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やぁやぁさんと戦争
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毎朝、駅前のパン屋さんでチーズ蒸しパンを買っているとき、僕の頭はまだ起きていない。
パン屋さんの目の前にある自動販売機でブラックコーヒーを買って、ぐーっと飲み干してから出勤するようにはしているけれど、あの水っぽい苦さの液体を身体に流し込んでいるときも、僕の頭は起きていない。
僕がいつ目覚めるかというと、それは駅前で演説をしているおじさんを見かけるときだった。
おじさんはいつもとんでもない服装をしている。
別に、汚い格好をしているわけではない。芸人のように派手なスーツを着ているわけでもない。パジャマを着たり褌を締めたりタキシードを着たりと言ったような、TPOをわざと無視したような服装をしているわけでもない。
おじさんがとんでもないのは、いつだって服の組み合わせが天才的にちぐはぐだからだ。
例えば今日はボンテージファッションかと思うようなピッタリした革のズボンをはいた上に、これでもかというくらい首まわりが伸びきった、だらしないTシャツを着ている。昨日はお洒落なジャケットの下にニッカポッカ、極めつけは足下がビーチサンダルだった。
僕は電車に乗る前におじさんの姿を見て、その服をどこから購入したのか思いを馳せる。その時にやっと頭が目覚めるという、そういう寸法だった。
だから、僕はおじさんがいつも、何を主張しているのかなんて考えたことがなかった。
今朝までは。
今朝の僕はいつにもまして頭が寝ていた。
何せ昨日が、戦争、結婚、である。寝付けるはずがない。
ふみちゃんは僕に気を遣わせないようにしているのか、いつものように笑いながら僕の好きなアニメの話をして、オムライスにはケチャップで絵を描いてくれて、頭をぽんぽんと撫でてくれてからお風呂に入ってすぐに寝てしまった。
僕は食器を洗ってから風呂に入って、風呂の中でまた泣いてその後深夜までパソコンで動画を見て、その後やっと布団に入ったけれどなかなか寝付けずにぐるぐるして、二、三時間うとうとしたと思ったらあっという間に朝になっていた。
目が覚めたらふみちゃんは出かけていて、テーブルの上にはふみちゃんが自分用のついでに茹でてくれた卵と、「帰りにシャンプーを買ってきてね」という丸文字のメモが置かれていた。僕は雀の声を聞きながらゆで卵とトーストしてないパンを食べて、身支度をして、家を出た。
昨日の会話が嘘みたいに思えて仕方なくて、いやまぁ結婚するのはいいとして戦争なくならないかな、でもなくならないもんな、と、いつも以上にぼんやりとぐるぐる同じことを考えながら歩いていた。
「戦争こそが、悪なのです!」
だからその、ストレート過ぎる叫びを聞いた時、僕は思わず立ち止まった。
視線の先にいるのはやっぱり奇矯な格好をしている、貧相な顔のおじさんだった。
おじさんは必死で訴えていた。
今日本が取り組んでいる戦争が全面的に間違っているということ。
未来のある若者達が次々に戦場に駆り出されているということ。
大人達の責任として、この戦争を命を賭してでも止めなければならないこと。
道行く人たちにも協力をしてほしいということ。
そういうことだった。
なるほど。
この人は、すごく真剣に日本のことを考えていたんだ。
でも、この人が叫んだところで何も変わらないし、演説をするには服装が無茶苦茶すぎる。
あ。
三分過ぎていた。電車が行ってしまう。
僕は走った。
電車は一本逃したけれど、アルバイト先にはなんとか時間通りで到着し、僕は働いていた。
僕のアルバイト先はコンビニで、今日はそこそこ暇だった。店長も今日は夜のシフトに入る予定だったので、店にはのんびりとした雰囲気が漂っていた。
一緒にシフトに入ることの多い釜田は、忙しいのが嫌いなくせに販促に熱心で、バックヤードに入って楽しそうにポップを作っている。
僕は、商品整理が落ち着いてから、店中の床にモップをかけまくった。
午後になって、マネージャーが巡回に来た。
「やぁやぁ」
この人はいつ見ても、顔が合うと開口一番「やぁやぁ」と言うのだった。
だからバイト仲間の間では、この人は「やぁやぁさん」と言われている。
陽気だけど何を考えているのかさっぱり分からない。だからと言って僕たちアルバイトに害があるような存在では決してない。
「相田店長は夜勤ですけど」
「いや、店舗の様子を見に来ただけだから、相田くんはいいんだよ」
そう言ってやぁやぁさんは笑った。
「どうだい、今日は」
「暇ですね」
相田店長がいるときであれば多少気を遣った返答をするのだけれど、今日はいないので、僕は単刀直入に返答をした。
無駄に絡まれるのが面倒くさかったのである。
しかし、そんな僕の気持ちなど知る由もないやぁやぁさんは、大げさに顔をしかめて僕に話しかけてくる。
「それは良くない。理由は分かるかい?」
「いえ」
「ちゃんと考えてくれないと困るよ」
