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雪の夜、耳をすまして
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数学の授業が終わり、次の授業は体育だった。いつもと何ひとつ変わらない初夏の日だ。副学級委員の遠藤が、クラスの女子に声をかけた。
「クラスの女子は、更衣室で体育着に着替えて、グラウンドに集合してください」
女子生徒たちが、口々に色々なことを言いあいながら、教室を出ていく。
「おい、素子。グラウンドに集合だってさ」
隣の席の素子に、ぼくは声をかけた。素子とは高二になって、初めて一緒のクラスになったが、何となく気が合って、良く話すようになった。素子は、ぼーっと立ち尽くしている。
「おい、素子!」
素子がぼくに顔を向けた。だけど、その目は虚ろで、ぼくを見ていなかった。表情のない能面のような顔だった。
「素子ってば!」
素子はやっとぼくに気づいたようだ。驚いたように僕の顔を見た。「えっ、何?」
「体育だよ。女子は更衣室だって。なんだ? 具合でも悪いのかい?」
「え、ええ。ちょっと」
青ざめた顔で、素子はうなずいた。
「次の体育は休むわ。悪いけど、神崎くん。先生に言っておいてもらえるかしら。ちょっと保健室へ行ってくるわ」
その日から素子は様子がおかしくなった。おどおどして、何かに怯えているかのようだった。深いため息を何度もついた。
「どうかしたの?」と、ぼくが何度たずねても、
「なんでもない」
素子は首をふるだけだった。けれども、確かに素子は、波のように押し寄せてくる不安に耐えているのだ。すっかり無口になり、思い悩んでいる素子を前に、ぼくも戸惑っていた。
そのまま数日が過ぎた。
「次の授業はプールです。男子も女子も水着に着替えて、プールサイドに集合してください」
副学級委員の遠藤が、今日もまた声をかけた。
「やったー!」
「今日は暑いからなあ」
みんな、ざわめきながら、教室を出ていく。
ぼくは、隣の席の素子に、顔を向けた。素子は、またぼーっと立ち尽くしている。
「おい、素子! プールだってさ!」
ぼくは鋭い声で叫んだ。やはり、素子の目は何も見ていない。ぼくは薄気味悪くなった。
「素子!」
ぼくは素子の両肩をつかんでゆさぶった。素子の身体は力なく揺れた。
「どうしたんだよ! 素子!」
素子は不意をつかれたように「えっ」と声をあげた。
「あ、あの、何?」
「何って、聞こえてなかったのかい?」
「ごめんなさい。何も覚えてないの」
素子はとても申し訳なさそうに、目を伏せた。長いまつ毛に涙がにじんでいる。
「どうして…」
「神崎くん。今日、あなたのうちへ行ってもいいかしら? 私がこうなってしまう訳を話すから」
すがるような目で素子は、そう口にした。
「今からプールなんだよ。体育の授業はどうするの?」
「休むわ…」
か細い声で素子は言った。
うちに着くと、ぼくは素子を自分の部屋に招き入れた。うちは共働きだから、家にはぼくと素子の他、誰もいない。アイスコーヒーの入ったグラスをテーブルに置いて、ぼくと向かいあっても、素子は長い時間うつむいていた。
やがて、素子はためらいがちに、絞り出すような声で語り始めた。「私が施設から高校に通っていることは、知っているでしょう?」
「知っているよ」と、ぼくは答えた。
「前に話していたことがあったね」
「ええ。父親と母親は、私が小さい頃に離婚して、母親も私が小学生の頃に亡くなった。父親は行方不明だし、他に頼れる親戚もなかったから、私は施設に預けられることになったのよ」
「気の毒だとは思うよ」
注意深く、ぼくは言った。ぼくの想像もつかない辛い体験を、素子は重ねてきたのだろう。
「なんて言ってあげたらいいのか、わからない」
「いいのよ。同情してもらわなくても。私の抱えている問題の核心は、そこにはないから」
素子は小さく首をふって、少しだけ笑った。
「小さい頃のことだったから、父親の顔なんて覚えていないし、お母さんが亡くなったときも、私は何故か悲しくなかったの」
ぼくらの間に沈黙が流れた。かすかな、だけどはっきりとした違和感があった。
「きみのお母さんは、どんな人だったの?」
ぼくは思いきってたずねた。
「お母さんは、決め事が好きな人だった」
天井をちらっと見あげてから、素子は思い出したように言った。
