上 下
35 / 89
第2章 月夜を仰ぐ「碧水」の本音

35.エピローグ、花を貴方に

しおりを挟む

 今朝、庭の花がまたひとつ咲いた。

 水色をした、涙の形の5枚の花弁が可愛らしい、小振りな花。

 庭を彩る大切な花のひとつだけれど、貰っても構わないかと母さんに問うと、母さんは微笑んで頷いてくれた。

 あれから初めて訪れた訓練場は、何ひとつ変わっていなかった。木々の奥をじっと見つめても、師匠が現れることはなかったけれど。

 手折ってきた小さな命を、訓練場の真ん中に置く。もし風で吹き飛ばされてしまったとしても……いや。むしろ、風に託そう。あの人の元へ、この花を運んでくれるかも知れないから。

『くろ、ごめんね』

「……何度も言っているけど、もう一度言います。謝らないでください」

 辺りには誰もいない。だから、京さんと、俺の声で話せる。

『僕は、君の意思を尊重してあげられなかった』

「俺と、あなたで一人なんです。魔糸を統制できなくなったのは……あなたの意思の方が、強かったからだと思います」

『……後悔、してるかい?』

 後悔。勿論、している。

 俺が独りで戦っていなければ、師匠はあんな行動には出なかったかも知れない。休んでいる間、気を抜けばその思考に囚われた。

 でも、同時に思う。

「……思い上がるな、と言われると思うんです。貴様のためなどではない、と」

 京さんは黙り込んだ。ネイビーの制服の上下を纏った俺は、よく晴れた空を仰いでから、花に背を向ける。行かなければならない場所へと、歩き出す。

『くろ。僕は、このままでは君が変わってしまうと思った。でも、もうひとつ、理由があるんだ』

 木々の間にある小道を抜けると、我が家の石造の門柱に、フィーユが寄りかかっているのが見えた。

 俺は一度、立ち止まる。

『「僕ら」のせんせいには……本当に、できないことなんて何もないんだと、思ったんだよ』

 目を閉じる。

 師匠が最後に残した言葉は、耳の奥に、確かな熱とともに在る。

「……俺も、そう思います」

 目を開き、息を深く吸い込む。
 萌黄に色づきはじめた、カルカの街。

 フィーユが、歩み寄ってきた俺に気づき、にっと笑う。後ろで手を組んで、

「おはよう、クロ」

「おはよう。……待たせてごめん」

「おやおや? 随分と殊勝ですねえ……なんて、全然待たされてないわ、本当にね。

 今日はあったかくて良い天気、絶好の散歩日和……だけど、ゆっくり話をしている時間は、あんまり無いかも」

 フィーユが肩を竦める。

 俺は今日、ギルドに呼び出されている。俺が魔力を消耗したことによる疲労から回復し、恐らくはギルドが「大禍」に関する各種処理を大方片付けたタイミングで。

 初めは視界に入れることさえ嫌だったこの制服を着るのも、今日が最後になるかも知れない。

「……行こう」

 フィーユと並んで、歩調を合わせて。
 ギルドへと、向かう。





 大禍の核が消滅し、静まった平原に一人残された俺の元に、最初に駆けつけてくれたのがフィーユだった。

 ラピット……仲良しのモフに乗せてもらったらしい。俺の名を呼びながら飛び降り、水溜まりを踏みながら駆け寄ってきたフィーユは、深く項垂れて座り込んでいた俺を強く抱き締めた。

「ごめんね、クロ……私、間に合わなかった……また、一番大事なときに、きみの隣にいられなかった……!」

 全身がびしょびしょに濡れ、炎を生み出す術さえ失った俺の身体は、冷え切っていた。冷え切っても震えることができないほどの、茫然自失の状態に陥っていた。

 けれど、フィーユが抱き締めてくれて……空虚だった心で、温かい、とぽつりと思った。

「きみのことを、護りたいのに……きみの隣どころか、背中に追いつくことさえ、全然、できなくて……!」

「フィーユ」

 溢れ出す彼女の感情が、温かいと思うことができた心を、ゆっくりと満たしていくのを感じた。

 俺は目を閉じ、フィーユの嗚咽と、モフが心配そうにめぇ~めぇ~と鳴くのを聞きながら、

「隣まで、来てくれて、嬉しい」

 それだけ伝えて、意識を手放した。





 出勤中に眺めたカルカの街は、春の色を濃くしていること以外、「大禍」の前後でまるで変わっていなかった。

 俺が護りたかった平穏を……あの人が護ってくれた平穏を、噛み締めながら歩いて。

 カルカギルドの両開きの大扉を、右はフィーユが、左は俺が開く。

 すっかり慣れた木の匂いに包まれた途端に、拍手の雨が降ってきた。

 俺は思わず硬直する。ロビーに集まった戦闘職員、そしてカウンターの向こう側の事務職員が全員立ち上がって、こちらを見て、拍手している。ギギギと首を回してみても、そこには閉じ切った扉があるだけ。

 な、何だ? 隣にいるフィーユへ? 俺が休んでいる間にこの受付嬢は、最早出勤するだけで拍手されるように……?

