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第二章:変わる、代わる
173.この気持ちを、
しおりを挟むこの気持ちを、なんといえばいいのだろう。
五月蠅く動く心臓も、足も、間違いなく期待を持っていた。ドアに伸ばした手は、ようやくの瞬間に五月蠅い音を立ててしまっている。開いていくドアはいつも不愉快に感じていた眩しすぎる部屋を輝かしい場所に感じさせた。
黒い髪。
小さな背中。
この気持ちをなんといえばいいのだろう。
冷たい風を足に感じて、立ち止まってしまっている自分に気がつく。眩しすぎる部屋。背中を向けて座る女の肩が少し動いた──気がついている。それでも、女は振り返らない。
「樹」
呼びかければ、緊張したように息を吐く姿。
ようやく顔を見せた女は微笑んでいて。
「お久しぶりです、ヴィラさん」
明確な拒絶を浮かべていた。
「──さようなら」
迂闊なことを言わず気を許す気もなくなったというのなら、どうしたらいいだろう。
ああ、けれど、神子として命令を下せばいいものを、できない可愛い女だ。
なにせ安全な場所から少し離れただけで、女は表情を変えた。灯りに照らされて見える女の顔は驚きから恐怖に歪ませて俺を見上げる。
俺の神子──俺の。
可愛い女。
+++
花の間へ続く道を塞いでいるのは意図的だろう。
梓は見下ろしてくるヴィラに微笑み返すことが出来ず、一歩後ろに下がってしまう。
「話の続き、ですか?」
上擦った声に気がついたヴィラの目元が更に弧を描く。
どの話なのか聞かなくても分かっていたが、考える時間がほしかった。
どうしたらこの場から逃げられるだろう。
いつか来るかもしれないこの状況を予想してはいたものの、想定より強く感じる恐怖に驚いて、うまく考えることができない。
いま出来る精一杯のことは、目を離さないようにするぐらいのものだ。
「どうすればお前は俺を受け入れる」
「前も言いましたが、受け入れるというのがあなたを愛することや夫にするということなら、できません」
「平行線だな……お前はシェントを愛しているのか?」
「……はい」
逃げ場のない状態ではっきりというのは躊躇したものの、嘘は吐けなかった。
そんな梓にヴィラは怒りだすどころかこともなげに頷き、穏やかに話を続ける。
「俺はシェントがずっと悩んできたことを知っている。腹に抱えた悩みも……お前と似たようなことを考えていることも知っている。俺は、お前の目的に使えると思うが?」
ドキリとして息を詰める梓にヴィラは満足そうな表情だ。
どうやら花の間で神子の召喚を無くすと宣言したことはたくさんの人に伝わっているらしい。それはしょうがないことだが、シェントも同じ気持ちだと言うことを知っている人は限られているはずだ。それこそ秘密を打ち明けられるような関係性でないと難しいだろう。
麗巳が復讐をした日に生き残った王家の人間。2人とも王位を放棄したといい、この場所にい続ける理由をヴィラに問うたときシェントを残していけなかったと言っていた。そんな間柄で、しかも秘密を共有できるほどの信頼性があるのなら、夫に迎えることはメリットがある。
打算に満ちていようがきっとヴィラはそれで構わないのだろう。それが梓を手に入れるための手段であるのだ。
けれど頬に伸びてきた手に気がついた梓はあからさまに逃げてしまった。自分でも驚いたが、ヴィラの驚きはそれ以上だったらしい。微笑んでいた顔が驚きに、驚いた顔は表情を無くし、理由を探そうとしている。
味方は、必要だ。
危険が伴う目的を受け入れられる人、その危険に立ち向かえる力を持った人、神子の梓という対価に価値を見出す人──
『どうすればお前は俺のものになる』
『お前らが幸せに暮らすための護衛をご所望ってか。夫なんて名ばかりの?俺になんのメリットがある』
──ああ、そうか。
メリットを考えれば取るべき選択は明らかだ。
それでもできないのは、メリットを上回る問題があるからで、それがなにかようやくはっきりと形になる。拒絶しても納得しないヴィラに届くかどうかは分からない。けれど、言わなければならない。
梓はヴィラを見上げた。
