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しおりを挟む第一章 ハーデンベルギア ~運命的な出会い~
冷たい空気に身体が縮こまる季節。
鼻がツンとして息をするたびに痛くなり、マフラーに隠れない耳が真っ赤になる。
そんな冬も本番になってきた一月の中旬。楠沢紗雪は、往来の激しい街の中を歩いていた。
終電も近いこの時間、電車に乗る人々は、急ぎ足で駅へ向かっている。
けれど紗雪は急ぐこともなく、いつもと同じ足取りだ。それは、一種の諦めからくるものだった。
今の会社に入社して、もう四年目。誕生日も過ぎ、紗雪は二十六歳になっていた。
普通そのくらいの年頃の女性は、仕事もプライベートも充実し、身なりにも気をつかっている。けれど仕事帰りのはずの彼女は、近くのコンビニへ行くような姿だ。
美容院に行けず伸びっぱなしの黒い髪は、手入れの悪さを隠すために黒いゴムで一つに纏め、顔はかろうじで日焼け止めを塗っているだけで、ほとんどすっぴんに近い。
彼女の肌は青白く、けして健康的には見えなかった。
着ているコートは数年前に流行したもの。
首に巻いているマフラーは、大学生時代から愛用し続けているもので、少しほつれている。スーツを着ているのに、足下は運動靴。それもかかとがすり減っていて、いいかげん買い換えなければならないくらい使い古している。
やがて来た満員電車に乗った紗雪は、ぼんやりと外を眺めた。
窓ガラスに映る自分の姿に泣きたくなり、現実逃避するようにマフラーで鼻を覆う。そして、目を伏せた。
そうしているうちに、三十分ほどで電車が最寄り駅に着く。
彼女は、駅前にある二十四時間スーパーで売れ残りのお弁当を買い、そこから十分くらいの距離にあるマンションへ帰った。
テーブルの上に無造作にお弁当を置き、お茶と一緒に夕食をとる。そしてシャワーを浴びてベッドの上に寝転がった。
一人で住むには少し広いこの部屋にいると、余計に孤独感が押し寄せてくる。会社にいても自宅にいても息苦しくて、どうやって呼吸をすればいいのかわからない。
何社も採用試験を受けて、圧迫面接と不採用通知の山に心を折られ、それでも笑顔を貼りつけて就職したのが、今の会社だ。IT系のその会社に、紗雪は営業事務として入った。
これで自立ができ、両親にも安心してもらえると思っていた。
最初の半年は大変だけれどやりがいがあると感じていた。だが、一年も経つと、会社の異常さに気がつく。
紗雪が働いている会社は、簡単に言ってしまえばブラック会社だ。
仕事は始発から終電まで続き、サービス残業は当たり前で、土日も休みが滅多にない。ほとんど三百六十五日毎日働いている。
当然、二年ほど前に会社を辞めようと思い、上司に相談した。だが、辞めるためには専用のフォーマットが必要だと言われる。それが欲しいと頼んでも、彼は一向にフォーマットをくれない。
いつの間にか同期が何人も来なくなった。噂では、彼らが出社しなくなったあと、会社の人間に自宅まで押しかけられたとか、近所に悪質なデマを流されそこに住めなくなったなどと聞く。それが嘘か本当かはわからないけれど、結局、同期とは連絡がとれず、恐怖だけが残っている。
それに、どうにかしなきゃいけないと考えられていたのは最初だけだった。始発から終電まで昼休憩もほとんどとれずに働いているうちに、思考は停止していく。自宅に帰ってからは眠るだけ。その睡眠も短いもの。慢性の睡眠不足だ。
紗雪は、自分がまるでボールペンみたいだと思う。
ガリガリ削られ、インクがなくなったら捨てられる。そして別のインクという名の人が新しいボールペンになるのだ。
もうすぐ自分のインクはなくなる気がする。
その時残るのはなんだろうか?
