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体を起こすと、すでに西日が差していた。
のろのろと体を動かし、呼び鈴を鳴らす。やってきたモルガナ夫人に風呂へ入ると言ってから、結んだままだった髪をほどき、櫛を通した。
まさかユエ・オーレルがクレアを好きになるとは考えてもみなかったが……身の程知らずにもほどがないか? 俺は妹を褒めてやりたくなった。よくあの顔に騙されなかった。えらいぞ。さすが俺の妹だ。
脱いだ上着を寝台で畳んでいると、モルガナ夫人が風呂の準備ができたと言いに来た。
風呂は好きだ。人間が生み出した唯一良い文化だと思う。一日に一度しか入れないのが勿体ない。食事の代わりに、風呂を一日三度にするのはどうだ?
湯あみを終えると、夫人が脱衣所で待っていた。鏡の前に座らされ、髪に香油を塗りたくられる。腕まくりをした彼女は、異様な真剣さで俺の体を世話した。いちいち傷つけすぎないよう配慮しながら抵抗するのも面倒で、好きにさせることにした。
喉が渇いたので冷たい水を用意するよう言いながら脱衣所を出ると、廊下にトアが立っていた。
「まあトア、どうしたの? もう仕事は終わったでしょう」
モルガナ夫人がトアの目線に合わせるように膝を折りながら声をかける。俺は腕組みをして後ろからその様子を見ていた。トアは俺をちらちらと気にしながらモルガナ夫人の問いに答えた。
「お客様が来たんだ。フォランさまにご用事だって」
「お客様? 誰かしら」
「ノクトさまだよ。騎士団の……」
彼らが話していると、廊下につながる階段を誰かが上がってくるのが見えた。すらりとした長身の男だ。詰襟の軍服に身を包んで、腰には剣を差している。さしずめこいつがノクトだろう。と思ったところで、その名前に聞き覚えがあることに気づいた。正確には、見たことがある。シルヴァ・サリオンの日記で。
『やっと納得がいった、なぜ俺がユエ・オーレルに嫁ぐことになったのか。母上や父上、兄上でさえ、俺を体よく厄介払いできるうえ借金が帳消しになるなんて幸運だと思っただろう。あのノクトとかいう騎士の憐みの目! いいや、誰にも俺を憐れませたりするものか。あの騎士はもちろん、家族や、ユエ・オーレルにだって!』
俺はノクトをじろじろと見定めた。
ノクトは廊下に俺が立っているのを見ると、地味だが愛嬌のある顔に柔和な笑みを浮かべた。
「シルヴァさま、ご機嫌はいかがですか? 突然訪ねてしまい、申し訳ありません」
「俺のことは……」
と、いつもの言葉を続けようとしたところでふと思い直した。ノクトは急に黙った俺を不思議そうに見たが、言葉の続きは待たず、用件を話した。
「ユエ様から言付けを預かって参りました。明日の舞踏会にパートナーとして同席するようにと」
そうだ、こいつはユエの専属騎士なのだった。
彼はこの突然の要求をシルヴァが承諾すると信じて疑っていない様子だった。穏やかなほほえみをたたえて言葉を待っている。
俺は彼をにらみつけてにべなく断った。
「絶対に嫌だ。なぜ俺が? 舞踏会なんか、死んだって行かない」
「えっ?」
ノクトに背を向けさっさと自室に帰る。
引き出しにしまってあった日記を取り出して確かめると、やはりノクトのことが書いてあった。ユエ・オーレルの忠実な騎士。
俺は寝台の上で胡坐をかいた。
よくよく考えたら、屋敷の使用人たちに対してフォランだと名乗ったのは軽率だったかもしれない。単純に違う名前で呼ばれるのが嫌で訂正していたが、もしユエ・オーレルの耳に入り、俺の正体がフォランだとばれたら、戦闘は避けられないだろう。
彼は俺を殺しに来るはずだし、俺も迎え撃つ。しかし、シルヴァの体のままでは到底勝ち目がない。せめて元の体を取り戻すまでは、ユエ・オーレルに正体を悟られるわけにはいかない。
翌日、俺はモルガナ夫人を通して屋敷の使用人たちに『ユエやノクトの前ではシルヴァと呼ぶように』と厳命した。彼らはここ数日で俺の気性をよく理解したようで、素直に言うことを聞いた。
舞踏会への出席を断ったことについて、夫からはなにも言われなかった。
モルガナ夫人が言うには、国王はいつもユエをしつこく舞踏会に誘うから、むしろ同席を断ったことで舞踏会に出ずに済み、助かっているのではないかということだった。
なら最初から同席など頼まなければいいだろうに、人を馬鹿にしているのか?
