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第10話

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 ――始まったか。

 シーリュウは蛇の頭の向こうに光の柱が立ち、泥の水面が光り輝くのを目にした。
 蛇の頭をナエマから遠ざけるようにシーリュウは後退して矢を番える。
 しかし、蛇の頭は突如として動きを止めてナエマのいるほうを睨んだ。そしてシーリュウの存在を忘れたかのように泉に入り、ナエマのほうに向かう。

 ――まずい……!

 シーリュウは空に向けて矢を放った。
 真紅の光の矢は天高くまで登ると幾重にも分かれ、蛇の上に雨のように降り注ぐ。

 ■■■■■――!

 蛇が声にならない悲鳴を上げる。そしてまた穿たれた穴をたちどころに再生してみせた。
 その間にシーリュウは蛇を飛び越し、また真上から矢を放つ。その傷すら傷にならない。

 ――何回殺せば済むというのか。

 苛立ち交じりにシーリュウは蛇の真正面に着地した。饕餮号とうてつごうは水の上でも沈まない加護がある。泥の上でも地上と変わらずに立ち回れる。
 シーリュウの背後にはナエマがいる。
 これより先には行かせない。
 不退転の決意を以てシーリュウは蛇の前に立ちはだかる。
 その背後で水の吹きあがる音がした。

 ――何が起こった!?

 シーリュウは蛇に対して半身になり背後を窺い、目を見開いた。
 殺したはずの蛇の体がのたうち回っていた。
 九つの大穴を開けて沼に沈んだはずのそれが、未だに生きていたとは。
 今までは泉の泥の中に沈んでいたから身動きが取れなかったのが、泥が浄化されて水になったから自由に動けるようになったのだ。
 蛇の体は頭を求めて暴れている。しかし、目がないためにどこに頭があるかがわからない。
 片方からは蛇の頭がシーリュウを狙い、もう片方は蛇の体が暴れている。

 ――体を狙う!

 蛇の頭を放置することに不安はあったが、蛇の体のほうがナエマに近い。泉の浄化は半分ほどで完全ではない。今はナエマを守ることを第一に考えるべきだ。
 シーリュウは弓を戟に持ち替えて蛇の体に駆け寄った。
 刃に気を纏わせ、赤く輝いたそれを下から斬り上げ両断する。これでもとどめにはなるまい。
 斬った蛇の体の間を抜け、シーリュウはナエマの元に駆けつける。
 ナエマは大きな魔物の骨の上に立って目を閉じ、祈りの言葉を唱えていた。
 彼の集中を乱さぬよう声はかけず、振り返って蛇の動向を窺う。

「なっ……!」

 蛇の頭が、自分の体を食らっている。
 共食いですらない、自分で自分の体を貪るとは。
 暴れまわる己の体に牙を立て、肉を引きちぎり、飲み込む。
 その時、蛇の体がまたどくり、と脈打った。
 刹那、この空間の空気が変わった。突然冬が訪れたような寒さが体を襲う。
 ナエマは覚えのある気配に祈りを止め、目を開く。そしてシーリュウを見つけ、その向こうにいる蛇の頭を目にして膝からくずおれた。

「シーリュウ、さん……。これは……、この、気配は……」
「ナエマ!」

 シーリュウは魔物の骨の上に飛び乗り、ナエマの体を支える。
 水の中にいるように体が何らかの重圧を受けている。
 雲は一層分厚くなって空は暗くなり、ぽつ、ぽつ、と空から黒い雫が落ちてきて、やがて雨になった。
 蛇の頭は心臓の拍動のように、どくり、どくり、と何回も脈打つのを繰り返している。
 そして、弾けた。
 飛び散る血肉の中に何かが浮かんでいる。
 角を生やした山羊の頭、真っ赤な目。右半分の女の体、左半分の男の体、下半身は獣の形をしていて、蹄はあるが踵がない。爪のある蝙蝠のような真っ黒な翼に、矢印のように鋭く尖った尾。
 いくつもの生き物が組み合わさった醜悪な形。
 それがこの世に顕現した。