「女の子はスカートしかはいてはいけない。女の子はピンクの服しか着てはいけない。女の子の髪は長くなくてはいけない。女の子は口答えや言い訳をしてはいけない」
「そんなの決めつけじゃないか」
さまざまなルールの羅列に、ぼくは愕然とした。
「そう。決めつけよね。今から思えば。だけど、そのときに、私の頭の枠組みは、がっちりと固まってしまったんだと思う。お母さんの決め事以外のことを言われると、私はひどく混乱して、頭がショートしてしまうの。何がなんだかわからなくなって、フリーズしてしまうのよ」
ぼくと素子はまた黙った。これが素子の不安の正体だったのだ。女の子はスカートしかはいてはいけない。女の子はピンクの服しか着てはいけない。母親の言葉に縛られて、素子は体育着や水着に着替えることができなかったのだ。
「きみはお母さんの言葉とは、逆のことをしたいと思ったことはないの? それをお母さんに伝えたことはないのかい?」
ぼくは慎重に言葉を選びながらいった。
「本当は…一度だけあるわ」
言いづらそうに素子は言った。
「そのとき、私はお母さんが勧めるピンクのスカートではなくて、どうしてもグリーンのスカートが欲しかったの。だから、素直にお母さんに、そう伝えたわ。私はグリーンのスカートを履いてみたいんだって」
「それでどうなったの?」
「お母さんは、そのときは何も言わなかった。黙り込んで私を睨みつけただけだった。結局、ピンクのスカートもグリーンのスカートも、買わずにうちへ帰ったわ。だけど、うちに着いたとたん、お母さんは人が変わったようになったの」
素子は続けた。
「あなたはいい子じゃない! そう叫んで、私の頬っぺたを、何度も何度も叩くの。そして、お母さんは言うのよ」
やや間を置いて、素子は一気に言い放った。
「私はあなたをこんなに可愛がっているのに! どうしてわかってくれないの! あなたはなんて悪い子なの!」
「無茶苦茶だよ」と、ぼくは言った。
「そうね。今ならそう思うわ」
素子は小さなため息をついた。
「だけど、そのときはそう思わなかったの。お母さんはこんなに可愛がってくれるのに、私はなんて悪い子だと思ってた。叩かれて当然だと思ってた」
素子の声は消え入りそうだった。
「施設に行ってから、何度もカウンセリングを受けたわ。そして気づいたの。私はお母さんのお人形さんだったんだって」
ただただ可愛らしく、けれども意思のない人形。自分の思い通りになる人形。それが母親にとっての素子だったのだろう。
「それがわかっていながら、きみは何故フリーズしてしまうんだろう?」
ぼくは不思議だった。
「お母さんの言葉は、私の心の奥深くにまで刷り込まれているんだと思う。それは私にとって、呪縛のようなものなのよ。お母さんがいなくなっても、私はお母さんの言葉から逃れられないの」
「呪縛…」
ぼくは素子の言葉を繰り返した。
「だけど、カウンセリングを受けて、その呪縛からは解放されたんじゃなかったのかい?」
「ええ。私ももう克服したと思っていたの。きっと心のどこかに油断があったのね」
素子は、ずっと体育の授業を休んでいた。体育の授業に出るには、体育着に着替えなければならない。
「女の子はスカートしかはいてはいけない」
母親のこの言葉から、素子はたぶん逃れられないでいるのだ。
クラスのみんなは、素子が体育の授業に出ないことを、不審がっていた。
クラス担任の前橋は、素子を職員室に呼んで、どうして体育の授業に出ないのか、とたずねた。素子は何も答えなかったらしい。
「なんて言えばいいのか、わからなかったの」
素子はぼくにだけ打ち明けた。
答えられる訳がないのだ。
「女の子は言い訳をしてはいけない」
母親のこの言葉に、素子は縛られているのだから。
けれども、何も説明しなかったことで、素子の立場はますます悪くなった。何も言わない素子を、前橋は心良く思わなかったらしい。数学教師の前橋は、授業中にわざと難しい質問を、素子にぶつけたりした。
「自分がゆっくりと沈んでいく船に乗っているような、そんな気持ちになるの」
ある日の下校途中、沈みこんだ表情で素子は言った。ランドセルを背負った小学生が三人、笑い声をあげながら、ぼくらの横を駆け抜けていった。
「これから私はどうすればいいのかしら…」
「ぼくが担任に説明するよ」
ぼくにできることといったら、それぐらいしかない。何とかして、素子に手を差し伸べたかった。
素子は少し考えていたが
