蒼月館の招待状

天音 翔杜

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第2章 霧の中の足音

第2話 静かな鍵音

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 館の空気が、ほんのわずかに変わった。

 誰も声を発さないまま書庫を出ると、通路の静けさがやけに耳に障る。靴音が絨毯に吸われ、わずかに軋む床の下から、何かが反響するようだった。

 翔は立ち止まり、ふと背後を振り返る。

 誰もいない。ただ、閉じられた扉の向こうに、さっきまでの“気配”だけが残っているような錯覚。

 中川が足を止めずに歩きながら言った。

「申し訳ありません。……あの部屋は、できるだけ今後は近づかないでください」

 その声音は丁寧だったが、命令というより“願い”に近かった。

「どうして?」と結衣が尋ねる。

 中川は一瞬だけ言葉に詰まる。だが、すぐに穏やかに微笑んだ。

「館内の記録に関わるものは、正式な手続きを経るまでは触れられないのです。とくに、鵜飼先生の個人資料に関しては――」

「遺族の意向ですね」と水沢が補うと、中川は静かに頷いた。

 誰もそれ以上は追及しなかった。

 だが、歩く足取りの中に、誰もが小さな違和感を抱えていた。

 その違和感が、声になったのは、相川だった。

「そういやさ、先生の遺族って……誰?」

 廊下に足音が止まり、一瞬、空気が沈んだ。

「……名前までは公表されておりません」

 中川の返答は簡潔だった。だが、どこか用意されていたような響きを含んでいた。

 そのとき、再び――

 カチャ。

 乾いた、小さな音が階段の方から聞こえた。

 鍵が回るような音。機械ではない、“誰かの手”によって生まれた確かな音。

 翔と結衣は、同時に顔を上げた。

 階段の踊り場。だが、そこに人影はなかった。

「今の……」と翔が呟く。

「誰か、開けたか閉めたか……それとも、どこかを施錠した?」

 結衣の言葉に、全員が一瞬、顔を見合わせる。

 中川は何も言わなかった。ただ、わずかに視線を逸らす。

 その沈黙に、翔の胸の中でひとつの仮説が膨らみ始める。

(館の中には、我々の知らない“区画”があるのかもしれない)

 その可能性が現実味を帯びたのは、再び階段の奥で物音がしたからだ。

 今度は、わずかな“擦過音”。靴底が石の床をかすめるような……人間の動きに似た気配。

「……俺、ちょっとだけ確認してくる」

 そう言って、翔が踊り場に向かおうとすると、中川が一歩前に出た。

「――お気持ちは分かりますが、今は戻られた方がいいかと」

 その声音は、これまでになく低く、切実だった。

「どうして?」

 翔が問い返すと、中川はほんの少しだけ間を置いた。

「この館は……静かですが、完全に安全というわけではありません。見えない“段差”のようなものが、あるのです」

 言葉の選び方が、どこか抽象的だった。

 それでも、彼女の目に嘘がないことを、翔は直感で理解した。

 結衣が翔の袖を軽く引いた。

「今は……やめておこう。中川さんの言葉、信じていいと思う」

 静かな廊下に、再び沈黙が戻る。

 その沈黙は、前よりも重たく、奥行きを持っていた。

 そして――誰もが気づき始めていた。

 この館では、「知らないほうがいいこと」が、あまりに多すぎる。
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