 俺も拍手した方がいいだろうかと、フィーユに困惑の眼差しを向ける。幼馴染は腰に両手を当て、翡翠色の瞳を半目にして、ジトーっとした視線を返してきた。

「もう、何でぽかんとしてるのよ……カルカを護った『英雄』なんだから、もっと堂々としないと!」

「……『英雄』? 違う、『大禍』を消したのは俺じゃない! そう呼ばれるべきなのは、師匠の方で、」

「みんな、わかってるわ。きみが教えてくれたからね。『大禍』の核を消したのは『碧水』サリヤ様……でも、それまでの間、ずっと魔物を食い止めていたのは、『紅炎』であるきみ。

 『英雄』は1人じゃなくたっていい。事務局長がどんな判断を下したとしても、きみはカルカが誇る『英雄』で……」

 身体が揺れるのに合わせて流れるピンクブロンド。フィーユは少しだけ頬を炎の色に染めて、にっこりした。

「私の、最高の幼馴染よ」




 拍手と賛辞から逃げるようにして、俺はフィーユとともに階段を駆け上がり……初めて訪れる3階の廊下に足を踏み入れた。

 そこに他の職員の姿はない……と思ったら、廊下の最奥にある事務局長室の扉の横壁に、レインがもたれかかっていた。

「よ。おかえりなさい、大将。そして今日も今日とて麗しい……あ、あはは、そんな顔しないでくれよ、フィーユちゃん!

 しかし、そんな表情をしていても輝きが微塵も損なわれない……魔法を使わずに常時奇跡を起こし続けるなんて、最早、君こそが女神様なのかも知れない!」

 そんな顔がどんな顔かを確かめてみると、思い切りむすっとした顔だった。そしてレインが見ている世界には、女神様が数えきれないほど沢山いらっしゃるのかも知れない。

「レインくん。このクロは、そこの事務局長室に呼ばれているの。そして私は、このクロが逃げ出さないように見届ける同伴係。事務局長を待たせるわけにはいかないから、また後で。具体的に言えば10日くらい後で」

「と、10日……わかったよ。この場ではさっさと退散して、君への心象を良くする方法をじっくり考えさせて貰おう……」

 レインは降参と言うように両手を顔の横に上げ、眉を下げて困ったように笑いながら、俺の横を通り過ぎ、

「アンタがまだ、オレに教師になって欲しいと望んでるなら……引き受けますよ。

 初回授業のときにでも教えてください、アンタが間違って戦闘職の試験を受けちまった経緯を、ね」

 小声でそう告げた。
 俺は返答の代わりに、ただいま、とだけ。

 振り返ると、レインは背を向けて立ち去りながら、掲げた右手をひらひらと左右に振っていた。

 試験を間違えた経緯、か。

 俺にも、しっかりとは把握できていない。一度打ち明けようと決意してもやっぱり、恥ずかしい話だから進んでは伝えたくないんだが……




 まず、事務職員と戦闘職員の受験申込に使われる用紙は一緒で、希望の方に丸をつけることで区別するものだった。

 必要事項を記入し、記載した内容に間違いがないこと、事務職員の方に丸をつけたことを10度ほど確認。初めて一人で、とんでもなく緊張しながらギルドへ向かい、そのとんでもない緊張のせいで軽く迷ったりしたせいで、その日の受験申込時刻ぎりぎりになってギルドへ着いた。

 焦りながら申込用紙を提出した相手は年配の女性職員。俺の父さんであるロッシェ・アルテドットを知っており、記入された氏名を見たことで、この子が父さんから聞いていた、息子のクロニアだと気づいたらしかった。

 とんでもなく緊張していた俺は、その女性と目を合わせることもできず、話の脈絡は覚えていないがとにかく「大丈夫?」と問われて、思わず「大丈夫ではないかも知れないです」と素直に答えた。