「やっぱり黙っていてほしい」
と言った。
「クラスのみんなに、知られるのは嫌なの」
「本当に大丈夫なのかい?」と、ぼくは尋ねたが、素子は直接それには答えなかった。
「学校はとても決まり事の多い所だわ」
「そうだね。学校はとてもルールの多い所さ」
「だけど、それはお母さんの言葉とは反対であることも多いのよ。今の私にとっては、とても生きにくい場所なの。たくさんのことを、私に押しつけてくるように思ってしまうのよ」
素子はため息をついた。
「みんな多かれ少なかれ、押しつけたり、押しつけられたりして生きてるんだよ。ぼくは、そういうのは嫌だけどね」
ぼくと素子は、しばらく黙った。
「神崎くん。私、あなたといると、とても楽なの」
淡々と素子は言った。
「神崎くんは、私に何も押しつけないから。私は混乱しないでいられるの」
「押しつけたり、押しつけられたり。そうすることで、人は自分は孤独ではないと確かめたがるのさ」
「だけど、あなたはそうしていない。孤独でないと思えなくても」
「そう。信条みたいなものかな」
「あなたの言う信条とは何なの?」
「孤独に十分に耐え得ること」
「ずいぶんストイックなのね」
「強くあるには、ストイックでなければならないんだよ」と、ぼくは言った。
「あなたの強さが羨ましいわ」と、素子は言った。
今日も素子は、答えられないような質問をされて、クラス担任の前橋にやりこめられていた。
「わかりません」と素子が言っても、前橋は「座れ」とは言わなかった。
立ったままでいる素子のそばに、前橋は近づいていった。
「ふん。ちょっと長いな」
前橋は素子をじろじろと眺め回すと言った。
「初見。おまえ、髪切ってこい」
「え?」
「髪は肩にかかってはいけないって、校則で決まってるだろう」
「え…あ…」
個人攻撃だ、とぼくは思った。
たしかに、そういう校則はあるが、実際には素子より髪の長い女子なんて、いくらでもいる。これまでは、教師たちも、見て見ぬふりをしてきたのに…。
「それにそのソックス。少しピンクがかってないか? 校則ではソックスは白だったよな」
「あ…」
目は宙を泳ぎ、素子はそのままフリーズした。
「女の子はピンクの服しか着てはいけない。女の子の髪は長くなくてはいけない」
素子の母親がそう言っていたことを、ぼくは思い出した。素子はまた母親の言葉に呪縛されたのだ。
「おい、どうした? 聞いているのか!」
前橋が肩をゆすると、素子は力なく後ろに倒れた。クラスの女子の何人かが悲鳴をあげた。
それきり素子は、ぼくの前から姿を消した。男の人が迎えに来て、素子を車に乗せ、どこかへと連れ去った。
クラス担任の前橋は「初見さんは病気で学校を休むことになりました」と言っただけで、詳しい説明は何もなされなかった。
ぼくは素子に電話をかけてみたが、いつも留守電だった。
「連絡がほしい」
ぼくはいつもそれだけ言って、電話を切った。
素子から手紙が届いたのは、十二月の寒い日だった。
その日は、朝からちらほら雪が降り始め、昼過ぎには、あたり一面、雪野原になった。
素子は手紙にこう綴っていた。
何も言わずに、いなくなってしまって、ごめんなさい。
だけど、あのとき、私はとても混乱していて、あなたに、さよならを言う余裕もなかったのです。
ぼくは大きく息を吸い、窓を開け放った。雪はまだ降り続いていた。粉雪が風に舞い、ぼくの頬にも当たった。やがて、ぼくは窓を閉めて、手紙の続きに戻った。
あのあと、私は施設の職員に、病院へ連れていかれました。そこで医師は、私にはとても社会生活は送れないと判断したようです。
私は施設に戻らずに、精神科病棟に入院することになりました。そこでは、大量の薬物が私に投与され、同時にカウンセリングも始まりました。
幸いなことに、私は快方(と言うのかしら?)に向かっています。これまで受け入れることができなかった言葉も、ずいぶんと受け入れることができるようになりました。これまでのように、頭がショートしてしまうことも、フリーズしてしまうことも、ほとんどありません。
医師は親しい友だちと連絡をとって、外の世界にも慣れていくべきだと言います。親しい友だちと電話で話してみなさい、と言います。
だけど、親しい友だちなんて、私には神崎くん以外に、思いつきません。
それに、私は怖いのです。外の世界が怖くて仕方ありません。私はひどく臆病な小ネズミのようです。だけど、このままじゃ良くありませんよね?
