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第十章 再び、天空の城
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次の将棋指南の日には宗与も駕籠でやってきた。
さらに、世話役の不鳴不飛と八丁堀はるも顔を見せた。
「今日はちょっとご相談もありましてね」
不鳴不飛がおまさの顔を見て言った。
「何でしょう」
おまさはいくらか不安げな顔つきになった。
「せっかく将棋指南が始まったのだから、引札を兼ねて、総当たりの組戦をここで行い、かわら版のたねにすればどうかと思い至りましてな」
多芸多才の戯作者が言った。
「総当たりの組戦でございますか」
と、おまさ。
「わたしは行司役だから出ないよ」
宗与が笑みを浮かべた。
「そうしますと……」
おまさは宗秀の顔を見た。
「わたしは出ざるをえないようだね」
宗秀はややあいまいな表情で答えた。
「あとは女将棋指しのお三方、ここにおられる八丁堀はると本郷まさ、それに、池田菊さんを加えた精鋭が、将棋家の俊秀とともに戦うことに」
不鳴不飛が言った。
「もう一人の大橋浪は辞退した。どうやら先だっての将棋の競いを最後に引退するようだ」
宗与が言った。
おまさがうなずく。
「また江戸じゅうの話題になりますぞ」
不鳴不飛が手ごたえありげに言った。
「手合いは平手でしょうか」
おまさがたずねた。
「宗秀だけ香落ちで」
宗与がすかさず答えた。
駒落ち戦のうち、二枚の香車を落とす手合いだ。
「香落ちだと厳しいかもしれませんね。皆さんお強いので」
宗秀の顔が引き締まった。
「初めは半香落ちにしようかとも思ったのだが、そのほうがより熱戦になるだろう」
宗与が言った。
半香落ちは右の香車だけ落とす手合いだ。
「これは楽しみです」
不鳴不飛が笑みを浮かべた。
段取りの話をしているうちに客が一人また一人と顔を見せた。
常連の松橋新之丞と便利屋の大造、それに、二人の隠居が来た。
「おはるさんも指南側に回ってくださいまし」
おまさが言った。
「じゃあ、今日は上手で」
おはるが快く受けた。
「もう一台、入れられますが」
不鳴不飛が宗与の顔を見た。
「いや、一枚板の席でゆっくり呑み食いをさせてもらうよ」
宗与がやんわりと断った。
いまは茄子の揚げ浸しが出ている。おたつはさらに鯵の干物をあぶる構えになった。
ややあって、将棋指南の支度が整った。
宗秀が二人の隠居の二面指し、おはるが新之丞、おまさは大造と前より厳しい駒落ちの手合いで指すことになった。
「よし、今度は負けねえぞ」
大造が腕まくりをした。
「よろしくお願いいたします」
おまさが頭を下げた。
二
「いやあ、さすがにお強い」
客の隠居が駒を投じてから言った。
「こちらも風前の灯火だよ」
もう一人の隠居が言った。
四枚落ちと六枚落ち、ともにかなりの駒落ち戦だが、将棋家の俊秀には歯が立たないようだ。
「こっちもいけねえや。喜んで駒を取ったのが毒饅頭だったな」
大造が髷に手をやった。
一見するとおいしそうな饅頭だが、喜んで食いついたら上手の思う壺で、巧妙な毒が仕込んであったりする。
「駒落ち戦だといろいろ企みませんと」
おまさは笑みを浮かべた。
ややあって、十手持ちの不成の銀次が姿を現わした。
「おっ、大繁盛だな」
将棋盤が並ぶ座敷を見て、銀次が言った。
「またやられてまさ」
大造が言った。
「そうかい。そのうち、おいらもな。あんまり遊んでるわけにもいかねえんだが」
十手持ちが言った。
「よろしゅうお願いします」
おたつが如才なく言った。
「おう」