俺は苛立ちながら花壇の花を見回った。
可憐な花々を見ていると心が落ち着く。時折萎れているものは花弁や葉を撫でてやりながら庭を散策していると、門の方から俺の数倍は腹を立てていそうな男が猛烈な勢いで歩いてきた。
「シルヴァ・サリオン! よくも我が家に恥をかかせてくれたな!」
間違いなくシルヴァの血縁者だった。鏡合わせのように全く同じ顔をしている。おそらく、双子の兄だというエリオスだろう。
彼は顔を真っ赤にし、眉を逆立てながら唾を飛ばして俺を怒鳴った。
「ユエさまに誘われた舞踏会を断るとは、お前はなんのための配偶者なんだ? そんな簡単な役目すら果たせない無能な自分を申し訳ないと思わないのか」
呆気にとられ、思わず黙ってしまう。
正直、こんな風に怒鳴られた経験はほとんどなかった。俺は常に怒鳴る側で、俺に怒鳴ろうなどと言うやつはいなかったのだ。
思わず腕組みをし、目の前でべらべらとまくし立てているエリオスを見る。
顔こそシルヴァに瓜二つだが、気性はまったく違うようだ。日記を読んでも、屋敷の人間たちの反応を見ても、シルヴァは内向的で、こんな風に怒りを露わにする性格ではなかった。
一方のエリオスは、弟であるシルヴァがいるとはいえ、ユエ・オーレルの屋敷へ挨拶もせず押し入り、周囲の目も気にせず怒鳴り散らしていた。
服の趣味も全く違う。エリオスの服は派手で、見るからに金がかかっている。自身の顔が整っている自覚もあるのだろう、前髪を大胆に後ろへ撫でつけていた。
「いいか? ユエ様が言うことには絶対に従うんだ。お前の意思なんて関係ない。分かったか? 二度とサリオンの家名に泥を塗るような真似はするな!」
俺が彼を観察している間に、エリオスの方は言いたいことを言い終えたらしい。荒い息を整え、ふん、と鼻を鳴らすとまた門の方へ歩いて行った。今度は一歩一歩踏みしめるように、肩で風を切って歩いた。
なんて騒がしいやつなんだ。俺が一言も返さないうちに帰っていったぞ。
呆然としていると、一部始終を見ていたらしいトアが後ろから駆け寄ってきた。
「師匠、大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃないと思うか? あいつが俺に何をできたって言うんだ」
トアが安心したように笑う。前はエリオスが来るとシルヴァは必ず塞ぎこんでいたから、と言うので、今さっきエリオスがしていたように鼻で笑ってやった。
塞ぎ込む? さすが陰気なシルヴァ・サリオン! 全く共感できない。
トアは仕事途中だったようで、両手に洗濯物を抱えていた。全部干し終えたら休憩がもらえるから、また稽古を見てくれと言うので気が向いたらな、と答える。トアはこくこくと頷くと水場の方へ走っていった。
部屋に帰ってしばらく考えていると、確かにサリオン家からしてみればシルヴァが配偶者として役割を果たさないのは面目が潰されたも同然かもしれない、と思った。俺には全く関係のないことだが、あまりにもシルヴァらしくない振る舞いをすれば元の体を取り戻す前に俺がフォランだとバレる可能性もある。
かなり嫌だったが、仕方なく偽装工作をすることにした。
モルガナ夫人に便箋を用意させ、今回は体調が悪く断ってしまったが、次に誘われたら出来るだけ出席の方向で考える、という内容の手紙を実家あてにしたためる。
ぎりぎり午前中に投函したが、手紙の返事は二日待っても来なかった。怒り心頭で怒鳴りに来たくせに、謝罪の手紙には反応がないとは、シルヴァは本当に軽んじられているらしい。
シルヴァはともかく、俺を軽んじて許されるとでも思うのか? 二度と手紙は出さない。
手紙を待っている間、俺は修練を積んでいた。かなり本腰を入れて気を練ったおかげで、枯渇寸前だったシルヴァの魔力は枯れかけの川くらいにはなり、簡単な五要素の初歩魔法くらいなら出来るようになった。これは天才の俺だから成し遂げられた成果であり、中身がシルヴァ・サリオンのままだったら一生法術のほの字も会得できなかっただろうことは想像に難くない。