私は、勇気を振り絞って、あなたに電話をかけてみるつもりです。
そこで手紙は唐突に終わっていた。
ぼくはその手紙を何度も読み返した。ためらいながらも、素子は、ぼくに手をのばそうとしているのだ。
雪は降り止まないまま、やがて夜になった。ぼくの手元にはスマートフォンがある。電話は鳴らなかった。けれどもぼくは、電話の向こうに、素子の気配を感じた。何度もためらい、ダイヤルを押そうとしては、ため息をつき、逡巡する素子の気配を感じた。
電話は鳴らない。ぼくは待つ。雪の夜、耳をすまして。
遠いきみの声を。
「クラスの女子は、更衣室で体育着に着替えて、グラウンドに集合してください」
女子生徒たちが、口々に色々なことを言いあいながら、教室を出ていく。
「おい、素子。グラウンドに集合だってさ」
隣の席の素子に、ぼくは声をかけた。素子とは高二になって、初めて一緒のクラスになったが、何となく気が合って、良く話すようになった。素子は、ぼーっと立ち尽くしている。
「おい、素子!」
素子がぼくに顔を向けた。だけど、その目は虚ろで、ぼくを見ていなかった。表情のない能面のような顔だった。
「素子ってば!」
素子はやっとぼくに気づいたようだ。驚いたように僕の顔を見た。「えっ、何?」
「体育だよ。女子は更衣室だって。なんだ? 具合でも悪いのかい?」
「え、ええ。ちょっと」
青ざめた顔で、素子はうなずいた。
「次の体育は休むわ。悪いけど、神崎くん。先生に言っておいてもらえるかしら。ちょっと保健室へ行ってくるわ」
その日から素子は様子がおかしくなった。おどおどして、何かに怯えているかのようだった。深いため息を何度もついた。
「どうかしたの?」と、ぼくが何度たずねても、
「なんでもない」
素子は首をふるだけだった。けれども、確かに素子は、波のように押し寄せてくる不安に耐えているのだ。すっかり無口になり、思い悩んでいる素子を前に、ぼくも戸惑っていた。
そのまま数日が過ぎた。
「次の授業はプールです。男子も女子も水着に着替えて、プールサイドに集合してください」
副学級委員の遠藤が、今日もまた声をかけた。
「やったー!」
「今日は暑いからなあ」
みんな、ざわめきながら、教室を出ていく。
ぼくは、隣の席の素子に、顔を向けた。素子は、またぼーっと立ち尽くしている。
「おい、素子! プールだってさ!」
ぼくは鋭い声で叫んだ。やはり、素子の目は何も見ていない。ぼくは薄気味悪くなった。
「素子!」
ぼくは素子の両肩をつかんでゆさぶった。素子の身体は力なく揺れた。
「どうしたんだよ! 素子!」
素子は不意をつかれたように「えっ」と声をあげた。
「あ、あの、何?」
「何って、聞こえてなかったのかい?」
「ごめんなさい。何も覚えてないの」
素子はとても申し訳なさそうに、目を伏せた。長いまつ毛に涙がにじんでいる。
「どうして…」
「神崎くん。今日、あなたのうちへ行ってもいいかしら? 私がこうなってしまう訳を話すから」
すがるような目で素子は、そう口にした。
「今からプールなんだよ。体育の授業はどうするの?」
「休むわ…」
か細い声で素子は言った。
うちに着くと、ぼくは素子を自分の部屋に招き入れた。うちは共働きだから、家にはぼくと素子の他、誰もいない。アイスコーヒーの入ったグラスをテーブルに置いて、ぼくと向かいあっても、素子は長い時間うつむいていた。
やがて、素子はためらいがちに、絞り出すような声で語り始めた。「私が施設から高校に通っていることは、知っているでしょう?」
「知っているよ」と、ぼくは答えた。
「前に話していたことがあったね」
「ええ。父親と母親は、私が小さい頃に離婚して、母親も私が小学生の頃に亡くなった。父親は行方不明だし、他に頼れる親戚もなかったから、私は施設に預けられることになったのよ」
「気の毒だとは思うよ」
注意深く、ぼくは言った。ぼくの想像もつかない辛い体験を、素子は重ねてきたのだろう。
「なんて言ってあげたらいいのか、わからない」
「いいのよ。同情してもらわなくても。私の抱えている問題の核心は、そこにはないから」
素子は小さく首をふって、少しだけ笑った。
「小さい頃のことだったから、父親の顔なんて覚えていないし、お母さんが亡くなったときも、私は何故か悲しくなかったの」
ぼくらの間に沈黙が流れた。かすかな、だけどはっきりとした違和感があった。
「きみのお母さんは、どんな人だったの?」
ぼくは思いきってたずねた。
「お母さんは、決め事が好きな人だった」