そこまで考えて、彼女は息を深く吐き出して立ち上がり、キッチンへ向かった。長年愛用しているティーポットとティーカップを取り出して、ケトルでお湯を沸かす。
彼女の唯一の趣味は紅茶を淹れることだ。
どれだけ忙しくても、この習慣だけは欠かさないようにしている。
夜寝る前にカフェインレスのフレーバーティーを飲むのだ。今日は、ビタミンCが豊富なハイビスカスがブレンドされたものにする。
手慣れた順序で紅茶を淹れていった。
紗雪はベッドの縁に座りながら、ほのかにローズが香るルビー色の紅茶を一口含む。爽やかな酸味が口の中に広がり、心が落ち着いた。
この瞬間だけは、自分が自分であるような気がする。すり減った心が、なんとか保たれているのはそのおかげだ。
そして今日も、ティーポットを片付けて、紗雪はベッドに潜り、眠りについた。
翌日の金曜日。
いつものように紗雪が始発で出社すると、オフィスにいる人たちの雰囲気が違っていた。
どうも誰も彼もがそわそわしているように見える。その反面、課長はいつも以上に機嫌が悪そうだ。
紗雪が不思議に思っていると、会社がテナントで入っているビルに早朝、不具合が発見されたらしい、と同僚が教えてくれた。急遽、点検のため今日の夜八時から土日の間、ビルが閉鎖になるそうだ。
このビルはそこそこの築年数で、定期的にさまざまな点検をしている。だが、ここ数年の度重なる災害で他にもおかしくなっている箇所がないか徹底的に点検したい、というのがオーナーの意向のようだ。
つまり、今日は久しぶりに終電前に帰れる。
紗雪は、社員が心ここにあらずという状態になり、課長がピリピリしているわけを理解した。
終電前に帰れるなんてどれくらいぶりだろうか。
入社して半年が経った頃からどんどん残業が長引き、土日が少しずつ削りとられ、三年目には二十四時間三百六十五日仕事をするようになっていた。
紗雪はそわそわとその日を過ごし、不機嫌な課長にどやされつつも八時に会社を出る。
この時間帯に外に出ることがしばらくなかったせいか、人や開いているお店の多さに驚いた。
寄り道をする余裕があるはずなのに、結局いつも通り真っ直ぐ駅に向かう。自由な時間があった頃、どんな場所に寄り道をしていたのか思い出せない。
映画が見たいわけではないし、これといって食べたいものがあるわけでもない。そうなると必然的に自宅に帰るのだが、それはそれでもったいないという気持ちが出てくる。
ふと、頭に浮かんだのは紅茶の葉専門店だった。けれど、今から電車に乗って行くとなると閉店時間ギリギリになる。せっかく行くのならゆっくりと選んで葉を買いたいので、今日はやめておこうと思い直した。
結局紗雪は自宅のある駅付近の割烹料理店で夕食を済ませ、コンビニでお菓子と飲み物を買い込んだ。
コンビニは二十四時間営業だが、疲れて帰ってくるとコンビニに寄る気も起きない。買える時に買い溜めするのだ。
自宅マンションがあるのは、コンビニから緩い坂道を上りきった先。
坂はちょっとしたもので大変ではないのだが、疲れている彼女には、山を登っている気分だ。
コンビニの袋を持ち直して視線を下に向けて歩く。すると、何かが落ちる音と悲鳴が聞こえた。
上げた視線の先で、大柄な女性が慌てて何かを拾っている姿が見える。
紗雪の目の前にコロコロと小さくて丸いその何かが二つ転がってきた。
紗雪も急いでそれを拾う。けれど、もう一つが横を通過した。
さっきまで上がってきた坂を引き返して、彼女はその丸いものを追いかける。
なんとか溝に落ちたり、車に轢かれたりする前に拾うことができた。
紗雪はホッとしつつ、こちらに向かってくる女性に声をかける。
「あのっ」
「やだー! ありがとー!」
近くまで来たその女性の顔が、外灯に照らされてよく見えた。
紗雪は無意識のうちに息を呑む。
綺麗な肌に艶やかな唇、彫りの深い顔立ちは日本人には珍しく、一見ハーフのように見える。髪はアッシュグレイのセミロングで、ところどころハイライトが入っているのか、キラキラと光っていた。
あまりにも美麗なその女性の姿に、なぜか紗雪の胸がときめく。
自分はそういう気があったかと錯覚してしまうほど惹かれた。
女性は紗雪の手元を見て、明るく笑う。
「わざわざ拾ってくれたの? 優しいー。本当助かったわぁ」
