魔術が使えない時計職人と、時を操る魔術師

駄駄駄(ダダダ)

文字の大きさ
5 / 6
第1章:寄宿学校編〜時計の針は動き出す〜

第05話:時計師は、不協和音を調律する

しおりを挟む

 帝立魔術学園の朝は、規則正しく刻まれる秒針の音と共に幕を開ける。

 リズは、主人が微睡みの深淵に沈んでいる二時間も前に、冷徹な意識を取り戻していた。

 自室の浴室で浴びる冷水は、職人としての感覚を研ぎ澄ませるための、欠かせない儀式である。

 銀髪を完璧に整え、一分の隙もない燕尾服に袖を通したリズは、鏡の中の自分を見つめ、自身の「調律」を完了させた。

 廊下を挟んだ向かいの部屋。そこには、まだ昨夜の甘い余韻を引きずったままの、無防備な主人が眠っている。

 リズは主人の部屋の合鍵を静かに回し、夜の帳がまだ残る薄暗い寝室へと足を踏み入れた。

「……エルゼ様、起床の時間です。あなたの完璧な一日を維持するためには、この一秒の遅れも許されません」

 リズの声は、天蓋付きのベッドに横たわる少女に届いているのか、いないのか。

 エルゼは「うにゃ……」と、高貴なアステリアの名からは程遠い、力ない声を漏らして寝返りを打った。

 リズは躊躇することなく毛布を跳ね除け、寝ぼけ眼のエルゼを抱き上げるようにして浴室へと運んでいく。

 朝のそれは、眠気を物理的に洗い流すための効率的な「処理」であった。

 昨夜と同じリネンの半袖シャツ姿になったリズが、ぬるま湯でエルゼの身体を軽く流していく間、エルゼは終始、されるがままの操り人形のようであった。

「……リズ、眠いわ。昨日、あなたが隣にいたから、枕がどうとか関係なくなっちゃったじゃない」

「左様ですか。それは私の体温が、あなたの睡眠を阻害したということでしょう。合理的です」

「……理屈はいいわよ。あ、そこ。もう少し丁寧に拭いて」

 エルゼは瞼を閉じたまま、リズの肩に頭を預け、まるで甘える仔猫のようなギャップを晒している。

 昼間の彼女を知る者が見れば、腰を抜かすほどに幼い、無垢なまでの信頼がそこにはあった。

 リズは濡れた髪をブラシで整え、ミッドナイトブルーの輝きを蘇らせていく。

「腕を通してください。一分後には、あなたは帝立魔術学園の特待生に戻らなければなりません」

「……ん。リズがやって。……うんとこしょ」

 寝ぼけた声で、リズが差し出す制服の袖に、エルゼは頼りなく腕を通していく。

 身なりを整え、黒を基調とした高貴な制服に身を包んだ瞬間、彼女の瞳には再び、他者を寄せ付けない鋭い光が宿り始めた。

「エルゼ様、朝食はどうされますか? 食堂へ向かえば、豪華な献立が用意されていますが」

「……いらない。今日はそんな気分じゃないわ。……講義まで、あと十分だけ寝かせて」

 エルゼはそう言い残して再びソファに倒れ込み、リズは静かにその寝顔を懐中時計で計測し始めた。

 帝立魔術学園での最初の講義は、『魔術回路の基礎理論と因果律の相関』。

 講堂に集まった新入生たちは、各々の従者を背後に従え、緊張と興奮の入り混じった空気を醸し出している。

 壇上に立った老魔術師が、黒板に複雑な術式を書き殴り、魔術がいかにして世界に影響を及ぼすかを説く。

 リズはエルゼの斜め後ろで、講師の言葉を「非効率な設計図」として内心で切り捨てながら、懐中時計の微調整に没頭していた。

「魔術は神秘ではない。ただの計算ミスを強引に正当化する、粗雑な力に過ぎません」

 リズの独り言は、講堂に響く講師の声にかき消されたが、隣のエルゼだけは微かに口角を上げていた。

 最初の講義が終わり、休憩時間という名の、社交という戦場が幕を開ける。

 廊下の一角、豪華な装飾を施されたステンドグラスの影で、不快な笑い声が響いていた。

「あら、失礼。あなたのその貧相な魔術、まるで消えかかった蝋燭のようだわ」

 三人組の令嬢たちが、一人の地味目な少女を囲み、扇子を広げて嘲笑している。

 少女の名はノア。彼女の背後では、従者の侍女ミーシャが、悔しさに唇を噛みながらも身分差に阻まれて動けずにいた。

「……私の『屈折』は、そんな、馬鹿にされるようなものじゃ……」

「あら、反論するつもり? 私の焔の魔術で、その小さな光を焼き尽くしてあげましょうか?」

 三人組のリーダー格の令嬢が、指先に小さな炎を灯し、ノアの顔に近づけていく。

 ノアの従者の侍女ミーシャが、たまらず一歩前に出ようとしたが、令嬢たちの背後に控える屈強な侍女たちに睨まれ、竦み上がってしまう。

「やめて……! 来ないで!」

 追い詰められたノアが、半ばパニックになりながら、自衛のために魔術を解放した。

 彼女の指先から放たれたのは、攻撃魔術ですらない、弱々しく明滅する「光の粒」。

 それは標的である令嬢たちに届くことさえなく、空中で不規則な軌道を描いて、虚しく霧散していく。

「あはは! 今の何? 魔術の真似事? ただの火花の方がまだマシだわ!」

 令嬢たちの嘲笑が廊下に木霊する。

 だが、その光の霧散を、背後から無機質な瞳で見つめている者がいた。

(……今の揺らぎ、不自然ですね)

