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第3章 明日を願う「白氷」の絶唱

45.水面のごとく揺らぐ

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 カルカの自室にあるものの2倍ほどのサイズのベッドに、俺は俯せに倒れ込んでいた。

 早朝稽古以外では身体を動かしていないにも関わらず、ぐでっぐでに疲弊していた。夕食もまだ、肝心の温泉もまだ。オウゼに着くまで爆睡したにも関わらず、それでも眠くて堪らなかった。

 流石は最高の温泉宿。3階のこの部屋は、調度品を全て取り払えば魔法の訓練もぎりぎり行えるかな、と思えるほどに広い。そして快適に生活するための全てが揃っていた。

 壁は焦茶色。深紫色の絨毯が敷き詰められ、中央には白岩で作られた円卓と椅子のセットがある。円卓のこれまた中央に置かれた籠の中には、上品な香りを漂わせるティーバッグと、紙で包装されたお茶菓子があった。

 お湯を沸かす魔導具……異世界で言う『ポット』も、食材を低温で保存しておくため魔導具……『冷蔵庫』もある。

 どっしりとした両開きのクロゼットを開けると、柔らかな純白のタオルが2組置かれていた他、ハングバーの左端には町長さん達が羽織っていた朱色のローブが仲良く2つ掛けられており、『紅炎様へ、良ければお持ち帰りください』と言うメモが付けてあった。

 勿論、トイレや洗面台も付属。京さん曰く『アメニティ』と言うらしいが、一度使って捨ててしまうのは勿体無いほどに高級感のある、歯ブラシ等の身支度用品まで完備。

 そしてシャワーとは別に、バルコニーには湯気をくゆらせる温泉が。なんと、この個室「専用」の露天風呂なのだ。更に、個室に備えられたものの他にも、大浴場なる共有の温泉もあるらしく……

 俺と同様、オウゼ町民の大歓迎ぶりに圧倒されていたはずのフィーユとティアだったが……お淑やかという言葉を体現したような「女将さん」に施設を案内されるうちに瞳の輝きを取り戻し、まずはバルコニーにある温泉に入らなければと、男性組と別れる前に仲良く決意を固めていた。

 ……駄目だ、このままでは眠ってしまう。

 明日からは依頼に取り掛かることになる。町長さんやオウゼに滞在している調査団から詳細に話を聞き、異常気象に近づいてみる予定なのだ。

 クロニア・アルテドットとしては人生初の温泉に浸かって、移動時に蓄積された身体の凝りをほぐす。夕食も、明日の朝食もしっかり摂る。体調管理も依頼のうちだ。

 今日はもう人見知りに苦しむこともないだろう。少しでもリラックスして、呼吸することでさえお金がかかりそうな、この贅沢な空間を満喫しなければ!

 扉が開く音。盛大な溜息。

「あー疲れた。大将、オレ温泉入ってきても良いですか? とりあえず、そこの。今日はマジで嫌な汗ばっかり掻いたんで、とにかくさっぱりしてえ……」

 用事があると残してほんの少しだけ部屋を離れていたレインが、クロゼットを開く。俺はむくりと起き上がった。

「俺も入る」

「は? いや、お気遣いなく。どうぞ夕餉の時間まで休んでてください。あったまったら更に眠くなるかも知れませんし」

「折角だから、入る。ここからでも感じ取れる、良質な炎属性の魔力に浸かってみたい」

「旅先でも脳筋は変わらず、か……」

 というわけで、屋内にある洗い場で汗を流してから、成人男性が5人浸かってもまだまだ余裕がありそうな露天風呂に入湯。

 初夏の夜。星空の下。

 ぱりっと乾き、ほんの少し涼やかさを感じさせる微風。石造の浴槽に湛えられた湯は、肌にひりりと来るほどに熱く。柔らかな湯の揺れに合わせて、炎属性の魔糸が穏やかにゆらゆらしているのが、とても心地良い。ああ癒される、目が覚めてきた……

『レインくんも言ってたけど、癒されたら逆に眠たくなるものじゃない?』

 京さんが心底不思議そうに言う。自分自身という立場から考えても、理解に苦しむ体質らしい。

「……大将、試しに顎の下あたりまで湯に浸かってみてくれません? それならギリギリ耐えられそうな気がするんで」

 『仲間と同じ風呂に浸かって語り合えば、友情を深めることができる』。そう父さんが言っていたが、レイン相手には通用しないんだな……そもそも大貴族のご子息に、他人と同じ風呂に入った経験があるのかさえ怪しい。

