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16:もう一度謝りたくて
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結局、翌日も「えすえぬえす」は「きどく」にならなかった。
***
『…ねぇ、イリス。赤兎馬って知ってる?』
『ぃんや、知らね』
翌々日、「私」は赤兎に連れられ、二人で街の近くにそびえる岬へと来ていた。
周囲の陸地を置き去りにして海へとせり出した岬は三方を高い崖に覆われ、下を覗き込むと繰り返し打ち寄せる白波が岬の周囲を白く浮かび上がらせている。右に目を向けると、岬から伸びた海岸がなだらかな曲線を描いて入り江を形成し、その中央に港があって、爪ほどに小さくなった船が何隻も停泊していた。そして、港から陸側に向かって一本の白い線が伸び、その先には葡萄の実のように幾つもの家屋が連なった「駆け出しの街」が見えた。
「私」は岬の中央にどんと居座る岩の上に胡坐をかき、岬の先端に立ち海を眺めている赤兎の背中を見つめている。岬には青空が広がり、穏やかで心地良い風が吹き、時折風に乗ってカモメの鳴き声が聞こえて来る。「私」の視線の先で背中を向けた赤兎の声が、風に乗って漂ってきた。
『赤兎馬は昔、中国に居たとされる名馬で、一日に千里を走るって言われているの。…三国志、読んだ事ある?』
『いや、ねぇ』
自分の発言に引け目を感じたのかもしれない。「私」が胡坐をかいて掌の上に顎を乗せたまま、渋い顔で答える。赤兎はそんな「私」の表情に気づかず、「私」に背中を向けたまま、言葉を続けた。
『…私、中学の時、陸上部だったんだよね』
『…』
黙ったまま、掌の上に頭を乗せている「私」の眉間に皴がより、不機嫌さが増す。赤兎は相変わらず「私」に背中を向け、海を眺めている。
『私、短距離走の選手でさ。高校生になったらインターハイに出場する事が、夢だったんだ。毎日遅くまで練習して、へとへとになって、でも辛いとか苦しいとか、全然思わなかった。走っていると自分がカモシカになった様な気分で、周りの風景が霞みのように朧げになって。オリンピックの選手達がよく言っている”別世界”を自分も見てみたくて、一生懸命走り込んでいた。――― でも、その生活が、あの事故で一変したんだ』
そう発言した赤兎の背中は、何も変わらない。肩を震わせて泣くわけでもなく、諦めたように肩を落とす事もなく、飄々と海を眺めている。ただ、そんな何も変わらない赤兎の背中を見つめている「私」の眉間の皴だけが、深くなった。
『事故で左手足が動かなくなった私は、走る事はおろか、歩く事さえできなくなった。これまでカモシカのように嬉々として走り回っていた私が突然、動けない剝製にされたんだ。捌け口を求め、周りに当たり散らしていた怒りが私の頭の中から消え去った後、次に私に襲い掛かって来たのは、逃れようのない絶望と、自由に動き回る周囲に対する羨望だった。
私は、病院の廊下を無邪気に走り回って親に叱られている子供達が、羨ましかった。杖を突いてゆっくりと階段を上り下りするお年寄りが、羨ましかった。私は一人でトイレに行く事もできず、お母さんや看護師さんに車椅子に乗るのを介助してもらうしかなかった。そんな不甲斐ない体になってしまった自分が悔しくて、悲しかった。
退院して家に戻った後も、私は満足に外に出る事ができなかった。自由に走り回る人の姿が羨ましくて、スポーツのニュースが見れなくなった。そんな私が見るようになったのは、インターネットで配信される、ローカルな旅の動画や山や海の自然を紹介する動画だった。もう二度と走る事が出来なくなった私だけど、だけどいつか、こういった場所に自分の足で行きたい。
それを夢見て、毎日色々な動画を見て回っていた私は、――― 其処に掲載されていた広告で初めてこのゲームの事を知ったんだ』
そう語った赤兎は「私」に背を向けたまま額に手を翳し、岬を囲う水平線を追うように大きく見渡していく。二羽のカモメが戯れるように空を舞い、赤兎の視線と交差する。赤兎は、岬を横切ったカモメが手土産に置いていった鳴き声を聞き流し、入り江に広がる港を見つめながら呟いた。
