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第二章:変わる、代わる
153.「──テイル……私の」
しおりを挟むテイルは梓を見るだけで動こうとはしなかった。一歩、一歩──ゆっくりと歩み寄る梓が立ち止まったときさでさえ、テイルは動かない。できあがった空間はまるで2人を表しているようで、梓は微笑むことに失敗した。
「……来てくれてありがとう、テイル」
「莉瀬から聞いた。俺に話したいことがあんだって?」
梓と違い口早に話すテイルは目が合うと嗤った。暖炉のまえで口づけあった時間が遠い昔のようだ。
『俺は、お前が欲しい。いま、すぐに──お前はどうなんだ』
そう尋ねてきた顔も、声も、温もりも思い出せる。テイルを望んだあのときの気持ちも、本心だった。
「シェントを夫にしたんだってな」
淡々とした声に、梓も同じ表情をしてしまう。テイルにも話が届いているのなら、他の人も聞いているだろう。予想はしていたことだが、やはり心臓が嫌な音を立てて自己嫌悪に息が苦しくなる。
けれど、決めたことだ。
梓は短く息を吐いたあと、ひとつ深呼吸をする。閉じた目はテイルをまた映して、梓の様子を見て一瞬手を動かしたテイルは梓を見て苦く笑った。
(なんだよ)
まるで必要ないとばかりに気を持ち直した梓の姿は、最後に見たときとまるで違った。
『傷つけてごめんなさい──好きって言ってくれたのに』
言うつもりがなかった言葉にそう返したとき泣いていたくせに、いまは手を伸ばしても触れない距離でまっすぐにテイルを見上げている。
神子としても樹としてもこの世界に来てからずっと望まれて、向けられる感情に戸惑いつつも必死に順応しようとしていた。落ち込んだり痛い目にあったりしても、我関せずでい続けなかったのはこの世界で生きていくためだ。だからこそ、もがいた先で決めたことなのだから、尊重すべきであって非難することではないはずだ──分かってる。そもそも、この世界で生きていくというのなら複数の夫をもつべきだ。愛だの恋だのおいてとりあえずでもいい。安全を優先すべきで、奪われるぐらいなら、とも思う──分かってる。
(分かってる)
それでも頭に刻みついた記憶がしつこく訴えかけてくる。口づけたときの時間を、触れなくなった瞬間のことを、また触れることができた瞬間を……この手に抱いたときのことを。女々しいと思いつつも離れないもしもが囁いてくる。なんで、なんで。
「……俺だけ見ろよ」
傷つけると分かっても言ってしまう。傷ついて、それでまたいつものように悩めばいい。どうすればいいか悩んで、また、歩み寄ってくれたらいい。
「お前が望んでくれたらこの国を出ることだって……お前の神子の力も使えば魔物が住む森でだって生きていくことはできた──できる。俺が言ったことは変わらない。お前が好きだ」
折れてほしい。
つけこむ余地をくれたら、今度はもっと。
「ありがとう……でもごめんなさい。私はもうテイルだけを見れない。この世界で生きていくのに、あの人がいないことはもう考えられないの」
それなのに目の前の女は眉を下げながらも微笑んで、はっきりと拒絶する。
なんで。
『あの女はシェントさんが大好きって言っているのよっ?』
そう叫んで泣いた莉瀬の言葉が追い打ちかけてきて最悪な気分だ。
(俺は駄目でシェントならいいのか)
反吐がでそうだ。
『好きが人に向かったものを好きな人って言って、一緒にいたいとか自分をみてほしいとか思うの』
思い出す言葉に嗤うしかない。彼氏彼女とやらにはなれたが、それまでだったということらしい。
(夫には望まれなかった)
最悪だ。今までどおり捨ててしまえばいいだけなのに、それができない。力づくで奪っても意味がない。
(分かってる。俺がしくじっただけだ)
複数の夫という事実を受け入れて、だからテイルを受け入れたのに、当の本人がそれを嫌がって終わりにしてしまっただけ。
分かってる──もっとうまくやれば──我を忘れて欲に溺れなかったら──シェントのように俺しかいないって思わせればよかった──それから自分で望ませたらよかった。
何度したか分からない後悔が渦巻いて、もう嗤うしかない。あんなにもこの腕のなか乱れてテイルの名前を呼んだ女は他の男を受け入れてそいつを選んだのだ。
(それまでは俺が)
そう思うも、それもただの妄想のような気がしてくる。なにせ梓を手に入れたと思ったあの時間、テイルは自分の背に梓の手がまわった記憶がない。
『テイルッ!?え、やっ!やあ!まってやだあっ!』
『やだ、テイルもうやめ』
ずっと止めてと言っていた。
『私の言葉を聞いてくれないんだったら、言っても届かないんだったら……最初から聞く気がないんなら私じゃなくていいじゃん!』
身体だけじゃなくてこいつが欲しいって分かったはずだったのに。
『……いってらっしゃい。気をつけて』
ただ、あの時間が欲しかっただけなのに。
「──テイル……私の夫の1人になってほしい、です」
(夫?)
突然耳に届いた言葉に、頭を殴られたような錯覚に陥る。話を続けていたのは分かっていたが、聞いていなかったせいで脈絡なく感じる。なにより、信じられなかった。
最悪だ。
抑制できない感情のままみっともなく詰め寄って、言い逃れができない言葉を連ねて泣かせたくなる。
「……は?」
シェントを夫として望んだくせに?ああそうか、俺が嫌がっただけでこの世界で生きていくため受け入れたんだっけか。それで、次は俺?
