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後日談
俺の愛しい年上彼女
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すっぽりと両腕に収まるエィミを、苦しくない程度にぎゅっと抱きしめる。
その小さな身体はもう震えてはいない。
顔を首筋に埋めれば、いつもと変わらない愛しい香りがする。エィミの心地よい温もりを感じる。確かにここに、俺の腕の中にエィミがいることを実感でき、俺はようやく安堵のため息をついた。
ーーエィミを失うかと思った。
《ニホン》に帰る方法はないとエィミは言っていた。兄さんも異世界からこちらに呼び寄せることはできても、反対はできないと言っていた。それにエィミは一度だって、俺の前で帰りたいと言ったことはなかった。エィミが《ニホン》に帰ることは絶対にあり得ない。
それが分かっていても尚、俺は安心することなんてできなかった。
元いた世界の方がここよりもよほど発展していて優れていたことは知っている。生活水準も高く戦もなく平和で、しかも彼女は裕福な暮らしをしていたとも。
俺と一緒にいたいと言ってくれたエィミの言葉を疑ったことはない。だけど、無理をしているんじゃないか、本当は元の世界が恋しいんじゃないかと不安になることは多々あった。帰る方法がないから仕方なく俺を選んだのかもしれない、と思ったことも。いつか急に消えてしまうんじゃないか、と不安になることも。
それでも、俺は構わなかった。
エィミが俺を選んでくれ、エィミの隣にいられるのならそれでよかった。前の世界のことなんて忘れるくらい、俺がエィミを守り幸せにするんだと固く心に誓っていた。
それに俺のことを好きだと言うエィミの想いは間違いなく本物だったし、俺の方が何倍もエィミのことを好きだとしてもそれで良かった。俺と同じ重さの愛情を返してほしいなんて、そんな馬鹿げたことを思ったことはない。
でもさっき、エィミに《ニホン》に帰りたいと言われた時、一瞬にして目の前が真っ暗になった。
世界から色が消え、世界そのものがなくなって無と化した。いや、絶望と怒りによって世界の全てが真っ黒に塗りつぶされたようだった。
気が付けば俺はエィミの手を引いて、歩き出していた。その時の記憶はあまりない。
とにかくエィミを絶対に離さないと思っていたのだけは覚えている。
目の前に映る世界以上に俺の中は深い深い闇に包まれていた。
心が落ち着いた所で一度身体を離し、エィミの腕をそっと取る。ほっそりとした白いエィミの手首に赤い痕が見え、途端に後悔の念に苛まれた。
「ごめん。痛かったよね」
赤くなったところをそっと撫で、謝罪を口にする。そんな自分が馬鹿らしくって、殴り飛ばしたくなった。それなのにエィミは何でもないというようにふわっと笑う。年上の彼女にまた気を使わせてしまったことが、自分の中の劣等感を大きくする。
俺のことを頼ってほしい、守ってあげたいなんて思ってるくせに、肝心なところで俺は大人になりきれない。気持ちばかりが焦って、その中身は全然成長していないガキのまんまだ。
いつまでたってもエィミの隣に立つことができない自分がもどかしい。
「大丈夫。私こそ、ごめん。ジョセフに酷いこと言った」
「謝るようなこと、何か言ったっけ?」
泣きたくなる気持ちを堪えてそう言えば、エィミが申し訳なさそうに項垂れた。
「……言ったよ。日本に帰りたいって。嘘でも言っちゃいけないことだった」
「嘘なの?」
「え?」
「帰りたいって、本当は思ってないの?」
真偽を確かめるようにエィミの黒い瞳を覗き込めば、そこには喜びを隠しきれない顔をした俺が映っていた。
エィミに帰りたいと言われたことはなかった。
だけど、帰りたくないとも言われたことはなかった。そのことに俺はずっと引っかかりを感じていた。
優しいエィミは俺を気遣ってそう言ったのかもしれない。その可能性は十分にある。
ーーでも。もし、本当に《ニホン》に帰りたくないと思っているのなら。
祈るような気持ちでエィミをじっと見つめれば、それに耐えきれなくなったエィミがふいっと視線を反らす。
ああ、やっぱり違うのかと肩を落としそうになった時、エィミが早口で呟いた。
「そりゃ、懐かしくはなるけど。でも、帰ってもジョセフがいないんじゃ意味ないし」