『広告に映っていた風景は、とてもCGとは思えないほど現実的で、しかも幻想に満ち溢れてた。この広告で初めてVRMMOの存在を知った私は、お父さんに買ってくれって泣きついた。このゲームだったら、私だって一人で歩き回れる。車椅子も必要とせず、誰にも迷惑を掛けずに自由に旅に出られる。そう思って、初めてゲームに手を出したんだ。
…でも、そうはならなかった。ゲームを進めるには両手でコントローラを操作する事が必要で、左手が動かない私は、まともに歩き回る事さえできなかった。何とか右手一本で動けないか色々試したけど上手くいかなくて、他人に迷惑を掛けたくなくて誰にも相談できなかった。嫌がられたらどうしよう、手足が動かない女から話し掛けられて気持ち悪がられたらどうしようって、怖くて声も出せなかった。攻撃も満足にできなくて、ゴブリンに何度も殺された私は街の外にも出られず、結局1年、街の中を散策して我慢するしかなかったんだ…。
――― でも、その諦めかけていた夢が、イリスと出逢えて、初めて叶ったんだ』
そう答えた赤兎が、「私」へと振り返る。その顔に浮かぶのは、静謐と表現できるほどの、何処までも穏やかな微笑み。行き場のない怒りと絶望に身を委ね、それが満たされないまま風化して灰となった心に突如訪れた、安住の地。その、苦しみの末ついに自らの居場所を見つけた者だけが見せる、世界に対する全幅の信頼の証。歓びを面に表すわけでもなく、泣き咽ぶわけでもなく、ただ、ふかふかのベッドの中で眠りに就くかのように、あるべき場所に収まった一片のジグソーパズルのように、其処に居られる事自体に歓びを噛み締める。そんな赤兎の笑顔に、「私」は掌に乗せていた頭を上げ、呆けたように見惚れる。
『ねぇ、イリス…』
『…』
『…私、もっと、色々な場所に行ってみたい』
赤兎が穏やかな表情で「私」を見つめたまま、願いを口にする。
『私、まだ二次職になったばかりで、この世界のごく一部しか知らない。広告や公式サイトに載っているあの綺麗な景色とか、まだ全然見てないんだ。…イリス、迷惑じゃなかったら、私を一緒に連れて行ってくれない?』
『…ぁ…あああ当たり前じゃねぇかっ、そんなのよっ!』
赤兎の言葉に、「私」は岩の上で弾かれたように背筋を伸ばした。「私」は下を向き、顔を赤らめながら胡坐をかく自分の足首に向かって怒鳴りつける。
『二次職で行ける場所なんて、このゲームじゃまだ”さわり”にも入っちゃいねぇ。レベル50の狩場でもある妖精の住む湖は、夜になると妖精が蛍の様に輝きながら空を舞うし、レベル60くらいで行く虹色の森は、文字通り木の葉が七色に輝くんだ。レベル70で行ける天空の島から見下ろす地上は、圧巻だぜっ!?…ぜ、全部、俺がちゃんと連れてってやっからよ…』
『…うん。ありがとう、イリス』
下を向いたままの「私」の視界の隅に、歩み寄る赤兎の足先が映り込んだ。「私」は視線をずらし、赤兎の足先を視界の外に追いやると、頭を掻いて誤魔化すように言葉を吐く。
『そ、その前に、先生と仲直りしねぇとな。…ヒーラー居ねえと、行けねぇからよ』
『うん』
そっぽを向いた「私」の視界に、男の人の掌が差し出された。「私」はその掌をじろりと睨みつけると、渋々手を取って岩から降りる。
『そろそろ、帰ろっか』
『…おぅ』
そう答えた「私」は赤兎と手を繋いだまま「駆け出しの街」へと足を向け、岬を後にした。
『よぉ、ヤマト』
『おはよう、イリス、赤兎』
『ヤマトさん、おはよう』
ギルドホームには、ヤマトが一人でソファに腰を下ろしていた。彼は「私」達に挨拶した後、伝言を口にした。
『ガーネットからの伝言だ。先生と連絡がついたそうだ。今、SNSで色々話している。今日は無理かもしれんが、もう少し待ってくれってさ』
『そうか!良かったな、赤兎!』
『うん!』
「私」が顔を上げ、赤兎に向かって威勢良く答えると、赤兎が嬉しそうに微笑む。
ガーネットの言う通り、その日も先生は「ろぐいん」して来なかったが、「私」達は昨日より幾分明るい雰囲気で「ろぐあうと」し、その日を待ち続ける。
