雪の夜、耳をすまして

関谷俊博

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雪の夜、耳をすまして

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数学の授業が終わり、次の授業は体育だった。いつもと何ひとつ変わらない初夏の日だ。副学級委員の遠藤が、クラスの女子に声をかけた。
「クラスの女子は、更衣室で体育着に着替えて、グラウンドに集合してください」
女子生徒たちが、口々に色々なことを言いあいながら、教室を出ていく。
「おい、素子。グラウンドに集合だってさ」
隣の席の素子に、ぼくは声をかけた。素子とは高二になって、初めて一緒のクラスになったが、何となく気が合って、良く話すようになった。素子は、ぼーっと立ち尽くしている。
「おい、素子!」
素子がぼくに顔を向けた。だけど、その目は虚ろで、ぼくを見ていなかった。表情のない能面のような顔だった。
「素子ってば!」
素子はやっとぼくに気づいたようだ。驚いたように僕の顔を見た。「えっ、何?」
「体育だよ。女子は更衣室だって。なんだ? 具合でも悪いのかい?」
「え、ええ。ちょっと」
青ざめた顔で、素子はうなずいた。
「次の体育は休むわ。悪いけど、神崎くん。先生に言っておいてもらえるかしら。ちょっと保健室へ行ってくるわ」

その日から素子は様子がおかしくなった。おどおどして、何かに怯えているかのようだった。深いため息を何度もついた。
「どうかしたの?」と、ぼくが何度たずねても、
「なんでもない」
素子は首をふるだけだった。けれども、確かに素子は、波のように押し寄せてくる不安に耐えているのだ。すっかり無口になり、思い悩んでいる素子を前に、ぼくも戸惑っていた。

そのまま数日が過ぎた。
「次の授業はプールです。男子も女子も水着に着替えて、プールサイドに集合してください」
副学級委員の遠藤が、今日もまた声をかけた。
「やったー!」
「今日は暑いからなあ」
みんな、ざわめきながら、教室を出ていく。
ぼくは、隣の席の素子に、顔を向けた。素子は、またぼーっと立ち尽くしている。 
「おい、素子! プールだってさ!」
ぼくは鋭い声で叫んだ。やはり、素子の目は何も見ていない。ぼくは薄気味悪くなった。
「素子!」
ぼくは素子の両肩をつかんでゆさぶった。素子の身体は力なく揺れた。 
「どうしたんだよ! 素子!」 
素子は不意をつかれたように「えっ」と声をあげた。
「あ、あの、何?」 
「何って、聞こえてなかったのかい?」
「ごめんなさい。何も覚えてないの」
素子はとても申し訳なさそうに、目を伏せた。長いまつ毛に涙がにじんでいる。 
「どうして…」
「神崎くん。今日、あなたのうちへ行ってもいいかしら? 私がこうなってしまう訳を話すから」
すがるような目で素子は、そう口にした。 
「今からプールなんだよ。体育の授業はどうするの?」
「休むわ…」
か細い声で素子は言った。

