愛がない異世界でも生きるしかない

夕露

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第二章:変わる、代わる

118.「今日で最後ですね」

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朝起きてぼおっと部屋を眺める。なにも考えたくないのに静かな時間が苦しくて……思い出すたくさんの出来事が感情を揺さぶってうまく息もできない。こういうときは走って気分を切り替えていたのに着替えるのさえしんどいと思うほど追い込まれている。
──今日は、ヤトラさんと最後の日。
一緒に昼食をとりましょうと微笑んだ顔を思い出して梓は俯く。口元だけ笑みを作ることに成功した心配そうな顔だった。ここ最近のことも思い出してしまえば申し訳なさで涙が浮かぶ。ヤトラはみるからに様子がおかしい梓になにがあったのかと気をもみ懸命に慰めようとしたが、梓は『大丈夫です』としか答えられずまともな会話は一切なかった。
ヤトラは問いかけをやめてただそっと梓の傍にいるようになったが、ひとりのほうがいいと思ったのだろう。姿をみせることも少なくなった。
──ヤトラさんは聞いたら答えてくれるんだろうな。
考えて、梓は嗤ってしまう。酷いことを当たり前に考えるようになってしまった。
『話してよ!』
ルールのことを知っているのにルトに答えさせてしまった。ルトは生きているのだろうか。ルールは効かなかったのだろうか。その答えを確認することさえ、怖い。
──あんな人の心配してるんじゃない。殺したかもしれないのが怖いってだけだから。
同じ問答を何度繰り返しただろう。神が降臨した日まで聖騎士だったルト。それまでの間この城の人間が神子にしてきたこと。
『……勿体ない。これがひとつの結論だ。恵みの力を知っている彼らは死した神子を再利用したらしい』
ルトは自分がしたとは言っていなかった。だが、罪滅ぼしだと言っている。
『お前が大事に想う者に囲われて生きていけばいいものを……暴いて楽しいか?』
自己満足で秘密を荒らしたあげく後悔する自分が救えない。無神経な自分が許せなくて、傷ついて泣いてしまう自分も許せない。


「樹様、こんにちは」
「こんにちは」


最後の日だというのに、今日もうまく微笑むことができない。
片付けた机の上にランチョンマット。グラスに赤ワインを注いでポットに甘い香り漂うジャムティーを用意する。切り分けられるパンはドライフルーツが入っていて美味しそうだ。ヤトラは天気の話や訓練の話に魔法の話ととりとめもない会話をして梓は静かにうなずきながら紅茶を飲む。
いつものように甘酸っぱくて美味しい紅茶。それなのに口にした瞬間の幸せを思い出せない。梓との普段を続けようとしてくれているヤトラに合わせる顔がなくて窓の外を見れば晴れ渡る青空。眩しくて綺麗で……美しい光景広がる夢を見たいと思ってしまった。
そんな横顔を見つけたヤトラは微笑み、俯く。

「今日で最後ですね。樹様、ありがとうございました」

食事の片づけが終わりにさしかかったときヤトラが声をかけてきて梓ははっとする。手を濡らす水に自分が食器を洗っていたことを思い出して、微笑むヤトラの青い瞳に動揺して顔を背ける。

「いえそんな……最後、こんな感じになってしまってすみません」
「誰だってそういうときはありますよ。いつも理想の自分なんて無理ですしね」

穏やかな声にまたヤトラを見てしまう。隣に立って食器を拭き始めたヤトラは一度だけ梓を見て微笑んだ。カチャカチャ、音が鳴る。梓も視線を戻して次の食器を洗い始めて。

「ヤトラさんは怒ったり人を恨んだり……自分が怖くなるほど残酷になったりしたことってありますか?」
「ええ、もちろん。そのうえ不甲斐ない自分に落ち込むことは毎日ですしね」

消え入りそうな問いかけを吹き飛ばすあっけらかんとした答えに梓は手を止めてしまう。そんな梓を笑うヤトラの声が部屋に響いて、なぜだか不思議な気持ちになった。先ほどとは違い、声がすんなりとでてくる。

「不甲斐ない?ヤトラさんが?」
「ええ。私はいろいろな理想を持っているんですがどれもいまの自分と比べるとあまりに違っていて私は本当にこれでいいのかと思ってしまいます。理想が高すぎるのかもしれませんね」
「理想ってどんな理想ですか?」
「そうですね。私はヴィラ様のように魔法を使わずとも魔物を倒せるようになりたいですし、周りの人を助けられる力をつけたい。それに落ち込む人をスマートに慰められるようになりたいですね。ふふっ、でもいまの私はこう言えばあなたが申し訳なさそうにするのが分かっているのに言ってしまうような不甲斐ない奴なんです」

最後の食器を棚に戻したヤトラは手を拭きもせず動かない梓の手をとる。タオルで拭きながら触れる肌は冷たい。

「元気がない日だって人を許せない日だって自分に絶望してしまう日だって……どんな日だってあります。ですが残念で喜ばしいことに時間は進みます。夜になり朝になりまた新しい日はやってくるんです。これからさき私たちは死ぬまで理想とはほどとおい自分にうんざりしつつも生きていくんです……だからたまには、そんな自分でいい日も作ってあげましょうよ。そんな自分を許してくれる一番身近な存在は、やっぱり、自分自身なんですから」