そして、その翌日。「私」と赤兎、ガーネット達がギルドホームで屯していると、頭の中にメッセージが流れ込んだ。
///// 【ギルドマスター:姜尚】が、ログインしました /////
***
『…ねぇ、イリス。赤兎馬って知ってる?』
『ぃんや、知らね』
翌々日、「私」は赤兎に連れられ、二人で街の近くにそびえる岬へと来ていた。
周囲の陸地を置き去りにして海へとせり出した岬は三方を高い崖に覆われ、下を覗き込むと繰り返し打ち寄せる白波が岬の周囲を白く浮かび上がらせている。右に目を向けると、岬から伸びた海岸がなだらかな曲線を描いて入り江を形成し、その中央に港があって、爪ほどに小さくなった船が何隻も停泊していた。そして、港から陸側に向かって一本の白い線が伸び、その先には葡萄の実のように幾つもの家屋が連なった「駆け出しの街」が見えた。
「私」は岬の中央にどんと居座る岩の上に胡坐をかき、岬の先端に立ち海を眺めている赤兎の背中を見つめている。岬には青空が広がり、穏やかで心地良い風が吹き、時折風に乗ってカモメの鳴き声が聞こえて来る。「私」の視線の先で背中を向けた赤兎の声が、風に乗って漂ってきた。
『赤兎馬は昔、中国に居たとされる名馬で、一日に千里を走るって言われているの。…三国志、読んだ事ある?』
『いや、ねぇ』
自分の発言に引け目を感じたのかもしれない。「私」が胡坐をかいて掌の上に顎を乗せたまま、渋い顔で答える。赤兎はそんな「私」の表情に気づかず、「私」に背中を向けたまま、言葉を続けた。
『…私、中学の時、陸上部だったんだよね』
『…』
黙ったまま、掌の上に頭を乗せている「私」の眉間に皴がより、不機嫌さが増す。赤兎は相変わらず「私」に背中を向け、海を眺めている。
『私、短距離走の選手でさ。高校生になったらインターハイに出場する事が、夢だったんだ。毎日遅くまで練習して、へとへとになって、でも辛いとか苦しいとか、全然思わなかった。走っていると自分がカモシカになった様な気分で、周りの風景が霞みのように朧げになって。オリンピックの選手達がよく言っている”別世界”を自分も見てみたくて、一生懸命走り込んでいた。――― でも、その生活が、あの事故で一変したんだ』
そう発言した赤兎の背中は、何も変わらない。肩を震わせて泣くわけでもなく、諦めたように肩を落とす事もなく、飄々と海を眺めている。ただ、そんな何も変わらない赤兎の背中を見つめている「私」の眉間の皴だけが、深くなった。
『事故で左手足が動かなくなった私は、走る事はおろか、歩く事さえできなくなった。これまでカモシカのように嬉々として走り回っていた私が突然、動けない剝製にされたんだ。捌け口を求め、周りに当たり散らしていた怒りが私の頭の中から消え去った後、次に私に襲い掛かって来たのは、逃れようのない絶望と、自由に動き回る周囲に対する羨望だった。
私は、病院の廊下を無邪気に走り回って親に叱られている子供達が、羨ましかった。杖を突いてゆっくりと階段を上り下りするお年寄りが、羨ましかった。私は一人でトイレに行く事もできず、お母さんや看護師さんに車椅子に乗るのを介助してもらうしかなかった。そんな不甲斐ない体になってしまった自分が悔しくて、悲しかった。
退院して家に戻った後も、私は満足に外に出る事ができなかった。自由に走り回る人の姿が羨ましくて、スポーツのニュースが見れなくなった。そんな私が見るようになったのは、インターネットで配信される、ローカルな旅の動画や山や海の自然を紹介する動画だった。もう二度と走る事が出来なくなった私だけど、だけどいつか、こういった場所に自分の足で行きたい。
それを夢見て、毎日色々な動画を見て回っていた私は、――― 其処に掲載されていた広告で初めてこのゲームの事を知ったんだ』
そう語った赤兎は「私」に背を向けたまま額に手を翳し、岬を囲う水平線を追うように大きく見渡していく。二羽のカモメが戯れるように空を舞い、赤兎の視線と交差する。赤兎は、岬を横切ったカモメが手土産に置いていった鳴き声を聞き流し、入り江に広がる港を見つめながら呟いた。