トアには逆立ちで腕を曲げ伸ばしさせる修業をさせているところだ。法術ばかりが上達しても肉体が伴わなければ強くはなれないからな。
修練を兼ねて手を使わずいくつかの花瓶や如雨露を部屋から日当たりの良い庭まで運んでいると、不意に玄関の扉が大きく開いた。
使用人は主に裏の勝手口を遣い、普段、この玄関を開けるのは俺くらいなので思わず驚いて足が止まる。入ってきた男の顔を見て、全身の毛が逆立つのを感じた。
ユエ・オーレル!
千年前と少しも変わらない、白皙の美貌に流れるような黒髪の男は、自身の屋敷を我が物顔で闊歩する自分以外の人間を見ても、驚いた様子さえなかった。
まるで路傍の石に思わず目を止めてしまっただけかのように、すっと視線がそらされ、声をかけられることもない。
ユエは俺のいる方向とは逆にある階段へ向かい、二階へと消えていった。
あまりの屈辱にわなわなと体が震える。
この俺を、この俺を無視しただと⁉ ユエ・オーレルごときが、この俺を⁉
あまりにも腹立ちすぎて、気が変になりそうだった。
腹が立つのはそれだけではない。返事が来ないと思っていた手紙は、翌日封も明けられないままの状態で送り返されてきた。白い封筒を片手に、額の血管が浮き上がるのを感じる。
人間にコケにされて、このフォランが黙っているとでも思うのか? この俺が?
力任せに封筒を引き裂き、ばらばらになった紙を壁に叩きつける。
ちまちま修練するのはもうやめだ。今すぐに体を取り返しに行く。
俺はモルガナ夫人を呼びつけ、具合が悪いから絶対に部屋に入るなと厳命した。夫人は顔を真っ青にしてがくがくとうなずき、震える足で去っていく。その姿を見送り、部屋の灯りを落とした。
深夜、真っ暗になった部屋でむくりと起き上がる。俺はなけなしの魔力を振り絞って作った護符を部屋の扉に張った。一晩くらいなら人避けになるだろう。物音を聞きつけて止めにくるかもしれない使用人たちの気を逸らす。
大きなガラス窓を両腕で押して開き、裸足のまま外に出る。
芝が足裏に冷たく刺さり、肌着の奥にまで外気が入ってくる。見上げると、今日が月のない夜だということが分かった。お誂え向きだな。俺が体を隠した夜も月はなかった。
ユエ・オーレルの屋敷とリューフェイの森は隣り合うように位置している。門を出て数歩歩けば、もう森の入り口だった。木々の深い匂い。肺に吸い込んだ葉と土の匂いが、体の奥で熱く煮えたぎっていた怒りをわずかに沈めたのが分かった。
激変した街の風景とは対照的に、俺の森は何も変わっていなかった。見た目も、匂いも、音も、なにもかも。
宥められるように息を吐き、一度止めた足をゆっくりと踏み出す。
リューフェイは神秘の森だ。許されざる者は決して中に入ることができず、また一度入れば許されるまで外に出ることもできない。
森は主を覚えていた。
俺の体は難なく森の中へ入り、一気に外界の音が消え去り、木々の静かな呼吸だけが聞こえる。
裸足でざくざくと腐葉土を踏み抜きながら森の奥へと進む。
あの時、洞窟の中で組み敷いたユエを生かすと決め自分の体を隠すまで、時間の余裕はなかった。俺は近い場所に、かつ決して人間に見つからないように体を隠さねばならなかった。
慣れ親しんだ道を迷いなく歩き、洞窟のすぐそば、茨と蔦が暗く生い茂った窪みへと辿り着く。青々とした茎に手を触れると、まるで俺の意思を組むように葉が動き、隠していたものを露わに――するはずだった。
動揺に声も出なかった。
大学の講堂で階段から落ち、この世界に戻ってきて初めて、俺は激しく動揺した。
体がない。
隠したはずの、俺本来の、フォランの体がない。
窪みはまっさらで、かつてそこに体があったことを示すように、人型に黒い土がむき出しになっている。
だが、肝心の体がなかった。
いったいどこへ、誰が?