 女性はふふっと声を漏らして笑い、「じゃあこちらで直しておくわね」と言った。何を直すのかはわからなかったが、俺は10度ほど確認してもなおミスをしでかしたらしいことが恥ずかしく、恥ずかしさのあまり逃げ帰った。

 そして試験日。実戦試験があると言われたときも……「事務職でもギルド職員となるからには、戦闘能力を見られるんだな。申込書類にも、扱える武器種や、魔法の属性について記した記憶があるし、うん」と勝手に納得し、落ちないために全力で試験に挑んだ。

 そして後日、先輩であるフィーユがにこにこしながら持ってきてくれた合格通知を見て……ようやく気づいた。自分が受けた試験が、登録戦闘員としての資格を得るためのものだったと言うことに。




 深呼吸をして、フィーユに頷いてみせる。

 フィーユは微笑んで、事務局長室の扉を素早くノックした。

「事務局長様。登録番号4002、フィーユ・ドレスリートです。登録番号4117、クロニア・アルテドットを連れて参りました」

 お入りください、と穏やかな男性の声が扉越しに応える。

 フィーユはよく通る声で、失礼致します、と言って、ほとんど音を立てずに扉を開く。翡翠色の瞳に促されるまま、俺は事務局長室に入室した。何だか足がふわふわすると思ったら、臙脂色の絨毯が敷き詰められていた。

 飴色をした事務机の向こう、座り心地の良さそうな革張りの椅子から立ち上がったのは、60代くらいの男性だった。

 ロマンスグレーの髪も、唇の上と顎下を薄らと飾る髭も、きっちりと整えられていて清潔感を感じさせる。

 すらりと背の高いその身体に、筋肉の主張はない。海の色をした瞳には、聡明さと思慮深さが湛えられていた。

 フィーユが、背後で扉を閉め切る。

 応接室は別にあるのだろう。この部屋には資料で埋まった本棚や、「強制配置」のための魔導具が収納されているらしいどっしりとした戸棚、そして壁に掛けられた黄ばんだ地図……ティルダー領西方を記したものと、シェールグレイ王国領を記したものの2枚がある他には、ほとんど何もなかった。

 事務局長はゆっくりと事務机を迂回して、俺の前に立った。

 命令違反者に向けるには、優しく穏やかな眼差し。

「は、はじめまして、登録番号4117、クロニア・アルテドット、参上致しました」

「ええ、お初にお目にかかります。私は戦闘職者協会ティルダー領西方支部、事務局長の地位を預かるヴァラハス・エルヴィット。貴方のお父上であるロッシェ・アルテドットさんのことは、それはそれはよく存じております。あの方は……偉大な戦士でした」

 とにかく早く謝罪を、そう考えていた俺は口を噤む。

 ヴァラハス局長は、父の姿を回顧しているのか、少しの間目を閉じていた。

 そして次に目を開いたとき……その瞳には、事務局長という重責を担ってきた者としての威厳が現れていた。

「クロニア・アルテドットさん。此度の『碧水の大禍』において我々が発動した『強制配置』。貴方に示した『白』の意味を、どうかおわかりいただきたい。我々は……16歳という若さにして『紅炎』を戴いた、貴方を失うわけにはいかなかった」

「……はい。とても頭の良い仲間に、教えてもらいました」

「その上で、命令違反を犯したと。

 此度の貴方と、貴方の師の働きは、『大禍』と戦ってきた人類の歴史において、他に類を見ない程に素晴らしい勝利を、我々にもたらしてくれました。貴方は恐らく……いいえ。今日日は、確認せずにおきましょう」

 俺の中にいる京さんを見つめるように目を細めていた事務局長は、小さく首を左右に振ってから続けた。

「しかし、です。貴方の犯した命令違反について、我々は組織として、然るべき処置をとらねばなりません。その点についても……ご理解いただけますか?」

「……はい。大変、申し訳ありませんでした」

 深々と、頭を下げる。

 事務局長は、俺に頭を上げるように促し……俺がそれに従うと、手を差し出した。

「貴方の、ライセンスを」

 その顔よりもずっと皺の濃い、事務局長の手。俺は胸ポケットからライセンスを取り出し、躊躇わずに差し出した。フィーユが短く息を吐くのが、聞こえた。

 こうなることはわかっていた。レインは、俺の教師になってくれると言ってくれたけれど……一度ライセンスを剥奪された者にも、事務職を受験する資格があるとは思えない。俺はもう、ギルドにはいられない。

 職を失っている間は、かつて師匠に言われたように、夕飯の準備の時間に火をつけて回ろうか……

「紅炎魔導士、準一級。確かに、受け取りました。
 それでは、代わりにこちらを」

 でも、そんな些細なことでお金を取るわけには……

「く、クロ!」

 フィーユの声にはっとした。事務局長の手が、ライセンスを差し出している。

 は、剥奪されたものを返還? それは一体、どういう……ギルドから除名されるのではないのか?