 俺は少し悄気しょげながら、試しに顎の下まで身体を沈めてみた。

 レインは黙って視線を逸らした。赤く色づいているけれど殆ど濁りのないお湯だから、案の定、効果はなかったようだ。

「ええと……先程は、その……見た目がすごく怪しかった方に会いに行っていたのか?」

「アンタ、魔法で俺の動向を探ってるんですか? いや……超のつく程に甘いアンタが、そんな真似するわけないですよね」

 レインなりの肯定だ。冗談でもフィーユとティアの部屋に行っていたと言われなかったことに、俺は安堵する。

「兄ですよ」

「……兄? あの方が?」

「アストリテ・フォン・ラーヴェル。ラーヴェル家、現当主の長子。御身に何事も起こらなければ、父上から軍務卿を継ぐ重要人物です。わざわざ公務を片付けて来やがって……護衛はいたが、随分と軽率な真似をしたもんだ」

 普通にカルカで生活していれば、一生に一度会えるかわからない大物その2……だったわけか。

 あまり驚かずに済んでいるのは、あの人の魔糸の在り様を思い出したからだ。

 直接聞いたことはないが、レインは相当珍しい『複数持ち』。俺を含めたこの世界の大半の人が、先天的に1色のみの魔力を持っている。それに対し、2色以上の魔力を持って生まれた人のことをそう呼ぶのだ。

 しかもレインは、雷と氷と虚……つまり、紫、白、黒の3色を持っている。その紫色の糸が、あの人のそれと確かに似ていた。

 俺も京さんも、きょうだいがいない。どう表現すれば失礼にならないかと考えた末に、

「……穏やかな方だと、思った」

 レインはくくっと喉を鳴らして笑い、

「正直に言ってもいいですよ、身内だからって怒りませんから。不気味だったでしょ?」

「そんなことは……」

「アンタ、人を殺した経験、ないですよね?」

 唐突に投げかけられた質問。その重さに、息を吸い込んだきり、吐き出すことができなくなる。

 レインは浴槽の壁に背を預けて、遮るものの何もない星空を見上げた。くっきりと浮き出た喉仏を、一粒の汗がゆっくりと伝い落ちていく。

「アンタなら、人間相手に戦うことになったとしても、命を奪わずに無力化できるんだろうな。将にでもならない限り、アンタは人を殺さない。自分も生き残りたいが、他も生き残らせたい……何一つ奪われたくない。そんな……どうしようもない馬鹿、ですもんね」

「……レインには、あるんだな」

 人を殺めた経験が。

 恐らくは、ブラマリア動乱のときに。そして、そのお兄さん……アストリテ様にも。

「長男は人徳者を気取りながら、目的のためならどこまでも残酷になれる冷血漢。三男は、中途半端に人間と人形との間を往復し続ける詐欺師。そして次男は……もう、面と向かって兄と呼ぶことさえできやしない。

 貴族ってのはね、知れば知るほど馬鹿馬鹿しくなってくる連中ばっかりなんですよ。だから……アンタはいつまでも、故郷を一途に愛する馬鹿のままでいればいい。……なーんて、野郎相手に何真面目な話をしてんですかね、オレは」

 『仲間と同じ風呂に浸かって語り合えば、友情を深めることができる』。

 友情が深まったとは言えない。けれどまた少しだけ、仮面の下にある素顔を想像することができた。温泉効果、恐るべし。

 熱に強い体質ではあるが、流石に熱くなってきた。臍のあたりまでを湯から出し、浴槽の淵に両手をついて、俺は宵闇に白く浮かび上がる山を眺めた。

「……仲間になってくれて、ありがとう」

 あの山を元の姿に戻すために……そして何より、4人全員で生き残ってカルカに帰るために、レインの知略は不可欠だ。そんな予感がする。

「ははっ、仲間って……何ですか急に? まあ、オレも人のこと言えないか。あーあ、アンタが女の子だったら良かったのになあ!」

「そういう魔法は習っていないと前に、」

「心配しなくても覚えてますし、そういう問題じゃありません。
 ほんと……馬鹿みてえだな」

 もしも彼が人形だとしたら、きっと世界で一番人間らしい。終いの独り言は、静かに揺れる赤い水面に、音もなく落ちた。
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