「……ごめん、聞こえなかった。もう一度言って?」
「え?」
嘘だ。ばっちり聞こえていた。一語一句覚えている。でも、まだ信じられなくて、もう一度言葉にしてほしくてそう言えば、エィミが顔を赤らめ、口をパクパクさせた。
「だから、えっと。帰るなら、ジョセフもいないと寂しいかなって。ほら、案内とかしてあげー」
エィミの言葉を遮る様に、きつく抱きしめる。
「もう一度、言ってほしい」
懇願する様に耳元でそう言えば、エィミの身体がビクッと跳ねた。
お願いだから、もう一度口にしてほしい。言葉で俺のことを必要だと、そう言ってほしい。
「……ジョセフと、一緒にいたい」
「うん」
「日本とか異世界とか、どうでもいいの。ジョセフがいれば、どこでも。ジョセフがいないと、駄目なの」
「…うん…うん。俺も。エィミがいないと意味がない」
エィミの言葉に、全身がうち震える。
エィミが俺の背中に手をまわし、そっと触れる。そのことに安堵して、俺は更に力を籠めた。
絶対に離さない、離してほしくない。ずっとずっと一緒にいたい。そう願いを込めて。
エィミの言葉が俺の中を温かなもので満たしていく。彼女の存在が俺の世界を色付かせる。
エィミはさっき俺に依存しているなんて言っていたけど、そんなこと言ったら俺の方が断然重症だ。
彼女は全くもって何にもわかっちゃいない。
俺の中で彼女の存在がどんなものなのか。どれだけを占めているのか。俺がどれだけ彼女に溺れているのか。彼女以外の人間には俺の常識の範囲内から逸脱している想いがあからさまにバレているというのに、どうして彼女には伝わらないのか不思議でたまらない。
「キスしてもいい?」
「え?う、うん」
抱きしめたまま耳元で囁くと、エィミの身体が少しだけ強張る。恐る恐る顔を覗き込んでみれば、エィミは恥ずかしそうに顔を赤く染めていて、そこに嫌悪の色は見当たらず拒否されなかったことにホッとした。
過去に犯した愚行をテレスティアに暴露され、軽蔑されてしまったのではないかと不安だった。
身体を売って生活していたわけでも女性に面倒を見てもらっていたわけでもないが、確かに俺は金銭を貰う見返りに女性を抱いたことがある。
お金もなくやることもなく、ただ日々をだらだらと過ごしていた時に誘われて、何も考えずに俺はその行為に同意した。もちろんそこに恋愛感情なんてものはない。相手の女性は大抵裕福な貴族の未亡人や、高齢な旦那をもつ夫人だったため、大した罪悪感も湧かなかったし、お金を貰って後腐れなくセックス出来るのならいいか。そんな軽い気持ちだった。
結局セックスをすることすら面倒になり、実際に事に及んだのはたった数回だったが、それを今ものすごく後悔している。
初めからあんなことやらなければよかったと思うし、テレスティアにあんな形でバラされるくらいなら自分の口から言えばよかった。
だけど、俺はどうしても言えなかったんだ。
あの時の、今まで生きてきた中で一番格好悪くて消してしまいたいと思っていた時の自分のことなんて、エィミに知られたくなかった。言って、軽蔑されたり落胆されたくなかった。そのことがきっかけで見限られたらと思うと、全身が凍り付いたかのように動かなくなって、俺はどうしても自分からは言えなかったんだ。
そっと触れ合うだけのキスをして離す。閉じた瞳をゆっくりと開けたエィミは不思議そうに目を瞬いた。
「俺のこと、軽蔑しない?」
「どうして?」
「金で女性を抱くような奴だって」
このまま話を掘り返さなければ、エィミは多分何も聞いてこない。それでいい。聞かないでほしいと思っていたのに、俺は自分の内にその苦しみを溜め込んでおくことができず、懺悔する様にそう口にした。
そう。自分の犯した愚行も痴態も全て、優しい年上の彼女に包み込んでほしくて、そんな俺を許して認めてほしくて、自分が楽になりたいためだけに敢えてエィミに投げかけた。
多分、彼女はそうしてくれるとわかっていたから。
弱くてずるくて卑怯なのは自覚してる。格好悪くてガキ臭くってみっともない奴だってことも分かってる。
でも、俺は言葉で許されたかった。エィミにそんなことないと、否定してほしかった。
そして、安心したかったんだ。
目の前のエィミは真ん丸の目を少し細め、俺の予想に反して自嘲する様に小さく笑った。
「私も、似たようなものだったから」
「え?」
