私が愛した夫は戦場で死んだようです

たると

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祈りは終わった

進水式を翌日に控え、アンゼリカの街は祝祭の予感に包まれていた。
リアムと共に、完成したばかりの帆船を見上げていたその時だ。

「……エレナ、なのか?」

背後から響いたのは、かつて私の世界のすべてだった男の声。
振り返ると、そこには目を疑うような光景があった。
王国の英雄、公爵アルベルト・フォン・カスティール。
窶れた頬、充血した瞳。
軍服は擦り切れ、泥と脂にまみれたその姿は、街道を彷徨う亡霊のようだった。

「エレナ。やっと……やっと見つけた」

彼は私の姿を認めると、ふらふらと歩み寄ってきた。

「どうしてここに……。アルベルト様」

私は、手に持っていた書類をぎゅっと握りしめた。
怒りよりも先に、滑稽さへの呆れが込み上げる。

「戻ってくれ、エレナ。君がいないと、すべてが無茶苦茶なんだ。屋敷は荒れ、資金も底を突きかけた。セーラとは……彼女とは、君が出て行った一ヶ月後に縁を切った」

彼の言葉によれば、私が去ったあとの屋敷は悲惨だったという。
管理者がいなくなったことで、セーラの浪費は加速し、使用人たちは次々と辞めていった。
アルベルトが「可哀想な未亡人」と信じていたセーラは、私の不在をいいことに、アルベルトの財産を自分の将来のために着服しようとしていたのだ。

「彼女は……エドワードの戦死すら利用していた。僕を繋ぎ止めるために嘘を重ねていたんだ。僕は騙されていた! 本当に守るべきだったのは、君だったのに……!」

アルベルトは衆目も憚らず、その場に膝をついた。
かつて私を残酷に切り捨てた男が、今は私の靴に額を擦り付けんばかりにして、許しを乞うている。

「君の書き置きにあった通りだ……。君を失って、初めて気づいた。僕の人生には、君という光が必要だったんだ。頼む、もう一度だけチャンスをくれ。君を失ったことを一生後悔して生きていくなんて、耐えられない」

私は冷たい目で見下ろした。
彼の目から流れる涙は、かつて私が流した涙と同じ色をしているだろうか。
いいえ、これは失った「便利な妻」を惜しむ、自己愛の涙だ。

「おかしなことを仰いますね、アルベルト様」

私は、彼の縋る手を静かに、だが力強く振り払った。

「私がいなくて困っているのは、あなたの『屋敷』と『生活』であって、私自身ではないでしょう? あなたは、私を愛しているのではなく、私に守られていた自分が恋しいだけです」

「違う! 僕は……!」

「いいえ、違わぬはずです。今の私は、あの日あなたが言った通り、自分の人生を自分で決める『権限』を持っています」

私は一歩、彼から遠ざかる。

「エレナ!  僕は君がいなければ、何もできないんだ。君が二年間守ってくれたあの暮らしが、どれほど奇跡のようなものだったか、ようやく分かった……!」

彼は再び私の手に縋り付こうとする。
だが、その手が私に触れる前に、逞しい腕がそれを遮った。

「おい、その汚い手をどけろ」

リアムだった。
彼は私の肩を抱き寄せ、燃えるような青い瞳でアルベルトを射抜いた。

「こいつが誰だか知らねえが、エレナは俺の大事なパートナーだ。あんたみたいな、過去を食い潰すだけの男に触れさせていい女じゃない」

アルベルトは驚愕に目を見開いた。

「……男? エレナ、君は、こんな卑しい野蛮人と……!」

その言葉が、私の心に残っていた最後の一片の憐れみを消し去った。

「アルベルト様、あなたはあの日、確かに仰いましたね。私には『権限はない』と」

私は、リアムの手をしっかりと握り返し、アルベルトを見下ろした。

「今の私は、私の人生を、私の足で歩いています。この人は、私の価値を数字ではなく、心で見てくれる人です。あなたのように、私を屋敷の部品だと思ったことは一度もない」

「そんな……。嘘だ、君は僕を愛していたじゃないか! 二年間も、僕のために祈り続けて……!」

「ええ、祈っていました。でも、その祈りは二年前のあの日、あなたがセーラさんを連れて帰ってきた瞬間に、灰になって消えました。今の私にあるのは、あなたへの愛ではなく、あなたから解放されたという、深い喜びだけです」

アルベルトは、言葉を失って口を戦慄かせた。
かつての彼は、私が何を言っても「嫉妬だろう」と笑って流していた。
だが、今の私の瞳に宿っているのは、怒りですらなく「無関心」だということに、彼はようやく気づいたのだ。

「さようなら、アルベルト様。どうか、私を失ったことを一生の後悔として抱えて生きてください。それが、あなたにできる唯一の贖罪です」

私は一度も振り返らず、リアムと共に歩き出した。
背後で、アルベルトが私の名を呼んで泣き叫ぶ声が聞こえたが、それは遠くで鳴くカモメの声よりも、私の心には響かなかった。



翌日。青空の下、新しい船の進水式が執り行われた。
私はリアムに手渡されたシャンパンのボトルを、力強く船体にぶつけた。
砕け散るガラスの飛沫が、太陽の光を受けてダイヤモンドのように輝く。

「いい音だ」
リアムが隣で、満足げに笑った。
「エレナ。これからは、この船があんたの新しい家だ。……いや、俺の隣が、あんたの家だ」

「……ええ。どこまでも、一緒に行きましょう、リアム」

私は彼の差し出した手を、今度は逃げるためではなく、共に生きるために、強く、強く握りしめた。

潮風が、私の頬を優しく撫でて通り過ぎる。
二年前、冷たい教会の床で祈り続けていたあの日の私に、ようやく伝えてあげられる。

――祈りは終わった。
これからは、自分の力で、大好きな人の隣で、幸せを掴み取る日々が始まるのだと。

広大な海へと滑り出していく船のように、私の新しい人生は、今、輝かしい航跡を刻み始めた。

(完)

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