天井をちらっと見あげてから、素子は思い出したように言った。
「女の子はスカートしかはいてはいけない。女の子はピンクの服しか着てはいけない。女の子の髪は長くなくてはいけない。女の子は口答えや言い訳をしてはいけない」
「そんなの決めつけじゃないか」
さまざまなルールの羅列に、ぼくは愕然とした。
「そう。決めつけよね。今から思えば。だけど、そのときに、私の頭の枠組みは、がっちりと固まってしまったんだと思う。お母さんの決め事以外のことを言われると、私はひどく混乱して、頭がショートしてしまうの。何がなんだかわからなくなって、フリーズしてしまうのよ」
ぼくと素子はまた黙った。これが素子の不安の正体だったのだ。女の子はスカートしかはいてはいけない。女の子はピンクの服しか着てはいけない。母親の言葉に縛られて、素子は体育着や水着に着替えることができなかったのだ。
「きみはお母さんの言葉とは、逆のことをしたいと思ったことはないの? それをお母さんに伝えたことはないのかい?」
ぼくは慎重に言葉を選びながらいった。
「本当は…一度だけあるわ」
言いづらそうに素子は言った。
「そのとき、私はお母さんが勧めるピンクのスカートではなくて、どうしてもグリーンのスカートが欲しかったの。だから、素直にお母さんに、そう伝えたわ。私はグリーンのスカートを履いてみたいんだって」
「それでどうなったの?」
「お母さんは、そのときは何も言わなかった。黙り込んで私を睨みつけただけだった。結局、ピンクのスカートもグリーンのスカートも、買わずにうちへ帰ったわ。だけど、うちに着いたとたん、お母さんは人が変わったようになったの」
素子は続けた。
「あなたはいい子じゃない! そう叫んで、私の頬っぺたを、何度も何度も叩くの。そして、お母さんは言うのよ」
やや間を置いて、素子は一気に言い放った。
「私はあなたをこんなに可愛がっているのに! どうしてわかってくれないの! あなたはなんて悪い子なの!」
「無茶苦茶だよ」と、ぼくは言った。
「そうね。今ならそう思うわ」
素子は小さなため息をついた。
「だけど、そのときはそう思わなかったの。お母さんはこんなに可愛がってくれるのに、私はなんて悪い子だと思ってた。叩かれて当然だと思ってた」
素子の声は消え入りそうだった。
「施設に行ってから、何度もカウンセリングを受けたわ。そして気づいたの。私はお母さんのお人形さんだったんだって」
ただただ可愛らしく、けれども意思のない人形。自分の思い通りになる人形。それが母親にとっての素子だったのだろう。
「それがわかっていながら、きみは何故フリーズしてしまうんだろう?」
ぼくは不思議だった。
「お母さんの言葉は、私の心の奥深くにまで刷り込まれているんだと思う。それは私にとって、呪縛のようなものなのよ。お母さんがいなくなっても、私はお母さんの言葉から逃れられないの」
「呪縛…」
ぼくは素子の言葉を繰り返した。
「だけど、カウンセリングを受けて、その呪縛からは解放されたんじゃなかったのかい?」
「ええ。私ももう克服したと思っていたの。きっと心のどこかに油断があったのね」
素子は、ずっと体育の授業を休んでいた。体育の授業に出るには、体育着に着替えなければならない。
「女の子はスカートしかはいてはいけない」
母親のこの言葉から、素子はたぶん逃れられないでいるのだ。
クラスのみんなは、素子が体育の授業に出ないことを、不審がっていた。
クラス担任の前橋は、素子を職員室に呼んで、どうして体育の授業に出ないのか、とたずねた。素子は何も答えなかったらしい。
「なんて言えばいいのか、わからなかったの」
素子はぼくにだけ打ち明けた。
答えられる訳がないのだ。
「女の子は言い訳をしてはいけない」
母親のこの言葉に、素子は縛られているのだから。
けれども、何も説明しなかったことで、素子の立場はますます悪くなった。何も言わない素子を、前橋は心良く思わなかったらしい。数学教師の前橋は、授業中にわざと難しい質問を、素子にぶつけたりした。
「自分がゆっくりと沈んでいく船に乗っているような、そんな気持ちになるの」
ある日の下校途中、沈みこんだ表情で素子は言った。ランドセルを背負った小学生が三人、笑い声をあげながら、ぼくらの横を駆け抜けていった。
「これから私はどうすればいいのかしら…」
「ぼくが担任に説明するよ」
ぼくにできることといったら、それぐらいしかない。何とかして、素子に手を差し伸べたかった。
