夫に離縁が切り出せません

えんどう

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本編

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 彼、というのが変わらずシークを指していることはカレンも理解していた。だからこそ分からなかった。
 落としたグラスの片付けをし始める給仕係の者たちに礼を言いながらも、私はお父様の方を見ることは出来なかった。
「カレン、大丈夫か?」
 恐らくグラスを床に落としたのが遠目に見えたのだろう、話を切り上げたのかこちらに駆けて来たシークに心臓がどくどくと鳴る。
 どうして父にそんなことを、いつの間に。疑問は尽きないけれど、きっと私の顔は蒼白だっただろう。
「カレン?」
 心配そうにこちらを見たシークが何を考えているのか分からない。何を言えばいいのかも分からずはくはくと口を動かした私に、父は一言こう言った。
「お前が誰と関わろうが何も言わん、私には関係のないことだ」
「お父様」
「だがこれだけは言う。アレクだけは関わるな、アイツに対するの執着心は異常だ」
 あれ、というのがアレクの実父であるおじ様のことであるのは言われずとも分かった。
 そしてその名前が出た途端にピクリと反応したシークに、もう何がどうなっているかも分からない。どうして夫が、よりにもよってお父様に。
 尽きない疑問よりも先に口に出たのは、反抗だった。
「そうしてお父様が見て見ぬ振りをなさったからでしょう」
「中途半端な情けで面倒ごとに立ち入るなと忠告しただけだ」
「ご忠告は頭に置いておきます」
 聞き入れるとは絶対に言わなかった。そんな返しをした私に何か言いたげにしていたが、父はこちらを一瞥してから人の輪の中へと足を踏み出す。
「…足の傷は?」
 やはりそれが理由かとどこか妙に冷めた頭で考えながら夫を睨む。
「えぇ、おかげさまでとても良くなりました。それにしても父に彼のことを言いつけるなんてどういうおつもりですか?」
「…言いつけてなどいない。尋ねただけだ」
 きっとこの人は何も知らない。だから、単純に気になったから聞いた、それだけのことだろう。
「っ…何も知らないくせに勝手なことばかり…」
「…なに?」
「父に聞くのなら私に聞けばいいでしょう?こんな風に裏でこそこそ動くなんて」
 目一杯の軽蔑の視線を向ければ、彼は同じような視線で私を見返した。
「君に聞いたって嘘ばかりを吐くからだろ」
「…嘘?」
「君はいつだって、本当のことを俺に言わないだろう。平気で笑って嘘をつく」
 人を嘘つきだと罵るのなら、どうして私を愛していると言うの?
「エレナから聞いたよ。あの男と平民の着るような服を着て下町を歩いてたんだって?手を繋いで仲良くデートしていたなんて、俺は知らなかったよ」
 暗に浮気しているのだと思い込み罵られていることは理解できた。けれど、きっとどれも嘘ではない。手を繋いだのは本当だ、デートだと言われたらきっとそれも本当になる。けれど、私たちは恋人なんて俗的なものではない。
 きっと周りが思うよりも、この人が思うよりも、根強く絡まったいびつな関係だ。
「…男は娼館に行くのに、女は少し忍んで出かけることも許されないのですね?」
「俺は君の望みなら叶えると言ったはずだ。下町に出たかったのなら俺に言えばよかった、あんな男と行かずとも…」
「触らないで」
 触れられた手が、なんだか気持ち悪くて堪らなかった。あの女の顔が頭に浮かんで離れなかった。
「貴方の軽率な行動のせいでアレクに何かあったら、絶対に貴方のことを許しません。…申し訳ありませんが気分が優れませんので先に失礼します」
 どうせもう私の知る人に挨拶は済ませた。随分と時間も経ったし、少しずつだが人数も減ってきている。
「カレン」
 呼び止める声を振り切ってさっさと馬車まで向かう。
 ガンガンと痛む頭に浮かぶのは、ボロボロと涙を零した少年──幼き日のアレクの顔だ。
『いやだって言ってるだろ!!』
『何故俺の言うことを聞かない!良いから言うことを聞け!!』
 まだ幼かった彼の頰を手加減なしで打った、おじ様の顔。
 もうあんな姿は見たくない。
 だから、おじ様に、私とアレクが未だに繋がっていると知られてはならない。だから私は最善の注意を払ってきた。
 なのに軽率な行動を取ったシークが、例え何も知らなかったとはいえ──いや、知らないのに勝手なことをされたと腹が立つ。
 頭が痛くて、もう、どうにかなりそうだった。
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