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1巻

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「――ちょっと小耳に挟んだんだけど、会社、辞めるのか?」
「そのつもりです」

 小さな声で答えると、降旗は大きく頷く。

「実は俺も数ヶ月のうちに動く予定なんだ。転職するつもりだったんだが、せっかくだし独立しようと考えてる」
「独立ですか。すごいですね」

 紗雪は彼の言葉を聞いて、単純にそう思った。
 自分の業務は営業事務だが、正直この仕事が好きかと問われれば否だ。
 数字を追いかけ、営業に八つ当たりをされる毎日で、どこを好きになればいいのかわからない。
 それに黙々、淡々と仕事をするのが苦痛だ。
 今ではさすがに慣れたが、同じことを繰り返す日々に飽きている。慢性的に寝不足というのも相まって、常に眠くなった。眠気のピークにはガムや栄養ドリンクなど、さまざまなものを口にして寝ないようにしている。
 もちろん仕事環境が悪すぎるということもあるのだが、この会社を辞めたあとに同じIT関係の業種に転職したいとは思えなかった。
 営業事務というのは基本的にどこも同じようなものだろうと、紗雪は思っている。
 だがこの仕事以外をやったことがないので、次をどうすればいいのか見当もつかない。
 一方、降旗は同じ業種、同じ仕事を改めて自分で始めると言う。
 自分にはできないことだ。

「……それで、相談なんだけど。もし楠沢がよければ、俺の会社を手伝ってくれないか?」
「え?」
「課長がなんて言おうと、お前は仕事ができる。一緒に事業を守り立ててくれたら助かるんだ」

 疲れた者しかいないはずの会社の中で、彼は妙にきらきらした顔になる。
 紗雪は、すごいと思うのと同時に、なぜだか少し恐怖も感じた。

「……はぁ。正直まだそういったことは考えられないので、すみません」

 たりさわりのない言葉をつむいで頭を下げる。
 降旗は「そうか、考えるだけ考えてみてくれ」と言い、なにかを思いだしたように言葉を続けた。

「それとは別なんだが、辞めた奴に話を聞いてみた」
「辞めた人にですか?」
「そ。会社の人間が自宅まで行って嫌がらせしたとか、いろいろな噂があるだろ。その真相が知りたくて、あらゆる伝手つてを使ってみたんだ。そうしたら二人捕まえられてさ。で、たしかに何度か連絡があったらしいんだが、直接誰かが会いに来ることはなかったって。俺たちからの電話は、なにを言われるかわからなかったし、上司の命令でかけてきたのかもしれないって不安で、取れなかったんだそうだ」
「そういうこと、だったんですか」
「ああ。だから、最悪辞表出して逃げられるのはわかった。ただ、その場合、保険や年金とかの問題が出てくるんだよな。確定申告や失業保険の手続き、次の会社のために源泉徴収票を提出したくても、この感じだろ? 俺たちに渡してくれるわけがないんだよな。そのあたりが厄介やっかいではあるが、どうにかなるっていえばどうにかなる問題だ。最終的にろうっていう手もあるしな」
「でも、労働基準監督署なんて、余計に会社に恨まれそうですね」

 二人で少し押し黙る。特にそれ以上話すこともなく、紗雪は仕事に戻った。
 あまり話をしていると、怒鳴られて仕事量が増えてしまう。会話はできるだけ最低限で終わらせるのがいい。
 結局以前と変わらず、彼女は終電で帰宅し、食事を取って眠った。
 そして、翌日も同じように働きながら、回復した体力と精神がまたゴリゴリとすり減り始めていくことに気がつく。
 このままでは駄目だとわかっているものの、辞めるためになにをしなければいけないのか、情報を集めきれない。
 水曜日。
 紗雪が終電でマンションに戻ると、部屋の前になぜかハルが立っていた。

「……ハルさん?」
「もぉ、やっと帰ってきたー」

 彼女は紗雪を見ると、ぷくっと頬を膨らませる。
 その表情に、なんだか心がホッとした。自分でも不思議だ。まだ出会って数日だというのに、ハルの存在が紗雪のやしになっている。