不成の銀次がいなせに右手を挙げた。
「いや、どんどん強くなるな。こりゃ降参だ」
ほどなく大造が駒を投じた。
「ありがたく存じました。では、並べ直しを」
おまさが言った。
「おう、どこでしくじったかな」
便利屋はそう言って、駒を戻しはじめた。
「最後の砦も落城近しだ」
新之丞が苦笑いを浮かべた。
「上手がすべて勝ちですか」
一枚板の席の不鳴不飛が言った。
「すべて負けたらさすがにまずかろう」
その隣で宗与が言う。
将棋指南のあいだに、総当たりの組戦の段取りを詰めていた。
池田菊だけこの場にいないが、代わりに阿弥陀籤を引き、一応のところ組み合わせまで決めた。
「菊さんにはわたしから伝えます。嫌だとは申しますまい」
不鳴不飛がそう言って、茄子の揚げ浸しを口中に投じ入れた。
削り節がたっぷり載ったひと品だ。
「ということは、組戦の皮切りは、本郷まさ対池田菊ということになるね」
宗与が言う。
「さようです。砂時計も準備して、段取りを整えましょう」
世話役が答えた。
「気を入れてもてなしますので」
おたつが引き締まった表情で言った。
「やつがれも、気を入れて観戦の記を書かねば」
不鳴不飛が二の腕を軽くたたいた。
そんな調子で、段取りがすべて整った。
三
初めの組戦の日が来た。
総当たりの組戦だ。
池田菊は駕籠でやってきた。
「ようこそお越しくださいました。すぐ分かりましたでしょうか」
おたつがたずねた。
「ええ、駕籠屋さんがご存じで」
豊かな丸髷の女が笑みを浮かべた。
「帰りの手配もお任せくださいまし」
おたつが如才なく言った。
「ありがたく存じます」
菊は武家の女房らしい礼をした。
しばらく待っていると、不鳴不飛が来た。宗秀も姿を見せた。今日はおまさと菊の一戦が組まれているから、指南役は宗秀だけだ。
「では、組戦を先に」
不鳴不飛が身ぶりをまじえた。
「承知しました」
菊が頭を下げた。
「よろしゅうお願いいたします」
おまさが一礼した。
「どなたか見えたら、わたしが多面指しで」
宗秀が将棋盤を手で示した。
「こちらにはお構いなく」
菊が言った。
ほどなく、商家の隠居が二人、つれだってやってきた。
多面指しの支度が整う。
「では、振り駒を」
不鳴不飛が歩を五枚つまんだ。
「池田菊の振り先で、いざ」
振り駒の結果、歩が三枚出た。
菊の先手だ。
「それでは、組戦の一戦目、池田菊対本郷はる、菊の先手でお願いいたします」
世話役が言った。
「よろしゅうお願いいたします」
「お願いします」
二人の女棋士が一礼した。
四
二手目に早くも岐路が訪れた。
先手の菊は初手に角道を開けた。おはるも開ければ、角を交換するだろう。
御城将棋では意表を突く四間飛車を採用した菊だが、最も得意な戦法は角換わりだ。
飛車先を突いていって角換わりを避けるか、相手の得意戦法に飛びこむか、二つに一つだ。
御城将棋ではないから物々しい砂時計は持ちこまれていないが、むやみな長考は避けねばならない。
おはるは意を決した。
ぴしっ、といつもより高い音を立てて、おまさは角道を開けた。
来たわね、という顔で、菊が角を交換する。
角換わりだ。
一手一手、おまさは慎重に駒組みを進めた。
互いに角を手持ちにしている。ひとたび隙を見せたら、たちまち形勢を損ねてしまう。
迷ったのは陣形だ。
玉をどちら側に囲うか。
おまさは右玉を選んだ。
飛車を下段に据え、滑るように動かせるようにする。
手が進み、しだいに駒組みが煮詰まってきた。
これは千日手かも。
指し直し局は先手になるから、望むところだわ。
おまさはそう思った。
だが……。
案に相違した。
意外なところから戦局が開かれたのだ。
端攻めだ。