バイトに対して何を言ってるんだ、と思わないでもなかったが、面倒だったので、
「相方が頑張ってポップを作ってます。俺はその間に店内清掃をしています」
と、とりあえず努力はしているのですが、と生真面目な顔を作ってみせた。
やぁやぁさんも根はきっと悪い人ではないのだろう、僕の返答を聞いて満足したらしく。
「うん、頼むよ」
と、真面目な顔で頷いた。
「ところで、仕事には慣れたかい?」
「はい」
3年働いているので、流石に慣れました。とは勿論言わない。
「今は労働力が不足しているからね、こうして、君たちが働いてくれることに感謝しているよ」
新しい職場に適応する能力がないから転職できないだけです、ということも勿論言わない。
「ありがたいことに、徴兵される子も今のところいないからね」
それは俺と釜田を初めとしたバイトメンバーのほとんどが、体力や精神的な問題によって、徴兵適性が低いと判定されているからだということも勿論……。
「俺の彼女が、今度戦争に行くんです」
言わなかったけれど、こちらは言うことにした。
やぁやぁさんは、目を丸くした。
「そうかい」
何に対する驚きなのかは、分からない。僕とお付き合いをしてくれる女の子がいたことに対して驚いている可能性もある。それならば僕も信じられないので文句は言えない。
「それは大変だね。でも名誉なことだから、しっかり応援してあげるんだよ」
「はぁ」
何か言い返したかったけれど、その時お客さんが入って来たので、僕たちの会話は中断した。
「いらっしゃいませー」
お客さんは雑誌の棚をしばらく眺めた後、ペットボトルのコーヒーを買って出て行った。
「ありがとうございましたー」
目が合うこともなく、お客さんは出て行く。
やぁやぁさんはその間バックヤードに行って釜田と話をしていたらしかった。
バックヤードから出てくるとやぁやぁさんはやっぱり、
「やぁやぁ」
と言って、僕に対して片手を挙げてみせた。
「邪魔して悪かったね、帰るよ」
「お疲れさまです。そういえば、やぁ……いえ、山元さん」
「なんだい?」
やぁやぁさんと呼びかけそうになって、心臓の下がひやっとした。
「山元さんのお身内で戦争に行った人はいますか?」
「ありがたいことにというか、残念なことにというか、今のところいないね」
「もし、山元さんの娘さんが戦争に行くとしたら、どんな気持ちになりますか?」
一瞬、やぁやぁさんの表情が固まった。
「……そういうことを言うものではないよ。国民の義務なのだから」
少しだけ考えた後で、この言葉を穏やかに発して、「じゃあ、頑張るんだよ」と言って出ていくやぁやぁさんは、やっぱり大人なのだな、と思った。
パン屋さんの目の前にある自動販売機でブラックコーヒーを買って、ぐーっと飲み干してから出勤するようにはしているけれど、あの水っぽい苦さの液体を身体に流し込んでいるときも、僕の頭は起きていない。
僕がいつ目覚めるかというと、それは駅前で演説をしているおじさんを見かけるときだった。
おじさんはいつもとんでもない服装をしている。
別に、汚い格好をしているわけではない。芸人のように派手なスーツを着ているわけでもない。パジャマを着たり褌を締めたりタキシードを着たりと言ったような、TPOをわざと無視したような服装をしているわけでもない。
おじさんがとんでもないのは、いつだって服の組み合わせが天才的にちぐはぐだからだ。
例えば今日はボンテージファッションかと思うようなピッタリした革のズボンをはいた上に、これでもかというくらい首まわりが伸びきった、だらしないTシャツを着ている。昨日はお洒落なジャケットの下にニッカポッカ、極めつけは足下がビーチサンダルだった。
僕は電車に乗る前におじさんの姿を見て、その服をどこから購入したのか思いを馳せる。その時にやっと頭が目覚めるという、そういう寸法だった。
だから、僕はおじさんがいつも、何を主張しているのかなんて考えたことがなかった。
今朝までは。
今朝の僕はいつにもまして頭が寝ていた。
何せ昨日が、戦争、結婚、である。寝付けるはずがない。
ふみちゃんは僕に気を遣わせないようにしているのか、いつものように笑いながら僕の好きなアニメの話をして、オムライスにはケチャップで絵を描いてくれて、頭をぽんぽんと撫でてくれてからお風呂に入ってすぐに寝てしまった。
僕は食器を洗ってから風呂に入って、風呂の中でまた泣いてその後深夜までパソコンで動画を見て、その後やっと布団に入ったけれどなかなか寝付けずにぐるぐるして、二、三時間うとうとしたと思ったらあっという間に朝になっていた。
目が覚めたらふみちゃんは出かけていて、テーブルの上にはふみちゃんが自分用のついでに茹でてくれた卵と、「帰りにシャンプーを買ってきてね」という丸文字のメモが置かれていた。僕は雀の声を聞きながらゆで卵とトーストしてないパンを食べて、身支度をして、家を出た。
昨日の会話が嘘みたいに思えて仕方なくて、いやまぁ結婚するのはいいとして戦争なくならないかな、でもなくならないもんな、と、いつも以上にぼんやりとぐるぐる同じことを考えながら歩いていた。
