白い結婚から三年。「健気な妻」を止めて離縁したら、前夫が追いかけてきました

たると

文字の大きさ
3 / 12

変化

エリッサが部屋を去った後、アルフレッドの執務室には静寂が訪れた。
先ほどまで響いていた彼女の穏やかな声も、衣擦れの音も、床に散らばった陶器の破片が立てた鋭い悲鳴も、すべてが消えた。

「………」

アルフレッドは嘆息し、背もたれに深く体重を預けた。
指先には、彼女を乱暴に揺さぶった際、その細い肩から伝わってきた熱がかすかに残っている。

(……やっと、静かになったか)

三年間、片時も絶えることなく降り注いできた、あのまとわりつくような健気さ。
借金の恩を盾に、自身の存在を誇示するかのような恩着せがましい微笑み。
それらが消えれば、せいせいするはずだった。
望んでいたのは、誰にも邪魔されない、この研ぎ澄まされた沈黙だったはずだ。

だが、心臓の奥がわずかにざわつく。
脳裏に焼き付いて離れないのは、去り際に見せたエリッサの瞳だ。
そこには、これまで彼を辟易させてきた「愛」の熱もなければ、当然あるべき「恨み」の炎もない。

ただ、すべての感情が抜け落ちたような、凪いだ海。

光を吸い込み、何も映し出さないその深い絶望よりも冷ややかな無の色が、網膜に焼き付いて離れなかった。



翌朝。
アルフレッドは習慣通りに食堂へ向かった。
重厚な扉を開けるとき、彼は無意識に身構えていた。
いつもなら、彼が足を踏み入れるより先にエリッサが入り口で待ち構えており、聞き飽きた挨拶を投げかけてくるはずなのだ。

――「おはようございます、旦那様。昨夜はよく眠れましたか?」
――「今朝は冷え込みますから、温かいスープを用意させましたの」

だが、扉を開けても、そこに彼女の姿はなかった。
長いテーブルの向こう側は、空虚な空間が広がっているだけだ。

「……エリッサはどうした」

側に控えていた使用人に尋ねると、男は困惑した顔で深々と頭を下げた。

「は。奥様は『備品が主人の食事を邪魔してはならない』とのことで、今後は自室で食事を摂ると仰っております。旦那様の視界に入らぬよう、最善を尽くすように、と」

アルフレッドの手が、椅子の背を掴んだまま止まった。

昨夜、自らが彼女を切り裂くために放った言葉。

それを寸分違わず、鏡合わせのように返されたのだ。
皮肉か、それともただの当てつけか。

「……勝手にしろ」

彼は不機嫌に椅子を引き、用意されていた朝食に手をつけた。
料理はいつも通り、彼の好みに合わせた完璧な味付けだった。
テーブルに飾られた花も、いつも通りだ。
だが、何かが決定的に違う。

(……味がしない)

まるで、温もりのない完璧な精巧な模造品を口にしているような、砂を噛むような虚無感が胸を満たした。



その日の夜、アルフレッドが夜会から帰宅した際も、変化は続いていた。

いつもなら玄関で、眠い目をこすりながらも彼を待っていたエリッサがいない。
代わりに執事が「お召替えの準備は整っております」とだけ、事務的に告げた。

主寝室に戻ったアルフレッドは、クローゼットを開けて足を止めた。
そこには明日の公務に合わせた正装が、微塵の狂いもなく揃えられていた。

だが。

いつもその袖口や襟元に添えられていた、一枚の小さな紙片がない。

『明日は少し冷えるそうですから、厚手のベストをご用意しました。お気をつけて行ってらっしゃいませ』

そんな、かつては「押し付けがましい」と捨てていた、愛情に満ちた手書きのメモが、どこを探しても見当たらない。

ただ、衣服だけが、冷たい無機物としてそこに鎮座している。

「…………」

アルフレッドは、無意識に隣室との繋ぎ扉に目を向けた。

三年間、彼はその扉を一度も開けたことはなかった。
エリッサは夜、いつもその扉を数センチだけ開けて、彼の気配を確認し、彼が眠りに就くのを見届けてから自らも横になっていたはずだ。