「あ、悪魔……」

 ナエマは声にならない声でそう言った。
 シーリュウは舌打ちした。体ではなく頭を狙うべきだった。この事態を招いたのは自分だ。

「ナエマ、どうすれば、あれ倒せる」
「う、ぁ……」

 ナエマはただ悪魔を見て狼狽えている。無理もない。自分から何もかもを奪った存在が再び目の前に現れたのだ。しかし、まだやれることがあるかもしれない。

「ナエマ!」

 シーリュウはナエマの肩を掴んで揺さぶった。

「シーリュウ、さん……」

 ナエマはやっと我に返ったようで、シーリュウを見つめた。

「どうすれば、悪魔、倒せる」
「……あ、悪魔の心臓を、壊せば……」
「心臓か。わかった」

 言ってシーリュウは立ち上がった。

「待ってください! 悪魔は魔物とは違うのです! 強さの桁が違う! 戦っても死ぬだけです!」
「では、殺されるのを待て、言うか」

 シーリュウはナエマを睨んだ。

「勝てなくとも、最後まで戦って死ぬ。それが武人」

 ただ座して死ぬのを待てというのはこの上ない侮辱である、とシーリュウは目で告げた。
 シーリュウの気迫にナエマは黙ることしかできなかった。

「ナエマ。お前、悪魔に復讐する、言った。自分に嘘吐くか」

 それだけ告げてシーリュウは駆け出した。

「シーリュウさん!」

 ナエマはその背中に声をかけるも、シーリュウは止まらなかった。
 体が震える。
 過去の記憶が蘇ってくる。
 突然街に現れた悪魔は、街の出入り口に魔物をけしかけ人を閉じ込めた。その上で街を囲む壁の中に魔物を放った。
 人々が成すすべもなく魔物に食われるのを見て嗤う悪魔の声が空に響いていた。
 皆が教会に避難した。しかし全員が入れるわけがない。
 入れろ! 俺が先だ! 子供がいるの! 死にたくない! 助けて!
 皆が生きるために叫んでいた。
 自分はそのとき、運よく兄と教会の司祭の手伝いをしていたから教会の中にいた。
 悪魔は教会の中に妙な奴がいると気付いた。すると教会の周りにも魔物をけしかけ、入り口から堂々と入ってきた。
 そして、自分を見つけた。見つけてしまった。

 ――そうか。お前、神の力を宿しているな。お前を殺すのは骨が折れそうだ。お前だけ助けてやろう。神に賜ったその力のせいで、お前は生き残るのだ。その身を呪うがいい。

 そして惨劇は始まった。
 悪魔は人を捕まえては自分の前に連れてきて、足の先から一口ずつ丁寧に食べていった。
 生きながらにして体を食われる悲鳴。
 肉がぶちぶちと千切れる音。
 骨をごりごりと咀嚼する音。
 腸をずるずると啜る音。
 内臓の弾ける音。
 それらが耳にこびりついて離れない。
 教会の司祭様も食べられた。
 いつも優しくしてくれたパン屋のおじさんも食べられた。
 鍛冶屋だった父の工房にいたみんなも食べられた。
 針子だった母の仲間もみんな食べられた。
 父も食べられた。
 母も食べられた。
 よく遊んでいた友人も。
 自分をいじめていた年上のむかつく奴も。
 そいつから自分を守ってくれた、双子の兄も。
 みんな、みんな食べられた。
 自分は何もできなかった。
 みんなが聞くに堪えない悲鳴を上げながら、少しずつ人間の形ではない何かになって死んでいった。
 皆が生きていた証は何も、何も残らなかった。全部悪魔が食べてしまった。
 ナエマは吐き気がこみ上げ、胃液を吐き出す。喉の奥が胃酸で焼ける。
 遠ざかっていくシーリュウの姿を見ることしかできなかった。

「あ、ぁ……」

 わかっている。
 今ここで動かなければいけないことくらい。
 ここで悪魔を止めなければ、旅籠にいる人だけではない、もっと大勢の人が死ぬ。

 ――ワタシ、弱い自分、憎い……!

 シーリュウの言葉が胸に過ぎる。
 それは、自分も同じだ。ここから動けない自分が憎い。しかし、それ以上の恐怖が身を襲う。

 ――お前、悪魔に復讐する、言った。自分に嘘吐くか。

「違う……! 嘘など……」

 言ってナエマは首を振る。

「どうして、どうしてあなたは前に進めるのです……」

 シーリュウの背中に問いかけ、ナエマは思い出した。

 ――神のためではなく、あなたのために戦いましょう。私があなたを守ります。その高潔さに敬意を表して。

「っ……!」

 自分に嘘をつくのは、いい。自分が辛くなるだけだから。自分で作った重荷を自分で背負っているだけだから。
でも。
 他人に嘘をつくのは、嫌だ――!

「守ると、言った……!」
 
 ナエマは立ち上がって駆け出した。
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