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第二章:変わる、代わる
117.「ゆるせない」
しおりを挟む高校の休み時間、彼氏がそっけないと人目も憚らず泣くクラスメイトを見て梓は耳を疑っていた。なにをそんなことで泣くのかと思い、自分には関係のないことだと思った。高校を出て始まる一人暮らしのことで頭のなかは不安と希望でいっぱいだったのだ。
『沢山恋しな』
そう言って笑った母の顔を思い出して梓は眉を寄せる。この世界にきて理解出来なかった恋をした。話して、触れて、欲しくなって……キスどころか互いの肌に触れて将来を語った。想像していた理想と違えど梓が手を伸ばしたのは事実だ。
――なのに私は1人だけを選ばなかった。
この世界ではなんの問題もなくむしろ推奨されていることとはいえ複数の人を愛するという行為は裏切りに思えてしまう。誰とでもキスをし、身体を許し、その声に肌に体温に鼓動が早くなるのは許されるものではないはずだ。
『なら俺が許そう』
ヴィラはそう言ったが、それに甘えて他の誰かと過ごす時間を本当はどう思っているのだろう。考えれば考えるだけ醜い自分に恥ずかしさを覚えて怖くなってしまう。
――ヴィラさんたちは命を賭けて魔物と戦ってるのになに呑気なこと考えてるんだろう。
――いま、なにしてるの?誰かと一緒……?
自分をふりまわす感情に恋なんて知らなければよかったと後悔してしまう。なんでもないことが気になって馬鹿らしいと思ったことを考え続けて悩んでしまう。
――こんなんじゃ駄目だ。ここで生きていくなら見て見ぬふりしたままじゃ駄目。
机のなかにある指輪を手にとって梓は覚悟を決める。指輪がときどき白くなっていたことには気がついていた。ルトが少ない魔力を使って連絡しているのが分かっても応えられなかったのは怖くてたまらなかったからだ。
『お前も──樹も満たされる感覚があるのか?』
間近にみた顔はうっすらと赤く、髪は乱れ、吐息は熱に帯びていた。鼓膜震わせた声に胸まで震えて目を閉じてしまったのは。
――あれはきっと私も魔力を消費していて、それで、だから……満たされただけ。
梓は目を閉じる。何度も自分に言い聞かせたことも、ここに来るまでに少なくない勇気を必要としたことも、すべて気がつかないふりをする。
「ルトさん」
「……久しぶりだな」
以前にもしたやりとりのあと伸びてきた手が梓の腕に触れる。まるで掴まえるかのような動作にドキリとして顔をあげればルトは自分の手を見て眉を寄せていた。じっと見続けていれば黒い瞳と視線が絡んで、腕にあった力が和らぐ。首に触れた手にはっとして、近くに見えた瞳に声を失って――梓は手を伸ばす。
「どういう意味か聞いたほうがいいか?」
口づけを拒否する梓に落ちてくる声はずいぶんと不機嫌だ。前回会ったとき道具を作ってもらう代わりに魔力を渡すと申し出ておきながらこの態度だ。連絡をとろうとしなかったことも考えれば梓に落ち度がある。
「12年前のことで確認したいことがあるんです。ルールにひっかかるなら答えなくていいので……お願いします」
「それだとお前がどんな質問しようがすべてあてはまる」
「っ、やめっ」
簡単に手を引き剥がされて梓は顔を逸らす。
唇かたがわつりあげて笑みを作るルトは樹と口にして、梓は顔をくしゃりと歪めた。
「道具を作ってって言ったのは私ですがどうしても知っておきたいんです。聖騎士の任を解かれたのは神が降臨した日なんですよね?たくさんの人が、王様も死んだ日で……」
「言え」
「私はどうしたらいいんですか?言えっていうけど答えられないじゃないですか」
