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「…イリスさん!」
「えぬぴーしー」の衣装に身を包み、今日のお昼を何処で食べようかと彷徨っていた私は、背後から呼ぶ声に足を止め、振り返った。
繁華街は多くの「えぬぴーしー」や「ぷれいやー」が行き交っていたが、その人々の間を縫うように、一人のヒューマンの男性が私の許へと駆け寄っていた。彼はヒューマンの中でもひと際背が高く、種族特有の茶髪が足並みに沿って踊り、その端整な顔が歓びに溢れている。彼は私の目の前に立つと、呼吸を整える暇さえも惜しむかのように息を弾ませ、笑顔を見せた。
「やっと逢えた…。随分と探しました…」
「…えぇと…」
私は自分に向けられる、分不相応なほどの好意にときめきと戸惑いを覚え、彼の真っすぐな瞳に魅入ったまま脳内にある記憶のページを捲って相手の面影を探す。私達は、この様に見知らぬ「えぬぴーしー」から知り合いのように声を掛けられる事が、間々ある。それは、互いに「ぷれいやー」同士として知り合った時だ。「ぷれいやー」の時にはマスターの好みで目や髪の色が変わっているし、マスターに操られているために性格も変わってしまう。そのため、「ぷれいやー」同士では知り合いであっても、「えぬぴーしー」の時の相手を見つけられない事が珍しくなかった。
私は彼の表情と声を頼りに脳内の肖像画を見回すが、合致する人物が見当たらない。これほど爽やかな雰囲気を漂わせ、声の透き通った男性なんて、全く記憶にない。そうなると「ぷれいやー」の時の性格が全く違うという事なのだろうけど、ここ最近知り合ったヒューマンの男性なんて一人しか…
「…あ」
「…わかりました?」
私が間の抜けた声を上げると、彼はより一層喜びを露わにする。その生気に満ち溢れた笑顔の、「ぷれいやー」の時とのあまりの落差に、私は思わず素っ頓狂な声を上げた。
「…赤兎ぉ!?」
「はい!」
私の不躾な指摘を受け、彼の笑顔がより一層輝きを増す。
「イリスさん!改めまして、赤兎です!お逢いできて、とても嬉しいです!」
「えっ!?嘘っ!?『ろぐいん』している時と全く別人じゃない、あなた!?」
「えぇ、まぁ」
私が目を丸くし、手で口元を押さえながら驚くと、彼は眉を下げる。
「僕のマスターはあの通り物静かですし、会話も文字入力ですから。僕の声を知っている人なんて、ほとんど居ません」
ぼ、僕…!?
私は目の前に立つ青年が照れくさそうに口にした言葉に、思わず手で胸を押さえてしまった。私のマスターと同じ男性でありながら、このギャップは一体何なのだろう。
「イリスさん?」
「あ、ううん、何でもないの!ちょっと、びっくりしただけだから!」
小首を傾げる赤兎に対して私は慌てて手を振って誤魔化し、話を逸らす。
「今日はマスターさん、『ろぐいん』してないのね?」
「ええ、『びょういん』だそうです。昨日、イリスさん達の前でも話してましたけど」
「あぁ、そう言えばそんな会話していたね」
赤兎の返答に、私は昨日のやり取りを思い出して相槌を打つ。私が顎に指を当て、上を向いて記憶を掘り返していると、赤兎が周囲を見渡しながら答える。
「…立ち話も何ですから、何処かに入りませんか?イリスさん、お昼はもうお済みですか?」
ぐきゅぅぅぅぅ。
「…」
「…」
私の心の声を代弁するかのように特定部位が自己主張し、二人の間に沈黙が広がる。体温が上がり、次第に下を向く私の視界の端から、彼の咳払いの音が聞こえて来た。
「…コホン。とりあえず、何処かに入りましょうか。何か食べたい料理とか、あります?」
「…オマカセシマス…」
***
赤兎に連れられて入ったお店は、繁華街から少し離れた、港へと向かう道の途中にあった。周囲の建物より一段奥にあるそのお店は、喧騒に溢れる表通りと一線を画し、落ち着いた雰囲気を醸し出している。客は疎らで、私達は他の客から幾分離れた壁際のテーブルを選び、腰を下ろした。
「此処、隠れ家みたいな雰囲気があって、周囲のお店と違って静かなんですよ。港から近くて魚介も新鮮で、独りで美味しいものを食べるのにはもってこいなんです」
