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第二章:変わる、代わる
185.分からない
しおりを挟む今日はいやに早く目が覚めてしまった。約束の時間までまだあるのに朝食どころか身支度さえ終わってしまい、すっかり手持ち無沙汰だ。
梓は椅子に座って溜め息をつくと、ひとり、静かに窓の外を眺める。葉っぱのない木は寒々しく、揺れる枝は騒がしい。カタカタ、窓が揺れる。
気がつけば召喚されて1年が経った。
変わったことが沢山ある。たくさんの出来事に戸惑って、傷ついて、怒って、泣いて──それだけじゃない幸せや、楽しかったり笑ったりした時間に揺れて、揺れて、今も揺れている。
けれどもう1人の問題ではなくなって後戻りもできない。
チクタク、チクタク。
時計が望む場所に移るまであと1時間。久しぶりに花の間にある本を読んでみるのもいいかもしれない。
そう思いつたら行動は早かった。
「──待たせたようね」
「美海さん、おはようございます。全然待ってませんよ」
「30分も前にここに居るくせに」
美海のもっともな言葉に梓は苦笑いを浮かべるしかない。
本を書架に戻しながら美海を見れば、手が伸びてくる。シルクのグローブ。梓の手を捕まえた美海は楽しそうにニヤリと笑みを浮かべていて白那のようだ。
「私の部屋に案内してあげる」
以前もらった美海からの提案に甘えて、シェントと会う場所を作ってもらったのが今日だ。美海が約束の30分前にも関わらず花の間に来たということは、もう部屋にシェントがいるのだろう。
会いたい、嬉しい。
言わなければならないことがある。
どこか歪んだ笑みを浮かべる梓と違って、友達の恋愛を応援できることに喜んでいる美海は楽しそうだ。顔を消すことなく、自室へ繋がる鍵を使う。
そして開いたドアは見たことのない部屋に繋がった。
整頓されているものの、布や糸と言ったものを中心に裁縫道具がいたるところに置かれている。刺繍に長い時間を費やしてきただけあって、作業部屋のような印象を受ける。トルソーには製作途中らしいドレスが着せられていて、見ているだけで楽しくなってくる部屋だ。
そのなかに居た人を見つけて、梓は笑う。
黒い服に身を包んで姿勢よく立っていた姿は、職人に注文をしにきた貴人のように見えた。
「シェントさん」
「梓」
交流会のときにも顔を合わせて会話ができた。けれど、こうして作れた時間に大袈裟なほど心臓が震える。頭を撫でる大きな手が頬に触れる。黒い瞳は優しく笑って──瞬いたあと、じっと見つめてくる。
ハッとして、梓は美海に視線を移した。
「美海さん、協力してくださってありがとうございます」
「これぐらい別にいいわよ。私が言ったことでもあるし……でもお邪魔なようね」
「美海、この時間を作ってくれたこと感謝します」
「ひぃえっ、け、結構よ!お構いなく!私のことは気にせずお好きなように話してちょうだい!」
シェントに話しかけれらて美海は肩を緊張に縮めると布が積まれた机の後ろに回ってしまった。確かシェントのことが綺麗すぎて苦手といった話をしていた。けれど顔を魔法で消してはいない。以前の女子会でシェントと鉢合わせしたときには動揺のあまり顔を消すのを忘れていたようだし、シェントに限っては顔を見せてもいいとしたのだろうか。
どちらにせよ美海が協力してくれたことは間違いない。梓とシェントは微笑み合うと、この時間をそれだけで終わらせないよう話を切り出した。
「麗巳と会ったんですね」
「はい。事件のこともそれからのことも、麗巳さんが今までしてきたことをぜんぶ聞きました。私、どれだけ時間がかかっても……死ぬまで、神子召喚が無くすために生きていきます」
「はい、私も最大限の協力をします。そのためにアルドア国で行われていたという神子の研究について調査していこうと思います。いまその人員をそろえているところです」
「ウィドさんから話は聞けてるんですね」
「ええ。今回、特にこれといった制限はありませんでしたしね。例の神子の力についても聞いています」
「よかったです。私も神子の力について検証したく、て──シェントさん」
「はい」
「今度、新しい夫を紹介します」
唐突ともいえる梓の発言に、シェントが返事をする前にそう遠くない場所で大きな音が聞こえた。思わずシェントと梓が音のしたほうを見てみれば、床に落ちた布の塊と梓たちを交互に見る美海を見つけた。邪魔をする気はなかったという言葉が声もなく聞こえてくる。
そして顔を真っ赤にして、どうぞどうぞとでも言うように手を前にだしたあと、美海は背中を向けて布を拾い始める。しゃがむ美海にあわせてドレスがふわりと膨らんだ。
その光景に梓達は顔を見合わせると、微笑み合った。そしてどちらからともなく手を繋ぐ。
