夏の破片

関谷俊博

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社会人になった僕は池袋にある興信所で働いていた。興信所に勤めたのに、さしたる意味があった訳ではない。敢えて理由を探すとすれば、何かを探究するのに興味があったから、といった所か。哲学科を専攻した時と同じだ。
ある朝、出所すると所長から声がかかった。
「依頼人がずっとお待ちだぞ。おまえ指名だ」
所長は明らかに機嫌が悪かった。
「依頼人…」
今朝は特に約束はなかった筈だが…。
「そうだ。早く行け。接客室だ」
所長の声が怒鳴り声に近くなった。
ドアをノックして接客室に入ると、小柄な女性がソファに座っていた。
「突然に申し訳ありません」
女性は立ちあがると深々と頭を下げた。後ろで髪を束ねた二十代の女性だった。なだらかな撫で肩に涼しげな目もと。薄いブルーのブラウスに、白のスカートが、とても清潔な印象を与えている。
この女性とは何処かで会ったことがある気がした。だけどそんなことはない。彼女とは完全な初対面だ。デジャビュか…。
けれども女性がさしだした写真に僕は息を呑んだ。
「姉を捜して欲しいんです」
間違いない。そこに写っていたのは、麻里さんだった。

「貴女は…」
「申し遅れました。私は観月由里と申します。観月麻里の妹です」
「私は…」
僕の言葉を彼女は柔らかく遮った。
「存じあげております。姉が夏樹さんとおつきあいされていたことも…」
麻里さんと比べれば、地味な印象は拭えなかったが、彼女はとても上品で感じの良い話し方をした。
「実はこの興信所も夏樹さんのお名前を、インターネットを検索してみつけたんです。スタッフ紹介のページに、夏樹さんのお名前と経歴が載っていました」
これではどちらが探偵だかわからなかった。
「詳しいご事情をお聴かせ願えますか」
僕は由里さんに言った。
「はい」
由里さんは頷くと語り始めた。大学を卒業すると直ぐに、麻里さんが結婚したこと。子どもはいなかったが、幸せな結婚生活をおくっていたこと。由里さんの話からするに、結婚相手はロンドンに留学していた、あの彼氏らしかった。
けれども幸せな結婚生活は、一瞬にして打ち砕かれた。
「伊豆に旅行中の事故でした。助手席にはご主人が座っていて、そのとき車を運転していたのは姉でした。きっとハンドル操作を誤ったのだと思います。ガードレールを突き破り、車は崖の下に転落したのです」
由里さんはそこで大きく肩で息をついた。
「姉は助かりましたが、ご主人は亡くなりました」
「お気の毒です…」
そう言いながら、僕は胸の奥に疼くような感覚を覚えた。麻里さんがやはり結婚していたことに、僕は微かに心を乱されていた。嫉妬…か…。いまさらになって…。
「そんな大事故では麻里さんも無事では済まなかったのでしょうね」
「ところが姉は擦り傷ひとつ負わなかったのです」
「どうしてそんなことが…」
「はい。私もとても不思議に思いました。姉が得度したのは、その三か月後です。その写真は姉が得度したときのものなのです」
僕は再び写真を眺めた。剃髪こそしていないものの、麻里さんは黒い衣に身を包み、首に袈裟をかけている。そして手には念珠…。
「しかし得度をしたからといって、まだ正式な僧侶という訳ではなく、そのあと加行という修行期間に入ります。姉はその修行途中に失踪しました」
由里さんは澄んだ眼で、息をつめたように僕を見つめた。
「得度する直前、姉は気になる言葉を口にしたのです」
「何と言ったのですか」
「夏樹くんと離れなければ、私の運命は違っていたかもしれない。姉はそう言いました。だから私はあなたに会いに来たのです」
僕と由里さんは暫く石のように黙りこんだ。由里さんは僕の眼をじっと覗きこんだままだった。
「残念ながら私にはその言葉の意味がわかりません…」
僕は漸く口を開いた。
「麻里さんが得度した寺は何処にあるのですか」
「京都にあります」
由里さんは言った。
「報恩寺という真言宗のお寺です」

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