 混乱しながらも、つい数十秒前まで胸ポケットに収めていたものを受け取った。

 俺の顔写真。紺地に、変わらず金文字でこう書かれている。

 登録番号:4117
 名前:クロニア・アルテドット
 性別:男性
 年齢:16歳(紅桜の節、7日)
 職級:紅炎魔導士・零級

 ……うん。やっぱり俺の、



「…………ん?」

 流石に、気づいた。
 見間違いじゃないとわかり、にわかに指が震え出す。

 後ろから俺の手元を覗き見ていたフィーユが、代わりに驚嘆の声を上げてくれた。

「零級!? 準一級からの2段階昇級!? こ、こんなことって……!?」

「フィーユ・ドレスリートさん。わかります、驚きますよねえ。他の支部では過去に2度ほどあったことらしいのですが、我々としても初めての経験なわけですよ」

 事務局長は瞳からも声からも威厳を消し去り、うんうんと頷いている。

「ですがこの方法でしか、『英雄』に報いることはできないのです。命令違反については、本件のために自治体より支払われ、ほぼほぼクロニア・アルテドットさんに全額支給される予定だった報奨金の、3分の2を返還するということで……」

「対『大禍』作戦の報酬の、ほぼ全額!? 3分の2は返還されても、3分の1はクロに……ああっ、なんてことなの……!」

「フィ、フィーユ!? しっかりしろ、ドレスリート家のお嬢様だろう!?」

 報奨金の額についてはあまりぴんと来ていない俺は、その場に崩れ落ちそうになるフィーユの身体を、女性に失礼にならないように何とか支える。

 な、何が何だかわからない、俺まで頭の中がぐるぐるしてきた。零級って、引退前の師匠と同じ……

 混乱、いや混沌の最中、局長室の扉が盛大に開かれた。扉を開いたのは立ち去ったはずのレインで、

「いっえーい、大将、昇級おめでとうございまーす」

 とんでもない棒読み、と感想を口にする間もなく、

「クロさぁあああん! 昇級おめでとうございま、はふわぁぁぁああああ!?」

「うっ!?」

 廊下を全速力で走ってきた、花束を抱えたティアが入室、したかと思えば絨毯につまづいて盛大に転倒した。

 ティアの小さな身体は、完全に目を回してしまったフィーユを支えていた俺の身体、というか後頭部に器用に積み重なり、彼女が抱えていた花束は、事務局長の顔面に見事に命中した。

「ご、ごめんなさぁぁあい! さ、サプライズのお役目を事務局長さんからいただいちゃって、ぜったいぜったい頑張ろうって思ってたのにぃぃい……ま、また失敗しちゃいましたぁぁああ! 

 ごめんなさい、ごめんなさいぃぃ……で、でも、クロさん……元気なクロさんにお会いできて、しかも昇級のおめでたい日で……ふぇえええん、ティア、嬉しいですぅぅうう!」

「ティ、ティア、ちょっ……も、申し訳ないんだが、このよくわからない体勢じゃ上手く支えられな……」

 事務局長は冷静に花束をキャッチしたらしく、

「うーん、良い香り。カルカも春ですねえ」

「はははっ……何だこのわけわかんねー状況! どうします、大将? オレの『教育』、まだ要ります?」

 今度は心底楽しそうなレインの声……この混沌とした状況では返答しにくいが、い、要るに決まっている!

 零級、なんて!
 あの、偉大すぎる師匠と同じ級、なんて……!

『ううん……おめでとう、って言った方がいいのかな? 「英雄」にはなりたくなかったんだけど、案外悪くはないし……でも、生存最優先は変わらず、でいてくれるんだよね? だったら、残念だねって言った方が……?』

 京さん、おっしゃる通りです! 零級の依頼なんて、考えただけで心臓に悪すぎる……

 俺は全く想定していなかった状況に、振り回されるどころかぶん回されながらも、決意を新たにするのだった。

 やっぱり……何とかして、事務員に転職しないと……!!




【第2章 月夜を仰ぐ「碧水」の本音・完】
しおりを挟む

処理中です...