うちに着くと、ぼくは素子を自分の部屋に招き入れた。うちは共働きだから、家にはぼくと素子の他、誰もいない。アイスコーヒーの入ったグラスをテーブルに置いて、ぼくと向かいあっても、素子は長い時間うつむいていた。
やがて、素子はためらいがちに、絞り出すような声で語り始めた。「私が施設から高校に通っていることは、知っているでしょう?」
「知っているよ」と、ぼくは答えた。
「前に話していたことがあったね」
「ええ。父親と母親は、私が小さい頃に離婚して、母親も私が小学生の頃に亡くなった。父親は行方不明だし、他に頼れる親戚もなかったから、私は施設に預けられることになったのよ」
「気の毒だとは思うよ」
注意深く、ぼくは言った。ぼくの想像もつかない辛い体験を、素子は重ねてきたのだろう。 
「なんて言ってあげたらいいのか、わからない」 
「いいのよ。同情してもらわなくても。私の抱えている問題の核心は、そこにはないから」
素子は小さく首をふって、少しだけ笑った。
「小さい頃のことだったから、父親の顔なんて覚えていないし、お母さんが亡くなったときも、私は何故か悲しくなかったの」
ぼくらの間に沈黙が流れた。かすかな、だけどはっきりとした違和感があった。
「きみのお母さんは、どんな人だったの?」
ぼくは思いきってたずねた。 
「お母さんは、決め事が好きな人だった」
天井をちらっと見あげてから、素子は思い出したように言った。
「女の子はスカートしかはいてはいけない。女の子はピンクの服しか着てはいけない。女の子の髪は長くなくてはいけない。女の子は口答えや言い訳をしてはいけない」 
「そんなの決めつけじゃないか」
さまざまなルールの羅列に、ぼくは愕然とした。
「そう。決めつけよね。今から思えば。だけど、そのときに、私の頭の枠組みは、がっちりと固まってしまったんだと思う。お母さんの決め事以外のことを言われると、私はひどく混乱して、頭がショートしてしまうの。何がなんだかわからなくなって、フリーズしてしまうのよ」
ぼくと素子はまた黙った。これが素子の不安の正体だったのだ。女の子はスカートしかはいてはいけない。女の子はピンクの服しか着てはいけない。母親の言葉に縛られて、素子は体育着や水着に着替えることができなかったのだ。
「きみはお母さんの言葉とは、逆のことをしたいと思ったことはないの? それをお母さんに伝えたことはないのかい?」
ぼくは慎重に言葉を選びながらいった。
「本当は…一度だけあるわ」
言いづらそうに素子は言った。
「そのとき、私はお母さんが勧めるピンクのスカートではなくて、どうしてもグリーンのスカートが欲しかったの。だから、素直にお母さんに、そう伝えたわ。私はグリーンのスカートを履いてみたいんだって」
「それでどうなったの?」
「お母さんは、そのときは何も言わなかった。黙り込んで私を睨みつけただけだった。結局、ピンクのスカートもグリーンのスカートも、買わずにうちへ帰ったわ。だけど、うちに着いたとたん、お母さんは人が変わったようになったの」
素子は続けた。
「あなたはいい子じゃない! そう叫んで、私の頬っぺたを、何度も何度も叩くの。そして、お母さんは言うのよ」
やや間を置いて、素子は一気に言い放った。
「私はあなたをこんなに可愛がっているのに! どうしてわかってくれないの! あなたはなんて悪い子なの!」
「無茶苦茶だよ」と、ぼくは言った。
「そうね。今ならそう思うわ」
素子は小さなため息をついた。 
「だけど、そのときはそう思わなかったの。お母さんはこんなに可愛がってくれるのに、私はなんて悪い子だと思ってた。叩かれて当然だと思ってた」
素子の声は消え入りそうだった。 
「施設に行ってから、何度もカウンセリングを受けたわ。そして気づいたの。私はお母さんのお人形さんだったんだって」
ただただ可愛らしく、けれども意思のない人形。自分の思い通りになる人形。それが母親にとっての素子だったのだろう。
「それがわかっていながら、きみは何故フリーズしてしまうんだろう?」
ぼくは不思議だった。
「お母さんの言葉は、私の心の奥深くにまで刷り込まれているんだと思う。それは私にとって、呪縛のようなものなのよ。お母さんがいなくなっても、私はお母さんの言葉から逃れられないの」
「呪縛…」 
ぼくは素子の言葉を繰り返した。
「だけど、カウンセリングを受けて、その呪縛からは解放されたんじゃなかったのかい?」
「ええ。私ももう克服したと思っていたの。きっと心のどこかに油断があったのね」

素子は、ずっと体育の授業を休んでいた。体育の授業に出るには、体育着に着替えなければならない。
「女の子はスカートしかはいてはいけない」
母親のこの言葉から、素子はたぶん逃れられないでいるのだ。
クラスのみんなは、素子が体育の授業に出ないことを、不審がっていた。
クラス担任の前橋は、素子を職員室に呼んで、どうして体育の授業に出ないのか、とたずねた。素子は何も答えなかったらしい。
「なんて言えばいいのか、わからなかったの」
素子はぼくにだけ打ち明けた。 
答えられる訳がないのだ。
「女の子は言い訳をしてはいけない」 
母親のこの言葉に、素子は縛られているのだから。
けれども、何も説明しなかったことで、素子の立場はますます悪くなった。何も言わない素子を、前橋は心良く思わなかったらしい。数学教師の前橋は、授業中にわざと難しい質問を、素子にぶつけたりした。

