は敢えて朗らかに応じた。
「あ、あら、そう……」
いつも義務以上の受け答えをしない羽綺がたくさん喋ったので、義伯母は戸惑った表情を見せる。羽綺は素知らぬ顔で、はい、と、素直に返事をしておいた。
その義伯母の耳には、玉のついた耳環が揺れている。
「ああ、耳環、見つかったんですね。わたくしが言ったとおり、壺の中にありましたでしょう? 犯人は祥祥ですから、お叱りになっておかれることですね」
羽綺がさらりとそう言うと、義伯母はますますおかしな物でも見るような眼差しをした。
「あ、あなたならむしろ、おかしな殿下のもとでも大丈夫かもしれないわね……」
「ありがとうございます、義伯母様」
(ああ、そうか……これが本来のわたしの物言いなのかも。我ながら、ずいぶん溜め込んでいたものだわ)
羽綺は自嘲するように思いつつ、くるりと踵を返した。開け放たれた楊府の門を、そして、その向こうの世界を見詰める。
(夜王府、か……)
楊府に籠められるように暮らしてきた羽綺は、今宵、未知の府邸へと嫁ぐのだ。
*
「夜王府からのお使いの方がいらっしゃいました」
日もとっぷり暮れた頃になって、楊府の前に、一台の馬車が着いた。羽綺は行李を持ってくれる下男と共に門を出る。伯父と義伯母も後に続いた。
一頭立ての馬車は、ぼう、と、燈る提灯をひとつさげていた。その幽光の中には、大きな身体つきの馭者の姿がある。
そして、停車した馬車の中から、十七、八歳かと思われる、こちらは小柄で愛らしい少女が姿を見せた。軽やかな動作で馬車を下りると、羽綺の前で立ち止まり、にこ、と、笑う。
「わたくし、夜王府にお仕えいたしております周木鈴と申します。ご主人様の命にて、奥様となられる楊羽綺さまをお迎えにあがりました」
木鈴と名乗った少女は、丁寧にお辞儀をした。
「わたくしが楊羽綺です。本日より夜王府にお世話になります」
羽綺も腰を折って答礼すると、顔を上げた木鈴は、ぱぁっと明るい笑顔を見せた。
「ああ、奥様! 奥様をお迎え出来るのを、殿下は心待ちにしていらっしゃいますの! さあ、どうぞ馬車へ。お荷物はあの行李ひとつでございますか? 兄がお運びいたしますね」
木鈴の声に応じるように、馭者の男がぬっと動いた。どうやら彼と木鈴とは兄妹であるらしい。
「兄の周泰然でございます」
木鈴がそう紹介してくれる。
「わたくしどもは、殿下の側仕えとして、幼い頃より身の回りのお世話をさせていただいております。今後は奥様にも同様にお仕えさせていただくことになりますので、どうぞお見知りおきくださいませ」
「こちらこそ、どうぞよろしくお願いいたします」
羽綺は、ふ、と、口許をゆるめた。
木鈴の笑顔は、見ているだけでも明るい気持ちにさせてくれる。こんなにも素直な笑みを誰かが向けてくれるのは、そして、こんなにも衒いなくやわらかな笑みを誰かに向けるのは、いったいどれだけぶりだろう、と、羽綺は思った。
「じゃあ、さっそく、参りましょうか」
木鈴はにこやかな笑顔を浮かべたままで羽綺を促した。
(これは現実? わたし、ほんとうに嫁ぐっていうの?)