「……もし、私もジョセフと同じようなことをしてたら。軽蔑する?」
エィミが予想だにしていなかったことを言い、一瞬思考停止した。
ーー俺と同じこと。
その意味を理解し想像した瞬間、一気に頭が怒りで沸いた。エィミを抱いていた男、その男に抱かれるエィミ。考えたくもない。そんな事実は認めたくない。
ーーだけど。
「しないよ。するわけがない」
怒りの炎を胸に燻ぶらせたまま、俺はそれを即座に否定した。
エィミがどんな経緯で過去の男に抱かれていたって、彼女のことを軽蔑するはずがない。彼女に対する怒りも湧かない。
そこにあるのは、どうしようもなく抑えきれない嫉妬だけだ。
「ねえ。キス、したい」
そっと両頬を包まれ視線を上げる。エィミと視線を合わせると、エィミが泣きそうな顔をしたまま、小さく笑った。
そのまま引き寄せられるように唇を重ねる。
言いたいこと、聞きたいこと、言えないこと、聞けないこと。
その全てをぶつけるように深いキスを交わす。舌を差し入れ、かき混ぜ、溢れてくる唾液を飲み込む。歯の一本一本を確かめるようになぞり、舌を吸う。お互いの舌を絡め、唇を合わせ、軽く食む。
激しく、貪欲に。優しく、包み込むように。
まるでキスをしないと死んでしまうかのように必死になって、ひたすらお互いの唇を求め合った。
今、俺達に言葉はいらなかった。
我武者羅に唇を重ね合わせることで、キスに自分の想いを乗せて意思を共有しているような。そんな不思議な感覚だった。
心の中に燻ぶっていたモヤモヤが消えていく。言葉を交わしていなくても、今俺たちは会話をしていた。お互いの想いをあますことなく晒して、理解して、それを許す。
これ以上の言葉は、何もいらなかった。
激しいキスが多少穏やかになった頃、エィミがそっと顔を離した。名残惜しくて追いかけるように最後ちゅっと唇を重ねれば、二人の間に糸が引く。それをぺろりと舐めとれば、エィミが恥ずかしそうに俯いた。
窓から差し込む明かりは赤く染まっていて、今がもう夕暮れの時間帯であることを教えてくれる。夕焼けよりも更に鮮やかに染まる彼女の頬を見て、どうしようもなく愛おしさが込み上げてきた。
ーー俺の愛しい年上彼女。
今は俺よりも年下のいたいけな少女のようにも見える。その顔は、俺だけのもの。俺の前だけ、彼女は幼さを見せることを知っている。そして、その事実が俺を救う。
さっきまでの激情はすっかり収まり、俺の心の中は穏やかになっていた。
彼女の言葉一つで容易く俺の中は、黒にも白にも、何色にでも染まる。こんな想いを誰かに抱いたことなんてない。俺にとって、唯一無二の、かけがえのない存在。
本当の意味でエィミがいないと生きていけないのは俺だ。
その甘い蜜をもう一度味わいたくて顔を寄せると、エィミが焦ったように俺の胸を叩いた。
「あ、待って。あの、ここって」
あともう少しで唇が触れ合うという所でそう聞かれ、俺は惜しみながら顔を離した。
「ああ、そう言えば説明がまだだったね」
一回息を吐いて、玄関に飾られているタペストリーを示せば、エィミはすぐに納得したようだった。説明をしなくてもすぐに理解してしまう頭の回転が速い彼女に苦笑する。
「ここは伯爵所有のタウンハウス。今日はこのままここに泊まるつもりでいたんだ」
「え、でも明日は」
「仕事は休み。俺もエィミも。ちゃんと女中長に了承ももらってるから、心配しなくても大丈夫だよ」
「そんな、いつの間に!」
驚いて声を荒げるエィミを見て、俺は思わずほくそ笑んだ。
こうやって、大人な彼女を翻弄したかったんだ。
いつも冷静で落ち着き払っている彼女じゃない、ありのままそのまんまの彼女が見たくて、裏でこそこそと根回しし、無事その努力は実を結んだという訳だ。
「エィミを驚かせようと思って黙ってた。事前に管理人に連絡してこの家の掃除や買い出しはしてもらってあるし、今この家には俺達以外は誰もいないよ。他に質問はある?何でも言って」
「き、着替えとか」
「ちゃんとエィミの分も用意してあるよ。もちろん、下着もね」
クローゼットの中いっぱいに用意したものを思い浮かべ、ククッと笑えば、エィミが何か言いたげにわなわなと口を動かす。その頬は相変わらず赤い。
ーーああ、本当に可愛い。何なの、その顔。無防備すぎるよ、全く。
大きく息を吐いてエィミをぎゅっと抱きしめる。
「ごめん、もう待てない」
「きゃっ」