 リズは燕尾服の隠しポケットから、特製の観測用懐中時計を音もなく取り出す。

 ノアが放った光が消えた空間には、わずかな「熱の歪み」と、光子が不自然な速度で旋回した残滓が残っていた。

 普通の魔術師なら見落とすような微細な現象。だが、一秒を数万に分割して認識するリズの目には、それが「極めて高精度の計算ミス」に見えていた。

「見苦しいわね。ゴミを片付けるための火を、そんな無駄なことに使うなんて」

 凍てつくような冷たい声が、嘲笑に沸く廊下を一瞬で静止させた。

 エルゼが、リズを伴って優雅に、かつ圧倒的な威圧感を纏ってその場に現れる。

「な、何よ、あなた。……アステリアの……!」

「名前を呼ぶ許可は与えていないわ。弱者を虐める暇があるなら、自分の醜い術式の構成を修正しなさい。見ていて反吐が出るわ」

 エルゼは三人組を、まるで道端に落ちている汚物を見るような眼差しで射抜いた。

「あ、貴女……! これはいわゆる、忠告よ! 身の程を知らない者に、品位を教えてあげていただけだわ!」

「品位? 笑わせないで。束になって一人の少女を追い詰める行為の、どこに品位があるというのかしら?」

 エルゼは一歩、また一歩と詰め寄り、その瞳に「時」の魔術を宿らせて微笑んだ。

「私の前で不細工な振る舞いをしないで。学園の美観が損なわれるわ。……今すぐ消えなさい」

 エルゼの背後で、リズが音もなく懐中時計をカチリと鳴らした。

 その瞬間、三人組の周囲の空気だけが、物理的な重圧を伴って静止したような錯覚を彼女たちに与える。

「ひ、ひぃっ……! 覚ぼ、覚えていなさいよ!」

 捨て台詞を吐きながら、三人組は逃げるようにしてその場を去っていった。

 廊下には、震えるノアと、その従者の侍女ミーシャ、そして泰然自若としたエルゼとリズだけが残された。

「……あ、ありがとうございます。助けていただいて……。わたしはノア・アルテミス・ルナールと申します、こっちは侍女のミーシャです」

 ノアが消え入りそうな声で頭を下げると、エルゼはふんと鼻を鳴らして背を向けた。

「勘違いしないで。私はあなたが可哀想だから助けたわけじゃないわ。……ただ、あの三人のやり方が気に食わなかっただけ」

「ノア様、失礼。先ほどあなたが放った『光』についてですが」

 リズが横から静かに口を挟み、ノアの眼前に立った。

「え……? あ、はい。やっぱり、ダメですよね。あんな、的にさえ当たらなくて出力の低い魔術じゃ……」

「いいえ。あなたの魔術は、出力が低いのではなく、周波数が高すぎるのです」

 リズはそう断言し、懐中時計の裏蓋を開けて、極小の歯車をピンセットで示した。

「先ほどの光の霧散……あれは失敗ではありません。光を屈折させる層を、あなたは無意識に数千層も重ねて展開していました」

「え……?」

「層が多すぎて、自分自身で光の出口を塞いでしまっていただけです。……それは空間の密度を層状に変化させる、極めて精密な、時間の屈折に近い現象です」