素子は少し考えていたが
「やっぱり黙っていてほしい」
と言った。
「クラスのみんなに、知られるのは嫌なの」
「本当に大丈夫なのかい?」と、ぼくは尋ねたが、素子は直接それには答えなかった。
「学校はとても決まり事の多い所だわ」
「そうだね。学校はとてもルールの多い所さ」
「だけど、それはお母さんの言葉とは反対であることも多いのよ。今の私にとっては、とても生きにくい場所なの。たくさんのことを、私に押しつけてくるように思ってしまうのよ」
素子はため息をついた。
「みんな多かれ少なかれ、押しつけたり、押しつけられたりして生きてるんだよ。ぼくは、そういうのは嫌だけどね」
ぼくと素子は、しばらく黙った。
「神崎くん。私、あなたといると、とても楽なの」
淡々と素子は言った。
「神崎くんは、私に何も押しつけないから。私は混乱しないでいられるの」
「押しつけたり、押しつけられたり。そうすることで、人は自分は孤独ではないと確かめたがるのさ」
「だけど、あなたはそうしていない。孤独でないと思えなくても」
「そう。信条みたいなものかな」
「あなたの言う信条とは何なの?」
「孤独に十分に耐え得ること」
「ずいぶんストイックなのね」
「強くあるには、ストイックでなければならないんだよ」と、ぼくは言った。
「あなたの強さが羨ましいわ」と、素子は言った。
今日も素子は、答えられないような質問をされて、クラス担任の前橋にやりこめられていた。
「わかりません」と素子が言っても、前橋は「座れ」とは言わなかった。
立ったままでいる素子のそばに、前橋は近づいていった。
「ふん。ちょっと長いな」
前橋は素子をじろじろと眺め回すと言った。
「初見。おまえ、髪切ってこい」
「え?」
「髪は肩にかかってはいけないって、校則で決まってるだろう」
「え…あ…」
個人攻撃だ、とぼくは思った。
たしかに、そういう校則はあるが、実際には素子より髪の長い女子なんて、いくらでもいる。これまでは、教師たちも、見て見ぬふりをしてきたのに…。
「それにそのソックス。少しピンクがかってないか? 校則ではソックスは白だったよな」
「あ…」
目は宙を泳ぎ、素子はそのままフリーズした。
「女の子はピンクの服しか着てはいけない。女の子の髪は長くなくてはいけない」
素子の母親がそう言っていたことを、ぼくは思い出した。素子はまた母親の言葉に呪縛されたのだ。
「おい、どうした? 聞いているのか!」
前橋が肩をゆすると、素子は力なく後ろに倒れた。クラスの女子の何人かが悲鳴をあげた。
それきり素子は、ぼくの前から姿を消した。男の人が迎えに来て、素子を車に乗せ、どこかへと連れ去った。
クラス担任の前橋は「初見さんは病気で学校を休むことになりました」と言っただけで、詳しい説明は何もなされなかった。
ぼくは素子に電話をかけてみたが、いつも留守電だった。
「連絡がほしい」
ぼくはいつもそれだけ言って、電話を切った。
素子から手紙が届いたのは、十二月の寒い日だった。
その日は、朝からちらほら雪が降り始め、昼過ぎには、あたり一面、雪野原になった。
素子は手紙にこう綴っていた。
何も言わずに、いなくなってしまって、ごめんなさい。
だけど、あのとき、私はとても混乱していて、あなたに、さよならを言う余裕もなかったのです。
ぼくは大きく息を吸い、窓を開け放った。雪はまだ降り続いていた。粉雪が風に舞い、ぼくの頬にも当たった。やがて、ぼくは窓を閉めて、手紙の続きに戻った。
あのあと、私は施設の職員に、病院へ連れていかれました。そこで医師は、私にはとても社会生活は送れないと判断したようです。
私は施設に戻らずに、精神科病棟に入院することになりました。そこでは、大量の薬物が私に投与され、同時にカウンセリングも始まりました。
幸いなことに、私は快方(と言うのかしら?)に向かっています。これまで受け入れることができなかった言葉も、ずいぶんと受け入れることができるようになりました。これまでのように、頭がショートしてしまうことも、フリーズしてしまうことも、ほとんどありません。
医師は親しい友だちと連絡をとって、外の世界にも慣れていくべきだと言います。親しい友だちと電話で話してみなさい、と言います。
だけど、親しい友だちなんて、私には神崎くん以外に、思いつきません。
それに、私は怖いのです。外の世界が怖くて仕方ありません。私はひどく臆病な小ネズミのようです。だけど、このままじゃ良くありませんよね?
