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第九章 指南始め
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八一屋の前に貼り紙が出た。
けふの中食
鱚天と茶めし膳
とうふ汁 小ばちつき
十五食かぎり三十文
初めは十食だったが、少し増やして十五食にした。
貼り紙はもう一枚あった。
こう記されていた。
将棋指南 将棋家大橋宗秀殿
毎月朔日、十五日、二幕目より
一局六十文
茶とおやき付き
代指し八一屋が娘おまさ(十文引き、五十文)
御城将棋を競へる二人が懇切丁寧に指南致します
八一屋
「指南将棋のほうも出ているな」
そう言いながら、剣術指南の松橋新之丞がのれんをくぐってきた。
今日は門人たちと一緒だ。
二つの道場を掛け持ちで指導しているから、門人は多い。
「将棋家の名人が来るんでしょうか」
門人がたずねた。
「いや、おれより若い俊秀だ」
新之丞がそう言って座敷に上がった。
門人たちも続く。
「いらっしゃいまし」
おまさがあいさつした。
「代指しも名が載っているぞ」
新之丞が笑みを浮かべた。
「もうどきどきで」
おまさが胸に手をやった。
「たった十文引きじゃ、荷が重いと思うんですけど」
おたつがやや案じ顔で言った。
「いや、宗秀殿と互角に渡り合った腕前だ。荷が重いということはあるまい」
武家は白い歯を見せた。
「おやきと茶もつくなら、よろしいでしょう」
「なかには酒を吞みながら指す者も」
弟子たちが言う。
「それは別にお代を頂戴しますので」
厨で手を動かしながら、おたつが言った。
「不鳴不飛先生がかわら版に書いてくださるそうです」
おまさが告げた。
「ならば、客はいくたりも来るだろう」
新之丞が言った。
膳ができた。
おまさとおたつが手分けして運ぶ。
「おお、鱚天が大ぶりだな」
新之丞が膳を受け取った。
「二尾もあります」
「茶飯も大盛りで」
弟子たちも続く。
「いらっしゃいまし」
おまさが声を発した。
今度はそろいの半纏の左官衆と近くに住む隠居が続けざまにやってきた。この調子なら早々に売り切れるだろう。
「うん、からりと揚がっているな」
さっそく鱚天を食した新之丞が言った。
「まずは豆腐汁から」
「うまいものは後回しで」
弟子たちが言う。
そんな調子で、十五食に増やした八一屋の中食は無事に売り切れた。
二
二幕目になった。
かわら版売りで下っ引きの末吉があわただしく入ってきた。
「おう、できたてを持ってきたぜ」
日に焼けた顔に笑みを浮かべて言う。
「かわら版ですか?」
おたつが訊く。
「おう。ちょっとだが、将棋指南の紹介が入ってら」
末吉が刷り物をひらひらと振った。
こう記されていた。
将棋指南、始まる
本郷の料理屋八一屋にて、将棋指南が始まれり。指導に当たるは、先般御城将棋を戦ひし将棋家の俊秀大橋宗秀と、八一屋の娘将棋指しおまさなり。
毎月朔日と十五日の両日、二幕目より。茶とおやき付きで一局六十文。懇切丁寧な指導付きでこの値は安からん。腕におぼへのあるものもなきものも八一屋へつどへ。
「なんだかどきどきしてきました」
かわら版に目を通したおまさが胸に手をやった。
「客は来るだろう。楽しみだな」
末吉が笑みを浮かべた。
「おやきは気張ってつくりますので」
おたつが言う。
「わたしは将棋のほうを」
と、おまさ。
「おう、気張ってくんな。さっそくこれから売ってくるぜ」
末吉が言った。
「よろしゅうお願いします」
八一屋のおかみがていねいに頭を下げた。
三
末吉が去っていくらか経ったころ、不鳴不飛が姿を現わした。
「あっ、先生、かわら版、ありがたく存じます」
おたつが頭を下げた。
「末吉さんが届けてくださいました」
おまさが告げた。
「そうかい。売り手はほかにもいるから、きっと客が来るだろう」
不鳴不飛はそう言うと、一枚板の席に腰を下ろした。
揚げ物は鱚のほかにもできる。戯作者は茄子と甘藷を所望した。
「ありがたいことで」
おたつが両手を合わせた。
不鳴不飛からは新たな話があった。
将棋指南に合わせて、宗秀の揮毫入りの扇子を八一屋で売ればどうかという話だ。
「試しに書いてもらったんだよ」
不鳴不飛はそう言って、懐から取り出した扇子を開いた。
雲外蒼天
六段 大橋宗秀
達筆でそうしたためられている。
「いい字ですね」
おまさが見るなり言った。
「これはどういう意味です?」
おたつがたずねた。