「私が愛しているのはシェントさんで、誰かのものになれるのならシェントさんだけのものになりたいんです。あなたのものにはなれなないし、ならない。例え夫の1人にしたとしても、私が愛しているのはシェントさんで、あなただけのものにはなりません」
「……それで構わない、と言っても?」
「あなたはそれを受け入れないないでしょう?だから、私はあなたを受け入れられない」
順番をつけるのなら梓にとっての1番はシェントで、ほかの夫を迎えようとしているのは現実を見据えた目的のためだ。神子であったり梓自身であったりは提供できるが、前提を覆して自分だけを望めというのであれば頷けない。トラブルのもとだ。性格の不一致といった単純な話ではなく、契約の内容がそもそも噛み合っていない。
テイルはそれが分かっていた。だから、それならもういらないと梓を拒絶したのだ。
ヴィラはそれが分かったうえで、それでも梓は自分のものになると、自分のものにすると信じて疑わない。だから愛せないし、夫にもできない。
別れを告げた日と同じ表情をしているヴィラは、まだ諦めもしていないし納得していないようだ。梓が折れるのを待っている。
(これは私の問題だ)
夫を選ぶことはシェントに任せるものでもないし、任せたいことではない。それに差し出す対価が自分自身だ。管理下におかれたくないのなら自分で管理しなければ、選ばなければならない。
『俺のほうがお前よりは知っている。それなら知っているぶんお前に教え、そのあとまたお前に許しを請おう。そのうえでお前は俺を否定するといい』
思い出す言葉に背中を押されるような日が来るとは思わなかった。
困ったことだ。
梓は微笑み切れず、肩を落とす。
「以前、あなたは俺の方がお前よりは知っている、と言っていましたよね。どちらがより知っているかなんてどうでもいいです。ただ……私はいま愛も恋も知って、そのうえでこれから一緒に生きていく夫を探しています。触れたいと思うのはあなたじゃない。触れられても戸惑いのほうが勝る……怖いとさえ思うときもあります」
「……シェントにはチャンスを与え俺に与えないのは随分な話だな」
チャンス。
それはきっと、お互い潰してきたもしもの瞬間だ。
「例えばもし……私があなたと寝たとしても、私もあなたも考えは変わりませんよ」
「試してから言ってみるといい」
不満を抱く子供のような顔を見つけて梓は眉を寄せる。
『今までの神子は愛故に身体を重ねたいのだと言っていた』
愛しているから欲しくなる感情は痛いほど分かるが、ヴィラの言い分と噛み合わない。
もしかしたら白那ではないが一度関係を持ってしまったほうが話は早いのかもしれない。長く時間を過ごすことで沸く情はあるかもしれないが、その関係に至れるまでの保証が心もとない。ヴィラの性格だけでなく自分の言動もこの結果の原因だ。ああやっぱりそれなら。
『梓はもう少し、自分に優しくしたほうがいいわ』
ふと、心配そうな美海たちのことを思い出して、踏みとどまる。
そしてようやく自分が思い詰めていたことに気がついた。投げやりとも思える考えを口にのせていたら、それこそヴィラが待っていた梓が折れる瞬間だっただろう。関係を持ったとしてもその先は見えている。関係を持ったうえで、また同じ問答がつづくだけだ。それこそ本当に、梓が折れてヴィラを夫の1人として迎え入れるときまで──もしかしたら、それはまだ最悪な展開ではないのかもしれない。
言葉を飲み込んだ梓は静かに首を振る。
「いいえ、しません。私とあなたが神子や聖騎士でなかったらという話もしたことがありましたね。もう一度同じ返事をします。私とあなたは神子と聖騎士という前提ありきの関係で、そうでなければ出会っていないだけです。それでもあえて言います。神子でなかったとしても私はあなたを夫として受け入れていないと思います」
「俺も何度でも言おう「いいえ」
伸びてきた手を払いのけて、梓ははっきりと拒絶する。
「私はあなたを夫の1人として一切考えていません。あなたという人柄に素敵なところはありますし、そういう人として関わることはできますが、そこまでです……厭う存在ではないですが、愛してもいません」
「……はっきりと言ってくれる」
「そうですね。あなたみたいな人たちを見習って私もちゃんと言うようにしています」
相手を慮って言葉を濁すといえば聞こえはいいかもしれないが、陰で文句を募らせるのであれば、傷ついてしまうことも傷つけてしまうことも覚悟して踏み込んだほうがいい。