梓がなにを聞きたいのかルトは分かっているのだろう。慎重に言葉を選んで話すふだんの梓とはかけ離れているのになにも聞きはしない。泣きそうな顔に嬉しく感じる場違いな自分を嗤うだけだ。
「俺は自分でなにもせず最初から人に頼るような奴には虫唾が走る」
詰りながらも梓を引き寄せた腕はそのまま梓を抱きしめて離さない。呼吸をすぐ近くに感じる。ドクドクと脈打つ心臓はなにを誤解しているのだろう。冷たい外気もはいってくる暗い店内は以前とまるで違う。
外で待つ兵士に異変を感じさせてはいけないのに、喉を震わせるのは堪えきれない言葉だ。
「私はルールに引っかからないようにしたいんですっ……」
「人から聞いた話を盲信して考えもしない奴は特に嫌いだ」
「私だって考えて」
「ああ、お前は聞くこともしなかったな」
「聞いてるもん、でも答えてくれなっ」
自分の声が震えていることに気がついて言葉が続けられなくなる。
――駄々をこねて馬鹿みたいだ。それでもルトさんならなにか抜け道を考えてくれて助けてくれるんじゃないかって思って。
覚悟を決めたものの心の隅で抱いていた希望が消えていく。それはこの先を考えると足元が真っ暗になるような不安を連れてきて子供な梓を嗤いはじめる。
「多くの者が隠してきたことを暴こうとするわりにお前は無傷でいたいらしい」
追い打ちかける言葉は自覚していたことだ。
分からない。
知らない。
知りたくない。
どうすればいいんだろう。
自分の気持ちも揺れて定まりきらないのに人の秘密に土足で入ろうとしている。
「知りたいなら言え。前にも言っただろう、これは俺の罪滅ぼしだ……許されたいとは思っていないがな」
罪滅ぼし。
許し。
──分からない。ルトさんは本当に……?
嘘だと否定するように頭をふる梓はルトがそうじゃないと願っているのだろう。それが分かってルトは悲しげに微笑んだが、すぐにその表情を消した。まばたきひとつ。ルトは暗い笑みを浮かべ、低い声で吐き捨てた。
「向き合いたい、だったか?そのわりに随分安全な場所でリスクも取らず人の傷をえぐってくる」
「っ」
向き合いたい人。
ヴィラたちのことを口にされてなぜこうも感情が揺さぶられるのだろう。かっとなって服を握りしめる手は怒りを覚えてしまっている。
「ルールがあるからっ」
「お前は縛られていないのに勝手に縛られたがる」
「聞いたら死んじゃうんでしょ!?」
「お前が暴こうとしているものなんてとうに見当がついているだろう」
淡々とした声に梓は呼吸を忘れる。それを否定してくれないのは何故だろう。恐怖で強ばる身体から落ちた涙が床にシミを作る。
「彼女はまだ城にいるんだろうな」
彼女。
それだけで誰のことを言っているのか分かってしまう。
「お前は知ってどうする。お前が大事に想う者に囲われて生きていけばいいものを……暴いて楽しいか?」
「違う、やめて」
「言え」
「やめっ」
抵抗できない力で顔を起こされて乱暴に唇が重ねられる。きつく唇を閉じて抵抗する梓を抱きしめる力は強い。男の力だ。逃げられない。
──許せない。
黒いシミが心に落ちて広がっていく。抱きしめてくる手はなにを知ったのか急に力を緩めた。そして最後には手の感触さえなくなる。梓から離れて唇つり上げたルトはなにを思ったのだろう。
「それとも直接彼女に聞くか?そうだな、それでお前は知りたいことを知って満足したあとにこの国を出ればいい」
「黙って」
「そのときは彼女に言うといい。私は、向き合いたい大事な者ができたとな」
「さい……五月蠅いっ!なんでそんなふうに」
「そいつらと幸せに生きていくんだと」
――幸せに?