『広告に映っていた風景は、とてもCGとは思えないほど現実的で、しかも幻想に満ち溢れてた。この広告で初めてVRMMOの存在を知った私は、お父さんに買ってくれって泣きついた。このゲームだったら、私だって一人で歩き回れる。車椅子も必要とせず、誰にも迷惑を掛けずに自由に旅に出られる。そう思って、初めてゲームに手を出したんだ。
…でも、そうはならなかった。ゲームを進めるには両手でコントローラを操作する事が必要で、左手が動かない私は、まともに歩き回る事さえできなかった。何とか右手一本で動けないか色々試したけど上手くいかなくて、他人に迷惑を掛けたくなくて誰にも相談できなかった。嫌がられたらどうしよう、手足が動かない女から話し掛けられて気持ち悪がられたらどうしようって、怖くて声も出せなかった。攻撃も満足にできなくて、ゴブリンに何度も殺された私は街の外にも出られず、結局1年、街の中を散策して我慢するしかなかったんだ…。
――― でも、その諦めかけていた夢が、イリスと出逢えて、初めて叶ったんだ』
そう答えた赤兎が、「私」へと振り返る。その顔に浮かぶのは、静謐と表現できるほどの、何処までも穏やかな微笑み。行き場のない怒りと絶望に身を委ね、それが満たされないまま風化して灰となった心に突如訪れた、安住の地。その、苦しみの末ついに自らの居場所を見つけた者だけが見せる、世界に対する全幅の信頼の証。歓びを面に表すわけでもなく、泣き咽ぶわけでもなく、ただ、ふかふかのベッドの中で眠りに就くかのように、あるべき場所に収まった一片のジグソーパズルのように、其処に居られる事自体に歓びを噛み締める。そんな赤兎の笑顔に、「私」は掌に乗せていた頭を上げ、呆けたように見惚れる。
『ねぇ、イリス…』
『…』
『…私、もっと、色々な場所に行ってみたい』
赤兎が穏やかな表情で「私」を見つめたまま、願いを口にする。
『私、まだ二次職になったばかりで、この世界のごく一部しか知らない。広告や公式サイトに載っているあの綺麗な景色とか、まだ全然見てないんだ。…イリス、迷惑じゃなかったら、私を一緒に連れて行ってくれない?』
『…ぁ…あああ当たり前じゃねぇかっ、そんなのよっ!』
赤兎の言葉に、「私」は岩の上で弾かれたように背筋を伸ばした。「私」は下を向き、顔を赤らめながら胡坐をかく自分の足首に向かって怒鳴りつける。
『二次職で行ける場所なんて、このゲームじゃまだ”さわり”にも入っちゃいねぇ。レベル50の狩場でもある妖精の住む湖は、夜になると妖精が蛍の様に輝きながら空を舞うし、レベル60くらいで行く虹色の森は、文字通り木の葉が七色に輝くんだ。レベル70で行ける天空の島から見下ろす地上は、圧巻だぜっ!?…ぜ、全部、俺がちゃんと連れてってやっからよ…』
『…うん。ありがとう、イリス』
下を向いたままの「私」の視界の隅に、歩み寄る赤兎の足先が映り込んだ。「私」は視線をずらし、赤兎の足先を視界の外に追いやると、頭を掻いて誤魔化すように言葉を吐く。
『そ、その前に、先生と仲直りしねぇとな。…ヒーラー居ねえと、行けねぇからよ』
『うん』
そっぽを向いた「私」の視界に、男の人の掌が差し出された。「私」はその掌をじろりと睨みつけると、渋々手を取って岩から降りる。
『そろそろ、帰ろっか』
『…おぅ』
そう答えた「私」は赤兎と手を繋いだまま「駆け出しの街」へと足を向け、岬を後にした。
『よぉ、ヤマト』
『おはよう、イリス、赤兎』
『ヤマトさん、おはよう』
ギルドホームには、ヤマトが一人でソファに腰を下ろしていた。彼は「私」達に挨拶した後、伝言を口にした。
『ガーネットからの伝言だ。先生と連絡がついたそうだ。今、SNSで色々話している。今日は無理かもしれんが、もう少し待ってくれってさ』
『そうか!良かったな、赤兎!』
『うん!』
「私」が顔を上げ、赤兎に向かって威勢良く答えると、赤兎が嬉しそうに微笑む。
ガーネットの言う通り、その日も先生は「ろぐいん」して来なかったが、「私」達は昨日より幾分明るい雰囲気で「ろぐあうと」し、その日を待ち続ける。
そして、その翌日。「私」と赤兎、ガーネット達がギルドホームで屯していると、頭の中にメッセージが流れ込んだ。
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