体がふらつき、思わず近くにあった木の幹に手をつく。その時、突として後ろから伸びてきた手に腕をつかまれ、無理矢理に引き寄せられる。
俺は目を見開いて驚いた。森の暗闇の中で、生い茂った木々の葉の間から漏れる星明りに照らされてユエ・オーレルの顔が見えた。
「お前は……」
深い闇の中で、まるで自らこそが月だといわんばかりに輝く顔の男が、俺の顔を見て驚く。
彼はさっと俺の全身に目を走らせると、薄い唇をわずかに震わせてからきゅっと引き結んだ。浅葱色の瞳が俺を見つめる。
なぜユエがここに?
疑問が頭をいっぱいにしたが、反射的に彼の手をはねつけ、身を翻して走った。
元の部屋に帰り、俺は泥だらけの足のまま、ここが他ならぬユエ・オーレルの屋敷だということに気づいた。
のろのろと体を動かし、呼び鈴を鳴らす。やってきたモルガナ夫人に風呂へ入ると言ってから、結んだままだった髪をほどき、櫛を通した。
まさかユエ・オーレルがクレアを好きになるとは考えてもみなかったが……身の程知らずにもほどがないか? 俺は妹を褒めてやりたくなった。よくあの顔に騙されなかった。えらいぞ。さすが俺の妹だ。
脱いだ上着を寝台で畳んでいると、モルガナ夫人が風呂の準備ができたと言いに来た。
風呂は好きだ。人間が生み出した唯一良い文化だと思う。一日に一度しか入れないのが勿体ない。食事の代わりに、風呂を一日三度にするのはどうだ?
湯あみを終えると、夫人が脱衣所で待っていた。鏡の前に座らされ、髪に香油を塗りたくられる。腕まくりをした彼女は、異様な真剣さで俺の体を世話した。いちいち傷つけすぎないよう配慮しながら抵抗するのも面倒で、好きにさせることにした。
喉が渇いたので冷たい水を用意するよう言いながら脱衣所を出ると、廊下にトアが立っていた。
「まあトア、どうしたの? もう仕事は終わったでしょう」
モルガナ夫人がトアの目線に合わせるように膝を折りながら声をかける。俺は腕組みをして後ろからその様子を見ていた。トアは俺をちらちらと気にしながらモルガナ夫人の問いに答えた。
「お客様が来たんだ。フォランさまにご用事だって」
「お客様? 誰かしら」
「ノクトさまだよ。騎士団の……」
彼らが話していると、廊下につながる階段を誰かが上がってくるのが見えた。すらりとした長身の男だ。詰襟の軍服に身を包んで、腰には剣を差している。さしずめこいつがノクトだろう。と思ったところで、その名前に聞き覚えがあることに気づいた。正確には、見たことがある。シルヴァ・サリオンの日記で。
『やっと納得がいった、なぜ俺がユエ・オーレルに嫁ぐことになったのか。母上や父上、兄上でさえ、俺を体よく厄介払いできるうえ借金が帳消しになるなんて幸運だと思っただろう。あのノクトとかいう騎士の憐みの目! いいや、誰にも俺を憐れませたりするものか。あの騎士はもちろん、家族や、ユエ・オーレルにだって!』
俺はノクトをじろじろと見定めた。
ノクトは廊下に俺が立っているのを見ると、地味だが愛嬌のある顔に柔和な笑みを浮かべた。
「シルヴァさま、ご機嫌はいかがですか? 突然訪ねてしまい、申し訳ありません」
「俺のことは……」
と、いつもの言葉を続けようとしたところでふと思い直した。ノクトは急に黙った俺を不思議そうに見たが、言葉の続きは待たず、用件を話した。
「ユエ様から言付けを預かって参りました。明日の舞踏会にパートナーとして同席するようにと」
そうだ、こいつはユエの専属騎士なのだった。
