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そして、それから
それからの一年間、王都の社交界では「ランドール伯爵の変貌」が最大の関心事となった。
かつて氷の彫像のように冷酷だった男は、今や下町の商会に毎日通い詰め、使い走りのようにエリッサの指示を仰いでいた。
「エリッサ、頼まれていた最新の経済誌と、君の好きなパン屋のクロワッサンだ。それと……この書類は、君が指摘した通り、借入金の利率計算に不備があった。すぐに修正させたよ」
アルフレッドは、埃にまみれた商会の倉庫で、エリッサが指差す荷物の整理に汗を流していた。
その姿は、かつて執務室の机に埃一つあるだけで激昂していた神経質な男とは思えない。
(この人、毎日私の元に通ってるけど、政務は大丈夫なのかしら……)
エリッサはふと不安に思ったが、腐ってもランドール伯爵は名門なので、屋敷で働く使用人は有能な者ばかりだ。
主人がいなくとも、彼らがなんとかしているのだろう。
「閣下、そちらの箱は三番の棚です。それと、パンは後で皆でいただきます。今は手が離せませんので、そこに置いておいてくださいな」
「わかった。……あ、エリッサ、少し髪が乱れている。直しても?」
「お断りします。仕事の邪魔ですわ」
冷たくあしらわれても、アルフレッドは落ち込むどころか「今の言い方は、かつての私の三倍は冷たかったな……。だが、それもまた美しい」と、己に課した贖罪を噛みしめるように、恍惚とした表情で頷く始末だった。
季節は巡り、再び三月三十一日がやってきた。
二年前、エリッサが絶望と共に「契約満了」を告げた、あの日だ。
その日の夜。
アルフレッドは下町の小さな広場で、エリッサの仕事が終わるのを待っていた。
かつての豪華な夜会服ではなく、動きやすいが質の良い仕立ての服を着こなした彼は、どこか晴れやかな顔をしていた。
「エリッサ。今日もお疲れ様。このまま一緒に夕食を食べに行かないか。王室御用達のレストランの予約が取れたんだ」
アルフレッドは、彼女の前に恭しく跪いた。
かつて彼女を「備品」と呼び、見下していた男が、今や衆人環視の広場で、一人の女性に魂を差し出すように。
「……閣下。二年近く、あなたは本当によく働いてくれましたわね。商会の利益も、伯爵家の豊かな人脈と閣下の巧みな交渉術のおかげで、三割も増えましたわ」
エリッサは月明かりの下で彼を見下ろした。
その瞳には、もはや「無」の冷たさも、かつての「怯え」もない。
あるのは、一人の対等な人間を見るような、どこか余裕のある光だ。
「……あなたが私に尽くしたのは、一年と半分。私が尽くした三年には、まだ足りていないけれど。この分なら、収支が合いそうね」
エリッサは火傷の痕のある自分の指を見つめた。
何を見ているのか悟ったらしく、アルフレッドはびくりと肩を震わせた。
心底申し訳なさそうに項垂れるその姿は、主人に叱られた犬を連想させる。
「――ふ」
つい、笑みがこぼれてしまう。
「本当に。いまのあなたは別人のようだわ。いえ……本気で改心して、別人になったのね」
「エリッサ……?」
アルフレッドが息を呑む。
エリッサはわざとらしく溜息をついた。
そして、彼の手を、初めて自分から取った。
「……いまのあなたとなら……復縁してあげても、いいわよ」
その言葉が、夜の静寂に溶け込んだ瞬間。
アルフレッドの時が止まった。
彼は数秒間、彫像のように固まった後、全身を震わせ始めた。
「……今、なんと……? 夢ではないのか? 私はまた、君の夫に……」
「ええ。ただし、今度は『対等な契約』ではなく、『あなたが私に一生尽くし続ける』という、非常に不平等な条約になりますけれど。それでもよろしいかしら?」
「ああ……ああ! 望むところだ! むしろ、それ以外に何がある!」
次の瞬間、アルフレッドはなりふり構わず立ち上がり、エリッサを抱き上げた。
かつての彼なら「人前で見苦しい」と一蹴したであろう、情熱的で、みっともないほどの抱擁。
「エリッサ! 愛している、本当に愛しているんだ! 君を二度と離さない、一生、君の足元に跪き続けると誓う!!」
「ちょ……閣下! 苦しいですわ、降ろしてくださいな! 人前で!! 恥ずかしいです!!」
エリッサは顔を真っ赤にしながら、彼の肩をポカポカと叩く。
だが、その表情は、二年前のあの「凪いだ海」とは違う。
困ったように、けれど満ち足りた、心からの「本物の微笑み」だった。
「私の名前を呼んでくれたら降ろそう! どうか、他人行儀に『閣下』と呼ぶのを止めてくれ!」
「ああもう、わかった、わかりましたわ――アルフレッド!」