「重苦しい雲がたれこめていても、雲の上では青空が広がっている。それを思い、いまはつらくても耐えなさいという深い教えだね」
不鳴不飛がよどみなく言った。
「いい言葉です」
おまさが感心の面持ちでうなずいた。
「こういった扇子を、もちろん目の前でしたためてもらってもいいし、何点か見世に置いておいてもいい。そうすれば、将棋指南に華が加わるだろう」
多芸多才の男が言った。
「さようですね。見世に飾ると映えそうです」
おたつが乗り気で言った。
「そのうち、おまさちゃんも揮毫を」
不鳴不飛が笑みを浮かべた。
「えー、わたしはそんな」
おまさはあわてて言った。
「欲しい人はいると思うよ。まあ、まずは宗秀さんからだね」
不鳴不飛が笑顔で答えた。
揚げ物ができた。
茄子も甘藷もいい色合いに揚がっている。
天つゆにはたっぷりの大根おろしだ。
「うん、うまい」
まず茄子天を食すなり、不鳴不飛は満足げに言った。
四
将棋指南の日が来た。
本日、将棋指南
そんな幟まで出た。
これも不鳴不飛の知恵だ。
「あっ、もうお越しで?」
おまさが声をあげた。
中食の最中に、宗秀が姿を現したのだ。
「せっかくだから、中食をいただいてからにしようと思ってね」
将棋家の俊秀が笑みを浮かべた。
「さようですか。では、空いているお席にどうぞ」
おまさは身ぶりをまじえた。
「はい、では、座敷に」
宗秀は座敷に上がった。
先客はなじみの左官衆だった。
今日は穴子の一本揚げ膳だ。
見事に揚がった穴子の一本揚げに、茶飯と小鉢と豆腐汁がつく。
「おっ、お医者さんかい」
総髪の宗秀を見て、先客が言った。
「将棋指南のお師匠さんですよ。将棋家の大橋宗秀先生で」
おたつが手で示した。
「宗秀です。二幕目からやらせていただきます」
涼やかな瞳の青年棋士が頭を下げた。
「あっ、かわら版に載ってた先生ですかい」
「こりゃまた役者みてえで」
「そのうち錦絵になりますぜ」
左官衆が口々に言った。
「娘と一緒に将棋指南をしていただきますので」
おたつはそう言いながら膳を仕上げた。
「そりゃ、お似合いで」
「もうちょっと強けりゃ出るんだがよ」
「おめえは頭金を打たれてから思案してるんだから」
左官のかしらがそう言ったから、八一屋の座敷に笑いがわいた。
「お待たせいたしました」
おまさが宗秀に膳を運んだ。
「おお、これは見事な穴子で」
青年棋士が目を瞠った。
「曲がらないように揚げるのはこつがあるようです」
おまさは答えた。
「いくたびもしくじったので」
おたつが厨から言った。
「では、さっそく」
宗秀は穴子の一本揚げを慎重に箸でつまむと、天つゆにつけて口中に運んだ。
さくっとかむ。
「……うん、おいしい」
青年棋士の顔に満足げな笑みが浮かんだ。
五
膳を食べ終わっても宗秀は八一屋にとどまり、十五人目の客の呼び込みまでしてくれたから大いに助かった。
座敷の一角でさらに茶を呑み、客と語らう。どうやら大名家などの指導を行うより、市井で過ごすほうが性に合っているようだ。
中食が終わると、さっそく将棋指南の支度になった。
「盤の向きはこちらのほうがいいか」
宗秀が手で示した。
「上手と下手がすぐ分かるほうがいいかと」
おまさが言った。
「そうだな。では、そうしよう」
宗秀が手を動かした。
「足付きの盤は四つありますから、上手が二局ずつ指すこともできます」
おまさも運びながら言った。
「そんなに来てくださったらいいんだけどね」
おたつが厨から言った。
おやきの仕込みは終わっている。甘辛二種のおやきだ。
甘いほうは餡、辛いほうは切干大根。
どちらも舌だめしを重ねた自信の味だ。
「もしだれも来なかったら、また対局だな」
宗秀が笑みを浮かべた。
「はい、お願いいたします」
おまさが頭を下げた。
「駒を拭き、並べて待っていよう」
宗秀がふところから布を取り出した。
「では、わたしも」
おまさも嚢から布を取り出した。
一枚ずつ駒を拭いて並べていく。
お客さまが来てくださいますように。
いい将棋が指せますように。
そう願いながら、おまさは一枚ずつ駒を拭いて並べていった。
その思いが通じたのか、客が来てくれた。
まずは常連の松橋新之丞だ。
「おっ、一番乗りだな」
剣術指南の武家が笑みを浮かべた。
「ようこそお越しくださいました」
おまさが笑みを浮かべた。
「大橋宗秀です。どうぞよろしゅうに」
将棋家の俊秀が頭を下げた。
「松橋新之丞と申す。では、さっそく手合わせを」
新之丞はそう言って座敷に上がった。
「お茶でよろしゅうございましょうか。御酒もできますが」
おたつが訊いた。