「すみません」
「ううん。ブラック企業で大変だもんね。で、これ渡したくて待ってたのよ」

 ハルから手渡されたのはプラスチック容器に入っている食事と、スマホと接続できるようにコネクタがついた、USBメモリだ。

「このUSBは通勤電車の中ででも見てみて。とりあえず今日はハルさん特製ご飯を食べて寝ちゃいなさい」
「ありがとうございます」
「いいのよぉ。アタシが好きでやってるんだしね」

 手をひらひらとさせ、ハルは部屋に戻っていく。それを見送って、紗雪も部屋へ入った。
 彼女に渡された容器の中には、ロールキャベツとサラダが入っている。電子レンジでご飯と一緒にそれを温めて、食べた。
 ハルは料理が上手らしい。それは本当に美味おいしくて、温かい気持ちになる。
 そして紗雪は、いつものようにカフェインレスの紅茶を飲んで就寝した。


 翌朝。
 紗雪はハルに言われた通り、出勤中の電車でUSBの中身を確認した。
 何個か入っていたPDFの中に〝最初に読むこと〟というタイトルのものがある。
 紗雪はまず、それを開いた。

【ユキちゃんへ。出勤にかかる時間がわからないから簡潔にいくわよ!】

 冒頭に書かれたその言葉に首をかしげつつ、スクロールしていく。
 そこには、会社を辞める方法が書いてあった。

【①まず退職願を出してみる。(課長以上の役職に渡すこと! 退職願のフォーマットPDFも入れてあるからコンビニで印刷可能よ。会社専用じゃなくても有効だからね)

 ②受理されたら、一ヶ月ぐらいで引き継ぎをする。(それすら嫌だったら残っている有休全部使って、退職まで休んでしまいなさい)
 ③受理されなかった場合、退職届を出す。(配達証明付き内容証明を郵送するのよ!)
 ④残業代が未払いなら、すぐに請求しましょう。
 ⑤その後のことは辞めたあとにゆっくり話をしましょうね。
 知り合いに現役の弁護士がいるからいつでも紹介可能よ。アタシの連絡先も入れておくから、SNSでも電話でもしてきてちょうだい。時間は気にしないでいいわ。ユキちゃんのためなら夜中も起きててあげる】

(――どうして、ここまで……)

 紗雪は感謝よりも先に疑問に思った。
 出会ったのは数日前で、ちょっとした愚痴を聞いてもらっただけの仲だ。それなのに、なぜこんな手間のかかることをしてくれたのだろうか。
 弁護士まで紹介してくれるなんて普通はない。
 そう考えている気持ちの中でちらっと、弁護士に知り合いがいるなんてすごいなとも思った。
 出会ったばかりのハルを、信用するのは危険かもしれない。
 けれど、あの日優しくしてくれた彼女を信頼したいし、この厚意を無下にしたくなかった。
 紗雪はその日の帰り道、さっそくコンビニで退職願と退職届のフォーマットを印刷した。
 部屋に戻ってすぐ、それに自分の名前と日付を書き込む。
 こういうのは悩んだり迷ったりしては駄目だ。やると決めたなら即行動を起こさないと、またあの日々に忙殺されてしまう。
 その作業を終え、紗雪はベランダに出る。
 空気が冷たい。風で身体が縮こまるが、透き通るようなさわやかさだ。
 遠くの明かりをぼんやりとながめながら、紗雪は、自分が全てをきっちり調べてからでないと辞めてはいけないという固定観念にとらわれていたことに気がついた。
 少しでもミスがあれば、怒鳴られ否定される。この三年間で、それがすり込まれてしまった。
 その考え方から簡単に抜け出せるわけもないが、これが第一歩だ。
 その翌日。
 紗雪は一日の中でまだ時間に余裕がある朝早いうちに、部長に退職願を渡す。
 部長はそれを受け取って、デスクの引きだしに片付けた。にっこり笑い「まあ、この話はおいおいね」と言う。
 これは受理されないだろうと直感的にわかった。
 有休を消化して辞めたいと伝えたが、辞めるなら有休なんていらないだろうとも返される。
 わかっていたことだが、どこまでもブラックだ。
 そして、彼女が退職願を出したことはすぐに社内に広まった。
 嫌な視線を向けてくる人が多く、針のむしろだ。
 そのせいなのか、仕事もいつもより多く渡される。ため息をこらえつつ、紗雪がパソコンに向かっていると、降旗が近づいてきた。

