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第1章:寄宿学校編〜時計の針は動き出す〜
第05話:時計師は、不協和音を調律する
しおりを挟む帝立魔術学園の朝は、規則正しく刻まれる秒針の音と共に幕を開ける。
リズは、主人が微睡みの深淵に沈んでいる二時間も前に、冷徹な意識を取り戻していた。
自室の浴室で浴びる冷水は、職人としての感覚を研ぎ澄ませるための、欠かせない儀式である。
銀髪を完璧に整え、一分の隙もない燕尾服に袖を通したリズは、鏡の中の自分を見つめ、自身の「調律」を完了させた。
廊下を挟んだ向かいの部屋。そこには、まだ昨夜の甘い余韻を引きずったままの、無防備な主人が眠っている。
リズは主人の部屋の合鍵を静かに回し、夜の帳がまだ残る薄暗い寝室へと足を踏み入れた。
「……エルゼ様、起床の時間です。あなたの完璧な一日を維持するためには、この一秒の遅れも許されません」
リズの声は、天蓋付きのベッドに横たわる少女に届いているのか、いないのか。
エルゼは「うにゃ……」と、高貴なアステリアの名からは程遠い、力ない声を漏らして寝返りを打った。
リズは躊躇することなく毛布を跳ね除け、寝ぼけ眼のエルゼを抱き上げるようにして浴室へと運んでいく。
朝のそれは、眠気を物理的に洗い流すための効率的な「処理」であった。
昨夜と同じリネンの半袖シャツ姿になったリズが、ぬるま湯でエルゼの身体を軽く流していく間、エルゼは終始、されるがままの操り人形のようであった。
「……リズ、眠いわ。昨日、あなたが隣にいたから、枕がどうとか関係なくなっちゃったじゃない」
「左様ですか。それは私の体温が、あなたの睡眠を阻害したということでしょう。合理的です」
「……理屈はいいわよ。あ、そこ。もう少し丁寧に拭いて」
エルゼは瞼を閉じたまま、リズの肩に頭を預け、まるで甘える仔猫のようなギャップを晒している。
昼間の彼女を知る者が見れば、腰を抜かすほどに幼い、無垢なまでの信頼がそこにはあった。
リズは濡れた髪をブラシで整え、ミッドナイトブルーの輝きを蘇らせていく。
「腕を通してください。一分後には、あなたは帝立魔術学園の特待生に戻らなければなりません」
「……ん。リズがやって。……うんとこしょ」
寝ぼけた声で、リズが差し出す制服の袖に、エルゼは頼りなく腕を通していく。
身なりを整え、黒を基調とした高貴な制服に身を包んだ瞬間、彼女の瞳には再び、他者を寄せ付けない鋭い光が宿り始めた。
「エルゼ様、朝食はどうされますか? 食堂へ向かえば、豪華な献立が用意されていますが」
「……いらない。今日はそんな気分じゃないわ。……講義まで、あと十分だけ寝かせて」
エルゼはそう言い残して再びソファに倒れ込み、リズは静かにその寝顔を懐中時計で計測し始めた。
帝立魔術学園での最初の講義は、『魔術回路の基礎理論と因果律の相関』。
講堂に集まった新入生たちは、各々の従者を背後に従え、緊張と興奮の入り混じった空気を醸し出している。
壇上に立った老魔術師が、黒板に複雑な術式を書き殴り、魔術がいかにして世界に影響を及ぼすかを説く。
リズはエルゼの斜め後ろで、講師の言葉を「非効率な設計図」として内心で切り捨てながら、懐中時計の微調整に没頭していた。
「魔術は神秘ではない。ただの計算ミスを強引に正当化する、粗雑な力に過ぎません」
リズの独り言は、講堂に響く講師の声にかき消されたが、隣のエルゼだけは微かに口角を上げていた。
最初の講義が終わり、休憩時間という名の、社交という戦場が幕を開ける。
廊下の一角、豪華な装飾を施されたステンドグラスの影で、不快な笑い声が響いていた。
「あら、失礼。あなたのその貧相な魔術、まるで消えかかった蝋燭のようだわ」
三人組の令嬢たちが、一人の地味目な少女を囲み、扇子を広げて嘲笑している。
少女の名はノア。彼女の背後では、従者の侍女ミーシャが、悔しさに唇を噛みながらも身分差に阻まれて動けずにいた。
「……私の『屈折』は、そんな、馬鹿にされるようなものじゃ……」
「あら、反論するつもり? 私の焔の魔術で、その小さな光を焼き尽くしてあげましょうか?」
三人組のリーダー格の令嬢が、指先に小さな炎を灯し、ノアの顔に近づけていく。
ノアの従者の侍女ミーシャが、たまらず一歩前に出ようとしたが、令嬢たちの背後に控える屈強な侍女たちに睨まれ、竦み上がってしまう。