彼はこの突然の要求をシルヴァが承諾すると信じて疑っていない様子だった。穏やかなほほえみをたたえて言葉を待っている。
俺は彼をにらみつけてにべなく断った。
「絶対に嫌だ。なぜ俺が? 舞踏会なんか、死んだって行かない」
「えっ?」
ノクトに背を向けさっさと自室に帰る。
引き出しにしまってあった日記を取り出して確かめると、やはりノクトのことが書いてあった。ユエ・オーレルの忠実な騎士。
俺は寝台の上で胡坐をかいた。
よくよく考えたら、屋敷の使用人たちに対してフォランだと名乗ったのは軽率だったかもしれない。単純に違う名前で呼ばれるのが嫌で訂正していたが、もしユエ・オーレルの耳に入り、俺の正体がフォランだとばれたら、戦闘は避けられないだろう。
彼は俺を殺しに来るはずだし、俺も迎え撃つ。しかし、シルヴァの体のままでは到底勝ち目がない。せめて元の体を取り戻すまでは、ユエ・オーレルに正体を悟られるわけにはいかない。
翌日、俺はモルガナ夫人を通して屋敷の使用人たちに『ユエやノクトの前ではシルヴァと呼ぶように』と厳命した。彼らはここ数日で俺の気性をよく理解したようで、素直に言うことを聞いた。
舞踏会への出席を断ったことについて、夫からはなにも言われなかった。
モルガナ夫人が言うには、国王はいつもユエをしつこく舞踏会に誘うから、むしろ同席を断ったことで舞踏会に出ずに済み、助かっているのではないかということだった。
なら最初から同席など頼まなければいいだろうに、人を馬鹿にしているのか?
俺は苛立ちながら花壇の花を見回った。
可憐な花々を見ていると心が落ち着く。時折萎れているものは花弁や葉を撫でてやりながら庭を散策していると、門の方から俺の数倍は腹を立てていそうな男が猛烈な勢いで歩いてきた。
「シルヴァ・サリオン! よくも我が家に恥をかかせてくれたな!」
間違いなくシルヴァの血縁者だった。鏡合わせのように全く同じ顔をしている。おそらく、双子の兄だというエリオスだろう。
彼は顔を真っ赤にし、眉を逆立てながら唾を飛ばして俺を怒鳴った。
「ユエさまに誘われた舞踏会を断るとは、お前はなんのための配偶者なんだ? そんな簡単な役目すら果たせない無能な自分を申し訳ないと思わないのか」
呆気にとられ、思わず黙ってしまう。
正直、こんな風に怒鳴られた経験はほとんどなかった。俺は常に怒鳴る側で、俺に怒鳴ろうなどと言うやつはいなかったのだ。
思わず腕組みをし、目の前でべらべらとまくし立てているエリオスを見る。
顔こそシルヴァに瓜二つだが、気性はまったく違うようだ。日記を読んでも、屋敷の人間たちの反応を見ても、シルヴァは内向的で、こんな風に怒りを露わにする性格ではなかった。
一方のエリオスは、弟であるシルヴァがいるとはいえ、ユエ・オーレルの屋敷へ挨拶もせず押し入り、周囲の目も気にせず怒鳴り散らしていた。
服の趣味も全く違う。エリオスの服は派手で、見るからに金がかかっている。自身の顔が整っている自覚もあるのだろう、前髪を大胆に後ろへ撫でつけていた。
「いいか? ユエ様が言うことには絶対に従うんだ。お前の意思なんて関係ない。分かったか? 二度とサリオンの家名に泥を塗るような真似はするな!」
俺が彼を観察している間に、エリオスの方は言いたいことを言い終えたらしい。荒い息を整え、ふん、と鼻を鳴らすとまた門の方へ歩いて行った。今度は一歩一歩踏みしめるように、肩で風を切って歩いた。