私達はシーフードサラダとバケット、白身魚の香草焼き、海老のリゾット等を注文し、二人で分け合った。魚介はとても新鮮で、ハーブの香りが食欲をそそる。私は自己主張の激しい特定部位を黙らせるため、早速魚の身を一切れ、口に放り込んだ。
「あ、美味しい。これはガーネットにも教えてあげないと、後で怒られるわね」
「お口に合って、良かった」
顔を上げると、赤兎が私の食べる姿をにこやかに眺めていた。私は気恥ずかしさを覚え、目前の料理に視線を落とし、視界から彼の姿を消し去る。私は視界を占める料理に集中し、暫くの間、テーブルの周辺に二人分の食器の音だけが漂う。
「…」
バケットを口に含みながら視線を上げると、赤兎がティーカップを手にしたまま目減りした料理を見つめ、微笑んでいた。それはまるで、食器の奏でる音楽に耳を傾け楽しんでいる様に思え、私は思わず尋ねてしまう。
「…いつも、こんな静かに食事しているの?」
「ええ」
「…寂しくない?」
「寂しくはありません。…ですが、とても、もどかしかった…」
私の質問に、赤兎がカップに広がる波紋の移ろいを慈しむように眺めながら、答える。
「…僕はこれまでずっと、『あの人』と二人きりで生きてきました。その間、あの人は何も語らず、何処に向かうでもなく、ただその場に佇んで何かを見つめている。僕は、そんな彼女に連れ添いながら、ずっと彼女の事を考えていたんです。あの人は『りある』でどんな生活を送っているのだろう、どんな想いでこの世界に佇んでいるのだろう。僕はあの人が『ろぐあうと』した後も、こうやって一人でこの場に居ない彼女の事を考えてきました。だから、一人で居る事は寂しくはなかった。…けれど、決してあの人が僕の問いに答える事はなかった…それが、もどかしかった…」
「赤兎…」
私は向かいに座る彼の、己のマスターに対する何処までも静かで果てしなく深い想いに、息を呑む。それはまるで穏やかな海面の下に広がる深い海の底を垣間見た様な、遠くに行ったまま戻って来ない子供を想い続ける母親の様な、決して無視できない、しかし其処に在る事に見返りを求めてもいけないと自ら覚悟した存在に、私は惹き込まれる。そんな彼がカップを見つめながら、宣言する。
「…でも、その様な毎日は、昨日で終わりました」
「…え?」
思わず声を上げた私の目の前で、赤兎がティーカップから視線を外し、私へと向けた。その瞳に溜め込んだ想いを籠め、抑えきれない激情を舌に乗せ、私に訴えて来る。
「あなたのマスターが、あの人の心を開いてくれました。僕は昨日、初めて、あの人の事を知ったんです!あの人が女性だと言う事も、左手が動かないと言う事も、それによって僕を動かす事も話す事もままならず、苦しんでいた事も!全部知ったんです!あなたのマスターが居てくれたから!…僕は、あの人を初めて知る事が出来たんです。…だから、今の僕は、一人でも幸せなんです…初めて、あの人の事を本当の意味で想い起こせるから…」
「…」
私は、堰を切ったように溢れ出る想いをまともに浴びて激情に塗れたまま、潮が引いたように落ち着きを取り戻す赤兎の姿に、胸を打たれた。報われなかった想い、満たされなかった想い、届かなかった願い。それらが一度に成就し、全てを吐き出した後、残された万感の残滓が寄り集まって人の姿を形作る。そんな変貌を遂げる彼の姿に私は魅入り、目が離せなくなる。硬直した私の視界の中で、一度はティーカップに目を落とした彼が、再び顔を上げた。
「僕は、あなたのマスターに御礼を言いたい。…それと、イリスさん、あなたにも」
「…私に?」
「はい」
彼の目が、私の向こう側にいるマスターではなく、明らかに私自身へと焦点を当てている。その視線に中てられ、彼の視線に籠められた熱が私の顔へと伝播する。
「あの人の心の扉を開いたのは、あなたのマスターです。ですが、扉の鍵を開けたのは、イリスさん、あなたです。あなたが『えぬぴーしー』として何度も話し掛け、『くえすと』を持ちかけてくれたから、あの人は人と接する事を覚えたんです。イリスさん、ありがとうございます!」