「戦争こそが、悪なのです!」
だからその、ストレート過ぎる叫びを聞いた時、僕は思わず立ち止まった。
視線の先にいるのはやっぱり奇矯な格好をしている、貧相な顔のおじさんだった。
おじさんは必死で訴えていた。
今日本が取り組んでいる戦争が全面的に間違っているということ。
未来のある若者達が次々に戦場に駆り出されているということ。
大人達の責任として、この戦争を命を賭してでも止めなければならないこと。
道行く人たちにも協力をしてほしいということ。
そういうことだった。
なるほど。
この人は、すごく真剣に日本のことを考えていたんだ。
でも、この人が叫んだところで何も変わらないし、演説をするには服装が無茶苦茶すぎる。
あ。
三分過ぎていた。電車が行ってしまう。
僕は走った。
電車は一本逃したけれど、アルバイト先にはなんとか時間通りで到着し、僕は働いていた。
僕のアルバイト先はコンビニで、今日はそこそこ暇だった。店長も今日は夜のシフトに入る予定だったので、店にはのんびりとした雰囲気が漂っていた。
一緒にシフトに入ることの多い釜田は、忙しいのが嫌いなくせに販促に熱心で、バックヤードに入って楽しそうにポップを作っている。
僕は、商品整理が落ち着いてから、店中の床にモップをかけまくった。
午後になって、マネージャーが巡回に来た。
「やぁやぁ」
この人はいつ見ても、顔が合うと開口一番「やぁやぁ」と言うのだった。
だからバイト仲間の間では、この人は「やぁやぁさん」と言われている。
陽気だけど何を考えているのかさっぱり分からない。だからと言って僕たちアルバイトに害があるような存在では決してない。
「相田店長は夜勤ですけど」
「いや、店舗の様子を見に来ただけだから、相田くんはいいんだよ」
そう言ってやぁやぁさんは笑った。
「どうだい、今日は」
「暇ですね」
相田店長がいるときであれば多少気を遣った返答をするのだけれど、今日はいないので、僕は単刀直入に返答をした。
無駄に絡まれるのが面倒くさかったのである。
しかし、そんな僕の気持ちなど知る由もないやぁやぁさんは、大げさに顔をしかめて僕に話しかけてくる。
「それは良くない。理由は分かるかい?」
「いえ」
「ちゃんと考えてくれないと困るよ」
バイトに対して何を言ってるんだ、と思わないでもなかったが、面倒だったので、
「相方が頑張ってポップを作ってます。俺はその間に店内清掃をしています」
と、とりあえず努力はしているのですが、と生真面目な顔を作ってみせた。
やぁやぁさんも根はきっと悪い人ではないのだろう、僕の返答を聞いて満足したらしく。
「うん、頼むよ」
と、真面目な顔で頷いた。
「ところで、仕事には慣れたかい?」
「はい」
3年働いているので、流石に慣れました。とは勿論言わない。
「今は労働力が不足しているからね、こうして、君たちが働いてくれることに感謝しているよ」
新しい職場に適応する能力がないから転職できないだけです、ということも勿論言わない。
「ありがたいことに、徴兵される子も今のところいないからね」
それは俺と釜田を初めとしたバイトメンバーのほとんどが、体力や精神的な問題によって、徴兵適性が低いと判定されているからだということも勿論……。
「俺の彼女が、今度戦争に行くんです」
言わなかったけれど、こちらは言うことにした。
やぁやぁさんは、目を丸くした。
「そうかい」
何に対する驚きなのかは、分からない。僕とお付き合いをしてくれる女の子がいたことに対して驚いている可能性もある。それならば僕も信じられないので文句は言えない。
「それは大変だね。でも名誉なことだから、しっかり応援してあげるんだよ」
「はぁ」
何か言い返したかったけれど、その時お客さんが入って来たので、僕たちの会話は中断した。
「いらっしゃいませー」
お客さんは雑誌の棚をしばらく眺めた後、ペットボトルのコーヒーを買って出て行った。
「ありがとうございましたー」
目が合うこともなく、お客さんは出て行く。
やぁやぁさんはその間バックヤードに行って釜田と話をしていたらしかった。
バックヤードから出てくるとやぁやぁさんはやっぱり、
「やぁやぁ」
と言って、僕に対して片手を挙げてみせた。
「邪魔して悪かったね、帰るよ」
「お疲れさまです。そういえば、やぁ……いえ、山元さん」
「なんだい?」
やぁやぁさんと呼びかけそうになって、心臓の下がひやっとした。
「山元さんのお身内で戦争に行った人はいますか?」
「ありがたいことにというか、残念なことにというか、今のところいないね」
「もし、山元さんの娘さんが戦争に行くとしたら、どんな気持ちになりますか?」
一瞬、やぁやぁさんの表情が固まった。
「……そういうことを言うものではないよ。国民の義務なのだから」
少しだけ考えた後で、この言葉を穏やかに発して、「じゃあ、頑張るんだよ」と言って出ていくやぁやぁさんは、やっぱり大人なのだな、と思った。
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