「自分がゆっくりと沈んでいく船に乗っているような、そんな気持ちになるの」 
ある日の下校途中、沈みこんだ表情で素子は言った。ランドセルを背負った小学生が三人、笑い声をあげながら、ぼくらの横を駆け抜けていった。
「これから私はどうすればいいのかしら…」
「ぼくが担任に説明するよ」
ぼくにできることといったら、それぐらいしかない。何とかして、素子に手を差し伸べたかった。
素子は少し考えていたが
「やっぱり黙っていてほしい」 
と言った。
「クラスのみんなに、知られるのは嫌なの」 
「本当に大丈夫なのかい?」と、ぼくは尋ねたが、素子は直接それには答えなかった。
「学校はとても決まり事の多い所だわ」
「そうだね。学校はとてもルールの多い所さ」
「だけど、それはお母さんの言葉とは反対であることも多いのよ。今の私にとっては、とても生きにくい場所なの。たくさんのことを、私に押しつけてくるように思ってしまうのよ」
素子はため息をついた。
「みんな多かれ少なかれ、押しつけたり、押しつけられたりして生きてるんだよ。ぼくは、そういうのは嫌だけどね」
ぼくと素子は、しばらく黙った。
「神崎くん。私、あなたといると、とても楽なの」
淡々と素子は言った。
「神崎くんは、私に何も押しつけないから。私は混乱しないでいられるの」
「押しつけたり、押しつけられたり。そうすることで、人は自分は孤独ではないと確かめたがるのさ」 
「だけど、あなたはそうしていない。孤独でないと思えなくても」 「そう。信条みたいなものかな」
「あなたの言う信条とは何なの?」
「孤独に十分に耐え得ること」
「ずいぶんストイックなのね」
「強くあるには、ストイックでなければならないんだよ」と、ぼくは言った。
「あなたの強さが羨ましいわ」と、素子は言った。

今日も素子は、答えられないような質問をされて、クラス担任の前橋にやりこめられていた。
「わかりません」と素子が言っても、前橋は「座れ」とは言わなかった。
立ったままでいる素子のそばに、前橋は近づいていった。
「ふん。ちょっと長いな」
前橋は素子をじろじろと眺め回すと言った。
「初見。おまえ、髪切ってこい」
「え?」
「髪は肩にかかってはいけないって、校則で決まってるだろう」
「え…あ…」
個人攻撃だ、とぼくは思った。
たしかに、そういう校則はあるが、実際には素子より髪の長い女子なんて、いくらでもいる。これまでは、教師たちも、見て見ぬふりをしてきたのに…。
「それにそのソックス。少しピンクがかってないか? 校則ではソックスは白だったよな」
「あ…」
目は宙を泳ぎ、素子はそのままフリーズした。
「女の子のピンクの服しか着てはいけない。女の子の髪は長くなくてはいけない」
素子の母親がそう言っていたことを、ぼくは思い出した。素子はまた母親の言葉に呪縛されたのだ。
「おい、どうした? 聞いているのか!」
前橋が肩をゆすると、素子は力なく後ろに倒れた。クラスの女子の何人かが悲鳴をあげた。

それきり素子は、ぼくの前から姿を消した。男の人が迎えに来て、素子を車に乗せ、どこかへと連れ去った。
クラス担任の前橋は「初見さんは病気で学校を休むことになりました」と言っただけで、詳しい説明は何もなされなかった。 
ぼくは素子に電話をかけてみたが、いつも留守電だった。
「連絡がほしい」 
ぼくはいつもそれだけ言って、電話を切った。