素早く膝裏に腕を回し抱き上げれば、エィミが焦ったように声を上げた。
横抱きにしたまま強引に唇を寄せれば、困ったように眉を下げながらもエィミが笑う。そして、俺の首に両腕を巻き付け、二人唇を重ね合わせた。
その小さな身体はもう震えてはいない。
顔を首筋に埋めれば、いつもと変わらない愛しい香りがする。エィミの心地よい温もりを感じる。確かにここに、俺の腕の中にエィミがいることを実感でき、俺はようやく安堵のため息をついた。
ーーエィミを失うかと思った。
《ニホン》に帰る方法はないとエィミは言っていた。兄さんも異世界からこちらに呼び寄せることはできても、反対はできないと言っていた。それにエィミは一度だって、俺の前で帰りたいと言ったことはなかった。エィミが《ニホン》に帰ることは絶対にあり得ない。
それが分かっていても尚、俺は安心することなんてできなかった。
元いた世界の方がここよりもよほど発展していて優れていたことは知っている。生活水準も高く戦もなく平和で、しかも彼女は裕福な暮らしをしていたとも。
俺と一緒にいたいと言ってくれたエィミの言葉を疑ったことはない。だけど、無理をしているんじゃないか、本当は元の世界が恋しいんじゃないかと不安になることは多々あった。帰る方法がないから仕方なく俺を選んだのかもしれない、と思ったことも。いつか急に消えてしまうんじゃないか、と不安になることも。
それでも、俺は構わなかった。
エィミが俺を選んでくれ、エィミの隣にいられるのならそれでよかった。前の世界のことなんて忘れるくらい、俺がエィミを守り幸せにするんだと固く心に誓っていた。
それに俺のことを好きだと言うエィミの想いは間違いなく本物だったし、俺の方が何倍もエィミのことを好きだとしてもそれで良かった。俺と同じ重さの愛情を返してほしいなんて、そんな馬鹿げたことを思ったことはない。
でもさっき、エィミに《ニホン》に帰りたいと言われた時、一瞬にして目の前が真っ暗になった。
世界から色が消え、世界そのものがなくなって無と化した。いや、絶望と怒りによって世界の全てが真っ黒に塗りつぶされたようだった。
気が付けば俺はエィミの手を引いて、歩き出していた。その時の記憶はあまりない。
とにかくエィミを絶対に離さないと思っていたのだけは覚えている。
目の前に映る世界以上に俺の中は深い深い闇に包まれていた。
心が落ち着いた所で一度身体を離し、エィミの腕をそっと取る。ほっそりとした白いエィミの手首に赤い痕が見え、途端に後悔の念に苛まれた。
「ごめん。痛かったよね」
赤くなったところをそっと撫で、謝罪を口にする。そんな自分が馬鹿らしくって、殴り飛ばしたくなった。それなのにエィミは何でもないというようにふわっと笑う。年上の彼女にまた気を使わせてしまったことが、自分の中の劣等感を大きくする。
俺のことを頼ってほしい、守ってあげたいなんて思ってるくせに、肝心なところで俺は大人になりきれない。気持ちばかりが焦って、その中身は全然成長していないガキのまんまだ。
いつまでたってもエィミの隣に立つことができない自分がもどかしい。
「大丈夫。私こそ、ごめん。ジョセフに酷いこと言った」
「謝るようなこと、何か言ったっけ?」
泣きたくなる気持ちを堪えてそう言えば、エィミが申し訳なさそうに項垂れた。
「……言ったよ。日本に帰りたいって。嘘でも言っちゃいけないことだった」
「嘘なの?」
「え?」
「帰りたいって、本当は思ってないの?」
真偽を確かめるようにエィミの黒い瞳を覗き込めば、そこには喜びを隠しきれない顔をした俺が映っていた。
エィミに帰りたいと言われたことはなかった。
だけど、帰りたくないとも言われたことはなかった。そのことに俺はずっと引っかかりを感じていた。
優しいエィミは俺を気遣ってそう言ったのかもしれない。その可能性は十分にある。
ーーでも。もし、本当に《ニホン》に帰りたくないと思っているのなら。
祈るような気持ちでエィミをじっと見つめれば、それに耐えきれなくなったエィミがふいっと視線を反らす。
ああ、やっぱり違うのかと肩を落としそうになった時、エィミが早口で呟いた。
「そりゃ、懐かしくはなるけど。でも、帰ってもジョセフがいないんじゃ意味ないし」
「……ごめん、聞こえなかった。もう一度言って?」
「え?」