「分かりました。あなたが選んだ男なら心配していません……ですが、早く会ってみたいですね」
「是非会ってください。シェントさんも知っている人で……ルトさんです」
「っ!ルト……ははっ、なるほどルト……確かにあいつなら大丈夫ですね」
シェントと2人で話しているときには見ない口ぶりは2人の間柄を感じさせた。嬉しそうにも見える笑う顔は本心を口にしたのだろう。もしかしたらあの事件から顔を会わせておらず、懐かしい名前に浮かべた笑顔なのかもしれない。
ルトを夫にしたことに、少しも疑問を抱いていないようだ。ルトなら安心だとも言っている。
信頼してくれていることは分かる。
ああけれど、けれど、そうだ。
これがこの世界では普通のことだ。
「ひと月を過ごす相手じゃなくても城下町に行くことってできますか?」
「ええ、可能です」
「それでしたら予定が合う日にでも行きましょう」
「明日から魔物討伐に行くので、少し遅いですが来週にならまとまった時間が作れます」
「分かりました。ルトさんに連絡を取っておきますね」
シェントが無理なスケジュールを組んでいないか確認しながら、来週顔を会わせることになる2人のことを考えて梓は想像できない光景に首を傾げてしまう。きっとそれなりに気心知れている2人だ。あの店でどんな会話をするのだろう。
通い慣れた店で話す2人──どちらも夫で──やはり、想像できない。
けれど、それでもいいのだ。
その日が来ることは変わらない。
「シェントさん。夫はどれぐらいいたほうがいいと思いますか?目的を果たせる果たせない関係なく、この世界で生きていくためにどれぐらいいたほうが安心できるでしょうか」
「……そうですね、最低でもあと3人は欲しいところですね。あなたは女性というだけでなく神子という点からも狙われる可能性は高いですし、目的のことを考えれば尚更です」
「あと3人……分かりました。思い当る人たちがいるので今度聞いてみます」
割り切っているというには、どこか違う。
けれど眉を寄せて考え込む梓は梓なりに考えているのだろう。以前なら思いもしなかった言葉を口にするまで、きっと泣くまで思い悩んだはずだ。
そんな光景がありありと浮かんで、シェントは微笑みを浮かべながら触れている手を親指でそっと撫でる。
夫についてなにか口出しなんてできようもない。
理性ではその必要性は分かっている。万が一自分が先に死ぬようなことがあったときに、梓を守る存在は必ず必要だ。分かっている。けれど、どんな人がいいか、なんて聞かれたら──
分かっている。
シェントは静かに息を吐くと、笑うのを忘れていた目元を緩ませる。茶色の瞳は気がつかないでいてくれたようだ。
後悔はしない。
自分の欲を優先した結果、梓の安全を守れなくなることの方がよほど恐ろしい。
それなのに。
「シェントさん、私、あなたとの時間が欲しい」
たくさんの感情を飲み込んだ顔をする梓に、心がざわつく。手の甲を撫でる小さな指先。ドクリと脈打った心臓に抗う理由は思いつかなかった。
「私も梓と過ごしたい……叶うなら明日の朝まで」
嬉しそうに頷く姿に、自重していたはずの心は素直に喜んで、考えるより先に梓の手をひいてしまった。美海の部屋に繋がる鍵は空間にしまってある。手元に残る鍵は自分の部屋に繋がるものだけだ。
「美海さん、本当にありがとうございます。私、花の間に戻らないでシェントさんの部屋から直接自分の部屋に戻ります」
「へえっ!え?!ど、どうぞ?え、いいのかしら?それってつまりソウイウ……ああ、そ、そうね!好きにして頂戴!」
顔を真っ赤にしてあたふたとする美海は、微笑み頭をさげるシェントと嬉しそうな梓を見送る。
ぱたんとドアが閉まったあともしばらく動けなかったのは、ついていけないことばかりだったからだろう。この世界の価値観は分かっていたつもりだった。梓の性格も、シェントの人となりも──分からない。
悪い女になると宣言した姿とシェントを求めて受け入れられた瞬間の嬉しそうな表情が、まったく噛み合わない。
梓がシェントを夫に迎えたという話でも驚いたのに、そう間隔をあけずに次の夫の話がでた。ヴィラを突き放し、テイルに振られ、次の夫──例の神子の力。
なにが、どうなっているのだろう。
シェントは神子召喚を梓と一緒に無くそうとしている。麗巳の話が出たことに驚いていたから聞き間違えたのだろうか。
まるで理解が追い付かない。
顔を見た瞬間、表情が変わるぐらい恋しい人を前にして事務的な会話をしていたと思ったら、熱を感じそうなほど互いを見てドアの向こうに消えて行った。
分からない。
美海はひとり、呆然と立ち尽くす。
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