素子から手紙が届いたのは、十二月の寒い日だった。
その日は、朝からちらほら雪が降り始め、昼過ぎには、あたり一面、雪野原になった。
素子は手紙にこう綴っていた。

何も言わずに、いなくなってしまって、ごめんなさい。
だけど、あのとき、私はとても混乱していて、あなたに、さよならを言う余裕もなかったのです。

ぼくは大きく息を吸い、窓を開け放った。雪はまだ降り続いていた。粉雪が風に舞い、ぼくの頬にも当たった。やがて、ぼくは窓を閉めて、手紙の続きに戻った。

あのあと、私は施設の職員に、病院へ連れていかれました。そこで医師は、私にはとても社会生活は送れないと判断したようです。
私は施設に戻らずに、精神科病棟に入院することになりました。そこでは、大量の薬物が私に投与され、同時にカウンセリングも始まりました。
幸いなことに、私は快方(と言うのかしら?)に向かっています。これまで受け入れることができなかった言葉も、ずいぶんと受け入れることができるようになりました。これまでのように、頭がショートしてしまうことも、フリーズしてしまうことも、ほとんどありません。 
医師は親しい友だちと連絡をとって、外の世界にも慣れていくべきだと言います。親しい友だちと電話で話してみなさい、と言います。
だけど、親しい友だちなんて、私には神崎くん以外に、思いつきません。
それに、私は怖いのです。外の世界が怖くて仕方ありません。私はひどく臆病な小ネズミのようです。だけど、このままじゃ良くありませんよね?
私は、勇気を振り絞って、あなたに電話をかけてみるつもりです。

そこで手紙は唐突に終わっていた。
ぼくはその手紙を何度も読み返した。ためらいながらも、素子は、ぼくに手をのばそうとしているのだ。
雪は降り止まないまま、やがて夜になった。ぼくの手元にはスマートフォンがある。電話は鳴らなかった。けれどもぼくは、電話の向こうに、素子の気配を感じた。何度もためらい、ダイヤルを押そうとしては、ため息をつき、逡巡する素子の気配を感じた。
電話は鳴らない。ぼくは待つ。雪の夜、耳をすまして。
遠いきみの声を。
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みんなの感想(20件)

柳瀬湖畔
2017.02.24 柳瀬湖畔

作品読ませて頂きました。
切なくて悲しい話でした。でもささやかな希望と無限の余韻を感じました。
他の作品も素晴らしいものばかりでしたが、この作品が一番感動しました。

関谷俊博
2017.02.25 関谷俊博

柳瀬さま。有難うございます。
ハッピーエンドではありませんが、ささやかな希望は残しておきたかったのです。私はマイノリティ、特に社会的弱者の為に作品を書いていきたい。
彼らは一般社会では、男なのに女々しい、と言われたり、気持ち悪い、と言われたり、ダメ人間、と言われたりしている存在かもしれない。
彼らにも悪い所はあって、批判されて当然の存在なのかもしれない。
それでも彼らに寄り添う作品を書くことが、私の役割であるように思うのです。
社会全体として、バランスをとる為にです。
彼ら(ここには私も含まれますが)が余りにも過剰に甘やかされるような社会であれば、私は全く逆のスタンスで作品を書くかもしれません。

たろまろ
2016.10.21 たろまろ

切ないお話しにグッと来ました。
うまく世界が回らなくて、自分も臆病で、行動出来ずに、ずっとソレを胸に抱えるという作品を見た事があります。
単に自己完結してしまってる作品にガッカリしました。
でも、こちらの作品には気持ちが動かされました。
主人公の強さ、優しさを感じました。
出来ない事としない事では全く意味が違うと、当たり前の事を改めて考えさせられました。
主人公の中には、遠慮や、責任の重さなど、出来ない部分も確かにあったと思います。
でも、彼女を心配する気持ち、安心したい気持ち、支えになりたいと思う気持ちもあって、その上で「待つ」という決断は、押し付けじゃなく思いやりを感じました。
彼女に必要なのは、安易な優しさや手助けではない。自分で壁を越える事が必要な事。そう考えた主人公の強さに胸を打たれたんだと思います。
解釈がトンチンカンだったらすみません。
素敵なお話しをありがとうございました。

関谷俊博
2016.10.22 関谷俊博

なんて素敵な感想なんでしょう!
私の執筆の意図を汲み取ってくださり、有難うございます。
「待つ」という選択肢。私も有ると思うのです。
それは「祈り」にも似たものです。相手が一歩踏み出すことを願う「祈り」。それは安易な優しさではなく、強さに裏打ちされたものです。
繰り返しますが、素晴らしい感想を有難うございました。

雲龍院
2016.09.20 雲龍院

今まで読んだ話の中で、一番感動しました。この一言に限ります。

表現が豊富で情景も想像しやすかったです。気付けばあっという間に読んでしまっていました。これ以上ない程、のめり込んでいました。
自分も小説を書いているので、よろしければ、覗いて下さい。

関谷俊博
2016.10.19 関谷俊博

有難うございます!
そこまで言っていただけるなんて光栄です。
小説、読ませていただきます!