「そ、そんな…私は別に『えぬぴーしー』として当然の事をしただけであって…」
「当然の事ではありません。確かに他の『えぬぴーしー』の皆さんの、あの人を気遣う想いは、僕も一緒に居てまざまざと感じ取れました。でも、『くえすと』を持ちかけてくれたのは、あなただけです。その目に見える行動が、あの人を変えてくれたんです!」
私は顔に蓄積された熱に耐え切れず、思わず俯いてしまう。彼はそんな私の手を取って、両手で包み込むと、先ほどの高波の様な想いを私へと叩きつけてくる。私は、赤兎の純粋な歓びと感謝を頭から被り、ずぶ濡れになったまま硬直するしかなかった。私が下を向いたまま滴り落ちる彼の想いを肌で感じていると、再び潮の引いた彼の言葉が聞こえて来た。
「…それに、『くえすと』は決して無償ではありませんから。イリスさん、今、結構無理してません?」
「うっ」
外しようのない指摘が心臓に突き刺さり、私は思わず呻き声を上げてしまう。連日の「くえすと」が私の台所事情を圧迫し、先月から私はアルバイトを掛け持ちしていた。別の理由で再び体温を上げる私に、彼の気遣いが聞こえる。
「そこまで無理をされると、流石に僕も居たたまれません。此処は僕が支払いますから、遠慮なく好きなものを召し上がって下さい」
「そんなっ!割り勘で良いですよ!『ろぐあうと』中にアルバイトしているから、全然平気だし!大体、赤兎、あなたまだレベル一桁でしょ?懐事情、私より厳しいはずよ?」
「そ、そんな事ないですよ。僕だって街中のバイトなら、できますから」
「へぇ、街中のバイトって、どんなのがあるの?」
私の逆襲に、守勢に回った赤兎が慌てて視線を外し、ごにょごにょと答える。
「…風船が取れないと泣き喚く子供を無視し、素通りする通行人の役、とか…」
「…あ、アレ、エキストラだったんだ?」
「…」
昨日遭遇した場面を思い出した私は得心し、彼が視線を外したまま顔を赤らめる。その、まるで躾を受けて消沈する犬のような彼の姿を見た私は、慌ててフォローする。
「で、でも、きっとすぐにレベル上がるわよ!私のマスターやガーネット達が手伝ってくれるだろうし!」
「そ、そうですよね!そうすれば、街の外のバイトだって受けられるから、ずっと楽になりますよね!?」
「勿論!『かくせいくえすと』のメインキャストとかやれば、報酬も段違いだしね!私も何度もやっているし!」
「いいなぁ!僕、クラスチェンジに憧れてたんですよ!ようやく手が届くんですね!」
「うんうん!きっとすぐに二次職になれるわよ!」
私のフォローに赤兎が飛びつき、目を輝かせる。やはり生まれてからずっと「駆け出しの街」から出られず、マスターに対する想いを募らせながらも、鬱々とした日を過ごしていたようだ。子供のように声を弾ませる赤兎の姿に、私は思わず頬を綻ばせた。
「それにしても、『かくせいくえすと』のメインをはれるだなんて、凄いじゃないですか!どんな役回りなんですか!?」
「あ、えっとね…
…山奥に監禁されて鞭で打たれたり、とか…」
「イリスさん」
突然、赤兎が身を乗り出し、私の手を掴んだ。彼は私の手を決して離すまいと力を籠め、決意の光を瞳に湛え、私の目を射込むように見つめる。
「止めましょう」
「え?」
「そんなバイト、止めて下さい!僕に相談してくれれば、お金は工面しますから!身を粗末に扱ってはいけません!後できっと後悔します!」
彼の有無を言わさぬ眼差しに私は驚き、慌てて彼を宥めようと言い繕う。
「だ、大丈夫よ。慣れれば案外楽だし、大して痛くもないし」
「慣れたら後戻りできなくなるヤツですよね!?戻って来て下さい!」
「あ、でも、拘束時間が長いのが玉に瑕かな」
「それ、物理的にも拘束されていますよね!?」
***
「…あ、危なかった…慣れというのは、恐ろしいわね…」
「イリスさん、今度からは気を付けて下さいね?」
彼の説得で我に返った私は、当初あのバイトを嫌がっていた自分を思い出し、辞めることを決意した。もう赤兎に「くえすと」を持ち掛ける必要がなくなったので、あのバイトに手を出さなくても生活には困らない。最後の一線を目前にして踏み止まれた事に私は胸を撫で下ろし、後ろを歩く彼へと振り返った。