嘘だ。ばっちり聞こえていた。一語一句覚えている。でも、まだ信じられなくて、もう一度言葉にしてほしくてそう言えば、エィミが顔を赤らめ、口をパクパクさせた。
「だから、えっと。帰るなら、ジョセフもいないと寂しいかなって。ほら、案内とかしてあげー」
エィミの言葉を遮る様に、きつく抱きしめる。
「もう一度、言ってほしい」
懇願する様に耳元でそう言えば、エィミの身体がビクッと跳ねた。
お願いだから、もう一度口にしてほしい。言葉で俺のことを必要だと、そう言ってほしい。
「……ジョセフと、一緒にいたい」
「うん」
「日本とか異世界とか、どうでもいいの。ジョセフがいれば、どこでも。ジョセフがいないと、駄目なの」
「…うん…うん。俺も。エィミがいないと意味がない」
エィミの言葉に、全身がうち震える。
エィミが俺の背中に手をまわし、そっと触れる。そのことに安堵して、俺は更に力を籠めた。
絶対に離さない、離してほしくない。ずっとずっと一緒にいたい。そう願いを込めて。
エィミの言葉が俺の中を温かなもので満たしていく。彼女の存在が俺の世界を色付かせる。
エィミはさっき俺に依存しているなんて言っていたけど、そんなこと言ったら俺の方が断然重症だ。
彼女は全くもって何にもわかっちゃいない。
俺の中で彼女の存在がどんなものなのか。どれだけを占めているのか。俺がどれだけ彼女に溺れているのか。彼女以外の人間には俺の常識の範囲内から逸脱している想いがあからさまにバレているというのに、どうして彼女には伝わらないのか不思議でたまらない。
「キスしてもいい?」
「え?う、うん」
抱きしめたまま耳元で囁くと、エィミの身体が少しだけ強張る。恐る恐る顔を覗き込んでみれば、エィミは恥ずかしそうに顔を赤く染めていて、そこに嫌悪の色は見当たらず拒否されなかったことにホッとした。
過去に犯した愚行をテレスティアに暴露され、軽蔑されてしまったのではないかと不安だった。
身体を売って生活していたわけでも女性に面倒を見てもらっていたわけでもないが、確かに俺は金銭を貰う見返りに女性を抱いたことがある。
お金もなくやることもなく、ただ日々をだらだらと過ごしていた時に誘われて、何も考えずに俺はその行為に同意した。もちろんそこに恋愛感情なんてものはない。相手の女性は大抵裕福な貴族の未亡人や、高齢な旦那をもつ夫人だったため、大した罪悪感も湧かなかったし、お金を貰って後腐れなくセックス出来るのならいいか。そんな軽い気持ちだった。
結局セックスをすることすら面倒になり、実際に事に及んだのはたった数回だったが、それを今ものすごく後悔している。
初めからあんなことやらなければよかったと思うし、テレスティアにあんな形でバラされるくらいなら自分の口から言えばよかった。
だけど、俺はどうしても言えなかったんだ。
あの時の、今まで生きてきた中で一番格好悪くて消してしまいたいと思っていた時の自分のことなんて、エィミに知られたくなかった。言って、軽蔑されたり落胆されたくなかった。そのことがきっかけで見限られたらと思うと、全身が凍り付いたかのように動かなくなって、俺はどうしても自分からは言えなかったんだ。
そっと触れ合うだけのキスをして離す。閉じた瞳をゆっくりと開けたエィミは不思議そうに目を瞬いた。
「俺のこと、軽蔑しない?」
「どうして?」
「金で女性を抱くような奴だって」
このまま話を掘り返さなければ、エィミは多分何も聞いてこない。それでいい。聞かないでほしいと思っていたのに、俺は自分の内にその苦しみを溜め込んでおくことができず、懺悔する様にそう口にした。
そう。自分の犯した愚行も痴態も全て、優しい年上の彼女に包み込んでほしくて、そんな俺を許して認めてほしくて、自分が楽になりたいためだけに敢えてエィミに投げかけた。
多分、彼女はそうしてくれるとわかっていたから。
弱くてずるくて卑怯なのは自覚してる。格好悪くてガキ臭くってみっともない奴だってことも分かってる。
でも、俺は言葉で許されたかった。エィミにそんなことないと、否定してほしかった。
そして、安心したかったんだ。
目の前のエィミは真ん丸の目を少し細め、俺の予想に反して自嘲する様に小さく笑った。
「私も、似たようなものだったから」
「え?」
「……もし、私もジョセフと同じようなことをしてたら。軽蔑する?」
エィミが予想だにしていなかったことを言い、一瞬思考停止した。