だが今、扉はぴっちりと閉じられ、内側から鍵がかけられている。
光の漏れすらもないその扉は、もはや入り口ではなく、完膚なきまでに彼を締め出す「拒絶の壁」だった。



一週間が過ぎる頃、アルフレッドの苛立ちは限界に達していた。
屋敷のどこに行っても、エリッサの気配はする。
整えられた庭、磨かれた調度品、管理された家計。
しかし、本人の姿だけが、霧のように消えてしまった。

そんな中、廊下で偶然、エリッサと擦れ違った。

「エリッサ」

呼びかけると、彼女は足を止めた。
優雅に、だが恐ろしいほどに無機質な動作で頭を下げる。

「はい、閣下。何か不手際でもございましたでしょうか」

 ――閣下。

 旦那様、ではなく。
 他人行儀なその呼び方の変化に、アルフレッドの眉根がピクリと寄る。

「……その呼び方は何だ。それに、食事の席にも現れず、部屋に閉じこもって何を考えている」
「備品としての本分を尽くしているだけでございます。閣下のご不快を最小限に抑えることが、契約に基づく私の務めですので。ご安心ください、公務に支障はきたしません」

エリッサの顔には、一欠片の感情も、恨み言も、悲しみすらも浮かんでいない。
ただ、報告書の数値を読み上げるように、淡々と事実を述べるだけ。
かつて彼を苛立たせたあの「重すぎる愛」は、その瞳から消失していた。

「……嫌がらせのつもりか? 被害者ぶって、私に罪悪感でも抱かせたいのか」
「滅相もございません。私は、あなたの仰った通り、身の程をわきまえることに決めたのです。それが私にできる、最後のご奉公ですから。それでは、失礼いたします」

エリッサは再び一礼し、彼の返事を待つこともなく、流れるような動作で踵を返した。

「……最後?」

遠ざかっていくその背中に、アルフレッドは言いようのない焦燥感を覚えた。
追いかけ、その肩を掴んで、もう一度自分を「旦那様」と呼ぶまで問い詰めたい衝動に駆られる。

だが、今の彼女に触れても、昨日までの彼女のような反応は返ってこないだろうという確信があった。

自分が望んだはずの静寂。
それが、これほどまでに寒々しく、真綿で首を絞められるように息苦しいものだとは知らなかった。
彼女が微笑みをやめただけで、黄金で飾られたこの巨大な屋敷が、まるで主を失い朽ち果てるのを待つだけの廃墟のように感じられる。

「……面白くない」

アルフレッドは一人、誰もいない廊下で呟いた。
感想 3

あなたにおすすめの小説

戦場から帰らぬ夫は、隣国の姫君に恋文を送っていました

Mag_Mel
恋愛
しばらく床に臥せていたエルマが久方ぶりに参加した祝宴で、隣国の姫君ルーシアは戦地にいるはずの夫ジェイミーの名を口にした。 「彼から恋文をもらっていますの」。 二年もの間、自分には便りひとつ届かなかったのに? 真実を確かめるため、エルマは姫君の茶会へと足を運ぶ。 そこで待っていたのは「身を引いて欲しい」と別れを迫る、ルーシアの取り巻きたちだった。 ※小説家になろう様にも投稿しています

【片思いの5年間】婚約破棄した元婚約者の王子様は愛人を囲っていました。しかもその人は王子様がずっと愛していた幼馴染でした。

五月ふう
恋愛
「君を愛するつもりも婚約者として扱うつもりもないーー。」 婚約者であるアレックス王子が婚約初日に私にいった言葉だ。 愛されず、婚約者として扱われない。つまり自由ってことですかーー? それって最高じゃないですか。 ずっとそう思っていた私が、王子様に溺愛されるまでの物語。 この作品は 「婚約破棄した元婚約者の王子様は愛人を囲っていました。しかもその人は王子様がずっと愛していた幼馴染でした。」のスピンオフ作品となっています。 どちらの作品から読んでも楽しめるようになっています。気になる方は是非上記の作品も手にとってみてください。

