蒼月館の招待状

天音 翔杜

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第2章 霧の中の足音

第9話 隠された足音

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 結衣の足が止まった。廊下の壁にそっと手を添え、彼女は振り返る。

「いま、音がしたわ」

 その声に、翔も呼吸を潜めるように足を止めた。

 霧に包まれた館の中は、ただでさえ音が吸い込まれるように感じられる。だがそのときだけは、確かに、どこか遠くで誰かが床板を踏みしめる微かな響きがあった。

「……誰かが、いる」

 囁くような声で、結衣が言った。

 二人は肩を並べ、東の廊下を引き返す。足音を殺すように、細心の注意を払いながら。窓の外はすっかり曇り、光も陰も判別のつかない灰色の世界が、ただそこにあった。

 その先、暖炉の間へと続くアーチをくぐったところで、水沢葵の姿が見えた。

「……何か、あったの?」

 彼女は肘をついたままソファに腰掛け、読みかけの本を閉じていた。その表情に、いつになく警戒の色がある。

「さっき、何か音がして……」翔が言いかけたとき、水沢は静かに首を振った。

「聞こえていたわ。でも、誰もここには来ていない。私以外」

 言葉の選び方が、明らかに慎重だった。

 結衣が周囲を見渡しながら問いかける。

「森さんと相川さんは?」

「さっきまで一緒だったけど……別の棟を見に行くと言ってた。書庫の奥に、少しだけ隙間のある壁があるって」

 翔と結衣は、目を合わせた。

「……昨日、僕たちも気づいた。でも、あえて触れなかった」

「……理由は?」水沢の目が、強く光る。

「“開いてしまう”気がしたから。何かを、ね」

 その言葉に、水沢は静かに頷いた。

「記録と痕跡。それは紙や言葉に残るだけのものじゃないわ。選んで、口に出さず、触れずにいること――それもまた、記録の一部なのよ」

 誰も言葉を返さなかった。

 そのとき、館内放送が短く鳴った。

『――本日は、夕刻五時を目処に、簡単な夕食をご用意しております。お時間になりましたら、食堂へお越しください』

 女の声だった。けれど、誰のものなのか、今ひとつ特定できない曖昧さを孕んでいた。

「この声、誰なのかしら……」結衣が眉をひそめた。

 すると水沢が言った。

「鵜飼先生の元で働いていた女性秘書の声に……似ている気がする。気のせいかもしれないけど」

 空気が、またひとつ重たくなった。

 翔は立ち上がった。

「探そう。森さんと相川さんが行ったという“隙間”のある壁――そこには、まだ何かがある」

「中川さんにも伝えるべきかしら?」と結衣。

 翔は少しだけ考えてから、静かに首を振った。

「彼女には、彼女の“立場”がある。今はまだ、僕らだけで進むべきだ」

 三人は、沈黙のまま立ち上がった。誰もが口を開かず、しかし心のどこかでは確信していた。

 この館のなかには、まだ知られていない“記録”がある。

 そしてそれは、ただの紙ではなく――“人の記憶”に、深く埋もれているのだ。
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