「いえ、たまたま近くに転がってきたので。気にしないでください」
「気にしないわけないわよぉ。これ、アタシにしたら大切な商売道具なのよね。もう、袋が破けるなんて、予想もしなかったわ」
色気溢れる雰囲気なのに、彼女の口調はサバサバしている。女性にしては少し低めのハスキーボイスが耳にとても心地よい。
「そういうことって、たまにありますよね。……あの、よかったら運ぶの手伝いましょうか?」
「いいの? 助かっちゃう! ほら、アタシの鞄、すでに中身がぱんぱんでもう入らないし、両手いっぱいで塞がっちゃうしで、途方に暮れそうだったの。天使みたいな女の子って本当にいるのねぇ」
にこにこと魅惑的な唇が弧を描く。
それだけで、紗雪は心臓が止まってしまうのではないかと心配になった。
……素敵な人。
女性でも、好みの容姿の人を前にすると、こんなに気分が高揚するものなのか。
紗雪は二十六歳にして新たなことを知った。
そのまま歩き出した女性のあとを追う。そして、着いたのは、紗雪の住むマンションだった。
驚いた紗雪は、女性にそのことを告げる。
「あら、同じマンション? 何階? ちなみにアタシは二階」
「私も二階です」
「うっそ、こんな偶然ってある? もしかしてアタシたち運命なのかしら?」
真面目な顔をしてそんなことを言う女性が面白くて、紗雪は自然と笑ってしまった。
こんなふうに笑うのは、とても久しぶりだ。
楽しく会話をしながらマンションに入り、彼女の部屋へ向かう。紗雪の部屋の二つ先の角部屋が女性の住まいだった。
玄関先でおいとましようとした紗雪に、女性が「お礼がしたいし上がって」と言う。気がつくと紗雪はふらふらとスニーカーを脱ぎ、その言葉に従っていた。
普段の彼女であれば、たとえ相手が同性であろうと同じマンションに住む人であろうと、簡単に他人の家へ上がったりはしない。お礼などいらないと断っただろう。そのくらいの警戒心はある。
けれど、仕事で思考能力が低下した状態で素敵な人に誘われたせいか、簡単に頷いていた。
女性の部屋に上がった紗雪は、そこが自分の部屋よりも広いことに気がついた。
紗雪の部屋は1DKだが、この部屋は2LDKある。
このマンションは部屋によって間取りが違うので、変なことではない。ただこの女性が、自分よりも明らかに高収入ということだ。
彼女の部屋は綺麗に整頓されており、欧米風のインテリアが飾られている。白を基調とした壁や雑貨に、ナチュラルな家具。まるでどこかのお店のようだ。
女性は持っていた荷物をキッチンに置き、温かいお茶を淹れてくれた。
ほうじ茶のいい香りが鼻腔をくすぐって、なんだかとても落ち着く。
女性は紗雪の斜め前に座り、にっこりと笑いながら自己紹介をしてくれる。
「改めまして、アタシはハルよ」
「ハル……さん」
「そ、ハル。本名は可愛くないから、みんなにそう呼んでもらってるの」
「私は――」
フルネームを名乗ろうと思った紗雪はそこで思いとどまる。ハルは、名前――あだ名のようなものを教えてくれたので、自分も名前だけを名乗ることにした。
「紗雪です」
「可愛い名前ー! ユキちゃんね。よろしく」
柔らかくハルが笑い、釣られて紗雪も笑った。
「お礼にご飯……は、抵抗あるだろうし。そうだ! ネイルさせてもらえる?」
「ネイル……ですか?」
「アタシ、ネイリストなの。だからお礼にハンドネイルさせて。もちろん無料だし、会社が派手なの駄目なら、シンプルなものにするから」
ハンドネイルと言われて、紗雪は自分の爪を見た。
手入れをされていない指先は乾燥していて、爪の形もバラバラだ。
見せるには恥ずかしい。思わず、指先を隠してしまう。
それに気がついたのか、ハルがそっと紗雪の手に触れた。
「お手入れを始めるのは、いつからだっていいのよ。綺麗になりたいって気持ちがあれば、それで十分だし、アタシはお礼がしたいだけ。たかだか爪の先と思うかもしれないけど、目に映る自分が綺麗だと、気持ちも上がるものよ」
優しい瞳に、紗雪はおずおずと両手を差し出した。
「お願いします」
「はい、任されました! じゃあ、こっち座ってね。換気扇が近くないと、匂いがちょっとねぇ」
換気扇の近くにある小さなテーブルとイス。そこにハルはもう一脚イスを持ってきて、紗雪と向い合って座った。
