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二章 0で割れ
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しおりを挟む「その大変申し上げにくいのですが・・・」
最近はこのアパートにも慣れてきた。一人で上京した際には慣れる日が来るなんて思わなかったのだが、大学から帰ってくると、帰宅したという実感が伴う場所にはなっていた。
今日は全ての講義が終了し、日が暮れる前にアパートへと帰り、駅前の書店で過去問を買う前にご飯を炊こうと思ったのだ。炊事、洗濯、掃除も板につき、ご飯を炊いてる間に掃除も済ませる、名将も唸る采配を見せ、一息つく。実にスマート。問題なんて何に一つありはしない。
「お客様の宛に苦情が寄せられていまして・・・」
さて、現実逃避は止めよう。問題しかない。
一息ついていた時、不意にインターフォンが鳴り、対応すると、玄関の前にはスーツをきた女性が立っていたのだ。
一体、誰なのかと思う私に、彼女は名刺を差し出した。その小さい長方形には、住宅管理センターの文字が。この物件を管理している会社だった。
「二か月ほど前の騒ぎに加えて、最近、この部屋にランドセルを背負った少女が出入りする姿が・・・」
普通、管理会社に苦情を寄せられた際、その人物には電話で注意が行われる。そう、普通であれば。つまり、私に対する苦情は普通のものではなく、
「しかも、よく機械音もするとのことで・・・」
犯罪の臭いがするということだ。
「あの、よろしけばお話をと思い、伺わせていただいた次第です」
「いや、その、何のことだか分かりませんすみませんほんとうにすみません」
さて、冷静に考えよう。考えるまでもなく、詰んでいるのは置いておいてだ。
二か月前の出来事というのは、堂島さんが部屋のドアノブをがっしゃんこしたり、玄関をバンバンしたりして、警察沙汰になったことだろう。それはいい。あっちに悪意があったのだから。事情を知らなければ、騒音ということになり、私が非常に迷惑をかけたという誤認が生まれても仕方はないが、まだ対処できる。
問題はもう一つのほうだ。ちっちゃい御剣さんのことである。最近、というかほぼ毎日、私の家に彼女がいる。一時期は一緒に住むと言っていた彼女だが、親から許されるはずもなく、住むことは諦めた。ここで話が終わってしまえばよかったのだが、そうは問屋が卸さない。
家に一人でいる時間が、ほぼ消滅してしまっている。今、私がこうして家に一人でいることが、奇跡に近い。本当に。誇張は一切していない。酷い時は、私が家に帰ってくるのを待っている。私の家で。もう意味が分からなかった。
家で待つ彼女の首からはまるでペンダントのごとく、私の家の合いカギがぶら下がっており、それを私は死んだ魚の目で見ることになった。どうやって合い鍵を手に入れたかと尋ねたが、無言の笑顔で封殺された。
一時期このままでは駄目だと一念発起し、玄関のシリンダー交換を行った。痛い出費ではあったのだが、私の心の平穏を保つためにはそれ以外にはなく、これでようやく安心出来ると思っていた。
そう、思っていたのだ。
その次の日、家に帰ると、家に彼女が居た。真新しい鍵をペンダントの如く、その首に引っ提げて。
その瞬間、私は家を飛び出し、走りに走った。叫びながら走った。怖かったのだ。年端もいかない少女が怖くて怖くて仕方なかった。生まれて初めての恐怖だった。
「・・・お客様、監視カメラで状況は確認しています」
「え」
「こちらも管理会社として必要であれば、必要な措置を取らせていただきます。契約書にもあると思いますが、ここはあくまでも一人暮らしの方のみ入居可能となっています。それについて異存はございますか?」
「ちょっと待って下さい! 私は被害者なんです! 警察に確認していただいても構いません!!」
実は警察にも相談していた。もう二度と関わることはないと思っていたのだが、あっというまにまたお世話になってしまう。だがそれも考えた上での行動で、そうしなければ、私が謂れのない罪で警察に連行されかねないと思ったのだ。
それなのに、縋る思いで頼った国家権力は冷たかった。
私が相談した翌日、震える声で私に電話をくれた警察の方は、御力になれそうにありません、とまるで強大な権力の前に正義を貫けなかったかのような悔しさを滲ませながら私に告げた。
対策はしていたはずだった。その対策がすべて無意味に終わってしまったが、対策はしていたのだ。だが、今日遂に管理会社の人が家に尋ねてきた。
このままでは、非常に不味い。私の家はそれほど貧乏というわけでもないが、裕福というわけでもない。
