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why do it?

第二話「シュレーディンガーの猫」

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「君の仕事は1つ。

伊呂波たちメイドの手伝いをすることだ」

「え?僕も雲隠さんと一緒に絵を探すんじゃないですか?」

廊下を悠々と歩きながら、雲隠さんは上下左右あちらこちらを見ていた。

まるで何かを探すように、あるいは確かめるように。

僕が呼ばれた理由がずっとわからずにいたけれど、どうやら探偵助手として呼ばれたわけではないようだ。

僕の仕事は、ハウスキーパー。彼女が僕を連れてきたのは、その腕を見込んでだった。

「んふふ。実のところ私は事前に伊呂波からある程度の概要は聞いてアタリを付けている。

あとは実際に目で見て実地調査をするだけだ。

ここには以前来たことがあるからね、その時の記憶と照合していくつもりだよ。

だが、その前に被疑者の証言も聞いてみたい」

「被疑者…3人のメイドですか」

「そう、いわば取り調べだ。

だが、難しくはない。質問は基本的に2つだけだからね」

「2つだけでいいんですか?」

「あぁ、1つ目は絵画が無くなったという2日前に何をしていたか。

2つ目は、犯人はどうやって絵画を盗んだと思うか。つまり、アリバイ証明と推理だ。

念のため、録音をしてね。

君にはその間、掃除や料理、洗濯なんかをして欲しいのだ。

被疑者といっても彼らは仕事中。私が取り調べでそれを中断させている間、彼らの代わりに働いて欲しい」

「はぁ、しかしメイドの手伝いと言われましても、僕は今日初めてこの屋敷に来たわけですし…

それに、そんな勝手に…」

「勝手にじゃないよ、メイド長の許可は取ってある。

まぁ、来ていきなり彼らの領分を犯すのは気が引けるというのはわかる。

だが、彼らがメイドになってからの時間は君が家事手伝いを始めてからよりずっと短い。

胸を張りたまえ」

「わかりました、道具は勝手に借りていいんですね?」

「あぁ、もちろん。

それに、私たちは主人が帰るまでどの部屋に入ってもいい」

「…あの、盗難事件を主人に知らせていないということは。

つまり、伊呂波さんは僕らがここに来ることも主人に知らせていないということですよね」

「もちろん、それを言ったら事件のことも知らせなければいけないからね」

「それって…良いんでしょうか?」

「倫理的に良いか悪いかで言えば、良くないだろう。

だが、それもバレなければ問題ないさ。

面倒がやってくるまでに、つまり今日中に謎を解いて帰ればいい。シュレーディンガーの猫と同じだよ」

「…シュレーディンガーの猫、ですか」

シュレーディンガーの猫とは、物理学者が提唱した思考実験のことだ。

箱に入れた猫が、仮に死んでいてもおかしくないとしても、箱を開けて見るまでは猫が死んだと断言できないことから来ている。この場合、僕たちの不法滞在を知るまで、屋敷の主人にとって僕らはここに存在しないという意味になるのだろう。

同時に、雲隠さんの推理も直接確かめなければ確定できないということだ。

「でも、雲隠さんと神崎さんは知り合いなんですよね?

なら、隠れて捜査しなくても遊びに来たとか、先ほどの理由を説明すれば…」

「あぁ、残念ながらそれはできないんだ」

「連絡が取れないとかですか?それとも、怪しまれるとか」

「単純だよ。

何故なら私と神崎は犬猿の仲で、雲隠日景はこの邸宅において出禁を食らっているからね。

私が反対すればするほど、あいつは嬉々として警察に駆け込むだろう。

んふふ、それにしても酷いじゃないか少年。

さすがの私でも、友人を成金野郎呼ばわりはしないよ」

「え!?

じゃあ…もし、もしも盗難はもちろん仲の悪い雲隠さんがここにいることがバレたら…」

「んふふ、そうなったら非常にまずいねぇ?

奴は怒り狂って暴れ出すかも。もしかしたら、不法侵入で通報されるかも」

「何で嬉しそうなんですか…」

「これが笑わずにいられるものか。

さぁ、行こうか少年。メイドは全部で3人。伊呂波に匂宮、堀川だ。

まずは外回り担当の匂宮から行こう」

雲隠さんは、嬉しそうだった。

久しぶりの外出が良い気分転換になっているのかもしれないし、あるいは恩人の伊呂波さんと出会えてハイテンションになったのかもしれない。もしくは、犬猿の仲にある知人への嫌がらせを楽しんでいるのかも。

けれど、どれだけアウェーな場所であろうと僕がやることは変わらない。

依頼人の要望通りに仕事をする、それだけのことだ。

「あなたが匂宮さんですね?」

「はい、そちらは雲隠様と比良様ですね」

「既に伊呂波から聞いていると思いますが、改めて説明をします。

これから、あなたにいくつか質問を行います。質問は全員に伺う内容ですので、悪しからず。

その間、あなたの仕事を彼が代わりますので、先に簡単に仕事を説明してやってくれますか?」

「承知いたしました」

事前に聞いていたからか、匂宮さんはあっさりと雲隠さんの提案を了承した。

メイドの中で最も若い彼女は外作業を担当しており、日に焼けた健康的な肌に汗をにじませて一礼する姿はどこか初々しい。

避暑地とはいえ炎天下、麦わら帽子を被って作業してもメイド服は脱がないのが彼女のポリシーだという。

「比良様、庭掃除のご経験は?」

「芝刈りと剪定作業の経験があります」

「でしたら、今からする作業は簡単すぎるかもしれませんね。

私はこの庭園の庭を担当している匂宮と申します」

「え…この庭を、全て一人で担当されているのですか?」

「はい、ですがさすがに芝刈りや剪定作業は外部に委託をしております。

私はその依頼と、後は業者の方に頼むほどではない雑用を行っております。

これはその一つですね」

匂宮さんは右手を上げて、手に持っていたものを見せてくれた。

四本の歯が生えた鍬のようなそれは、軍手をはめた彼女の両手にすっぽり収まるサイズの小さな器具だった。彼女はその場にしゃがみ込むと、足元のタイルの間に歯を入れて溝に沿って動かした。