「今日は美味しいお店を紹介してくれて、ありがとう。楽しかった」
「僕もイリスさんと一緒に食事ができて、嬉しかったです」
私が礼を述べると彼ははにかむように答え、手を差し伸べて来る。
「…イリスさん、これからはギルドメンバーとして、マスター共々、よろしくお願いします」
「赤兎…」
差し出された大きな手と、背後から陽の光を浴びて輝く彼の笑顔に私は見惚れ、少しの間動きを止める。やがて、私はおずおずと手を差し出し、彼の手を握りながら俯き、小さな声で呟いた。
「…先に言っておくけど…私じゃないから」
「…え?」
聞き返してくる赤兎の声に私は恥ずかしさを覚え、下を向いたまま顔を真っ赤にして、言葉を続ける。
「…私が好きでやっているわけじゃないから…アレ、全部マスターがやっている事だから…ひ、人前でパンツ見せびらかすなんて、普段の私は決してしないから…!」
「え、えっと…」
「だから…これから何度パンツを見る事があっても…見なかった事に、してね?」
「…はい」
マスターの馬鹿ぁぁぁぁぁぁぁっ!
私は顔を上げることができず、掴んでいる彼の手を凝視したまま、顔から火を噴き上げる。私は、もはや業と化した破廉恥極まりない自己紹介をしながら、こんな恥ずかしい宿命を科すマスターに対し、心の中で抗議の声を上げていた。
***
『 イ リ ス 、 何 し て る の ? 』
『いや、後ろから見るなら、このポーズが一番そそるんじゃないかと思ってさ。赤兎、お前はどう思う?』
『 変 態 だ と 思 う 』
マスターの馬鹿ぁぁぁぁぁぁぁっ!
その晩、「私」は四つん這いになって赤兎にお尻を突き出し、己のマスターに操られてガン見する彼の視線を感じながら、マスターへ決して届かない抗議の声を上げていた。
「えぬぴーしー」の衣装に身を包み、今日のお昼を何処で食べようかと彷徨っていた私は、背後から呼ぶ声に足を止め、振り返った。
繁華街は多くの「えぬぴーしー」や「ぷれいやー」が行き交っていたが、その人々の間を縫うように、一人のヒューマンの男性が私の許へと駆け寄っていた。彼はヒューマンの中でもひと際背が高く、種族特有の茶髪が足並みに沿って踊り、その端整な顔が歓びに溢れている。彼は私の目の前に立つと、呼吸を整える暇さえも惜しむかのように息を弾ませ、笑顔を見せた。
「やっと逢えた…。随分と探しました…」
「…えぇと…」
私は自分に向けられる、分不相応なほどの好意にときめきと戸惑いを覚え、彼の真っすぐな瞳に魅入ったまま脳内にある記憶のページを捲って相手の面影を探す。私達は、この様に見知らぬ「えぬぴーしー」から知り合いのように声を掛けられる事が、間々ある。それは、互いに「ぷれいやー」同士として知り合った時だ。「ぷれいやー」の時にはマスターの好みで目や髪の色が変わっているし、マスターに操られているために性格も変わってしまう。そのため、「ぷれいやー」同士では知り合いであっても、「えぬぴーしー」の時の相手を見つけられない事が珍しくなかった。
私は彼の表情と声を頼りに脳内の肖像画を見回すが、合致する人物が見当たらない。これほど爽やかな雰囲気を漂わせ、声の透き通った男性なんて、全く記憶にない。そうなると「ぷれいやー」の時の性格が全く違うという事なのだろうけど、ここ最近知り合ったヒューマンの男性なんて一人しか…
「…あ」
「…わかりました?」
私が間の抜けた声を上げると、彼はより一層喜びを露わにする。その生気に満ち溢れた笑顔の、「ぷれいやー」の時とのあまりの落差に、私は思わず素っ頓狂な声を上げた。
「…赤兎ぉ!?」
「はい!」
私の不躾な指摘を受け、彼の笑顔がより一層輝きを増す。
「イリスさん!改めまして、赤兎です!お逢いできて、とても嬉しいです!」
「えっ!?嘘っ!?『ろぐいん』している時と全く別人じゃない、あなた!?」
「えぇ、まぁ」
私が目を丸くし、手で口元を押さえながら驚くと、彼は眉を下げる。
「僕のマスターはあの通り物静かですし、会話も文字入力ですから。僕の声を知っている人なんて、ほとんど居ません」
ぼ、僕…!?