私は、勇気を振り絞って、あなたに電話をかけてみるつもりです。
そこで手紙は唐突に終わっていた。
ぼくはその手紙を何度も読み返した。ためらいながらも、素子は、ぼくに手をのばそうとしているのだ。
雪は降り止まないまま、やがて夜になった。ぼくの手元にはスマートフォンがある。電話は鳴らなかった。けれどもぼくは、電話の向こうに、素子の気配を感じた。何度もためらい、ダイヤルを押そうとしては、ため息をつき、逡巡する素子の気配を感じた。
電話は鳴らない。ぼくは待つ。雪の夜、耳をすまして。
遠いきみの声を。
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古代アイルランドには臣下が王の乳首を吸って服従の意を示す儀式があったそうで、それはよいものだと思いましたので古代アイルランドとは特に関係なく王の乳首を吸ってもらいました。
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退会済ユーザのコメントです
柳瀬さま。有難うございます。
ハッピーエンドではありませんが、ささやかな希望は残しておきたかったのです。私はマイノリティ、特に社会的弱者の為に作品を書いていきたい。
彼らは一般社会では、男なのに女々しい、と言われたり、気持ち悪い、と言われたり、ダメ人間、と言われたりしている存在かもしれない。
彼らにも悪い所はあって、批判されて当然の存在なのかもしれない。
それでも彼らに寄り添う作品を書くことが、私の役割であるように思うのです。
社会全体として、バランスをとる為にです。
彼ら(ここには私も含まれますが)が余りにも過剰に甘やかされるような社会であれば、私は全く逆のスタンスで作品を書くかもしれません。
切ないお話しにグッと来ました。
うまく世界が回らなくて、自分も臆病で、行動出来ずに、ずっとソレを胸に抱えるという作品を見た事があります。
単に自己完結してしまってる作品にガッカリしました。
でも、こちらの作品には気持ちが動かされました。
主人公の強さ、優しさを感じました。
出来ない事としない事では全く意味が違うと、当たり前の事を改めて考えさせられました。
主人公の中には、遠慮や、責任の重さなど、出来ない部分も確かにあったと思います。
でも、彼女を心配する気持ち、安心したい気持ち、支えになりたいと思う気持ちもあって、その上で「待つ」という決断は、押し付けじゃなく思いやりを感じました。
彼女に必要なのは、安易な優しさや手助けではない。自分で壁を越える事が必要な事。そう考えた主人公の強さに胸を打たれたんだと思います。
解釈がトンチンカンだったらすみません。
素敵なお話しをありがとうございました。
なんて素敵な感想なんでしょう!
私の執筆の意図を汲み取ってくださり、有難うございます。
「待つ」という選択肢。私も有ると思うのです。
それは「祈り」にも似たものです。相手が一歩踏み出すことを願う「祈り」。それは安易な優しさではなく、強さに裏打ちされたものです。
繰り返しますが、素晴らしい感想を有難うございました。
今まで読んだ話の中で、一番感動しました。この一言に限ります。
表現が豊富で情景も想像しやすかったです。気付けばあっという間に読んでしまっていました。これ以上ない程、のめり込んでいました。
自分も小説を書いているので、よろしければ、覗いて下さい。
有難うございます!
そこまで言っていただけるなんて光栄です。
小説、読ませていただきます!