すると、その間に生えた雑草がぽろぽろと出てくるのだ。

「今はこのようにして、雑草取りをしておりました。

お恥ずかしい話、ここ数日はずっとこの作業をしております」

「もしかして、正門からここまでずっと一人で?」

「えぇ、その通りでございます」

正門から邸宅まで続く道は数十メートルあり、彼女はその間をずっと一人で作業していたという。代わってみると、それがどれだけの負担かすぐにわかる。

雑草を取る作業自体は大した力も要らないのだが、そのために腰をしゃがみ続けるのはなかなか辛く苦しいものだ。それでも赤茶色のタイルに新緑色の雑草は目立つので、こうして定期的な作業が必要なのだろう。

僕が作業を始めると、雲隠さんは匂宮さんに聴取を始めた。とはいってもすぐそこで聞き取りをしているので、僕は会話が丸聞こえだった。

「初めに、2日前の行動を教えてください。」

「2日前は2時頃に起床してすぐ皆様と顔を洗い、7時に皆さまと共に朝食を取りました。その後着替えて8時に業務を開始してからは、ずっとこのように雑草取りを行っていました。

あぁ、あとは12時の昼食のときだけ邸内に戻りました。業務が終わってからは7時半に夕食を皆様と作って、その後最初にシャワーを浴びてからは自室におりました。」

「絵の紛失に気付いたのは?」

「恥ずかしながら、伊呂波さんが気づかれるまで気づきませんでした。

ご存知とは思いますが、私たちメイドは主人とお客様用の正面玄関を行き来しませんので」

「あぁ、そうでしたね」

早くも、想定外の問題が起きているように感じた。

絵画が盗まれた正面玄関に、普段メイドは立ち寄らない。メイドに限らず、従業員が従業員用通路を通るというのはよくあることだ。

彼女たちは玄関で誰が何をしていても気付かないし、気づかれない。

さらに、絵画が盗まれた正面玄関の扉は通常閉じられている。

「あなたが2日前にここで作業していたと証明できる人やモノは?」

「正門から作業を始めたので、防犯カメラに写っているかもしれません。

といっても、最初の数分だけだとは思いますが…。

あとは警備員の方たちが見ていらっしゃれば、終業前まで作業していた証拠になるかと」

この屋敷に来るとき、私道の始まりと正門の前にそれぞれ2人ずつ屈強な体躯の警備員を見かけた。

彼らは24時間365日、屋敷を取り囲むように立って外部からの侵入者を拒んでいる。

正門横の警備室には着替え部屋や仮眠室があり、通常彼らが屋敷内に立ち入ることはないので、事件の被疑者からは外されている人たちだ。

これだけの邸宅の主ともなると、8時間4交代制としても警備だけで30人以上の人間を雇うことくらい、造作でもないようだ。

「なるほど、では次の質問です。

あなたは絵画がどのように盗まれたと思いますか?」

「どのように、でございますか?

なるほど、伺っていた通りの独創的な方ですね」

しゃがんで作業をするのが辛くなってきたので、膝をついて四つん這いになる。

匂宮さんは、自分が疑われているというのに全く気分を害していないようだった。雲隠さんの失礼とも捉えられかねない奇行を意に介さず、楽しむように推理を始める。

もしかしたら、彼女たちの主人は雲隠さんに負けず劣らずの変人なのかもしれない。

犬猿の仲とは言っていたけれど、同族嫌悪という言葉があるように、自分と似た性格だからこそ合わないこともあるだろう。

そういえば雲隠さんはこの邸宅の主人、それもこれだけの大富豪とどういう関係なのだろうか。

ただの知人なら偶々どこかのパーティーで知り合ったとか誰かの紹介ということもあるだろうが、犬猿の仲になるというのは親友になるより難しい。

それに家を出禁になっているということは、以前この場所に来たことがあるということだ。頻繁に会うかよっぽどの関係でなければ、そこまでのことにはならないはず。

ベストセラー作家とはいえ、一介の小説家にそれが可能だろうか。

「そうですね、私や警備員がいらっしゃるので、日中の侵入は難しいと思います。

となると、夜中みんなが寝静まるころ…もしくは、警備員の方の交代のタイミングで屋敷に侵入したのかと」

「侵入して、その後は?」

「一番高そうな絵画を持って急いで立ち去るかと。

車で移動すると警備員に止められるか、防犯カメラに映るでしょうから、例えば塀伝いに歩いていくとか」

「面白い、しかしその方が目立つのでは?」

「確かに!その通りでございますねっ」

ハキハキと返事をする匂宮さんは、まさか自分が疑われているとは微塵も思っていないようだった。

彼女の推理は、外部からの侵入者によるものだが、伊呂波さん曰くそれは難しいという。あるいは、その陽気さは絶対に犯行がバレないという自信から来るものだろうか。

その後警備室に行き防犯カメラを確かめると、証言通り彼女が2日前に正門前で作業をしていたのが明らかになった。映っていたのは最初の数分だけだったけれど、確かに朝この場所で作業を始めたのだとわかる。

ついでに警備員の方に証言も取れ、午前中は彼女が作業をしていたのが確認できた。ただし、午後の動きまではわからなかった。

匂宮さんはその間、十分に犯行が可能だ。
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