ラムネ瓶の底に沈む

ぱぷりか

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好きな人は

第二話※

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 初めて見たその人は、なんだかこの世の住人ではないような清廉な空気を漂わせていた。
 真っ直ぐに伸びた背筋の上に乗った、小さくて形の良い頭。抱えた古書を一冊ずつ直していく手は薄く締まった肉に包まれていて、長くしなやかな指先まで寸分の隙もなく美しかった。
 聡介の古い離れは、小学生の暁人には秘密基地のような場所だった。玄関の鍵は貰ってはいなかったが、あちこちガタのきている家屋への侵入など難しくはない。集めた蝉の抜け殻や、甲虫や蟷螂を捕まえた虫かご。厳しい祖父の目が届かない離れは、暁人の大切な宝物の隠し場所だった。
 秘密基地に見知らぬ客が訪れ出したのは、暁人が小五になった年の夏だった。いつものように虫取り網を持って台所の裏口から入ると、洋館の方から微かに物音が聞こえてきた。
 平日の昼間に居るはずのない人の気配に、泥棒かと用心しながら外に回った。庭の手入れに関心のない持ち主の離れは、あちこち雑草が伸び放題だ。
 音を立てないようにこっそりと近づき、爪先立ちにならないと届かない洋館の窓の縁にしがみつく。必死に首を伸ばした暁人の目に入ってきたのは、中学校の制服を着た凛とした年上の人だった。