なにがあったのかとヤトラはもう聞かなかったし、梓も言いはしなかった。それでも相手のことを考えてどうにか力になろうとする想いは優しく耳に届いていく。言葉が辛いだけのものじゃなくなっていく。

「っ」

声を堪えてぼたぼた涙を流す梓は見ていて痛々しい。ヤトラは梓の頭を撫でながら感じる不甲斐なさに眉を下げる。理由が知りたかった。できることなら力を貸して悩みを解決してあげたかった。泣いてまで苦しむ感情を楽にしてあげたかった。
──聞けない。
それなのになにもできなくてただ泣かせるしかできない。なにを見たのかハッとしたように顔を上げた梓に気の利いたこともいえず赤くなった目元をタオルで拭うしかできない。濡れた髪が頬に張りついている。涙はふいてもふいても止まらない。

「なんで、あ」

戸惑いの声をあげる梓はなにを思ったのかヤトラの手を確認するように触れた。不甲斐ない。肌を撫でた冷たい手に胸がざわつく。タオルが落ちて、もう涙も拭えない。

「私のせいだ」
「樹様?」

思わず樹を呼べば、見上げてくるのは傷つき後悔にそまった表情。

「まりょ、魔力がほとんどない。魔物討伐だって行ってたはずなのに」

どうして分かったのか青ざめる梓は確信していて、また、傷ついている。
ヤトラは崩れ落ちそうになる梓の腕をつかんで必死に訴えた。

「先ほども言ったように私は魔法を使わず魔物を倒せるようになりたいんです。訓練の一環でいろいろ挑戦していたところだったんですよ」

ヤトラの神子にあたる梓と距離をおいたことで十分に魔力が回復できていなかったのは事実だ。けれど理想のための訓練にもなるしヤトラとしてはなんの問題にもならなかったことだ。けれどそれが梓を傷つけるとなったら話は別だ。

「私には魔力しか価値がないのに」

聞き捨てならない言葉に耳を疑えばくしゃりと歪む顔。ごめんなさいと唇が呟いて、小さな冷たい手が伸びてくる。頬に触れた手にゾクリと身体が震える。弱い力。それなのに抗えなくてヤトラはかがんでしまう。茶色の瞳が見えなくなって、ヤトラも目を閉じてしまって……唇に触れる柔らかい感触はなんだろう。近くに梓の体温を感じる。冷たく感じた手がいまではここちいい。声が漏れて、目を開ければ泣く瞳を見つける。大きく高鳴る胸はなんて場違いなんだろうか。
小さな音を鳴らして離れたのは唇だ。ヤトラは呆然と間近に見える梓を見つめ返す。

「ごめ、なさ……こんなことぐらいしか、できない」

梓がなにを言っているのかヤトラには分からない。魔力は恵みではあるが神子が、梓が聖騎士たちにあげなければならないものではないのだ。それなのに魔力しか価値がないと泣いていて。

「なにを言っているんですか……っ。樹様、それはあなたを貶めることにはなりません。魔力しか価値がないだなんてありえない。それにこんなことだなんて言わないでください。こんなことだなんて……あなたが傷つき泣いて身を削る必要がどこにあるんですか。それにこれはこんなこととは言えません」

動揺のあまり言わなくてもいいことまで言ってしまったヤトラは不甲斐ないと項垂れる。大人のような余裕をもった言動をとれるようになったらいい。女性を泣かせることなく笑わせることのできるような男に、頼ってもらえるような男になれたらいい。傷つき、投げやりになっている女性を突き放して冷静になれと諭せるようになれたらいい。

「ヤトラさん」

それなのに、自分の名前を呼ぶ唇にどんどん顔が熱くなっていくのがわかる。混乱のなか舞い上がるような嬉しさがそのまま心臓を脈打ってじわりと変な汗をかいてしまう。

「死なないで……だから」

頬を撫でた指。
それだけでもう身体は魔法にかかったように動いてしまった。触れる唇。柔らかい感触に沈めば甘酸っぱい苺を感じた。ハッとして目を開ければ驚いた瞳が逸れて梓が離れていく。

「あ」

梓の腕を掴んだのはヤトラ……逃げなかったのは梓。おそるおそる梓に伸びた手は先ほど梓がしたように頬に触れた。あまりにもそっと触れるヤトラの手に梓はたまらず目を閉じてしまい、怖気づいた手が離れてしまう。
頬に触れることが難しい。目を見返すだけのことが難しい。小さな身体を抱きしめることはとんでもなく難しかった。

「ん」

ようやく重ねることのできた唇に緊張が解けて声が漏れる。呼吸も難しくて、濡れた感触になにかを考えることも難しい。ヤトラの唇に触れた舌を真似れば逃げてしまう。それを追いかけて、足りなくて、もっと欲しくなって。
……涎が口から落ちて喉を濡らす。ヤトラの熱が移ったのか梓の顔も赤くなっていて涙残る肌は──触れたい。思うよりさきに梓の頬を撫でていた自分の指にヤトラは我に返る。
それなのに、ああ、なんて──不甲斐ない。
ヤトラは梓を抱きしめ、唇を重ねた。







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