「いや、茶とおやきで。呑んだほうが手が見えるやもしれぬが」
剣術指南の武家が答えた。
「承知しました。おやきは甘辛二種がございますが」
さらにたずねる。
「辛いほうで頼む」
新之丞は軽く右手を挙げた。
ほどなく、次の客がやってきた。
「あっ、おはるさん」
おまさが声をあげた。
「ちょうど空いてるの?」
そう言いながら入ってきたのは、将棋で競い合った八丁堀はるだった。
「ええ、空いてます。では、わたしと一局」
おまさが笑みを浮かべた。
「では、お土産を渡してから。……地元の羊羹で」
おはるが包みを渡した。
「まあ、ありがたく存じます」
おたつが受け取る。
「頭を使う将棋には甘いものがいいですから」
おはるが笑みを浮かべた。
「なら、さっそく切りましょう」
八一屋の女あるじが言った。
ほどなく、支度が整った。
宗秀対新之丞は飛車角の二枚落ち、おはるとおまさはもちろん平手だ。
いままさに開局という段になって、また客が入ってきた。
「おっ、始まるところですか」
そう言ったのは不鳴不飛だった。
もう一人、初めて見る顔がいた。
「こちらは俳諧師の安井大拙さん。ぜひ腕だめしにと」
戯作者が紹介した。
「安井大拙と申します。下手の横好きですが、一局教えていただければと」
宗匠帽をかぶった福相の男が言った。
「さようですか。上手は二局分指しますのでどうぞ」
宗秀がにこやかに言った。
「では、お願いいたします」
俳諧師が座敷に上がった。
これで態勢が整った。
六
大拙もなかなかの指し手のようだから、手合いは二枚落ちになった。
おはるとおまさは不鳴不飛が振り駒を行い、おはるの先手となった。
「よろしくお願いします」
「お願いします」
ていねいに一礼し、対局が始まった。
慈眼寺の決戦では、おまさがツノ銀雁木、おはるが矢倉に組み合った。
しかし、このたびは違った。
おはるが飛車を振ったのだ。
中飛車だ。
「何でも指すので」
八丁堀はるが笑みを浮かべた。
「うーん、中飛車ですか」
意表を突かれたおまさはしばし考えてから着手した。
急戦に注意しながら、慎重に駒組みを進めていく。
まずは左美濃に組んだ。これでひと安心だ。
おはるも美濃に組み、やがて高美濃に組み替えた。
手数が進む。
おまさは意を決して銀冠に組み替えることにした。
今度はおはるが手を止めた。
ここで羊羹が出た。
「おやきはいまお持ちしますので」
おたつが客に言う。
ほどなく、おやきが出た。
新之丞と大拙は辛いほう、宗秀と見物に回っている不鳴不飛が甘いほうだ。指す前に注文を訊いてある。
おはるが羊羹をひと切れ、口中に投じ入れた。
しばし読みを入れると、おはるは手拭いで指を拭ってから着手した。
端攻めだ。
銀冠が完成する一手前には放れ駒ができる。その隙を突くのが一つの攻め筋だ。
しかし……。
これは両刃の剣だ。しくじれば反動が来る。
のっぴきならぬいくさになった。ここまで来たら、どちらも後戻りはできない。
宗秀の二局は互いに語らいながら進んでいた。
「それはよい手ですね」
「いいところに手が向かっています」
客をほめながら着手を進める。
それでいて、上手ならではの仕掛けも潜ませる。堂に入った将棋指南ぶりだ。
ややあって、大拙が投了した。
健闘していたが、頓死を食ってしまったのだ。
「あと一歩でした。お強いです」
宗秀がほめる。
「いやあ、うっかりしてしまいました」
大拙が頭に手をやった。
新之丞も懸命に指していたが、宗秀はゆるめず、ついに詰み筋に入った。
「いや、これはいかん。まいり申した」
剣術指南の武家が駒を投じた。
「そちらの勝ち筋がありました。お強かったです」
宗秀はそう言うと、盤面を勝負どころに戻した。
この振り返りが力になる。大拙もまじえてなおも検討が続いた。
おまさとおはるの対局は大詰めに入っていた。
「うーん」
おはるが苦笑いを浮かべた。
「思い切って行ったんだけど、端攻めはちょっと無理だったかしら」
おはるはそう言って駒を投じた。
おまさがかけた詰めろをどうしてもほどくことができない。
投了だ。
「ありがたく存じました」
おまさが一礼した。
「こちらこそ。では、検討を」
こちらも検討が始まった。
その後、新たな客も来た。
かわら版を読んで足を運んだ商家の隠居だ。
「わたしでよろしければお手合わせを」
おまさはよどみなく言った。
「そうかい。なら、一局」
隠居が指を一本立てた。
そんな調子で、八一屋の指南始めは無事に船出をした。
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