最悪だ──最悪な気分だ。
「これからさきシェントがいない人生は考えられないって言っておきながら、他も必要ってか?」
「……そうだよ。そのために必要」
「へえ?お前らが幸せに暮らすための護衛をご所望ってか。夫なんて名ばかりの?俺になんのメリットがある」
恥知らずなことも、自分勝手なことも、最低なことも十分に分かっている。
梓は逃げだしたい衝動を意地でもこらえてテイルの視線を受け止める。暗く沈んでいたテイルの声に怒りが混じった。
(当たり前だ)
自分で言っておきながらも、梓にはテイルの気持ちが痛いほど分かって謝りたくなった。
『梓は夫を考える男は他にいますか?』
シェントにそう聞かれたとき、そんなことを言わず、私だけをと望んでほしかった。もしそんな相手に──シェントに、気持ちは受け取れないけれど妻の1人になってほしいと言われたら。
梓は喉元まででかかった言葉を飲み込む。
「私が渡せるのは魔力と私自身……それしかない」
「それに俺がメリットを感じるって?」
「……その価値を決めるのは私じゃない」
憎たらしくて、したたかな女。
もう折れてもくれず、悩んで逃げてもくれない。
舌打ちしたテイルはそのまま梓に手を伸ばした。足りない距離はたった一歩前に進めば簡単に埋まって、それだけで梓は腕のなかにおさまった。ああでも、小さな手は背中にまわりはしない。それなのに、俯いていた顔に手をそわせれば触れることができて、そのまま自分のほうを向いてもくれる。白い息は梓の唇に触れて。
「傭兵でも雇えばいい」
冷たく言い切れば、茶色の瞳が歪んだ。
それなのにまだ触れて、まだ、手放せない。
「もしかしたらそれが1番かもしれないけど……でも、選べるのなら……あなたがいいって思った」
もう嬉しいのか悔しいのか分からない。分かりたくもない。
俺だけじゃないくせに。
ただそれだけが、女々しく残り続ける。
「私は神子の召喚をなくしたいし、なくすために動いてる。だから夫として一緒にいてくれる人はできるだけ信頼できる人がいいし、自衛できる人がいいし……あとは単純に、私の好き嫌い。……デメリットのほうが大きいと思うから断ってくれても大丈夫。他にも声をかけようと思って」
続けようとした言葉が、奪われる。
突然の口づけに梓は瞬いて、けれど冷たい唇の感触に、濡れた舌の熱さに涙がでそうになった。痛みを覚えるほど抱きしめてくる手に胸が苦しくなって──ああ、最低だ。
口づけを返しながら、それでも脳裏をよぎったのはシェントのことだ。
最悪だ。
テイルは万が一を考えて根回ししていた自分よりも、口づけを受け入れる梓に心底安心してしまった自分が滑稽で──もう、無理なのだと分かってしまった。
言葉が通じなくなったらいい。五月蠅い言葉はさらに最悪な話を持ち込んできてたまらなくなる。
(他?誰だ。このうえ他にも探すのか)
理性で分かることが分かりたくなくて、頷けば梓が手に入ると分かっていても素直に頷けない。
(もう、俺だけのものにならない)
悔しい。嫌で……許せない。
息が苦しくなるほどの感情が、頷かせてくれない。頷きたくもない。
それなのに。
離れた唇をつなぐ涎がぷつりと消えて、白い息が風に消えた。
梓の身体を止めていた痛いほどの力がなくなって、黒い髪の隙間から見えていた緑色の瞳は瞼のしたに隠れてしまった。背中から腕につたった冷たい手が、最後に梓の指先を撫でて。
「──受け入れてくれませんか?」
静かに問いかける梓は、この世界に来た最初によく見せていた微笑を浮かべていた。穏やかな微笑を作って、じっと、相手を見て、ただ待つのだ。相手がなにも選ばなければそのまま流して、ただ、待って。
「話は済んだだろ」
触れていた指先が離れる。
梓を置いて歩き出したテイルはもう何も言わずそのまま歩き続けて、梓はその姿を見ることなく、ただ遠ざかっていく足音を聞いていた。
冷たい風。
ついに音は消えて広場に立っているのは梓だけになった。
「う、ぅ゛……っ、うぁ」
漏れる嗚咽を手でおさえながら梓は1人泣き続ける。
(よかった)
そう思って、また自己嫌悪する。いい子ちゃんぶらず泣けばよかったと、泣いてテイルがいいと言えばよかった。複数の夫が必要なら、よく分からないこの世界の人よりもテイルがよかった──保身だ。もう、怖いことも、怖い人も嫌なのだ。どうせ怖い思いをするのなら、テイルがよかった。テイルに夫になってほしかった。最低だ。
ああでもやっぱり。
(テイルに泣いているところを見られずにすんで、よかった)
泣けば折れてくれたかもしれない。
それでも、それを理由に決めてほしくはなかった。ちゃんと微笑むことができただろうか。ちゃんといつもどおり、憎たらしいほどに可愛くないすました顔で話せただろうか。
「うう」
濡れる頬を凍らせる風は、止まない。
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