夜の路地裏に、アルフレッドの歓喜の叫びと、エリッサの明るい笑い声が響き渡った。
かつて氷の彫像のように冷酷だった男は、今や下町の商会に毎日通い詰め、使い走りのようにエリッサの指示を仰いでいた。
「エリッサ、頼まれていた最新の経済誌と、君の好きなパン屋のクロワッサンだ。それと……この書類は、君が指摘した通り、借入金の利率計算に不備があった。すぐに修正させたよ」
アルフレッドは、埃にまみれた商会の倉庫で、エリッサが指差す荷物の整理に汗を流していた。
その姿は、かつて執務室の机に埃一つあるだけで激昂していた神経質な男とは思えない。
(この人、毎日私の元に通ってるけど、政務は大丈夫なのかしら……)
エリッサはふと不安に思ったが、腐ってもランドール伯爵は名門なので、屋敷で働く使用人は有能な者ばかりだ。
主人がいなくとも、彼らがなんとかしているのだろう。
「閣下、そちらの箱は三番の棚です。それと、パンは後で皆でいただきます。今は手が離せませんので、そこに置いておいてくださいな」
「わかった。……あ、エリッサ、少し髪が乱れている。直しても?」
「お断りします。仕事の邪魔ですわ」
冷たくあしらわれても、アルフレッドは落ち込むどころか「今の言い方は、かつての私の三倍は冷たかったな……。だが、それもまた美しい」と、己に課した贖罪を噛みしめるように、恍惚とした表情で頷く始末だった。
季節は巡り、再び三月三十一日がやってきた。
二年前、エリッサが絶望と共に「契約満了」を告げた、あの日だ。
その日の夜。
アルフレッドは下町の小さな広場で、エリッサの仕事が終わるのを待っていた。
かつての豪華な夜会服ではなく、動きやすいが質の良い仕立ての服を着こなした彼は、どこか晴れやかな顔をしていた。
「エリッサ。今日もお疲れ様。このまま一緒に夕食を食べに行かないか。王室御用達のレストランの予約が取れたんだ」
アルフレッドは、彼女の前に恭しく跪いた。
かつて彼女を「備品」と呼び、見下していた男が、今や衆人環視の広場で、一人の女性に魂を差し出すように。
「……閣下。二年近く、あなたは本当によく働いてくれましたわね。商会の利益も、伯爵家の豊かな人脈と閣下の巧みな交渉術のおかげで、三割も増えましたわ」
エリッサは月明かりの下で彼を見下ろした。
その瞳には、もはや「無」の冷たさも、かつての「怯え」もない。
あるのは、一人の対等な人間を見るような、どこか余裕のある光だ。
「……あなたが私に尽くしたのは、一年と半分。私が尽くした三年には、まだ足りていないけれど。この分なら、収支が合いそうね」
エリッサは火傷の痕のある自分の指を見つめた。
何を見ているのか悟ったらしく、アルフレッドはびくりと肩を震わせた。
心底申し訳なさそうに項垂れるその姿は、主人に叱られた犬を連想させる。
「――ふ」
つい、笑みがこぼれてしまう。
「本当に。いまのあなたは別人のようだわ。いえ……本気で改心して、別人になったのね」
「エリッサ……?」
アルフレッドが息を呑む。
エリッサはわざとらしく溜息をついた。
そして、彼の手を、初めて自分から取った。
「……いまのあなたとなら……復縁してあげても、いいわよ」
その言葉が、夜の静寂に溶け込んだ瞬間。
アルフレッドの時が止まった。
彼は数秒間、彫像のように固まった後、全身を震わせ始めた。
「……今、なんと……? 夢ではないのか? 私はまた、君の夫に……」
「ええ。ただし、今度は『対等な契約』ではなく、『あなたが私に一生尽くし続ける』という、非常に不平等な条約になりますけれど。それでもよろしいかしら?」
「ああ……ああ! 望むところだ! むしろ、それ以外に何がある!」
次の瞬間、アルフレッドはなりふり構わず立ち上がり、エリッサを抱き上げた。
かつての彼なら「人前で見苦しい」と一蹴したであろう、情熱的で、みっともないほどの抱擁。
「エリッサ! 愛している、本当に愛しているんだ! 君を二度と離さない、一生、君の足元に跪き続けると誓う!!」
「ちょ……閣下! 苦しいですわ、降ろしてくださいな! 人前で!! 恥ずかしいです!!」
エリッサは顔を真っ赤にしながら、彼の肩をポカポカと叩く。
だが、その表情は、二年前のあの「凪いだ海」とは違う。
困ったように、けれど満ち足りた、心からの「本物の微笑み」だった。
「私の名前を呼んでくれたら降ろそう! どうか、他人行儀に『閣下』と呼ぶのを止めてくれ!」
「ああもう、わかった、わかりましたわ――アルフレッド!」
夜の路地裏に、アルフレッドの歓喜の叫びと、エリッサの明るい笑い声が響き渡った。
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