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終章 飛車角膳
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八一屋の中食は二十食に増えた。
けふの中食
飛車角膳
飛車 鮎の塩焼き
角 まぐろ角切り
ごはん みそ汁
小ばち 香のもの付き
二十食かぎり二十文
「おっ、飛車角膳かい」
「将棋料理屋らしいな」
そろいの半纏姿の左官衆が言った。
「飛車角はほかにもいろいろ思案できるので」
おたつが笑みを浮かべた。
「鰻と穴子とかよ」
左官の親方が言う。
「鰻なら、蒲焼きと白焼きの合い盛りでも飛車角になりそうです」
おまさが案を出した。
「なるほど。そりゃ豪勢だ」
「次に出してくんな」
「きっと来るからよ」
左官衆が口々に言った。
鮪[まぐろ]は下魚として嫌う向きもあるが、いいものを造りにするとうまい。
「こりゃ、たしかに角の働きだな」
「山葵醤油につけたらうめえ」
「飛車もうめえぜ」
「いい鮎がこんがりと焼けてるからよ」
評判は上々だった。
二十食に増やしたが、八一屋の中食は滞りなく売り切れた。
二
二幕目に不鳴不飛がかわら版を持ってきた。
「いま末吉らが売りさばいてるところで」
戯作者がそう言って刷り物をおまさに渡した。
「まあ、棋譜が載ってるんですね」
娘将棋指しの瞳が輝いた。
「ありがたいことで」
おたつが軽く両手を合わせた。
「やつがれの力作で」
不鳴不飛が笑みを浮かべた。
こんな文面だった。
将棋組戦にて、娘将棋指し奮闘す
江戸の将棋の組戦が催されたり。
本郷の将棋料理屋、八一屋に集ひ、総当たり勝負に挑めるは、将棋家の俊秀、大橋宗秀、八一屋の看板娘の将棋指しおまさ、それに、江戸でも指折りの女将棋指し、池田菊と八丁堀はるなり。
宗秀とおまさが行へる将棋指南の日に合わせて催されし組戦は滞りなく進み、終ひに指南役同士の戦ひが行はれたり。
ここまで宗秀は全勝、おまさは一勝一敗にて、娘将棋指しにとつてみれば負けられぬ剣が峰の一戦なり。
仔細は下記の棋譜をご覧うじろ。
(棋譜)
心ある者は将棋盤にて並べてみられんことを。
宗秀の四間飛車におまさが対抗せしは、亡き父が編み出せる天空の城の構へなり。
難攻不落にして攻撃にも秀でたるこの布陣を築き、おまさは懸命に戦へり。
指運に恵まれず、敗戦を喫すれど、その戦ひぶりは見事なり。
やがては、いや、いまでもすでに江戸一の女将棋指しならん。
その行く手に幸ひあれ。
「ありがたく存じます」
母とともにかわら版に目を通したおまさは頭を下げた。
「これは仏壇に供えておきます」
おたつがそう言って目をしばたたかせた。
「おとっつぁんが喜びます」
おまさも感慨深げに言った。
「書いた甲斐がありますな。これからも気張って」
戯作者が励ました。
「はい」
おまさはいい表情で答えた。
三
次の将棋指南も大盛況だった。
いつもはおやきがふるまわれるのだが、今日は鰻の蒲焼きが出た。
中食はおまさの案が採用された。
鰻の白焼きと蒲焼きの飛車角膳だ。
おたつはかつて、短い間だが鰻屋で修業したことがある。秘伝のたれのつくり方も教わった。
「これなら鰻屋にも負けていないよ」
常連の隠居がそう言ってくれた。
「白焼きもうまいな。山葵がよく合う」
中食から来てくれている松橋新之丞が笑みを浮かべた。
そんな調子で、八一屋の中食は今日も滞りなく売り切れた。
その蒲焼きがつく将棋指南は、宗秀もおまさも三面指しになった。千客万来だ。
さすがに三局同時となると大変だが、心地いい疲れだった。
すべて終わり、局後の検討まで終わると、あとは酒になった。
おまさはつぎ役に回る。
「指南役は二人で出かけたりはしないのかい」
商家の隠居がたずねた。
「え、ええ、ここばかりで」
おまさは少しうろたえて答えた。
「どこかへ出かけたらどうだい」
そう水を向ける。
「ならば、頭将棋はどうだろう」
宗秀が切り出した。
「頭将棋?」
おまさはいぶかしげな顔つきになった。
「将棋の盤駒を用いず、互いに一手ずつ指し手を読み上げ、頭の中の将棋盤で競うんだ。難しいが、面白いぞ」
宗秀は笑みを浮かべた。
「へえ、面白そう」
おまさは乗り気で答えた。
「それはお手上げだね。寿命が縮むよ」
隠居が笑った。
「わたしも白旗だ」
新之丞も続いた。
「とにかく、やってみます」