その通りだ。これからのことを考えて望むのは結局そういう未来だ。けれど何故こんな言い方をするのだろう。
――うるさい、うるさい。
耳を塞いで走って逃げたくなってしまう。
「お前はもう俺にとって価値がない。結局知っただけになってもいいとは思ったが間違いだった。馬鹿で面倒な神子だと分かっていたのにな」
幻滅したと呟く声に胸がちぎれそうになる。
問いかけの答えによってはもう会わないつもりで、勇気を振り絞ってここまで来た。それなのに目の前に立つルトは冷めた表情で梓を見下ろし溜め息を吐いている。
「人の心を踏み荒らしたことに気がつきもせず考えもせず責任も持たない」
刃のように傷をつけてくる言葉を聞きながら梓は頬に流れる涙を知る。
触れて、口づけを交わしたときのことを思い出してしまうのは何故だろう。どくどくと五月蠅かった心臓が冷え切って泣いているのは何故だろう。
「虫唾が走る」
冷たい声に、傷んだ胸が残酷な気持ちを生んでいく。
──たぶん……たぶんきっと、好きだった。真面目で頑固で扱いづらいし面倒な人。周りが見えなくなるぐらい夢中になっているときの姿は見ていて楽しかった。ズレたことを言うときは頭が痛くなったけどおかしくなってきて、そんなルトさんならではのところが……好きだった。
子供を思わせる謝ってきた顔、顔を真っ赤にしつつ非難に見下ろしてきた顔、樹と呼んで口元に笑みを浮かべた顔。
「お前には魔力しか価値がない」
「話して」
自分の声とは思えない声だ。
──許せない。
駄目だと理性が囁くのに胸に轟く黒い感情が叫んでくる。五月蠅い。うるさい。ウルサイ。きっと言葉を飲み込めばもう言わずに済む。飲み込められる。いい子ちゃん。それなのに、分かっているのに、分かっているから。
「話してよ!神子に許しを想うのはなんで!?言ってよっっ!12年前までなにがあったの?!神子になにをしたの!!言って!!!」
――麗巳さん。
窓の外を眺めながら紅茶を飲む姿を思い出す。
『よくそんな質問を私に出来たわね?』
なんて、無神経な。
――許せない。
顔を覆う梓に落ちてくるのは無慈悲な言葉たち。
「神子の価値は計り知れない。人の災厄魔物を殺すことができる魔法は神なる技だ。その源である魔力を多く宿す神子は神から遣わされたものとして大事にされてきたそうだ。だが、恵みも慣れれば出来事になる。そのうえ神子はいつしか死んでしまう。限りがあるというのに魔物は絶えることなく生まれ人々の生活を脅かした。神子をどう使えばいいだろう。神子だけでは足りない」
神子は道具だ。
冷めた気持ちで神子のことを考えていた瞬間が遠い昔のように感じる。
『おめでたい話だ』
最初から分かっていた話だ。
「……勿体ない。これがひとつの結論だ。恵みの力を知っている彼らは死した神子を再利用したらしい」
「再利用……」
「死した神子を食して魔力を得ていた」
自身の手を見たルトは怯える梓に続ける。
「魔力は近くにいる者に移る。それよりも口づけが、それよりも身体を重ねたほうが……神子自身が魔力そのものになっている。それなら直接その身を食べるのがいいだろう」
……例えば、例えばだ。
梓は必死で声を堪えながらあとずさる。顔を隠すように黒いストールを巻いて首を振って何度も否定する。ルトはそんな梓を表情もなく見下ろすだけで。
「子が出来るのなら、それもいい」
……閉じ込めて慰み者にでもしたほうがもっと都合がいい。
『やめっ』
夢のなか見た伸びてくる男の手を思い出す。手をおさえつけて服に伸びてきた手が――
「っ」
とうとう耐えきれなくて梓はルトに背を向ける。
流れて止まらない涙はなんだろう。喉を焼く怒りと自己嫌悪は気持ちの悪い感情ばかり連れてきて。
部屋に戻った梓はぼおっと部屋を見渡して、うずくまる。
「ゆるせない」
ポツリと呟いた声が、妙に耳に残った。
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