私は目の前に立つ青年が照れくさそうに口にした言葉に、思わず手で胸を押さえてしまった。私のマスターと同じ男性でありながら、このギャップは一体何なのだろう。
「イリスさん?」
「あ、ううん、何でもないの!ちょっと、びっくりしただけだから!」
小首を傾げる赤兎に対して私は慌てて手を振って誤魔化し、話を逸らす。
「今日はマスターさん、『ろぐいん』してないのね?」
「ええ、『びょういん』だそうです。昨日、イリスさん達の前でも話してましたけど」
「あぁ、そう言えばそんな会話していたね」
赤兎の返答に、私は昨日のやり取りを思い出して相槌を打つ。私が顎に指を当て、上を向いて記憶を掘り返していると、赤兎が周囲を見渡しながら答える。
「…立ち話も何ですから、何処かに入りませんか?イリスさん、お昼はもうお済みですか?」
ぐきゅぅぅぅぅ。
「…」
「…」
私の心の声を代弁するかのように特定部位が自己主張し、二人の間に沈黙が広がる。体温が上がり、次第に下を向く私の視界の端から、彼の咳払いの音が聞こえて来た。
「…コホン。とりあえず、何処かに入りましょうか。何か食べたい料理とか、あります?」
「…オマカセシマス…」
***
赤兎に連れられて入ったお店は、繁華街から少し離れた、港へと向かう道の途中にあった。周囲の建物より一段奥にあるそのお店は、喧騒に溢れる表通りと一線を画し、落ち着いた雰囲気を醸し出している。客は疎らで、私達は他の客から幾分離れた壁際のテーブルを選び、腰を下ろした。
「此処、隠れ家みたいな雰囲気があって、周囲のお店と違って静かなんですよ。港から近くて魚介も新鮮で、独りで美味しいものを食べるのにはもってこいなんです」
私達はシーフードサラダとバケット、白身魚の香草焼き、海老のリゾット等を注文し、二人で分け合った。魚介はとても新鮮で、ハーブの香りが食欲をそそる。私は自己主張の激しい特定部位を黙らせるため、早速魚の身を一切れ、口に放り込んだ。
「あ、美味しい。これはガーネットにも教えてあげないと、後で怒られるわね」
「お口に合って、良かった」
顔を上げると、赤兎が私の食べる姿をにこやかに眺めていた。私は気恥ずかしさを覚え、目前の料理に視線を落とし、視界から彼の姿を消し去る。私は視界を占める料理に集中し、暫くの間、テーブルの周辺に二人分の食器の音だけが漂う。
「…」
バケットを口に含みながら視線を上げると、赤兎がティーカップを手にしたまま目減りした料理を見つめ、微笑んでいた。それはまるで、食器の奏でる音楽に耳を傾け楽しんでいる様に思え、私は思わず尋ねてしまう。
「…いつも、こんな静かに食事しているの?」
「ええ」
「…寂しくない?」
「寂しくはありません。…ですが、とても、もどかしかった…」
私の質問に、赤兎がカップに広がる波紋の移ろいを慈しむように眺めながら、答える。
「…僕はこれまでずっと、『あの人』と二人きりで生きてきました。その間、あの人は何も語らず、何処に向かうでもなく、ただその場に佇んで何かを見つめている。僕は、そんな彼女に連れ添いながら、ずっと彼女の事を考えていたんです。あの人は『りある』でどんな生活を送っているのだろう、どんな想いでこの世界に佇んでいるのだろう。僕はあの人が『ろぐあうと』した後も、こうやって一人でこの場に居ない彼女の事を考えてきました。だから、一人で居る事は寂しくはなかった。…けれど、決してあの人が僕の問いに答える事はなかった…それが、もどかしかった…」
「赤兎…」
私は向かいに座る彼の、己のマスターに対する何処までも静かで果てしなく深い想いに、息を呑む。それはまるで穏やかな海面の下に広がる深い海の底を垣間見た様な、遠くに行ったまま戻って来ない子供を想い続ける母親の様な、決して無視できない、しかし其処に在る事に見返りを求めてもいけないと自ら覚悟した存在に、私は惹き込まれる。そんな彼がカップを見つめながら、宣言する。
「…でも、その様な毎日は、昨日で終わりました」