おまさが笑顔で言った。
四
その後はとんとんと段取りが整った。
次の八一屋の休みの日、二人は両国橋の西詰で待ち合わせた。
「せっかくだから、芝居でも観ようか」
宗秀が水を向けた。
「はい」
おまさは笑みを浮かべた。
両国橋の西詰は江戸でも指折りの繁華な場所だ。
芝居小屋や見世物小屋などが並び、茶見世も多い。
いくらか迷った末に、仇討ちの芝居を観た。おまさにとってみればいま一つの内容だったが、宗秀の隣で観られて満足だった。
芝居のあとは茶見世に入った。団子が売り物の見世だ。
みたらし団子と餡団子を頼むと、茶が出た。
「では、例のものを始めようか」
宗秀が言った。
「頭将棋ですね?」
おまさが問うた。
「そうだ。先手でいいよ」
若き棋士が答えた。
「お願いします。初手は七六歩で」
おまさが言った。
「では、八四歩」
宗秀が答えた。
頭の中に将棋盤を据え、まぼろしの駒を動かしていく。
「序盤の駒組みまでは大丈夫だね」
宗秀が言った。
「駒がぶつかってからが大変そうで」
と、おまさ。
「持ち駒を憶えておかねばならないから」
宗秀が腕組みをした。
「歩の数とか間違えないようにしないと」
おまさはうなずいた。
ほどなく、団子と茶が来た。
ゆっくりと味わいながら、頭将棋を続ける。
おまさは雁木、宗秀は矢倉。
ともにがっちりと組み、端歩も突き合った。
「……五六歩」
宗秀が言った。
いよいよ開戦だ。
「……同歩」
おまさが応じる。
そこからは難しい戦いになった。
だんだん駒が入り組んでくる。
おまさはこめかみに指をやった。
局面がどうなっているのか、次の最善手は何か、思案しなければいけないことが多すぎる。
「うーん」
宗秀がうなった。
さしもの青年棋士にも、頭将棋の終盤は難しい。
いよいよ、詰むや詰まざるやの局面になった。
おまさの頭の中に光明が差した。
ことによると、詰みがあるかもしれない。
玉頭に歩を連打していけば、ぴったり詰む。
「……八四歩」
おまさは言った。
「同歩」
宗秀がすぐさま応じる。
「八三歩」
おまさも間髪を容れずに言った。
「待った。もう歩はないよ」
宗秀が右手を挙げた。
「えっ。歩がない?」
おまさは声をあげた。
「間違いない。もう一歩あれば詰んでるけど、それは前から読んでいた」
宗秀はそう言って茶を啜った。
一歩千金と言う。
そのたった一枚の歩がない。
おまさの玉にはもう受けがない。勝敗は決した。
「そうでしたか。……では、負けました」
おまさは頭を下げた。
「楽しかったね」
宗秀が笑った。
「ええ」
おまさも笑みを返した。
五
いい日和だった。
茶見世を出た二人は大川端をつれだって歩いた。
大川が見えるところで、どちらからともなく立ち止まる。
川面をゆるゆると船が進んでいく。中州から白い羽を広げて鳥が飛び立つ。
そのさまが夢のようだった。
「見てると落ち着きますね」
おまさが言った。
「頭将棋のあとだと、ことに癒やされるね」
宗秀が笑みを浮かべた。
「ええ」
おまさは瞬きをした。
日の光が悦ばしく差しこんでくる。
一幅の画のような景色だ。
「こういう無辺の景色に比べると、将棋盤は小さい」
宗秀が言った。
おまさがうなずく。
「それでも、八一枡の将棋盤の中には無辺の世界が広がっている」
将棋家の俊秀が言った。
「そうですね」
おまさはそう言って遠くの水面を見た。
弾かれる日の光がまるで魚の群れのようだ。
「わたしが知っているのは、百のうち七か八くらいだろう」
宗秀が控えめに言った。
「それなら、わたしは三か四でしょう」
と、おまさ。
「少しでも、一歩でも百に近づけるように、これからもともに研鑽していこう」
宗秀が笑みを浮かべた。
「よろしゅうお願いいたします」
おまさは笑顔で頭を下げた。
[主要参考文献]
『復元・江戸情報地図』(朝日新聞社)
田中博敏『お通し前菜便利集』(柴田書店)
『一流板前が手ほどきする人気の日本料理』(世界文化社)
『人気の日本料理2 一流板前が手ほどきする春夏秋冬の日本料理』(世界文化社)
畑耕一郎『プロのためのわかりやすい日本料理』(柴田書店)
野﨑洋光『和のおかず決定版』(世界文化社)
鈴木登紀子『手作り和食工房』(グラフ社)
高田尚平『高田流新感覚振り飛車破り』(マイナビ出版)
[ウェブサイト]将棋ウォーズ
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