宇宙に恋する夏休み

桜井 うどん

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ぬるい林檎と、サボテンと

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 街を歩いていて、変な人に会った。
 特別不快なことはなかったけれど、わざと外したような話し方や、いかにも風変わり、というような服装に違和感があって、嫌悪感も、少し、あった。そういう意地悪な見方をする自分は好きではないから、あまり考えないようにした。それは日常的に行われる感情の処理の範疇だったから、無理にそうした訳ではない。ただ、変な人がいたな、と、時々思い出した。
 社会人になって二年目の夏が始まったばかりだった。
 
 次に日向に会ったのは、一週間後のことだった。
 仕事が休みだった私は、街をぶらぶらしていた。
 することがなくて、したいこともなかった。
 朝、起きたときに、一瞬だけ年上の男の顔が思い浮かんだけれど、特に約束もなかったし、それに、あの人は今、家族と一緒に過ごしているはずだった。
 それでも会いたいほどの、情熱がある訳でもなかった。
 だから仕方なく、駅前のショッピングセンターに出かけていたのだった。
 所詮地方都市の大型小売店、多少垢抜けないしたいしたものもないけれど、新しい品物が明るい空間の中にたくさんきらきらしていると、ちょっと眺めているうちに全部欲しくなってしまう。そういう時、私は上の階から品物をじっくり見ながら降りてくる。三千円ぐらいなら使ってもいいかな、と思いながら、これは、と思うものを探す。一時間半くらいすると、大体どれもいらなくなる。夢から覚めたようで、選んでいる間は楽しいけれど、むなしい。
 二時間後、結局何も買わずにショッピングセンターを出た。
 自動ドアの前で、私は立ち止まって時計を見た。まだ午後一時過ぎだった。
 家に帰って、昼食を食べてテレビを見て、洗濯をして、おやつを食べながらテレビを見て、雑誌を読んで、またテレビを見て、お風呂に入って、化粧水と乳液を肌に塗込んで(誰のために?)、晩御飯は多分クラッカーか冷蔵庫の残りをちょっとだけ摘んで、パソコンをちょっと開いてお気に入りのサイトをちょっと見て、またまたテレビを見て、寝る。
 昨日もそうだった。先週の日曜日も。その前日の土曜日は家を出なかったから、そんなことを一日中やっていた。
 ……。
 図書館にでも行こう。
 読みたい本はなかったけれど、行けば何か見つかるかもしれない。しかし最近本を読んで感情が揺れ動かされたことがない。帰り遠くなる、面倒くさい、と後ろ向きなことを考えながらも、私は図書館へ向かうために通りを歩き始めていた。それくらい暇だったのだ。
 くすんだ町並みをずっと歩いていくと、赤い高架橋が見えてくる。そこから二分ほど坂道を下ったところに、図書館がある。高架橋の上を、オレンジ色の電車が通過していた。橋の下に入ると、体に振動が伝わってきた。
 突然、腕を掴まれた。
 振り向いてみると、あの子がいた。
「みさきちゃん!」
 自分の名前を呼ばれて、かろうじて相手の名前を思い出した。
「日向さん」
 苗字は思い出せなかったので、必然的に下の名前になった。にかっと笑った顔がおひさまみたいだったから、下の名前はなんとか思い出すことが出来た。相変わらず、髪の毛は色とりどりのゴムで雑にくくられているが、今日の服装はこの前と比べると普通で、ひまわりの絵柄が小さくプリントされた白いTシャツに、ぶかぶかのジーパンをはいている。
「日向でいいよ!」
 日向は心底うれしそうに、にかっと笑った。
「実は来てくれないと思ってたんだ。なんか後でね、説明分かりにくかったかなーって思ってね、本当に、ごめんね。今、買い物行こうと思ってたんだけど、あ、でも帰って、っていう意味じゃなくって。リンゴくらいしか出せるものないんだけど、あがってって」
 言葉がトランポリンのように跳ねていた。あまりにつたないけれど、喜んでくれているということは伝わった。
「えっと、『あがって』って、近くに住んでるの?」