小さなテーブルの上に、いろいろなものが置いてある。紗雪が名前も知らない道具だ。
「まずは、ここに手を載せてね」
その一つ、小さな枕に似た台座のようなものに、紗雪は両腕を載せる。すると、ハルに手を取られた。
紗雪はドキッとする。
ハルの指は男性のようにごつごつしていて、大きい。
もっとも、その爪先は整えられ、派手ではないがセンスのいいデザインのネイルが施されていた。
ハルは丁寧に紗雪の指先を消毒していく。甘皮を処理し、やすりで爪の形を整えた。
慣れないからか、紗雪はその感覚にぞわぞわしてしまう。
「どんな感じのデザインがいいかしら」
「派手……じゃなければ」
「そうねえ。今の時季っぽくてシンプルなものがいいかも。あ、好きな色は?」
「好きな色?」
そう聞かれても、紗雪は自分が何色を好きなのかすぐには思いつかなかった。疲弊した頭では好きな色すら瞬時に出てこないのかと、唖然とする。
「ユキちゃん?」
「あ……好きな色、すぐに思いつかないのでおすすめでいいです」
「――ならゆっくり考えましょうよ。目に見えるのは好きなものがいいんだから」
ハルの言葉に、もう一度、自分が好きだった色を考える。
普段着るのは地味なスーツばかりで、ワードローブに明るい色味はない。
そこで、長年使っているマフラーや筆箱、ハンカチの色を思いだしてみた。
「藤の花の色とか、ノーザンライト――オーロラみたいなブルーグリーンが好き」
「いいわね。それなら、派手にならないように爪先だけのフレンチネイルにしましょう」
紗雪が伝えた色を、ハルが棚から何種類か取り出して見せてくれる。紗雪はその中から特に自分が好きだと感じた色を選んだ。
季節感はないが、あまり気にしなくてもいいだろう。季節や流行などは置いておいて、ただただ目の中に好きな色を入れたかった。
「まずはベースコート塗っていくわね。本当ならジェルネイルにしてあげたいんだけど、それだと怒られた時、簡単に落とせないし、半分以上お店に持っていっちゃってて、今、色のバリエーションがないのよねぇ」
「色ですか?」
「そ、ソフトジェルでも自爪を削らないやつのがいいんだけど、自宅にそのタイプのジェルがほとんどないのよ」
「そふとじぇる……、削らない」
紗雪はジェルネイルに詳しくない。なので、ハルが言うソフトジェルも削らないジェルも、一体なんなのか理解ができなかった。
脳内に浮かぶのは、うずまき型のソフトクリームだ。絶対にこれじゃない感しかない。
「今日は普通にネイルポリッシュするけど、今度時間がある時に、ぜひジェルネイルもさせてね」
「はぁ……」
「ふふ、ユキちゃんは可愛いわねぇ。おどおどしているように見えるけど、内面はしっかりしてそう」
「そんなことないですよ。しっかりしてたら、今の仕事だって辞めてるはずですもん」
「あら、仕事辞めたいの?」
「辞めたい……というよりは、逃げたいです。私にはあそこが監獄に思えてしまって、苦しくなります。息をするのが精一杯で、目の前の電車に飛び込んだらもう会社に行かなくてもいいんじゃないかって、いつか考えてしまいそうで怖いです」
なぜこんな話を初対面の人にしているのか。そう思うのに、ハルの柔らかい声を聞き爪に向けた真剣な眼差しを見ると、ぽつりぽつりと話し出してしまう。
会社がブラックなこと。前の同僚がどうなったのかという噂。心も身体も疲弊していてなにもやる気がおきないこと、など。
「実は、両親に相談したこともあるんです。毎日遅くまで働いて辛いって」
「ご両親はなんて?」
「母は心配してくれましたけど、父は仕事なんてそんなものだから弱音を吐かずに頑張れって」
電話したのは、少し慰めてほしかっただけだ。
それなのに父にそう言われた紗雪は電話を切ったあと、泣いてしまった。
詳しいことを話していなかったので仕方がなかったのかもしれない。それにあの時は、まだブラック会社の片鱗が見え始めたばかりだった。
けれど紗雪は、自分が弱いんだと思い込んだ。
「弱音なんて吐き出せる時に吐いてしまったほうがいいの。言葉に出すって、結構重要なことなのよ。疲れたーとか、辛いーとか、ね。それさえ誰にも言えなくなったら、あなたが壊れてしまうわ」
「そう、ですかね」