「…え?」
思わず声を上げた私の目の前で、赤兎がティーカップから視線を外し、私へと向けた。その瞳に溜め込んだ想いを籠め、抑えきれない激情を舌に乗せ、私に訴えて来る。
「あなたのマスターが、あの人の心を開いてくれました。僕は昨日、初めて、あの人の事を知ったんです!あの人が女性だと言う事も、左手が動かないと言う事も、それによって僕を動かす事も話す事もままならず、苦しんでいた事も!全部知ったんです!あなたのマスターが居てくれたから!…僕は、あの人を初めて知る事が出来たんです。…だから、今の僕は、一人でも幸せなんです…初めて、あの人の事を本当の意味で想い起こせるから…」
「…」
私は、堰を切ったように溢れ出る想いをまともに浴びて激情に塗れたまま、潮が引いたように落ち着きを取り戻す赤兎の姿に、胸を打たれた。報われなかった想い、満たされなかった想い、届かなかった願い。それらが一度に成就し、全てを吐き出した後、残された万感の残滓が寄り集まって人の姿を形作る。そんな変貌を遂げる彼の姿に私は魅入り、目が離せなくなる。硬直した私の視界の中で、一度はティーカップに目を落とした彼が、再び顔を上げた。
「僕は、あなたのマスターに御礼を言いたい。…それと、イリスさん、あなたにも」
「…私に?」
「はい」
彼の目が、私の向こう側にいるマスターではなく、明らかに私自身へと焦点を当てている。その視線に中てられ、彼の視線に籠められた熱が私の顔へと伝播する。
「あの人の心の扉を開いたのは、あなたのマスターです。ですが、扉の鍵を開けたのは、イリスさん、あなたです。あなたが『えぬぴーしー』として何度も話し掛け、『くえすと』を持ちかけてくれたから、あの人は人と接する事を覚えたんです。イリスさん、ありがとうございます!」
「そ、そんな…私は別に『えぬぴーしー』として当然の事をしただけであって…」
「当然の事ではありません。確かに他の『えぬぴーしー』の皆さんの、あの人を気遣う想いは、僕も一緒に居てまざまざと感じ取れました。でも、『くえすと』を持ちかけてくれたのは、あなただけです。その目に見える行動が、あの人を変えてくれたんです!」
私は顔に蓄積された熱に耐え切れず、思わず俯いてしまう。彼はそんな私の手を取って、両手で包み込むと、先ほどの高波の様な想いを私へと叩きつけてくる。私は、赤兎の純粋な歓びと感謝を頭から被り、ずぶ濡れになったまま硬直するしかなかった。私が下を向いたまま滴り落ちる彼の想いを肌で感じていると、再び潮の引いた彼の言葉が聞こえて来た。
「…それに、『くえすと』は決して無償ではありませんから。イリスさん、今、結構無理してません?」
「うっ」
外しようのない指摘が心臓に突き刺さり、私は思わず呻き声を上げてしまう。連日の「くえすと」が私の台所事情を圧迫し、先月から私はアルバイトを掛け持ちしていた。別の理由で再び体温を上げる私に、彼の気遣いが聞こえる。
「そこまで無理をされると、流石に僕も居たたまれません。此処は僕が支払いますから、遠慮なく好きなものを召し上がって下さい」
「そんなっ!割り勘で良いですよ!『ろぐあうと』中にアルバイトしているから、全然平気だし!大体、赤兎、あなたまだレベル一桁でしょ?懐事情、私より厳しいはずよ?」
「そ、そんな事ないですよ。僕だって街中のバイトなら、できますから」
「へぇ、街中のバイトって、どんなのがあるの?」
私の逆襲に、守勢に回った赤兎が慌てて視線を外し、ごにょごにょと答える。
「…風船が取れないと泣き喚く子供を無視し、素通りする通行人の役、とか…」
「…あ、アレ、エキストラだったんだ?」
「…」
昨日遭遇した場面を思い出した私は得心し、彼が視線を外したまま顔を赤らめる。その、まるで躾を受けて消沈する犬のような彼の姿を見た私は、慌ててフォローする。
「で、でも、きっとすぐにレベル上がるわよ!私のマスターやガーネット達が手伝ってくれるだろうし!」