 懐かしい夢から覚めると、不快な脱力感が全身を覆っていた。
 舌打ちをして起き上がると、サイドボードに置いてあるペットボトルの水をひと息に飲み干す。一人きりの寝室は、まだそこ此処に陸の気配が残っている。いつも素っ気なくてつれない、愛しくて憎らしい人の匂いがする。
 空になったボトルを持って立ち上がると、暁人は寝室のドアを開けた。ゴミを捨てるついでに見たリビングの時計は、青白い蛍光色の針が午後十時を指そうとしている。
「明かりくらいつけたら?」
 ソファの上で膝を抱えている佳に声をかけると、影が身じろいで此方を向くのが分かった。適当に置いてあった菓子をいくつか取ると、冷蔵庫から出した炭酸水を持ってリビングに向かう。
 壁についたスイッチを押すと、中高色のライトが暗く沈んだ空間を明るく照らし出した。
「適当に食べて」
 小さな折りたたみテーブルの上に開けたスナック菓子を広げると、腫れぼったい目をした佳が抱えた膝から顔を上げる。
 薄いポテトチップスの塩気を口に含みながらテレビをつけると、画面の中は今夜も能天気で無責任な笑いが空々しく響いていた。
「なぁ、俺たちって付き合うのか」
 ワイプの中の芸人たちが、面白いとも思えない進行役の言葉に大袈裟な身振りで悶えている。視線を画面から逸らさないまま、暁人は口の中のポテトをぱきりと噛み砕いてから咀嚼した。
「なんで?」
 素直に感じたことを口にすると、すぐ側にある気配が戸惑うのが分かった。それに構うことなく炭酸水のボトルを直飲みすると、ピリピリとした刺激が喉を下りていく。
「俺と付き合ったりしたら、今度こそ本当にお兄ちゃんから嫌われちゃうよ。あの人かなり潔癖だし、そもそも君のこと嫌いみたいだからさ、葬式ですら顔見せてくれなくなるかも」
「それ、は」
「まあどっちにしても、佳くんは一番の目的は果たしたわけだからもういいでしょう。気に入らない間男を厄介払いできて、スッキリした?」
 わざと直接的な言葉を突きつけながら視線を合わせると、切れ長の陸とは造りそのものが違う、大きくて丸い目が見開かれる。
 鹿嶋佳が自分と陸の関係を快く思っていないことは、マンションの前で出会った時から分かっていた。彼の気さくで明るい弟の仮面を信じるふりをしたのは、率直に言って暁人もまた佳のことが気に入らなかったからだ。兄弟ではなく個として陸を見ている男を、許容する気などなかった。
「なんだ、バレてたのかよ」
 取り繕うことをやめたのか、抱えていた膝を解くと佳は置かれたポテトチップを鷲掴みにして口に押し込んだ。しおらしいのも結局演技かと、そこ素直に笑っておく。
「随分と身体をはった妨害工作するんだね」
「ほっとけよ。お前みたいな奴との付き合い止めさせられるなら、兄貴に嫌われるくらいなんてことねぇよ。どうせ最初から、底辺まで嫌われてるんだからさ」
「自虐的だなぁ」
「アンタこそ、俺の狙いが分かっていたなら、なんでホイホイ誘いに乗ったんだよ。結局、誰でもいいんだろ。それなら一人で好きに楽しくやってさ、もう二度と兄貴に付き纏わないでくんないかな」
「佳くんは、本当に陸と違って素直だね」
「兄貴のこと呼び捨てにすんのも、今すぐやめろ」
 心底気に入らないといった目で睨んでくる佳のストレートさに、陸が彼を苦手としている原因がよく分かる。佳は確かに良い子の仮面を被ることも上手だが、根の部分は素直で真っ直ぐだ。
 だからこそ、陸は彼を憎みつつも苦しんでいるのだろう。肉親の情とは、あらゆる感情を含んだ重い楔だ。永遠の平行線に立つ、ドッペルゲンガーのような己の写し身。自分の中に沈殿した愛憎もまた、拾うことも捨てることもできず澱のように溜まり続けている。
「俺が君と寝たのはね、好奇心だよ。君たちは似てない兄弟だけど、面影がまったくないわけじゃない。だからもしかしたらと思った。佳くんだって期待してたでしょう。俺とやれば、大好きなお兄ちゃんがどんなセックスしてるのか知ることが出来るんじゃないかってさ」
 図星でしょうと言ってやると、ほんのわずかな空白時間を経て、佳の顔が怒りに赤く染まった。
「お前に、他人のお前に俺のなにが分かる。知った風な口聞くんじゃねぇよッ」
 感情のままに襟首をつかみ上げてくる佳に、いっそ笑いがこみ上げてくる。だって滑稽だ。自分も佳も、馬鹿みたいに足掻いて振り回されて、結局どこにも行けずこうして二人蹲っている。
「うん、ごめんね。本当にごめん。佳くんのささやかな気持ちを裏切るのは本当に心苦しいんだけど、俺と寝たって何も手に入らないんだ」
「な、にが言いたいんだよ」
「俺と陸には、何もなかったから」
「は?」
「キスしたり、触ってもらったりはしてたけど、いつもそこまで。あの人さ、俺相手だと駄目なんだ。男ってそういうの丸わかりになるから、結構……きつかった」
 未成年、遠距離。最初の三年は、いろいろな理由がつけられた。けれど高校生は子どもではない。努力をして作った会える機会に、少しでも触れたいと思うのは当然だ。
 戸惑いは疑念に変わり、やがて確信を持つに至るのに時間はかからなかった。いやもしかしたら、初めから気付いてたのかもしれない。ただ認めたくなくて、必死に手を伸ばしてすがりついていた。
「俺じゃない」
 俯いたまま上げることの出来ない視界には、フローリング模様のクッションフロアが見えるだけだ。素足に触れる偽物の木の感触が、べたりと肌にくっついてきて気持ちが悪い。
「梶聡介」
「……え」
「鹿嶋陸の唯一絶対者は、俺の父親だよ」



