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第2章 霧の中の足音
第1話 その紙を読んではいけない理由
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――ガタン。
その音が響いた瞬間、ロビーの空気が凍りついた。
誰もが身じろぎをやめ、音の出どころを目で追った。まるで何者かが、舞台の袖から幕を引いたかのように。だがその“何者か”は、姿を見せない。
翔は、無意識に立ち上がっていた。奥の廊下の先、半開きになった扉が、かすかな風に揺れている。
「……行ってみよう」
小さく結衣が呟く。翔は頷いた。
その瞬間、他の参加者たちも同じように立ち上がっていた。言葉はなかった。けれど、誰もが何かが始まりつつあるのを感じ取っていたのだ。
廊下は西棟へと続いていた。壁に掛けられた絵画の色彩は、どこか煤けて見えた。
列の先頭に立つ翔の足音だけが、長く伸びる通路に淡く響いている。後に続くのは、結衣、水沢、相川、森。
突き当たりには、昨日までは記憶にない扉があった。
「案内の時には……こんな場所、なかったわよね」
結衣がぽつりと漏らした。翔が静かにノブに手をかける。鍵は、かかっていなかった。
音もなく開いた扉の向こうは、書庫のようだった。思いのほか狭く、天井まで届く書棚と、隅に置かれた机。そして、その机の上だけに、まるで舞台の照明のように淡い光が落ちていた。
誰かが、最近まで使っていた気配。
結衣が低く呟く。
「……ここ、使われてる。誰かが何かを書いていた」
机の上には、一冊のノートと一本の万年筆。そして、短く破られた紙片が一枚。
翔が手に取らずに目を細める。
『記録は、繰り返される。触れるな。その言葉が呼ぶものが、こちらを見ている。』
誰が、何のために書いたのか。意味をなすようでいて、核心には決して触れない曖昧さ。それがかえって、読む者の想像を不安に染め上げていく。
「これは……誰の字だ?」
相川が紙に手を伸ばしかけたそのとき、水沢が制した。
「待って。下手に触らない方がいい。これは“意図的に置かれたもの”よ。遺されたんじゃない、“示された”の」
森が机に目を落としたまま、低く唸るように言う。
「言葉の意味もそうだが……問題は、誰がこれを、ここに置いたのかという点だな」
沈黙が、室内を満たす。
翔はふと、背後に視線を向けた。誰もいないはずの廊下。だが、“視線”だけが残っている気がした。どこか、誰かが、自分たちの動きを見つめているような。
(この館には、“ここにいない何か”がいる)
頭の奥に、そんな言葉がふと浮かぶ。
――そのときだった。
「……失礼します」
書庫の入り口に立っていたのは、中川響子だった。静かな声の奥に、何かを制止しようとする切実さがにじんでいる。
「それには……触れないでください。そこにある紙は、“先生の部屋”にあったものです」
「先生の……?」と、水沢が息を呑む。
中川は頷く。
「亡くなる前、先生はこちらの部屋を執筆の場として使っていました。鍵は遺族の指示でかけたまま……誰も入っていないはずでした」
中川の目が、ゆっくりと開いた扉に向けられる。
「開けたのは……誰か。あるいは、何か」
その声に返す者はいなかった。ただ、静かに、空気だけが重たさを増していく。
中川は扉に近づき、そっとそれを閉めた。控えめな“音”が、なぜか部屋の中に深く響いた。
その響きは、どこか“封をする”儀式のようにさえ感じられた。
(始まっている。この館は、生きている。記録と記憶が、誰かの意志によって呼び起こされている)
翔は、そう思った。
そしてその誰かは、あるいは、まだこの館の中に“居る”のかもしれなかった――。
その音が響いた瞬間、ロビーの空気が凍りついた。
誰もが身じろぎをやめ、音の出どころを目で追った。まるで何者かが、舞台の袖から幕を引いたかのように。だがその“何者か”は、姿を見せない。
翔は、無意識に立ち上がっていた。奥の廊下の先、半開きになった扉が、かすかな風に揺れている。
「……行ってみよう」
小さく結衣が呟く。翔は頷いた。
その瞬間、他の参加者たちも同じように立ち上がっていた。言葉はなかった。けれど、誰もが何かが始まりつつあるのを感じ取っていたのだ。
廊下は西棟へと続いていた。壁に掛けられた絵画の色彩は、どこか煤けて見えた。
列の先頭に立つ翔の足音だけが、長く伸びる通路に淡く響いている。後に続くのは、結衣、水沢、相川、森。
突き当たりには、昨日までは記憶にない扉があった。
「案内の時には……こんな場所、なかったわよね」
結衣がぽつりと漏らした。翔が静かにノブに手をかける。鍵は、かかっていなかった。
音もなく開いた扉の向こうは、書庫のようだった。思いのほか狭く、天井まで届く書棚と、隅に置かれた机。そして、その机の上だけに、まるで舞台の照明のように淡い光が落ちていた。
誰かが、最近まで使っていた気配。
結衣が低く呟く。
「……ここ、使われてる。誰かが何かを書いていた」
机の上には、一冊のノートと一本の万年筆。そして、短く破られた紙片が一枚。
翔が手に取らずに目を細める。
『記録は、繰り返される。触れるな。その言葉が呼ぶものが、こちらを見ている。』
誰が、何のために書いたのか。意味をなすようでいて、核心には決して触れない曖昧さ。それがかえって、読む者の想像を不安に染め上げていく。
「これは……誰の字だ?」
相川が紙に手を伸ばしかけたそのとき、水沢が制した。
「待って。下手に触らない方がいい。これは“意図的に置かれたもの”よ。遺されたんじゃない、“示された”の」
森が机に目を落としたまま、低く唸るように言う。
「言葉の意味もそうだが……問題は、誰がこれを、ここに置いたのかという点だな」
沈黙が、室内を満たす。
翔はふと、背後に視線を向けた。誰もいないはずの廊下。だが、“視線”だけが残っている気がした。どこか、誰かが、自分たちの動きを見つめているような。
(この館には、“ここにいない何か”がいる)
頭の奥に、そんな言葉がふと浮かぶ。
――そのときだった。
「……失礼します」
書庫の入り口に立っていたのは、中川響子だった。静かな声の奥に、何かを制止しようとする切実さがにじんでいる。
「それには……触れないでください。そこにある紙は、“先生の部屋”にあったものです」
「先生の……?」と、水沢が息を呑む。
中川は頷く。
「亡くなる前、先生はこちらの部屋を執筆の場として使っていました。鍵は遺族の指示でかけたまま……誰も入っていないはずでした」
中川の目が、ゆっくりと開いた扉に向けられる。
「開けたのは……誰か。あるいは、何か」
その声に返す者はいなかった。ただ、静かに、空気だけが重たさを増していく。
中川は扉に近づき、そっとそれを閉めた。控えめな“音”が、なぜか部屋の中に深く響いた。
その響きは、どこか“封をする”儀式のようにさえ感じられた。
(始まっている。この館は、生きている。記録と記憶が、誰かの意志によって呼び起こされている)
翔は、そう思った。
そしてその誰かは、あるいは、まだこの館の中に“居る”のかもしれなかった――。
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