「楠沢、退職願出したのか?」
「はい、出しました。けど受理はされないと思います」
「やっぱなあ。俺は俺で頑張るから、楠沢も諦めんなよ。あと、今度ゆっくり相談したいことがあるんだ。今時間を作るのは難しいだろうし、改めてな」
「はあ……」

 紗雪は内心で首をかしげた。
 降旗とは別段仲がいいわけではない。少し話をしたことがある程度だ。
 それなのに、相談があるというのは不思議だった。一体どんな相談があるというのだろうか。
 それに、紗雪は今、自分のことで手一杯なので、他人の相談に乗っている余裕がない。彼には悪いが、力になれそうになかった。
 時間や気持ちに余裕があれば、誰かの相談も聞けるし、なにかしらの手伝いもしたかもしれない。
 そう、今自分を助けようとしてくれているハルみたいに。
 紗雪は、ふとハルのことを考える。
 余裕ができたら、彼女にお礼がしたい。

(――私が無事に会社を辞めたら、ハルさんは喜んでくれるかな? 笑ってくれるといいな)

 紗雪は頭の中でハルの笑う姿を思い浮かべ、息を深く吐き出した。
 辞めるためには行動あるのみだ。無事に辞められるまで頑張ろう。
 退職願は受理してもらえなさそうだから、やはり退職届を内容証明付きで郵送するしかない。
 そうなると一度、弁護士に相談したほうがいい気がする。
 しかしこれまで弁護士という人たちと関わったことがないので、どうすればいいのかわからなかった。
 それに、お金を支払うことはできるだろうが、相談する時間がない。
 退職願を出したことで、紗雪に任される仕事の量はますます増えている。有休は使用できるかわからない。弁護士に会う時間がとれそうになかった。
 メールで相談できないか、ハルに聞いてみようか。
 やることは山とある。だが自分のためだ。
 そして紗雪はボロボロの状態で帰宅した。すると見計らったかのようにハルが部屋から出てくる。
 目をパチパチさせていると、ハルに手招きされた。紗雪はなにも考えずふらふらと誘われるまま、彼女の部屋へ入る。

「お疲れさま、今日も一日頑張ったわね」
「お疲れさまです……」

 紗雪は会社にいる時の癖で、お疲れさまと返す。けれど、疑問があったので、ハルに聞いてみた。

「あの、なんで私が帰ってきたってわかったんですか?」

 紗雪は特にハルに連絡を入れてはいない。真っ直ぐ部屋へ向かっていたのに、彼女は扉を開けて手招きしたのだ。

「あぁ、ベランダよ。ベランダ」
「ベランダ?」
「ユキちゃん帰ってこないかなーって、ベランダに出て待ってたのよ。で、マンションに入ったのを確認して玄関の扉を開けたってわけ」
「そういうことだったんですね」

 だからあんなにタイミングよくハルが出てきたのかと、紗雪は納得した。

「とりあえずご飯食べなさい、ご飯。食べながら今後について話し合いよ!」
「話し合い……」
「そ、迷惑かと思ったけど一回くらい話ができればいいな、と思って。アタシの知り合いの弁護士呼んでおいたの」
「え!? 今いるんですか!? こんな時間に!」

 ありがたいタイミングだ。本当にこんなことがあっていいのか。

「いるわよー」

 にこにことハルは笑っているが、リビングにいる男性はこころなしかムスッとした顔をしている。

「お前なぁ、俺だって忙しいんだからな」
「はいはい、わかってるわよ。けど、高校時代サボり魔だったあんたに勉強を教えてやったのはアタシなんだから、その貸しを返してくれたっていいんじゃなぁい?」

 紗雪は男性に向かって頭を下げる。彼は立ち上がり、鞄の中をごそごそと探して名刺を差し出してきた。

「ありがとうございます」

 受け取った名刺には弁護士・水谷聡みずたにさとしと書かれている。

「一応こいつからある程度話は聞いてる。退職願は出したのか?」
「はい。今日の朝出してみましたが、受理される気がしません」
「ま、聞いた状況のブラック会社ならそうだろう。やっぱり退職届を郵送して、有休消化して辞めるのが一番だな。未払いの残業代とかあるのか?」
「わからないぐらいに……」
「なら、それを払わせるか。聞いた仕事時間を考えれば特定受給資格者にもなるな。辞めたらすぐにハローワーク行って、貰えるもん貰ったらいい。ま、詳しくは辞めたあとだ」
「はい、わかりました……」