一見すると無理そうだが、菊は自信ありげだった。
いざ受けてみると、振りほどくのが容易ならぬ攻めだった。
おまさの眉間にしわが寄った。
指導将棋を指しながら、宗秀がちらりと見た。
気張れ。
そんな気を送るようなまなざしだ。
おまさは懸命に指した。
持てる力をすべて振り絞って指した。
しかし……。
角換わりにかけては菊に一日の長があった。
ほどなく、おまさの玉は受けなしに追いこまれた。
「……負けました」
おまさは駒を投じた。
「いい勝負だったわね」
菊が笑みを浮かべた。
「これも学びだから。一つ負けるたびに強くなる」
宗秀が言った。
「はい」
おまさはしっかりとうなずいた。
五
その後、組戦は順調に進んだ。
池田菊に負けたおまさだが、八丁堀はるには勝った。相手の中飛車を左美濃で迎え撃ち、わずかな指しやすさを優勢につなげていった会心の勝利だった。
宗秀は菊に勝った。相手の得意の角換わりを正面から受けて立ち、存分に攻めさせてから反撃に転じるさすがの内容だった。
次はいよいよ宗秀対おまさの組戦になった。
ここまでおまさは一勝一敗だから、最後の試合になる。
宗秀と八丁堀はるとではいささか力の差がある。この一局に勝てば全勝が濃厚だ。
逆におまさが一矢報いれば、二勝一敗で並ぶことになる。まさに天王山の一戦だ。
「この一局は採譜してかわら版に載せますぞ」
不鳴不飛が気の入った声で言った。
「気張って指します」
おまさが笑みを浮かべた。
「今日はこれ一局ですから」
宗秀が言った。
指南役同士の組戦だから、将棋盤は一つだけだ。
対等の条件で戦うのが組戦だから、駒落ちではない。おまさにとってみれば厳しい手合だが、八一屋の看板娘は引き締まった顔つきをしていた。
さすがに振り駒で後手になったらかわいそうだから、おまさの先で始まった。
「お願いいたします」
おまさは一礼した。
「お願いします」
宗秀も礼を返した。
おまさは雁木に組んで戦うつもりだった。
だが……。
将棋家の俊秀は意外な戦型を選んだ。
角道を止め、飛車を振ったのだ。
四間飛車だ。
「天空の城が見たくてね」
宗秀は笑みを浮かべた。
「分かりました」
笑みを返すと、おまさは指し手を進めた。
不鳴不飛が筆を動かす。
その筆が止まったときには、盤上に天空の城が現れていた。
天空でにらみを利かせる角。
それを支える二枚の銀。
危うそうな角頭の歩を守る桂馬。
陣形を引き締める二枚の金。
滑るように下段を動く飛車。
おまさの父が編み出した驚異の構えだ。
しかし……。
四間飛車を選んだだけあって、宗秀には備えがあったようだ。
美濃を高美濃に組み替え、桂を跳ねる。
やがて、機を見て桂交換に成功する。
入手した桂馬を右辺に投じ、数の攻めで端を破る。
そこからは、と金攻めを目指す。
おのれは最小限の犠牲で、敵の戦力を少しずつ殺いでいく。
少壮ながら、実に老獪な指し回しだった。
おまさは懸命に防戦につとめた。
だが、このままではじりじりと差を広げられるばかりだ。
非勢のおまさは意を決して決戦を挑んだ。
玉側からの端攻めだ。
それを見た宗秀がうなずいた。
ちらりとおまさの顔を見る。
いいぞ。
その意気だ。
まなざしがそう告げていた。
それからもおまさは気を入れて指した。
しかし、宗秀の指し手が乱れることはなかった。
攻め急がず、守るべきところは守り、少しずつおまさの玉の包囲網を狭めていく。
やがて、進退谷まった。
「負けました」
おまさは一礼した。
「いい将棋だったね。強かった」
宗秀が白い歯を見せた。
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