「うちに来てくれたんじゃないの?」
 日向が首をかしげた。
「うん。図書館に行こうと思ってた」
「帰りに寄らない?」
 日向は熱心に言った。
 どうして赤の他人に等しい私なんかに、そんなに家に来て欲しがるのだろう、この子は。
 世間擦れした私の頭を、悪徳商法か宗教の勧誘じゃないだろうか、という意地悪な考えがよぎったが、日向の印象はそういうものからは乖離している。庭で遊んでいる子犬が、膝に飛びついてくるような感じだった。
 まだ私の腕につかまっている、体の熱さも含めて。
「どうせ暇だから、今からでもいいけど」
 嘘をついて断ると、自分がものすごく悪者に感じられるような気がして、言った。
 日向の表情が、ぱっと輝いた。
「じゃあ、入って。あの、恥ずかしながら私のおうちです」
 指をきっちり揃えて指し示した方角には、古びた倉庫があった。ところどころ錆びて茶色くなっているし、水色のペンキは褪せて汚れてほとんど灰色になっている。そしてなぜかこれだけピカピカのホワイトボードが扉に貼り付けてあって、ひょろひょろとした黒いマジックで書かれている。
『ひなた』
 ……確かに周りに家とか、アパートがないから、もしかしたらとは思ったのだが。
 引き返すこともできず、私はしぶしぶ日向の後ろについていった。
 変なサボテンが入り口のところにあった。紫が混じった緑色の、直径一センチくらいで長さが七センチくらいある棒状のサボテンが、二十本以上にょきにょき生えて、横倒しになって転がっていた。毛がたくさん生えていて、毛虫の群れみたいで気持ち悪い。
「何、これ」
 私が聞くと、
「サボテン」
 と、日向が答えた。
 サボテンは分かってるっつーの、と心の中でつぶやいていると、日向は、
「あ、友達がくれたから詳しいことは分からない」
 と、慌てて言った。
「ごめんね」
 とても真剣に、日向が謝った様子がおかしくて、私は吹き出した。
「いいよ」
 中にはいると、むっとした空気が顔にまとわりついてきた。「おうち」と言っているぐらいだから住んでいるのだろうけれど、こんなところで本当に住めるのだろうか。クーラーはおろか扇風機もないようだし、天井裏というものがなくて壁も屋根も薄いのだから、一般的な平屋の家より絶対に、暑い。熱中症になりそうだ。家具らしいものは、小さなちゃぶ台と隅に折りたたんだ布団。当然といえば当然だが台所はないようで、小さなカセットコンロと、壁から直接出ている蛇口の下に、ピンク色の、いかにも風呂用な洗面器が置いてあった。隅の方に寄せて積み上げられた衣服や、一つ抜けて四つ縦に並んでいるティッシュの箱やそのあたりに散らばっている細々としたものが、かろうじて生活感を出していた。
「トイレはどうしてるの?」
「近くに図書館があるでしょ?開いてない時間はコンビニのトイレも借りられるから、あんまり困らない。ちゃんとお礼みたいな感じで、カップラーメンとか買って帰るよ。お湯も入れられるし」
「お風呂は?」
「銭湯」
「料理は?」
「しない」
「不便じゃない? というか、外食ばっかりで体調悪くならない?」
「今のところ大丈夫」
 倉庫はバイト先で仲良くなった、運送会社のおじさんに借りたのだという。この間まではちゃんと倉庫として使っていたのだが、区画整理事業で立ち退くことになり、片付けた後のちょっとの間なら好きに使っても良いよということになったらしい。しかしそのおじさんだって、まさかこの真夏の倉庫に女の子が住んでいるとは思わないだろう。食べ物なんか余裕で腐りそうだ。
「はい、どうぞ」
 まさにその時りんごが差し出された。
 見た目は普通だったのでおそるおそる手を出したが、ちょっとぬるくて水分が少ないくらいで、味に異常はなかった。
「おいしい?」
「…うん、まあ」
「でもなんかみずみずしくないでしょ?」
「知ってて出したの?」
 少しだけむっとした。「おいしい?」なんて訊いておいて。どう答えればいいというのだ。
「りんごしかなかったのは本当なんだけど。みさきちゃん、私の言動にいちいち引いてるみたいだったから、言ってみた」
「じゃあなんでそんな奴家に呼んだり、呼び止めたりするの」