明るく笑い飛ばす友人たちだけでなく、固い表情をしている目の前の人からも教わったことだ。
もしかしたらここまで言っても話が続けられるかもしれないと思ったが、ヴィラはそれきり口を閉ざしてしまった。きっと少し前の自分ならこの沈黙はひどく居心地の悪いものだっただろう。
だが否定しながら酷い言葉を言い続けてきたせいか、沈黙がありがたく感じる。疲労に吐いた息は重くなって、肩は緊張感をなくしてしまう。
いっそ酷い女だと嫌ってくれたらいい。
それでも、できるのなら、ヴィラを厭う存在にしたくはない。
この気持ちをなんといえばいいのだろう。
こんな状況でもこんなことを考える女に執着する理由が分からない。
たらればの話に限りはないが、それでも、ヴィラが考えるもしもも、もしかしたらタイミングを間違えなければあったかもしれない。もしかしたら、想像するよりもっと穏やかな未来かもしれない。愛していたかもしれない。
それでも、夫という関係を望むヴィラを受け入れられないから、はっきりと拒絶するしかなくて。
この気持ちを、なんといえばいいのだろう。
形容しがたい感情のままヴィラを見れば、無表情ながら口を強く結んでなにか堪えているように見えた。なにか葛藤しているものがあるのかもしれない。好きなように言われているのだ。プライドも傷ついたかもしれない。ああそれでも、なんだろう。
梓は心底不思議になって尋ねてみた。
「ヴィラさんの記憶にある私って、どんな表情をしているんですか?」
愛している人、欲しい人。
そんな言葉から連想するシェントの姿はたくさんだ。召喚された日に見た神官としての顔、自嘲した顔、焦った顔、諦めて途方に暮れた顔、暗く落ち込んだ表情、怖い顔──そしてそれ以上に責任を果たそうとする姿、重責を背負いながら捨てようとしない背中、微笑む顔、大笑いした顔、はにかんだ顔、見ているこっちが戸惑うような幸せそうな表情──どの表情も、たくさんの出来事の中にたくさん見てきたものだ。1度見た表情を思い返すまでもなく、間近に見てきた。きっとシェントも同じように思い返してくれるだろう。そう思いあがれるほどの時間を過ごした。
そしてそのなかには、シェントを見て幸せそうに笑う顔もあるはずだ。
重なる沢山の表情や出来事に確信して、だからこそヴィラの執着が理解できない。
「私はあなたの前で幸せを感じたことはありませんが……」
ポツリと、ヴィラに話しかけるというより、独り言のように呟く梓に、ヴィラは愕然とする。
ヴィラを拒絶するため放ってきたどの言葉よりも、痛烈に突き刺さったことを梓は気がつきもしないだろう。心底不思議そうな声だ。
この気持ちを、なんといえばいいのだろう。
記憶にある梓の姿で思い返すものは様々だ。それなのに、どうしてだろう。シェントを見つけたときの梓の表情が、広場でテイルを見たときの梓の表情が、どこにもない。
「あなたはなんでそんな人とずっと一緒にいることになる夫を望むんですか?」
夫にも望まないし、愛してもいない。愛せない。
それ以上の言葉がこの世にあるとは思っていなかったせいか、ヴィラは返事が出来なかった。じっと、逃げることもなくヴィラを見上げてくる眼。純粋な疑問ばかりで、ああ、それも時間が経つにつれて消えていく。それてそのまま──
逃げられる。
そう分かって隣を通り過ぎようとした身体を引き留めようと腕を掴めば、手にある感触にやはりと勇気づけられて──驚きも焦りもない静かな瞳に、ヴィラは今度こそなにも言えなくなった。
「厭う存在にさせないでください」
淡々とした声にいつの間にか手を離していたことに気がついたのは、暗い道を明るく照らす光を見つけたときだ。笑い声が聞こえて、ドアが閉じていく。きっと応接室に残っていたほかの神子と合流した梓はそのまま花の間へと移動しただろう。
そんな想像をしながら残ったまっくらな道のうえヴィラは1人立ち尽くす。光の名残がある目にさきほどずっと見ていた欲しくてたまらない女が映っている。
『ヴィラさんの記憶にある私って、どんな表情をしているんですか?』
どんな表情を。
「俺は」
どんな表情をしていただろう。
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