なんて騒がしいやつなんだ。俺が一言も返さないうちに帰っていったぞ。
呆然としていると、一部始終を見ていたらしいトアが後ろから駆け寄ってきた。
「師匠、大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃないと思うか? あいつが俺に何をできたって言うんだ」
トアが安心したように笑う。前はエリオスが来るとシルヴァは必ず塞ぎこんでいたから、と言うので、今さっきエリオスがしていたように鼻で笑ってやった。
塞ぎ込む? さすが陰気なシルヴァ・サリオン! 全く共感できない。
トアは仕事途中だったようで、両手に洗濯物を抱えていた。全部干し終えたら休憩がもらえるから、また稽古を見てくれと言うので気が向いたらな、と答える。トアはこくこくと頷くと水場の方へ走っていった。
部屋に帰ってしばらく考えていると、確かにサリオン家からしてみればシルヴァが配偶者として役割を果たさないのは面目が潰されたも同然かもしれない、と思った。俺には全く関係のないことだが、あまりにもシルヴァらしくない振る舞いをすれば元の体を取り戻す前に俺がフォランだとバレる可能性もある。
かなり嫌だったが、仕方なく偽装工作をすることにした。
モルガナ夫人に便箋を用意させ、今回は体調が悪く断ってしまったが、次に誘われたら出来るだけ出席の方向で考える、という内容の手紙を実家あてにしたためる。
ぎりぎり午前中に投函したが、手紙の返事は二日待っても来なかった。怒り心頭で怒鳴りに来たくせに、謝罪の手紙には反応がないとは、シルヴァは本当に軽んじられているらしい。
シルヴァはともかく、俺を軽んじて許されるとでも思うのか? 二度と手紙は出さない。
手紙を待っている間、俺は修練を積んでいた。かなり本腰を入れて気を練ったおかげで、枯渇寸前だったシルヴァの魔力は枯れかけの川くらいにはなり、簡単な五要素の初歩魔法くらいなら出来るようになった。これは天才の俺だから成し遂げられた成果であり、中身がシルヴァ・サリオンのままだったら一生法術のほの字も会得できなかっただろうことは想像に難くない。
トアには逆立ちで腕を曲げ伸ばしさせる修業をさせているところだ。法術ばかりが上達しても肉体が伴わなければ強くはなれないからな。
修練を兼ねて手を使わずいくつかの花瓶や如雨露を部屋から日当たりの良い庭まで運んでいると、不意に玄関の扉が大きく開いた。
使用人は主に裏の勝手口を遣い、普段、この玄関を開けるのは俺くらいなので思わず驚いて足が止まる。入ってきた男の顔を見て、全身の毛が逆立つのを感じた。
ユエ・オーレル!
千年前と少しも変わらない、白皙の美貌に流れるような黒髪の男は、自身の屋敷を我が物顔で闊歩する自分以外の人間を見ても、驚いた様子さえなかった。
まるで路傍の石に思わず目を止めてしまっただけかのように、すっと視線がそらされ、声をかけられることもない。
ユエは俺のいる方向とは逆にある階段へ向かい、二階へと消えていった。
あまりの屈辱にわなわなと体が震える。
この俺を、この俺を無視しただと⁉ ユエ・オーレルごときが、この俺を⁉
あまりにも腹立ちすぎて、気が変になりそうだった。
腹が立つのはそれだけではない。返事が来ないと思っていた手紙は、翌日封も明けられないままの状態で送り返されてきた。白い封筒を片手に、額の血管が浮き上がるのを感じる。
人間にコケにされて、このフォランが黙っているとでも思うのか? この俺が?