 リズの理路整然とした説明に、ノアも、その従者の侍女ミーシャも、驚愕に目を見開いた。

 ミーシャが抱えていた硝子細工の道具箱が、カタカタと微かな音を立てる。

「あなたの『不器用さ』は、ただの設計ミスです。……歯車の噛み合わせを直せば、あなたは太陽の光さえも一箇所に集束させ、山を焼き払うことも可能でしょう」

「……本当、ですか?」

「私は時計師です。壊れた機械と、狂った才能の直し方は熟知しています」

 リズの言葉に、ノアの瞳に小さな、けれど確かな希望の灯が宿る。

 地味な少女ノアと、その側で震えながらもリズを尊敬の眼差しで見つめる侍女ミーシャ。

 「檻」の中で、初めて生まれた歪な絆の予感に、学園の時計塔が、静かに午後の始まりを告げた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

巨乳すぎる新入社員が社内で〇〇されちゃった件

ナッツアーモンド
恋愛
中高生の時から巨乳すぎることがコンプレックスで悩んでいる、相模S子。新入社員として入った会社でS子を待ち受ける運命とは....。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される

clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。 状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。

ゲームの悪役パパに転生したけど、勇者になる息子が親離れしないので完全に詰んでる

街風
ファンタジー
「お前を追放する!」 ゲームの悪役貴族に転生したルドルフは、シナリオ通りに息子のハイネ(後に世界を救う勇者)を追放した。 しかし、前世では子煩悩な父親だったルドルフのこれまでの人生は、ゲームのシナリオに大きく影響を与えていた。旅にでるはずだった勇者は旅に出ず、悪人になる人は善人になっていた。勇者でもないただの中年ルドルフは魔人から世界を救えるのか。

今夜は帰さない~憧れの騎士団長と濃厚な一夜を

澤谷弥(さわたに わたる)
恋愛
ラウニは騎士団で働く事務官である。 そんな彼女が仕事で第五騎士団団長であるオリベルの執務室を訪ねると、彼の姿はなかった。 だが隣の部屋からは、彼が苦しそうに呻いている声が聞こえてきた。 そんな彼を助けようと隣室へと続く扉を開けたラウニが目にしたのは――。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

強面夫の裏の顔は妻以外には見せられません!

ましろ
恋愛
「誰がこんなことをしろと言った?」 それは夫のいる騎士団へ差し入れを届けに行った私への彼からの冷たい言葉。 挙げ句の果てに、 「用が済んだなら早く帰れっ!」 と追い返されてしまいました。 そして夜、屋敷に戻って来た夫は─── ✻ゆるふわ設定です。 気を付けていますが、誤字脱字などがある為、あとからこっそり修正することがあります。

処理中です...