 ご飯を食べる前に、話がまとまってしまった。紗雪はただ一方的に言われたことを聞いていただけだ。

「もぉ! そんな怖い顔して怖い言い方しないでよね!」

 水谷の態度に、ハルが両腕を腰にあててぷんぷんと怒っている。ハルは紗雪より年上だろうが、その怒り方すら可愛い。
 けれど水谷からはそう見えなかったらしい。

「気持ち悪いからやめろ」

 眉をひそめてハルをにらむ。

「ほんっと! ほんっと! 失礼なんだから! 嫌になっちゃう!」
「事務所ではもっと穏やかに笑って優しい声を出してるよ。お前に突然呼び出されただけで、本来なら今は仕事外の時間だからな。仕事モードの俺はオフ状態なんだよ」
「ユキちゃん、ごめんね。こいつこんなんだけど、弁護士として優秀なのはアタシが保証するから!」
「ありがとうございます」

 紗雪は二人に向かって頭を下げた。水谷が彼女を見下ろす。

「大丈夫だ。俺とお節介なこいつがいれば、君は今の地獄から抜け出せる」

 途端にハルが口を尖らせた。

「本当のことでも、あんたにお節介って言われるとなんかイラッとするわね……。ま、アタシがいれば大丈夫よぉ! 最後までしっかりサポートしてあげる」

 真正面から紗雪を抱きしめてくる。
 紗雪の目の前が、急にぼやけていった。感謝の気持ちでいっぱいになっているのに、うまく言葉を発することができない。
 のども鼻も痛くて、身体が熱かった。

「こんな小さい身体で精一杯頑張ってるだもんね。大丈夫よ……大丈夫」

 背中をでられると、ますます泣きたくなる。
 ふいに水谷が呆れたような声を出した。

「おい、食うなよ」
「ちょっと、段階踏んでるところなんだから、余計なこと言わないでちょうだい」
「はいはい。じゃ、俺は帰るぞ。またなんか会ったら呼んでくれ。ま、その子のために働いてやるよ」
「そ、馬車馬のように働きなさい」
「うるさいな。お前には時間外手当、請求してやるからな」

 紗雪はぐすぐすとハルの温かい胸の中で鼻をすすった。
 そうしながらも、ハルと水谷の会話はどこか不思議だなと思う。
 水谷のハルの扱い方は、女性相手という感じがしなかった。それに先ほどの食うという言葉の意味がいまいちよくわからない。
 けれど、深く考える前に、弁護士費用のことが頭をよぎった。

「あ、あのっ!」

 水谷を呼び止めようとしたが、彼は玄関から出ていってしまったあとだ。
 失敗したと落ち込む紗雪の顔をハルが覗き込んできた。

「もしかして相談料のことを心配してるの? それは余裕ができたらちゃんと説明するわ。友達割引があるから、そんな法外な額にはならないわよ」
「でも、時間外手当って言ってました」
「それはアタシあての話よ。ユキちゃんは気にしなくてもいーの。考えるのは会社を辞めることだけにしなさい」
「……わかりました」

 お金のことは会社を辞めてからきっちりしよう。今まで使う時間がなかった給料がそれなりに残っている。
 紗雪は今はまず会社を辞めることだけを考えて、行動しようと決めた。
 ふいにハルが紗雪に謝る。

「本当、ごめんね」
「なにがですか?」
「USBには連絡待ってるとか紹介するとか書いたくせに、先走って弁護士勝手に呼んだりして。迷惑とか傲慢ごうまんだとか思ったら、言ってね」