あまりにも急展開すぎて、理解が追いつかない。昼に家長の伯父から嫁げと命じられ、言われるがままに慌ただしく荷物をまとめて、いま夕刻には、嫁ぎ先の府邸からの迎えを待っているという状況なのだ。
そもそも伯父の碇和には、羽綺をどこかへ嫁に出そうという積極的にな意思はなかったはずである。それが俄にこんな事態になっているのは、ひとつは、羽綺への婚儀の申し入れが――伯父自身も口にしていた通り――皇族からのものだったからなのだろう。
楊家は権門勢家ではあるが、かといって、もちろん皇家に逆らえるような立場ではなかった。それに、皇家と縁戚になれるというのは、願ってもなかなか得られることではない幸いでもある。
(あちらのご希望だというなら、無理をしてまで断る理由はない、か……)
また、輿入れにあたって支度も持参金も一切不要、と、先方の夜王府が言ってきていることも、要因のひとつだったかもしれなかった。
それならば、楊家としては、ただただ羽綺を身ひとつで送り出してしまえば、それで終いである。申し入れたその日のうちに嫁すようになどという、尋常であれば考えがたい無茶なことを言われたところで、はいわかりました、どうぞお連れになってください、で、済む話だった。
(いっそ人身御供みたいね。――それにしても、夜王殿下という方は、どうしてこんなにも急にわたしを娶ろうなどとなさっているの?)
羽綺にはそれが不思議でならなかった。なにしろ、夜王の号を賜っている、皇弟殿下だという人のことを、羽綺はちっとも知らないのだ。
皇族の直系男子、すなわち皇帝の皇子のうち、それなりに有力な者――つまりは実母または養母の家格が高く、後ろ盾がしっかりしている――は、成人とともに皇帝から王号を賜って独立し、皇宮の外に王府を構えるのが一般的だ。その後は、その子供が代々、賜った王号を引き継いでいくものだった。
ただ、〈夜王〉という号は、他の王号とは少々事情を異にする。
この号を賜るのは必ず常に直系皇族、皇帝の実子や兄弟といった、帝王とごく近縁の者に限られた。号を賜った者の子供によって、それが引き継がれることがないのだ。
それだけでも特異であり、それはつまり、朝廷あるいは皇帝にとって、この王府がかなり重い役を担うものだからだと考えられた――……が、その果たす役割は、世に定かに明かされてはいない。
さらにいえば、楊家でいないも同然に扱われていた羽綺の存在を、夜王が知っているのも不可思議だった。
羽綺の外の世界とのつながりといえば、伯父の娘、羽綺にとっては従妹にあたる璃莉の代わりに書いた書信くらいのものだった。が、それを見たところで、羽綺が書いたものだとわかる人間がいるはずもないのだ。
(よっぽど字がお好きな方で、あの字の書き手を寄越せって言ってきたとか……?)
今日この日の唐突な縁談について、考え得る理由があるとすれば、羽綺が思いつくのはそれくらいのものだった。
羽綺は楊府から外に出ることがなく、これまでほぼ府邸の中だけで暮らしてきた。出自が出自なので、楊家のほうも、羽綺の存在は出来る限り秘そうとしてきてたはずだ。
あるいはそのために、楊家の主人が掌中の珠のように隠している娘がいるとかなんとか、そんな出鱈目な噂でも流れた結果の縁談だたりしたら――……実際の羽綺を知ったら、相手方はさぞがっかりすることだろう。あるいは、今日の今日で破談を申し渡されるかもしれない。
(ああ、なんだか、すごく有りそうに思えてきた)
羽綺はひとつ、大きく息をついた。
そのとき、正堂のほうから、伯父とその妻である義伯母とが姿を見せた。どうやら見送りに出てきてくれたものらしい。羽綺は軽く腰を折って礼をし、ふたりに挨拶をした。
「お二方とも、いままでたいへんお世話になりました」
「うむ。夜王府へ行ったら、今後は殿下によくお仕えするのだぞ。殿下がお前のことをどこまでご存じかはわからないが、とはいえ、決して楊家の家名に泥を塗るようなことだけはせぬように」
「はい。重々に気をつけます」