 ようやく涙が止まって落ち着く頃には、時刻は午後十時を過ぎていた。思いっきり泣いて罵ったからか、随分と気持ちはスッキリしている。
 さすがに恥ずかしく思いながらずっと肩を抱いてくれていた恩師を見上げると、そこには変わらない笑顔の聡介がいた。
 どんなに情けない醜態を晒しても、聡介は陸を軽蔑したり突き放したりしない。まるで子どもが無条件に親の庇護を期待するように、陸の中での彼への信頼は絶対的なものだった。
「あれ」
 安心したのか気が抜けたのか、陸の腹が盛大に空腹を訴えた。すると釣られたのか、聡介の腹の虫も大きな鳴き声をあげる。
「先生、ゼリー飲料ならあるので飲みますか?」
 さすがに何か口にしなくてはと提案すると、腹を抑えていた聡介の眉尻がへにゃりも下がる。
「え、それだけなの。さすがにちょっとお腹空いたよ。そうだ、冷凍のたい焼きがあるから、あれを温めよう」
「いまから胃に物を入れると良くないですよ。第一、九時以降の甘いものは太ります」
「ん、んん、そうか、僕も年だからな」
「先生は鍛えていらっしゃるから大丈夫ですよ。たい焼きを食べたりしなければ」
「はいはい、食べなければね」
 化石の発掘作業は、直感と体力を限界まで使う作業の繰り返しだ。彼の生きがいである発掘作業を手伝うため。いや本音を言えば、彼の果たせなかった夢そのものを自分が叶えるため、陸はどんな時も日々の鍛錬を欠かさず、体作りには細心の注意を払ってきた。
 キッチンの棚からゼリーパックを二つ取り出して顔を上げると、まだ明かりをつけていないリビングの窓際に座った聡介の背中が見えた。なんとなくこの時間が終わることが惜しくて、付けた明かりをもう一度消してから、先ほどまで座っていた場所に戻る。
 どうぞと言ってパックを差し出すと、青白い月を見上げていた聡介がこちらを見た。柔い月明かりに照らされた顔が、いつもの恩師とは違う人のようでどきりとする。
「陸くんは、真剣にこの道に進もうと考えているのかい」
「はい。狭き門だと分かっていますが、中学生の頃からの夢ですので」
「……そうか」
 先生と呼ぼうとした声が、そっと手首を握られる感触の前に霧散する。何事かと掴まれた手首を見ていた顔を上げると、驚くほど近くに聡介が居て鼓動が早くなった
 引き寄せて抱きしめられると、これが現実なのか自分の妄想なのか分からなくなる。頬が熱い、頭に血が上る。硬直したまま動けないでいる陸の身体を、そっと線を確かめるように聡介の掌が撫であげていく。
「っっ、せ……んせ」
 どうしてと言いたいのに、痺れたように声が出なかった。繊細な手つきで化石を扱うあの手が、同じように陸に触れている。乱れたシャツの隙間から侵入した指に脇腹を触られると、みっともない声が耐えきれずに漏れた。
「先生、駄目、です」
「僕にこうされるのは嫌か?」
「ちが、ぁッ」
 肩甲骨を確認するように動いた指が、そのまま前に滑って胸を摘んだ。やわやわと触れたかと思うと、痛いくらいの力できゅんと引っ張られて、腹の奥がざわめくような感覚がびりりと走る。
 いまにも触れてしまいそうな距離にある聡介の唇が、陸と確かに名前を呼んだ。それだけで、ぞくぞくと腰が抜けそうな性感に犯されてしまう。
「っめ……だめ、です。せんせに触られ、たら……俺は、おれ」
 必死の思いで抵抗をするのに、まるで水中でもがいているかのように身体が動かない。聡介が自分に触れている、その事実だけで、脳がとろけて死んでしまいそうだ。
「ぁ、な……んで?」
 聡介との間に引かれた、教師と教え子という絶対的なライン。自分が恩師をどんな目で見ているのかなんて、中学生の頃から自覚していた。
 二人が変わらない関係でいられたのは、聡介が気付かないふりをしてくれていたからだ。あの離れの化石のように、変わらないまま残される永遠の距離。
「……せ」
「聡介、だよ陸。先生ではなく、聡介と呼んでごらん」
「ぁ、っあ、あぅ」
 優しく吹き込まれる吐息のような声に、反射的に腰が跳ねる。耳たぶを食んでいた唇と舌に骨を嬲られると、怖いくらいの刺激が全身を走る。気持ちが良いと、脳が、心臓が、身体が訴えているのがわかる。
「陸」
 だめ押しのように呼び捨てにされた名前に、触れられてもいないのに軽くいってしまった感覚がした。くちくちと耳を犯す舌の動きに、まるでセックスそのものをしているような錯覚に陥る。
 目の前にあるのは深い深い奈落の底だ。飛び込むべきではないと、ずっと、苦しい程に踏みとどまってきたその一歩が、あっけないほどに愛しい人の手で背中を押されてしまう。
「そ、すけ……さん」
 ついに口にしてしまったその一言に、良い子だと褒めるように優しいキスが与えられる。
 粘膜が擦れ合う音と、溢れて頬を伝う濡れた唾液の感触。舌先に感じているのは聡介の味だと自覚すると、陸の身体は糸が切れたようにその場に崩れ落ちた。
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