 ハルは紗雪の手をぎゅっと握る。
 眉を下げてしょんぼりと返答を待つ彼女を、紗雪は抱きしめたくなった。勝手に、なんて思わない。動けない自分には、とてもありがたいことだ。
 会社を辞めるのが怖くて、思考が停止し、動き出してもまた恐怖に駆られる。決意して数日なのに、恐怖に呑み込まれそうになっているのだ。
 それを強制的にでも推し進めるハルは、紗雪の背中を押す大切な存在に他ならない。
 もしもっと自立していて、きちんと思考が働いていたなら、自分のことは自分でできると怒ったかもしれないが、今の紗雪にそんな気持ちはまったく湧かなかった。

「私にはこれくらいの強引さが必要なんだと思うんです。よければ、会社を辞めるまで私の背中を押してください」
「任せて! 全力で頑張るわ!」

 ハルが明るい笑みを浮かべる。

「あ、でもハルさんの仕事に支障が出ないようにしてくださいね。私のせいでなにかあったら嫌ですもん」
「大丈夫よー! ちゃんと仕事してるもの」

 そのあと紗雪はハルが作ってくれたガパオライスを食べた。
 こういうものはお店で出るメニューというイメージだったので、ますますハルに憧れる。
 余裕ができたらこういうご飯も自分で作るようになりたい。
 ハルの食事を口にしていると、普段自分が口にしているものがいかに味気あじけないか気がつく。自分のために作ってくれた料理というのはやはり特別なのだ。
 そして食事を済ませ、自分の部屋へ戻った。お風呂に入り紅茶を飲んでベッドにもぐる。
 ふいに紗雪はハルに抱きしめられた時のことを思いだした。
 女性にしては筋肉質な彼女に抱きしめられた瞬間、思わず男性に抱きしめられていると錯覚してしまった。
 失礼なことなのに、その記憶がよみがえるだけで胸の鼓動が速くなっていく。
 紗雪は自分の頬を手で押さえながらバタバタとベッドの上で転がる。バカなことをしているという自覚はある。でも、どうにもおさまらない。
 友人に言ったら、同性愛者なのか聞かれてしまいそうだ。
 もっとも、基本始発終電コースで働いている紗雪は、久しく友人に連絡を取っていなかった。
 それでも久しぶりに会って話がしたい。いろいろと聞いてほしい。
 そんなことを考えつつ、紗雪は眠りについたのだった。


 翌週の土曜日。
 休みなど関係ない状態なので、紗雪は普通に会社に行き、業務の合間に残っている有休の日数を確認した。そして引き継ぎデータを作成する。
 会社に置いてある私物は少しずつ自宅へ持って帰っていた。物がなくなりすぎると辞めようとしている日がバレて、邪魔されるかもしれないので、ある程度は残していくつもりだ。
 そう、紗雪は会社を辞める日を決めた。
 来週の水曜日だ。
 ちょうど月の最終日で、辞めるには切りがいい日。
 けれどそれ以上に、一昨日おととい自分の出した退職願が部長のゴミ箱の中に入っているのを見てしまい、耐えられなくなったのが大きい。
 予想をしていたこととはいえ、心が疲弊ひへいする。
 退職届はハルが郵便局から出してくれていた。
 本来であれば先日紹介してもらった水谷がやるものらしいが、なぜかハルが自分がやると言い張ったのでお願いしたのだ。明日には会社に届くだろう。そして、木曜日から紗雪は出社しない。
 ある程度片付けを済ませ、会社をあとにする。
 そして、最終日。彼女はそこで、会社が入っているビルを見上げた。
 三年以上ここに通い続けた。
 苦しくてつらくて目の前が真っ暗になりかけたことが何度もある。それをいい思い出とすることはできないが、やはりある程度の愛着はあった。
 勝手に辞めることで、他の社員に迷惑がかかることもわかっている。申し訳ない気持ちがないわけではない。
 紗雪は走って電車に乗り込んだ。
 振り返ってはいけない。振り返って、同僚たちのことを考えてはいけない。
 自宅マンションまでのゆるい坂道を上って彼女は部屋に戻った。なんだかとても疲れてしまったので、なにもせずに眠ることにする。
 綺麗に塗られていた爪が少しはげてしまっているのが悲しい。一生残り続けるものではないとわかっているけれど、ハルとの最初の日のことが消えていってしまうようで寂しくなる。
 この日久しぶりに、彼女は目覚ましをかけないで眠りについた。


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