「ほんと、せいぜい気をつけることね。噂では夜王殿下は、あやしげな呪いに凝っていらっしゃるとか……おまけに王府では恐ろしい魔物まで飼い馴らしていると言うじゃないの。おお、怖い……そんなところへ嫁に行って、おまえのようなものが無事で済むかどうか」
(そう……そんな噂がある方なんだ。まともな相手ではないかもしれないとは思っていたけれど)
義伯母の言葉に、羽綺は内心で嘆息した。が、それは噫にも出さず、にこ、と、微笑して相手を見る。
「お気遣いありがとうございます、義伯母様。きっと大丈夫です。旦那様のご趣味でしたら、わたくしも呪いについてたくさん学びますし、旦那様のがかわいがっておられる魔物でしたら、わたくしもぜひ仲良くできるよう努めることにいたしますから。――楊家の名に恥じぬよう、むこうで、せいいっぱいがんばりますね」
(最後くらい、嫌味のひとつふたつ言ったって、罰はあたらないわよね)
相手の言葉が、羽綺への意地悪だというのはわかっていた。最後だと思うからこそ、その悪意の棘をひそめた餞の言葉に、羽綺は敢えて朗らかに応じた。
「あ、あら、そう……」
いつも義務以上の受け答えをしない羽綺がたくさん喋ったので、義伯母は戸惑った表情を見せる。羽綺は素知らぬ顔で、はい、と、素直に返事をしておいた。
その義伯母の耳には、玉のついた耳環が揺れている。
「ああ、耳環、見つかったんですね。わたくしが言ったとおり、壺の中にありましたでしょう? 犯人は祥祥ですから、お叱りになっておかれることですね」
羽綺がさらりとそう言うと、義伯母はますますおかしな物でも見るような眼差しをした。
「あ、あなたならむしろ、おかしな殿下のもとでも大丈夫かもしれないわね……」
「ありがとうございます、義伯母様」
(ああ、そうか……これが本来のわたしの物言いなのかも。我ながら、ずいぶん溜め込んでいたものだわ)
羽綺は自嘲するように思いつつ、くるりと踵を返した。開け放たれた楊府の門を、そして、その向こうの世界を見詰める。
(夜王府、か……)
楊府に籠められるように暮らしてきた羽綺は、今宵、未知の府邸へと嫁ぐのだ。
*
「夜王府からのお使いの方がいらっしゃいました」
日もとっぷり暮れた頃になって、楊府の前に、一台の馬車が着いた。羽綺は行李を持ってくれる下男と共に門を出る。伯父と義伯母も後に続いた。
一頭立ての馬車は、ぼう、と、燈る提灯をひとつさげていた。その幽光の中には、大きな身体つきの馭者の姿がある。
そして、停車した馬車の中から、十七、八歳かと思われる、こちらは小柄で愛らしい少女が姿を見せた。軽やかな動作で馬車を下りると、羽綺の前で立ち止まり、にこ、と、笑う。
「わたくし、夜王府にお仕えいたしております周木鈴と申します。ご主人様の命にて、奥様となられる楊羽綺さまをお迎えにあがりました」
木鈴と名乗った少女は、丁寧にお辞儀をした。
「わたくしが楊羽綺です。本日より夜王府にお世話になります」
羽綺も腰を折って答礼すると、顔を上げた木鈴は、ぱぁっと明るい笑顔を見せた。
「ああ、奥様! 奥様をお迎え出来るのを、殿下は心待ちにしていらっしゃいますの! さあ、どうぞ馬車へ。お荷物はあの行李ひとつでございますか? 兄がお運びいたしますね」
木鈴の声に応じるように、馭者の男がぬっと動いた。どうやら彼と木鈴とは兄妹であるらしい。
「兄の周泰然でございます」
木鈴がそう紹介してくれる。
「わたくしどもは、殿下の側仕えとして、幼い頃より身の回りのお世話をさせていただいております。今後は奥様にも同様にお仕えさせていただくことになりますので、どうぞお見知りおきくださいませ」
「こちらこそ、どうぞよろしくお願いいたします」
羽綺は、ふ、と、口許をゆるめた。
木鈴の笑顔は、見ているだけでも明るい気持ちにさせてくれる。こんなにも素直な笑みを誰かが向けてくれるのは、そして、こんなにも衒いなくやわらかな笑みを誰かに向けるのは、いったいどれだけぶりだろう、と、羽綺は思った。
「じゃあ、さっそく、参りましょうか」
木鈴はにこやかな笑顔を浮かべたままで羽綺を促した。
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