ーー俺と同じこと。
その意味を理解し想像した瞬間、一気に頭が怒りで沸いた。エィミを抱いていた男、その男に抱かれるエィミ。考えたくもない。そんな事実は認めたくない。
ーーだけど。
「しないよ。するわけがない」
怒りの炎を胸に燻ぶらせたまま、俺はそれを即座に否定した。
エィミがどんな経緯で過去の男に抱かれていたって、彼女のことを軽蔑するはずがない。彼女に対する怒りも湧かない。
そこにあるのは、どうしようもなく抑えきれない嫉妬だけだ。
「ねえ。キス、したい」
そっと両頬を包まれ視線を上げる。エィミと視線を合わせると、エィミが泣きそうな顔をしたまま、小さく笑った。
そのまま引き寄せられるように唇を重ねる。
言いたいこと、聞きたいこと、言えないこと、聞けないこと。
その全てをぶつけるように深いキスを交わす。舌を差し入れ、かき混ぜ、溢れてくる唾液を飲み込む。歯の一本一本を確かめるようになぞり、舌を吸う。お互いの舌を絡め、唇を合わせ、軽く食む。
激しく、貪欲に。優しく、包み込むように。
まるでキスをしないと死んでしまうかのように必死になって、ひたすらお互いの唇を求め合った。
今、俺達に言葉はいらなかった。
我武者羅に唇を重ね合わせることで、キスに自分の想いを乗せて意思を共有しているような。そんな不思議な感覚だった。
心の中に燻ぶっていたモヤモヤが消えていく。言葉を交わしていなくても、今俺たちは会話をしていた。お互いの想いをあますことなく晒して、理解して、それを許す。
これ以上の言葉は、何もいらなかった。
激しいキスが多少穏やかになった頃、エィミがそっと顔を離した。名残惜しくて追いかけるように最後ちゅっと唇を重ねれば、二人の間に糸が引く。それをぺろりと舐めとれば、エィミが恥ずかしそうに俯いた。
窓から差し込む明かりは赤く染まっていて、今がもう夕暮れの時間帯であることを教えてくれる。夕焼けよりも更に鮮やかに染まる彼女の頬を見て、どうしようもなく愛おしさが込み上げてきた。
ーー俺の愛しい年上彼女。
今は俺よりも年下のいたいけな少女のようにも見える。その顔は、俺だけのもの。俺の前だけ、彼女は幼さを見せることを知っている。そして、その事実が俺を救う。
さっきまでの激情はすっかり収まり、俺の心の中は穏やかになっていた。
彼女の言葉一つで容易く俺の中は、黒にも白にも、何色にでも染まる。こんな想いを誰かに抱いたことなんてない。俺にとって、唯一無二の、かけがえのない存在。
本当の意味でエィミがいないと生きていけないのは俺だ。
その甘い蜜をもう一度味わいたくて顔を寄せると、エィミが焦ったように俺の胸を叩いた。
「あ、待って。あの、ここって」
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「え、でも明日は」
「仕事は休み。俺もエィミも。ちゃんと女中長に了承ももらってるから、心配しなくても大丈夫だよ」
「そんな、いつの間に!」
驚いて声を荒げるエィミを見て、俺は思わずほくそ笑んだ。
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「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」
そう言って……。
「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」
そして隼理くんは……。
……‼
しゅっ……隼理くん……っ。
そんなことをされたら……。
隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。
……だけど……。
え……。
誰……?
誰なの……?
その人はいったい誰なの、隼理くん。
ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。
その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。
でも。
でも訊けない。
隼理くんに直接訊くことなんて。
私にはできない。
私は。
私は、これから先、一体どうすればいいの……?
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