「やめて……! 来ないで!」
追い詰められたノアが、半ばパニックになりながら、自衛のために魔術を解放した。
彼女の指先から放たれたのは、攻撃魔術ですらない、弱々しく明滅する「光の粒」。
それは標的である令嬢たちに届くことさえなく、空中で不規則な軌道を描いて、虚しく霧散していく。
「あはは! 今の何? 魔術の真似事? ただの火花の方がまだマシだわ!」
令嬢たちの嘲笑が廊下に木霊する。
だが、その光の霧散を、背後から無機質な瞳で見つめている者がいた。
(……今の揺らぎ、不自然ですね)
リズは燕尾服の隠しポケットから、特製の観測用懐中時計を音もなく取り出す。
ノアが放った光が消えた空間には、わずかな「熱の歪み」と、光子が不自然な速度で旋回した残滓が残っていた。
普通の魔術師なら見落とすような微細な現象。だが、一秒を数万に分割して認識するリズの目には、それが「極めて高精度の計算ミス」に見えていた。
「見苦しいわね。ゴミを片付けるための火を、そんな無駄なことに使うなんて」
凍てつくような冷たい声が、嘲笑に沸く廊下を一瞬で静止させた。
エルゼが、リズを伴って優雅に、かつ圧倒的な威圧感を纏ってその場に現れる。
「な、何よ、あなた。……アステリアの……!」
「名前を呼ぶ許可は与えていないわ。弱者を虐める暇があるなら、自分の醜い術式の構成を修正しなさい。見ていて反吐が出るわ」
エルゼは三人組を、まるで道端に落ちている汚物を見るような眼差しで射抜いた。
「あ、貴女……! これはいわゆる、忠告よ! 身の程を知らない者に、品位を教えてあげていただけだわ!」
「品位? 笑わせないで。束になって一人の少女を追い詰める行為の、どこに品位があるというのかしら?」
エルゼは一歩、また一歩と詰め寄り、その瞳に「時」の魔術を宿らせて微笑んだ。
「私の前で不細工な振る舞いをしないで。学園の美観が損なわれるわ。……今すぐ消えなさい」
エルゼの背後で、リズが音もなく懐中時計をカチリと鳴らした。
その瞬間、三人組の周囲の空気だけが、物理的な重圧を伴って静止したような錯覚を彼女たちに与える。
「ひ、ひぃっ……! 覚ぼ、覚えていなさいよ!」
捨て台詞を吐きながら、三人組は逃げるようにしてその場を去っていった。
廊下には、震えるノアと、その従者の侍女ミーシャ、そして泰然自若としたエルゼとリズだけが残された。
「……あ、ありがとうございます。助けていただいて……。わたしはノア・アルテミス・ルナールと申します、こっちは侍女のミーシャです」
ノアが消え入りそうな声で頭を下げると、エルゼはふんと鼻を鳴らして背を向けた。
「勘違いしないで。私はあなたが可哀想だから助けたわけじゃないわ。……ただ、あの三人のやり方が気に食わなかっただけ」
「ノア様、失礼。先ほどあなたが放った『光』についてですが」
リズが横から静かに口を挟み、ノアの眼前に立った。
「え……? あ、はい。やっぱり、ダメですよね。あんな、的にさえ当たらなくて出力の低い魔術じゃ……」
「いいえ。あなたの魔術は、出力が低いのではなく、周波数が高すぎるのです」
リズはそう断言し、懐中時計の裏蓋を開けて、極小の歯車をピンセットで示した。
「先ほどの光の霧散……あれは失敗ではありません。光を屈折させる層を、あなたは無意識に数千層も重ねて展開していました」
「え……?」
「層が多すぎて、自分自身で光の出口を塞いでしまっていただけです。……それは空間の密度を層状に変化させる、極めて精密な、時間の屈折に近い現象です」
リズの理路整然とした説明に、ノアも、その従者の侍女ミーシャも、驚愕に目を見開いた。
ミーシャが抱えていた硝子細工の道具箱が、カタカタと微かな音を立てる。
「あなたの『不器用さ』は、ただの設計ミスです。……歯車の噛み合わせを直せば、あなたは太陽の光さえも一箇所に集束させ、山を焼き払うことも可能でしょう」
「……本当、ですか?」
「私は時計師です。壊れた機械と、狂った才能の直し方は熟知しています」
リズの言葉に、ノアの瞳に小さな、けれど確かな希望の灯が宿る。
地味な少女ノアと、その側で震えながらもリズを尊敬の眼差しで見つめる侍女ミーシャ。
「檻」の中で、初めて生まれた歪な絆の予感に、学園の時計塔が、静かに午後の始まりを告げた。
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