【完結】美人の先輩と虫を食う

吉田定理

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冬の章

10 我が家のトイレのユウレイ①

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「夕飯できたよー」
 母の声が一階から聞こえた。僕は返事をすることなく、パソコンのディスプレイに集中する。画面には輝く鎧をまとった騎士≪ナイト≫や魔導士≪マジシャン≫、治療師≪ヒーラー≫といったキャラクターたちが、巨大なドラゴンを取り囲んで戦っている最中だ。MMORPG≪大規模多人数同時参加型オンラインRPG≫と呼ばれるゲームである。
 僕が操作する≪ナイト≫の役割は、ボスモンスターの攻撃を受け止めて仲間たちを守ることだ。だから僕が気を抜いてやられてしまうと、守りの要を失ったパーティーはあっさり壊滅してしまう。
 さらに何度か母の声が聞こえたが無視した。ようやくドラゴンを討伐し終わると、安全な街にワープし、ゲーム内の仲間たちに離席することを告げる。ヘッドフォンを頭からはずすと、部屋の中が真っ暗だったことに初めて気付いた。
 居間に向かうと、こたつに父と母がいて、すでに夕食を食べ始めていた。僕もこたつに足を入れてみそ汁に箸をつける。
「悠一、大学にはちゃんと行ってる?」
 さっそく母が切り出した。
「行ってるよ」
「食事は? 料理してる?」
「ときどき。何も問題ない」
 向こうでの生活や大学のことで小言を言われるのは嫌だったので、僕は話題をそらす。
「康介(こうすけ)は?」
「友だちと年越しのイベント行くって」
「ふうん」
 康介というのは弟だ。高校二年生。僕がある時期からオンラインゲームに熱中して他人と過ごさなくなったのに対し、弟は友だちが多く、休みの日はたいていどこかへ遊びに行っている。
「悠一も出かける?」
「別に」
 僕は麻婆豆腐を口に運んだ。その後は無言で夕食をさっさと完食し、二階の自室に戻って今年最後の夜をオンラインゲームをしながら明かす。
 僕はもともと人付き合いが苦手なほうだったが、それでも中学までは友だちがそれなりにいて楽しく過ごしていた。だが高校に入って知らない人ばかりになると、僕はゼロから人間関係を築くよりもゲームの世界に閉じこもることを選んだ。その結果、高校の三年間はほとんど話す相手もなく、孤独で退屈な時間を過ごすことになってしまった。
 オンラインゲームは楽しかった。ゲームの中でなら、友だちを自然に作ることができた。レベルをあげて強くなれば、勝手に他のプレイヤーが寄ってきたのだから。康介が友だちと出かけていっても、別にうらやましいとは思わなかった。
 高校ではゲーム三昧だったが、成績は落ちなかった。友だちのいない僕は学校にいる間、勉強する以外やることがなかったのだ。それである程度、ゲームも許されていたけど、次第に虚しくなり、文化祭も体育祭も楽しいと感じられず、学校にも行きたくなくなった。逆に弟は、クリスマスもハロウィンも友だちとどこかへ出かけていくのが当たり前で、輝いて見えた。「悠一も友だちと出かける?」と母に聞かれて「出かけない」と答えるのが辛かった。なぜ康介はこんなにも友だちと出かけるのに、おまえはまったく出かけていかないのかと不審に思われているような気がして。
 中学までの日常は、それなりに楽しかったはずなのに。何かを間違えたことに気付き、このままではいけないと思って、どうしたら人生をリセットできるか考えた。
 僕はあえて県外にあって、志望者の少ない大学を選んで受験した。過去の僕を知っている人がほとんどいないそこで、もう一度、まじめにゼロからやり直そうと思ったのだ。中学の頃のように、周りに友だちがいて、くだらないことで笑って、楽しんでいた日々を取り戻したい。部活帰りにだらだらといつまでもしゃべったり、夏休みに自転車であっちこっち走りまわったり、先生のモノマネをしてふざけたり、誰々の体操服姿がエロいとか囁きあったり、そういうことがまたできるようになりたかったのだ。
 それが僕の、一度は失われた日常。
 再び創りあげると決めた、理想的なキャンパスライフ。
 もちろん僕には高校三年間のブランクがあるわけだから、初めからうまくいくとは思っていない。友だちの作り方が分からなくなっていたし、案の定、学科の中で孤立しそうになっていた。このまま大学の四年間が終わってしまうのではないかと焦り、とにかく部活かサークルに入ろうと思った。だが自信を失った僕には、入り口のドアをノックすることさえ難しい。そこへ――猪俣香織先輩が現われたのだ。
 僕は『虫の輪』という奇妙なサークルに入会し、少しずつ自信をつけ、それを弾みにして学科内に数人の友だちを作ることもできた。とても小さいが、最低限の居場所を作ったのだ。
 そこで、やめておけばよかった。
 友だち作りにさえ苦労している僕が、さらに難易度の高い恋人作りにまで手を出したのは間違いだった。しかも相手は三つ年上で、ミスコン出場経験さえある高嶺の花だ。まるで初期装備でドラゴンに挑むような無茶をしていることに、どうして強烈な一撃を浴びるまで気づかなかったのだろう? 僕はすでに欲しかったものを手に入れたじゃないか。理想のキャンパスライフの橋頭保を築き上げたじゃないか。それで満足して、それ以上は何も望まず、慎ましくしているべきだったのだ。まだ四年間のうちの一年目だ。冷静に考えてみれば、サークルに所属できたこと、学科内で数人の友だちができたことは、充分すぎる成果と言えよう。それなのに、僕は――。
 だからもう、いいのだ。先輩は僕の身に余る存在であり、あんなふうに明るくて、自分の芯がしっかりしていて、頭もよくて、美貌にも恵まれた女性は、とてもじゃないが僕と釣りあわない。そもそも先輩は卒業して大学を去るのだし、卒論や就職先の研修でこれからもっと忙しくなるわけで、そんな人に告白するなんて迷惑以外の何ものでもない。僕のこの九ヶ月間の行動は、初めから無謀で分不相応だったのだ。
 だからもう、やめよう……。先輩のことを考えるのは……。
 何か温かいものが、キーボードをたたく手の甲に触れた。そこで初めて、すでに年が変わっていたこと、自分が泣いていることに気付いた。だけどどうして涙が出てくるのか、その理由は分からない。
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