「えぇ。完全に壊れちゃう前に修復しないと」
鼻をずびずびと啜りながら、紗雪はじっと手元を見つめる。すぐに最後の一本が綺麗なフレンチネイルになり、トップコートが塗られた。
爪の先がとてもキラキラしていて、それだけで余計に泣きたくなる。
「いい子ね。こんなに頑張って、こんなにすり減って。アタシが言うのもなんだけど、もう頑張らなくたっていいのよ? 休憩だって必要なんだから。アタシじゃ役に立たないかもしれないけど、話は聞けるわ。辛くなる前に、なんでもいいからくだらない話をしましょ」
「はい……」
ハルが紗雪の頭を優しく撫でた。その手がティッシュを渡してくる。
誰かに話を聞いてもらいたかったのだと紗雪は自覚した。このやり場のないどうしようもない感情を吐き出したかったのだ。
けれど、愚痴を聞いてくれていた友達や恋人は去っていった。これ以上なにも失いたくないという気持ちが言葉にするのを諦めさせた。
頑張ったねと言ってほしかった。もう頑張らなくてもいいと優しい言葉をかけてほしかった。
ただ、それだけだった。
――この日、紗雪は会社を辞める決意をした。
第二章 ガーベラ ~常に前進~
普段であれば休日出勤をする土日。
その一日目の土曜日を、紗雪はとにかく眠ることに費やした。
寝溜めができないことは理解している。けれど、慢性的な睡眠不足に陥っている彼女にとって、ごくまれにある休みの日に眠り続けることが贅沢なのだ。
もちろん、学生の頃のように十時間以上眠り続けることは不可能で、途中何度か起きてトイレに行ったり、軽く食べたりしながらもほとんど寝て過ごす。
そして日曜日は、スーパーへ買い物に行って、ここ最近まったくしていなかった料理をした。
途中でふと、ハルにお礼としてこれを持って行こうかと考えたが、見た目がよくなかったため断念。
味は美味しい。美味しいのだが、あのキラキラして綺麗なハルに、ぐちゃっとしている食べものを手渡す勇気が、紗雪にはない。
お礼はまた今度ゆっくり考えることにする。
代わりというわけでもないが、貯金残高を確認した。会社を辞めたとしてどのくらい生活できるかを計算する。
節約すれば、数ヶ月は問題なく暮らせそうだ。
二、三ヶ月は、なにもしないで過ごしたい。
そこから就職活動を再開するとして、どの程度で次の会社が見つかるだろうか。
不安なことや考えなきゃいけないことは、多い。
それでも紗雪は、どうにか自分の思考が再開したことに安堵を覚えた。
そして翌日。
紗雪はいつものように始発で仕事に赴いた。
デスクに向かって仕事をしていると、自然と爪の先の色が見える。ふと手を止めて、塗ってもらったばかりの綺麗な爪先を眺めた。
自然に小さな笑みが浮かぶ。暗い気持ちが浮上していった。
たかが爪先、されど爪先。
「楠沢!」
「……はい」
気持ちに少し陽が当たっていたのに、かけられた課長の声ですぐに曇る。紗雪は心に防御壁を作った。
「この資料。なんでこんな雑なもん作れるんだよ。その頭はお飾りか? あぁ?」
「申し訳ございません」
「謝ればなんでも許されると思ってんじゃねぇぞ。それになんだ、その爪。なに調子のってんだよ! お前にそんなのが許されるわけないだろ」
「はい、申し訳ございません」
「ほんっと、お前の頭の中はそういったことしかないわけだ」
デスクの上に資料を投げつけられる。
紗雪はため息をつきながら、一体この資料のどこが雑だったのかを考えた。
これは課長の指示通りに作ったもので、紗雪個人がレイアウトしたものではない。結局のところ、作り方が悪いのではなく課長に八つ当たりされただけだ。
こんなことは日常茶飯事。
紗雪は息を深く吸い込んで、パソコンに向き直る。そして、仕事の合間にそれとなく他の社員が会社をどう思っているのか、情報収集を始めた。
やはりどの人も会社を辞めたいらしい。
だが、疲れと恐怖で思考が切れてしまっている人ばかりだ。
そんな中、彼女と同じようにこの休みで正常な判断力をとり戻した人がいた。
「楠沢」
「降旗さん、お疲れさまです」
声をかけられ振り向いた先には、先輩で営業職の降旗がいる。彼に手招きされ、紗雪は廊下の隅へ連れていかれた。
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