 ちょっと声が裏返って、感情的になっている自分に驚いた。普段なら、こんなにすぐかっとなったりしないはずなのに。
 日向は俯いて、ぼそぼそと言った。
「気になってること言ってしまわないと、あんまり仲良くなれないかなって思った。わたし意地悪なの、根っこがね。だからいいってことじゃないんだけど。ごめんね」
 いいよ、とか、気にしてないよ、とか、なんとなく言いそびれた。アブラゼミの声が遠くに聞こえる。すぐそ側にある車道をトラックが走る。地面が震える。
 ほんとうに、なんなんだろう、この子。
 今まで、社交的ではないけれど、それなりに大勢の人と出会って、話をしたり、仲良くなったりして来た。色々な子がいたし、ちょっとぶっ飛んだ感じの子もいた。でも彼女たちは暗黙のうちに「それらしく」振舞っていて、たとえばそれが聞いているCDの趣味や服の趣味に現れて、その線を越えることはほとんどなかった。だから、「変わった子」といわれていても、ある程度安心して付き合うことができた。
 今、急に見透かされたようなことを言われて、動揺してしまった。これくらいのこと、さらっという人も世の中にはたくさんいるのに、タイプが違うと思うと安心してしまう。
 演じてしまえば滞らないのに。
 きっと、それくらい不器用なのだ。
「あのポストカードって、どうやって作ってるの?」
 返事を返すより、話題を変えるほうが簡単かな、と思って言ってみた。
「ああ、あれ? ちょっと待ってね」
 そう言うと、日向は部屋の隅に放り出してあった木製の四角い鞄をちゃぶ台の上に持ってきた。鞄を開くと、中には束にした葉書や画材が詰め込まれていた。雑然とした部屋の風景とは裏腹に、一つ一つの道具に居場所が決められているような綺麗な並べ方をしていて、それらに対する日向の愛着を感じた。
「絵の具?」
「うん」
「全部手描きなんだ」
 白いプラスチックケースの中には、青色絵の具のチューブが7本、赤と黄と白のチューブがそれぞれ一本ずつ並べられていた。水彩絵の具の匂いが、ふわっと漂ってきた。
「四色しかないの?」
「三原色があれば、白以外の色は作れるよ」
「青が多いよね」
「ポストカードしか描いてないから」
「飽きない?」
「飽きたらやらない」
「何してるの? ここで」
「ポストカードを描きながら生活してる」
 質問が思いつかなかったので、黙ってしまった。日向は日向で返事をちゃんと返してくれるのだが、会話が全然弾まない。
「あ、そうだ」
 日向はペットボトルの緑茶を紙コップに注いでくれた。口が渇いていたのですぐに飲む。ぬるかった。
「ありがとう」
 でも、一応お礼を言った。
 そしたら日向が、にこっと笑った。
「嬉しい」
「どうして?」
「仲良くなりたかったから。目の前にいてくれて、嬉しい」
 そんなふうに無邪気に言われたことがなかったので、私は面食らった。
「……ありがとう」
「こちらこそ」
 そして、会話が終わった。
 日向ももう話し始めるきっかけを見失ってしまったらしく、落ち着きなく視線を動かしては時々私の様子をうかがった。
 私は黙ったまま、目の前に浮いている小さな羽虫の動きを三分くらい目で追っていた。
「……あ、図書館閉まるから、行くね」
 沈黙に耐えきれず、口に出した。最悪のタイミングだったけれど、仕方がない。
「……えっと、うん。来てくれて、ありがとう」
 でも、戸惑いながらも、日向はきちんとお礼を言って立ち上がった。
「送って行こうか?」
「いやいや、図書館への道くらい、分かるし」
「よく来てるの?」
「うん、まぁ、そこそこ」
「じゃあ、また寄ってね」
「ありがとう」
 言いながら、もう来ないだろうな、と思った。
 日向のことは嫌いになれなかった。でも、たまらなく居心地が悪かった。
 外に出たら、夕方の風が、じっとりと汗をかいた首筋をふっと撫でていった。
 日向が手を振ってくれたけれど、私は付き合い程度に軽く手を振って、軽い笑顔を返して、そのまま振り返らなかった。
 深呼吸をした。深呼吸が、必要だった。
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