「そ、そうですよね!そうすれば、街の外のバイトだって受けられるから、ずっと楽になりますよね!?」
「勿論!『かくせいくえすと』のメインキャストとかやれば、報酬も段違いだしね!私も何度もやっているし!」
「いいなぁ!僕、クラスチェンジに憧れてたんですよ!ようやく手が届くんですね!」
「うんうん!きっとすぐに二次職になれるわよ!」
私のフォローに赤兎が飛びつき、目を輝かせる。やはり生まれてからずっと「駆け出しの街」から出られず、マスターに対する想いを募らせながらも、鬱々とした日を過ごしていたようだ。子供のように声を弾ませる赤兎の姿に、私は思わず頬を綻ばせた。
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「あ、えっとね…
…山奥に監禁されて鞭で打たれたり、とか…」
「イリスさん」
突然、赤兎が身を乗り出し、私の手を掴んだ。彼は私の手を決して離すまいと力を籠め、決意の光を瞳に湛え、私の目を射込むように見つめる。
「止めましょう」
「え?」
「そんなバイト、止めて下さい!僕に相談してくれれば、お金は工面しますから!身を粗末に扱ってはいけません!後できっと後悔します!」
彼の有無を言わさぬ眼差しに私は驚き、慌てて彼を宥めようと言い繕う。
「だ、大丈夫よ。慣れれば案外楽だし、大して痛くもないし」
「慣れたら後戻りできなくなるヤツですよね!?戻って来て下さい!」
「あ、でも、拘束時間が長いのが玉に瑕かな」
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***
「…あ、危なかった…慣れというのは、恐ろしいわね…」
「イリスさん、今度からは気を付けて下さいね?」
彼の説得で我に返った私は、当初あのバイトを嫌がっていた自分を思い出し、辞めることを決意した。もう赤兎に「くえすと」を持ち掛ける必要がなくなったので、あのバイトに手を出さなくても生活には困らない。最後の一線を目前にして踏み止まれた事に私は胸を撫で下ろし、後ろを歩く彼へと振り返った。
「今日は美味しいお店を紹介してくれて、ありがとう。楽しかった」
「僕もイリスさんと一緒に食事ができて、嬉しかったです」
私が礼を述べると彼ははにかむように答え、手を差し伸べて来る。
「…イリスさん、これからはギルドメンバーとして、マスター共々、よろしくお願いします」
「赤兎…」
差し出された大きな手と、背後から陽の光を浴びて輝く彼の笑顔に私は見惚れ、少しの間動きを止める。やがて、私はおずおずと手を差し出し、彼の手を握りながら俯き、小さな声で呟いた。
「…先に言っておくけど…私じゃないから」
「…え?」
聞き返してくる赤兎の声に私は恥ずかしさを覚え、下を向いたまま顔を真っ赤にして、言葉を続ける。
「…私が好きでやっているわけじゃないから…アレ、全部マスターがやっている事だから…ひ、人前でパンツ見せびらかすなんて、普段の私は決してしないから…!」
「え、えっと…」
「だから…これから何度パンツを見る事があっても…見なかった事に、してね?」
「…はい」
マスターの馬鹿ぁぁぁぁぁぁぁっ!
私は顔を上げることができず、掴んでいる彼の手を凝視したまま、顔から火を噴き上げる。私は、もはや業と化した破廉恥極まりない自己紹介をしながら、こんな恥ずかしい宿命を科すマスターに対し、心の中で抗議の声を上げていた。
***
『 イ リ ス 、 何 し て る の ? 』
『いや、後ろから見るなら、このポーズが一番そそるんじゃないかと思ってさ。赤兎、お前はどう思う?』
『 変 態 だ と 思 う 』
マスターの馬鹿ぁぁぁぁぁぁぁっ!
その晩、「私」は四つん這いになって赤兎にお尻を突き出し、己のマスターに操られてガン見する彼の視線を感じながら、マスターへ決して届かない抗議の声を上げていた。
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