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二章 0で割れ

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「で、お前は何してんだ?」

 もうすぐ大学にきて、4か月が経とうとしている。外はすっかり夏まっさかりで、連日、日本列島が軒並み30度を超し、各地で様々なイベントが催されているという、ありがたいのか、ありがたくないのかよく分からないニュースが流れていた。外からは甲高い音声が鳴り響く。蝉の鳴き声というのは田舎でなくても聞こえるらしく、ここ大都会でも昼夜関係なしに、大音量を垂れ流すらしい。


「見てわかりませんか? 試験勉強です」

 ここの学生食堂は、そんな暑さも意に返さず、ガンガン冷房が効いており、若干肌寒くもあった。それは、地球温暖化に喧嘩を売っているようで、しかし、私たちを暑さから守る尊い行為に他ならない。


「飯食いながらか? どっちか一方にしないと効率わりぃだろそれ」

 夏季休暇が近づいている。昼をここで食べるのも、しばらくの間なくなるかと思うと、今食べているチキンカツ定食が、残り少ない宝物として目に映る。本来であれば、これをゆっくりと楽しみ、出来ることなら一息ついて休みたいのが本音だが、そうもいかない事情もあった。


「時間がないんです」
「いつだよ、その講義の試験」
「明後日の朝一番です」
「ふーん、やばいのか?」
「やばいです」
「どれくらい?」
「こんな状況になるくらいには」
「お前がしているイヤホンは?」
「スマホのアプリで、講義の音声録音してました。それを聞いてます」
「カオスだな」

 もとは食事を置くためのテーブルの上に、講義の際に使用したレジュメ、ノートが散乱し、それがチキンカツ定食の下敷きになっている。加えて、片耳にイヤホン。講義の音声を録音したものだ。机の上を見ながら、講義の音声を聞きながら、私は食事をしていた。


 もうすぐ夏季休暇。その文字をばらして並べれば、試験間近という意味になる。この大学にきて初めて期末試験だ。私は半分も理解できない講義を、もう理解するという行為を放棄し、ただただ暗記をするという一種の暴挙にでていた。とにかく、自分の手数を増やして点数につなげる算段だ。最低でも6割を奪取することができれば単位は貰える。その事実が心を支えていた。


「それより、貴方は勉強しなくても大丈夫なんですか?」
「は? 俺が勉強? ないない。そんなことしなくたって、余裕だろ」

 そう言って私の目の前に座る人物は、優雅すぎる手つきで紙パックの苺牛乳をテーブルの上に置く。御剣 透。最近知った彼の名前は、彼の親戚経由で聞いたものだ。


「ていうか、周りみろよ。この大学で、期末試験ごときに必死こいてるのお前くらいだ」

 そう言われて周りを見渡せば、静かに談笑する複数の学生。その手に持っているのは、教科書でも、レジュメでもなく、スマホだった。一方私のスマホは、録音していた講義の音声を流すために、その命とも言える電力を活用している。馬車馬の如く使い倒されているスマホに、心の中で思わず謝罪した。


 そうなのだ、この大学にいるのは天才。才能を認められた者だけが入学するこの大学にいるのは、並みの天才なんかじゃない、正真正銘の天才だ。きっと、講義の確認という意味での期末試験など、彼ら彼女らにとっては本当に児戯に等しいのかもしれない。


 しかし一方で、どんな運命の悪戯が働いたのかは知らないが、今同じ空間にいる私は凡人だ。自分のスマホを酷使して、昼ごはんの時間を割かなければ、この大学の期末試験で6割なんてとてもじゃないがとれやしない。

「ほっておいてください。凡人は凡人なりに頑張るだけです」
「あ、いいこと教えてやろうか?」


 必死になって勉強する私に対して、彼は何かを思いついたらしく、私に提案してくる。もしかしたら、私のこの涙ぐましい行動に対して心を打たれ、知恵を授けようとしてくれているのではないか。そう思うと、思わず前のめりになって彼の話を聞いてしまう。


「どんなことですか?」
「カンニングっていう奥義だ。ちなみに、ばれたら学則の規定にのっとってその年の単位を全部失う」

 こんなロリコンに知恵を求めた私が馬鹿だった。


「誰がやりますか、そんなこと」
「お前がやるっていうなら、全力で手を貸すぜ」

 そう言って彼は、私を嗤う。確かに彼の力を借りれば出来なくはないのかもしれない。それくらい容易いとばかりといわんばかりの自信が目に見えるようだし。だが、その漆黒の瞳はあくまでも、試しているだけだった。彼にとって、私は面白い存在か、そうでないかを。


「やりません、貴方も私に構ってないで、勉強でもしたらどうですか?」
「だから、やらねぇって。まぁ、軽く過去問は見直すかもしんねぇけど」
「過去問?」
「あれ? お前知らねぇの? 駅前の書店で、この大学の講義の過去問売ってんぞ?」
「貴方が神ですか」


 やはり、彼は素晴らしい人物だった。
 誰であろうか、この人物をロリコンといい、あまつそんな彼に知恵を求めるのは愚行だといった人物は。全くもって度し難い。


「やめろよ、神は少女だ」

 でも、やっぱり彼はロリコンだった。少し鳥肌がたった。


「まぁ、凡人は凡人らしく頑張れよ。俺はそろそろ行くぜ」

 そういうと彼は立ち上がる。
 別に一緒にご飯を食べる約束などしていないので、そんな断りもいらないのだが。私がご飯を食べてたら、知らぬ間に座っていたのだ。

 そんな現状確認をしていると、私は少しの希望が見えた気がした。
 もしかしたら。本当にもしかしたらなのだが、この何気ないお昼の一時は、もはや友達との会話と言っても過言ではないのではなかろうか。
 御剣さんは私を見かけて話かけてきてくれたのだ。
 であれば。
 私は、彼に駄目元でお願いをしてみる。
 

「御剣さん、あの」
「なんだ?」
「その非常に言いにくいのですが」
「だから何だよ」
「ちっちゃい方の御剣さんを」
「諦めろ」

 言い切った。言いきっちゃった。


「少女に慕われているお前は世界で一番幸福なんだ。そして何より、その事実に」

 彼はこっちを向くと、まっすぐ瞳を合わせてくる。憤怒の色にその眼を染め。


「はらわたが煮えくり返るっ」

 彼はそういうともう振り向くことはなかった。

 私はさめざめと泣いた。

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