6年前の私へ~その6年は無駄になる~

夏見颯一
恋愛
モルディス侯爵家に嫁いだウィニアは帰ってこない夫・フォレートを待っていた。6年も経ってからようやく帰ってきたフォレートは、妻と子供を連れていた。 テンプレものです。テンプレから脱却はしておりません。

二度目の恋は幸せに

木蓮
恋愛
シェリルには仲の良い婚約者がいた。彼は婚約破棄して戻って来た義妹を慰めるうちに恋におち、彼の心が自分にないことを知ったシェリルは自ら婚約を解消した。 失恋に落ちこむも新しく婚約したいとこに励まされるうちに新しい幸せを見つけ、2度目の恋をする。 しかし、思わぬ人物が立ちふさがる――。 ※両想いの無自覚いちゃいちゃカップルがくっつくお話です。中盤からひたすらのろけています。 ざまあはちょびっと。 ※何と、まだ3話ですが19日の夜のHOTランキング63位に入れてもらいました! たくさんの方々に読んでいただいた上に、お気に入りやいいねもありがとうございます! 楽しんでいただければ幸いです。

あなたが後悔しても、私の愛はもう戻りません

藤原遊
恋愛
婚約者のアルベルトは、優しい人だった。 ただ――いつも、私より優先する存在がいただけで。 「君は分かってくれると思っていた」 その一言で、リーシェは気づいてしまう。 私は、最初から選ばれていなかったのだと。 これは、奪われた恋を取り戻す物語ではない。 後悔する彼と、もう戻らないと決めた私、 そして“私を選ぶ人”に出会うまでの、静かな恋の終わりと始まりの物語。

さようならの定型文~身勝手なあなたへ

宵森みなと
恋愛
「好きな女がいる。君とは“白い結婚”を——」 ――それは、夢にまで見た結婚式の初夜。 額に誓いのキスを受けた“その夜”、彼はそう言った。 涙すら出なかった。 なぜなら私は、その直前に“前世の記憶”を思い出したから。 ……よりによって、元・男の人生を。 夫には白い結婚宣言、恋も砕け、初夜で絶望と救済で、目覚めたのは皮肉にも、“現実”と“前世”の自分だった。 「さようなら」 だって、もう誰かに振り回されるなんて嫌。 慰謝料もらって悠々自適なシングルライフ。 別居、自立して、左団扇の人生送ってみせますわ。 だけど元・夫も、従兄も、世間も――私を放ってはくれないみたい? 「……何それ、私の人生、まだ波乱あるの?」 はい、あります。盛りだくさんで。 元・男、今・女。 “白い結婚からの離縁”から始まる、人生劇場ここに開幕。 -----『白い結婚の行方』シリーズ ----- 『白い結婚の行方』の物語が始まる、前のお話です。

貴方が選んだのは全てを捧げて貴方を愛した私ではありませんでした

ましゅぺちーの
恋愛
王国の名門公爵家の出身であるエレンは幼い頃から婚約者候補である第一王子殿下に全てを捧げて生きてきた。 彼を数々の悪意から守り、彼の敵を排除した。それも全ては愛する彼のため。 しかし、王太子となった彼が最終的には選んだのはエレンではない平民の女だった。 悲しみに暮れたエレンだったが、家族や幼馴染の公爵令息に支えられて元気を取り戻していく。 その一方エレンを捨てた王太子は着々と破滅への道を進んでいた・・・

他の人を好きになったあなたを、私は愛することができません

天宮有
恋愛
 公爵令嬢の私シーラの婚約者レヴォク第二王子が、伯爵令嬢ソフィーを好きになった。    第三王子ゼロアから聞いていたけど、私はレヴォクを信じてしまった。  その結果レヴォクに協力した国王に冤罪をかけられて、私は婚約破棄と国外追放を言い渡されてしまう。  追放された私は他国に行き、数日後ゼロアと再会する。  ゼロアは私を追放した国王を嫌い、国を捨てたようだ。  私はゼロアと新しい生活を送って――元婚約者レヴォクは、後悔することとなる。