力任せに封筒を引き裂き、ばらばらになった紙を壁に叩きつける。
ちまちま修練するのはもうやめだ。今すぐに体を取り返しに行く。
俺はモルガナ夫人を呼びつけ、具合が悪いから絶対に部屋に入るなと厳命した。夫人は顔を真っ青にしてがくがくとうなずき、震える足で去っていく。その姿を見送り、部屋の灯りを落とした。
深夜、真っ暗になった部屋でむくりと起き上がる。俺はなけなしの魔力を振り絞って作った護符を部屋の扉に張った。一晩くらいなら人避けになるだろう。物音を聞きつけて止めにくるかもしれない使用人たちの気を逸らす。
大きなガラス窓を両腕で押して開き、裸足のまま外に出る。
芝が足裏に冷たく刺さり、肌着の奥にまで外気が入ってくる。見上げると、今日が月のない夜だということが分かった。お誂え向きだな。俺が体を隠した夜も月はなかった。
ユエ・オーレルの屋敷とリューフェイの森は隣り合うように位置している。門を出て数歩歩けば、もう森の入り口だった。木々の深い匂い。肺に吸い込んだ葉と土の匂いが、体の奥で熱く煮えたぎっていた怒りをわずかに沈めたのが分かった。
激変した街の風景とは対照的に、俺の森は何も変わっていなかった。見た目も、匂いも、音も、なにもかも。
宥められるように息を吐き、一度止めた足をゆっくりと踏み出す。
リューフェイは神秘の森だ。許されざる者は決して中に入ることができず、また一度入れば許されるまで外に出ることもできない。
森は主を覚えていた。
俺の体は難なく森の中へ入り、一気に外界の音が消え去り、木々の静かな呼吸だけが聞こえる。
裸足でざくざくと腐葉土を踏み抜きながら森の奥へと進む。
あの時、洞窟の中で組み敷いたユエを生かすと決め自分の体を隠すまで、時間の余裕はなかった。俺は近い場所に、かつ決して人間に見つからないように体を隠さねばならなかった。
慣れ親しんだ道を迷いなく歩き、洞窟のすぐそば、茨と蔦が暗く生い茂った窪みへと辿り着く。青々とした茎に手を触れると、まるで俺の意思を組むように葉が動き、隠していたものを露わに――するはずだった。
動揺に声も出なかった。
大学の講堂で階段から落ち、この世界に戻ってきて初めて、俺は激しく動揺した。
体がない。
隠したはずの、俺本来の、フォランの体がない。
窪みはまっさらで、かつてそこに体があったことを示すように、人型に黒い土がむき出しになっている。
だが、肝心の体がなかった。
いったいどこへ、誰が?
体がふらつき、思わず近くにあった木の幹に手をつく。その時、突として後ろから伸びてきた手に腕をつかまれ、無理矢理に引き寄せられる。
俺は目を見開いて驚いた。森の暗闇の中で、生い茂った木々の葉の間から漏れる星明りに照らされてユエ・オーレルの顔が見えた。
「お前は……」
深い闇の中で、まるで自らこそが月だといわんばかりに輝く顔の男が、俺の顔を見て驚く。
彼はさっと俺の全身に目を走らせると、薄い唇をわずかに震わせてからきゅっと引き結んだ。浅葱色の瞳が俺を見つめる。
なぜユエがここに?
疑問が頭をいっぱいにしたが、反射的に彼の手をはねつけ、身を翻して走った。
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そんなある日、複雑な想いを抱えて過ごすサフィアの元に、幼い王太子の世話係を打診する知らせが届く。
王太子は、黒獅子と呼ばれ、前国王を王座から引きずり降ろした現王と、その幼馴染である王妃との一人息子だ。
王妃は現在、病で療養中だという。
幼い王太子と、黒獅子の王、王妃の住まう王城で、サフィアはこれまで知ることのなかった様々な感情と直面する。
サフィアと黒獅子の王ライは、二人を取り巻く愛憎の渦に巻き込まれながらも、密かにゆっくりと心を通わせていくが…
竜神様の老いらくの恋
のらねことすていぬ
BL
御歳1824歳の竜族、土竜のルス。
竜族としても立派に成獣なのに、コミュ障気味でいまだに恋人がいたことがない。
そんな彼が一目惚れした相手は、18歳の騎士になったばかりの少年だった。
年の差1806歳の片思い。
「俺が竜人の番に抱いてもらえない話する?」のアスファーと宇一が出会うちょっと前のお話。
少年騎士×竜人/年の差/敬語攻め/溺愛受け/
※ブログサイトに掲載していた話の転載です。
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