田舎のしがない公務員である私の父は、最近髪が薄くなってきたことを嘆いていた。これ以上の心配と、金銭的負担はどうあっても避けたい。例えば、住んでいるアパートをそうそうに引っ越すなんてことは何があっても避けたいのだ。
なんとかして、管理会社として訪ねてきた彼女の半分以上誤解ではない誤解を解き、穏便にことを済ませなければ。
「信じてください! 二か月以上前にあった出来事は、私を社会的に抹殺しようとしたアイドルのせいで! ほぼ毎日のように来ている小学生は、前世がどうとか運命がどうとか言って部屋に侵入してきてるんです!」
「すみません、信用致しかねます」
「そうですよね、私も言っててこれはないと思います」
状況は詰んでいた。どうしようもなく詰んでいた。
その事を確認するとほぼ同時に、この場に似つかわしくない音が響き渡る。その発信源は、私のポケットからで、スマホからだった。
「・・・どうぞ」
そう言って、女性は私に電話に出ることを促した。私は、それに対し、礼を述べ、スマホを手に取る。画面には見たことのない電話番号が表示されてあり、一体誰なのかと思いながらも、応答する。
「はい」
『お兄さん、その女だれ?』
「ぴぃ」
思わず変な声が出た。
目の前の女性が訝し気にこちらを見てくるのが気配で伝わった。
電話越しにも分かるほど、冷酷で無慈悲なその声は、しかし、どこかで聞き覚えがあった。
「御剣さん、ですか?」
『うん、私、凛だよ。で、その女だれ? お兄さん、私が学校に行っている間に、変なことしてないよね?』
おかしい、こんなに外は暑いはずなのに、どうして体が震えているのだろうか。
「変なこと? それより御剣さん、どうして今の状況を知って」
『お兄さんのこといつも見てるから、そんなの当然だよ。それより答えて』
当然と言われても納得は出来ない、だが、そんなことも口をはせめない程の圧迫感が伝わり、私は条件反射のように解答する。
「いえ、その、アパートの管理会社の方ですよ。少し話があるそうで」
『へぇ、なんで管理会社の人が来たの?』
「それが、私の家に苦情が来たそうで」
『そうなんだ。一旦、電話切るね。確認させるから』
そこでぷつりと音声が途絶えた。それと同時にちょっと安心する自分が居た。
「すみません、お待たせしました」
「いえ、お気になさらず」
そこまで話して、また、場に似つかわしくない音が響く。
今度は私ではなく、彼女の電話だった。
「どうぞ」
私が軽く促すと、彼女は一礼をし、電話に対応する。
この間に打開策をと思っていたのだが、なにやら彼女の様子がおかしい。
次第に顔面蒼白となり、しまいには震えだしたのだ。
何事だろうかと思い、注意深く様子を伺っていると、どうやら通話は終了したらしい。彼女はスマホをしまうと、深々と頭を下げた。
「全てお忘れになってください、大変ご迷惑をおかけしました!」
「え」
そういうと彼女は、脱兎のごとく、私の前から退散した。
そして鳴り響く私のスマホ。
震える手でスマホを取った。画面に映し出されているのは、先ほどと同じ電話番号。しばし、その画面を見つめるが、一向に鳴りやむ気配はない。
とらないと、いけないんだろうなぁと、私は諦めにも似た感情で、電話に出る。
「ハイ」
『あ、お兄さん! もう電話出るの遅いよぉ! すぐに電話に出ないとモテないよ! まぁ、お兄さんはモテなくていいんだけどね!』
「ハイ」
『そうそう、さっきは疑ってごめんね! お兄さんが私以外の女に目が行く筈ないのにね! 対処はしておいたからもう安心だよ!』
「ハイ」
『それと、今日はちょっとだけ帰るの遅くなりそうなの、ごめんね。お兄さんも私と会うのが遅くなると寂しいよね?』
「いえ、そんなことは」
『寂しいよね?』
「ハイ」
『もう正直じゃない男の人はモテないんだから! お兄さんはモテなくていいけどね!』
「ハイ」
『じゃあ、また後でね!』
そこでぷつりと音声は切れた。
真っ黒になったスマホの画面をみて私は思う。何で彼女は帰るという表現をしたのかということ、加えて、先ほどの状況を彼女が知っていた件について。機械音がすると苦情があったと、管理会社の人は言っていた。
もし、最悪の事態で考えるなら、私が大学に行ってる間に、御剣さんはこの部屋で一体何をしていたのだろう。工具を使うようなこと、それは。そこまで考えて、考えるのを辞めた。考えてはいけない気がした、考えた方が自分に危険が迫るような。
ただ思ったのだ。
追い出されて、住所を変えた方が自分の為になったのではないかと。
その答えは多分、御剣さんだけが知っていた。
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