キャラメルと猫

茶色いあの子

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日常

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 先生と出会ったのは、大学に入学してから半年たった頃だった。彼の声に耳を傾けながら、如月真緒きさらぎまおは初めて授業を受けたときのことを思い出していた。新生活が始まったばかりの頃は、慌ただしく、ただただ毎日を過ごすだけだった。しかし五月六月と時が経つにつれ、繰り返される代わり映えのない、単調な日々に飽き飽きするようになった。あと三年半もこれが続くのかと少し落胆もしたが、どうせこんなもんだろうと心のどこかで納得していた。そんな時だった。ふと目に留まった授業にでてみようと思ったのは。特にこれといった興味があったわけではなかったけれど、どことなく惹かれるものがあったのだ。そしてそこで衝撃を受けた。こんな面白い授業をする人がこの大学にいたなんて、と。今まで体験したことのないくらいに、好奇心が刺激された。そこからはとんとん拍子に進み、三年生になった今年、真緒は彼のゼミに所属することとなった。


「何ぼんやりしてるの?」
「へ?」
 突然話しかけられて、真緒は間抜けな声を出してしまった。
「珍しいじゃん、先生の授業中に真緒が上の空なんてさ?」
 端正な顔立ちの青年にじっと見つめられて、真緒は頬を染めた。学部一、いや学内一といっても過言ではない容姿、明晰な頭脳。天は二物を与えずとはよく言ったものである。
「べ、別に上の空だったわけじゃないよ。ただちょっと考え事をしていただけだから。それよりりんこそ私の方ばかり見てて大丈夫なわけ?当てられても知らないから」
「大丈夫、大丈夫。予習はばっちりだからね」
 琳はそう言い、悪戯っぽく笑ってウインクをすると、正面を向いて流れるようなキャラメル色の髪を掻き揚げた。その彫刻のように美しい横顔に、真緒はうっとりと見とれてしまい、しばらく目を離すことができなかった。


 如月真緒と若月琳は専門が同じということもあり、一年生の頃から授業が被ることも多かった。その結果、自然と気が置けない間柄になっていた。学生生活も後半に入った近頃では、同じゼミに所属するようになり、顔を合わせる回数や時間が増えてきていた。興味関心が惹かれるものが重なる以外は、似ても似つかない二人である。そのため、傍から見ると不思議な組み合わせかもしれなかった。
琳に一方的に好意を寄せる女学生は多く、「彼が参加している」というだけで授業を履修している子も少なくなかった。最近では、下級生が彼目的でゼミを見学しに来ているほどである。「若月琳」効果もあってか、どれも先生の授業は大盛況である。


「ねえ若月君?」
「若月さん!」
 授業が終わると、琳目当ての女子たちは彼と話をしようと集まってきた。
「人気者は大変だね。じゃあ、私はこれで」
 そう告げると真緒は同情のまなざしをなげかけて、教室から出ていった。そんな彼女の後姿を見て、薄情なやつ、と心の中で呟くと、琳は彼を取り囲んだ女子たちに太陽のような笑顔を作ると、
「じゃあ、僕、これから予定があるから……ごめんね、またね」
といい終わるやいなや爽やかに教室を飛び出していった。残された女子たちは多少残念に思ったものの、彼の笑顔に心奪われていた。


「少しぐらい話してきてあげればよかったのに」
研究室に逃げ込んできた琳を見て真緒は呟いた。
「君は……人の気も知らないでよく言うよ。君だって毎日毎日追いかけられてみればわかるさ。意外と大変なんだよ?」
「そうだね。私には一生わからないし、関わることのない問題だと思う。美人じゃないし、何かすごい特技があるわけじゃないし……まあ、同情はしてあげるから。でも琳と仲良くなりたいって思う子の気持ちもわからなくはないよ?そういう話を散々聞かされたことあるし」
「ったく。なんだそれ。ほんと真緒はどうでもいいことには我関せず、だね。まあ、だから話しやすいんだけど。そうだっ、これ見てよ」
 そう言って琳ははにかむと、バッグからノートを取り出しながら、真緒の横に腰かけた。琳がノートを開くと、真緒は彼に近寄りノートを覗き込んだ。二人は言葉も発せず、しばらくノートを食い入るように見、考え込む。
「……二人して何をそんなに考え込んでいるの?」
 沈黙を破ったのは先生だった。いつの間にか研究室に入り、二人の後ろに回り込んでいたのだ。
「先生?お疲れ様です。いつからいたんですか?全然気が付きませんでしたよ」
「ああ、若月君。ほんの少し前なのだけどね。ドア越しに君たち二人がいるのが見えてね、いつになく真剣な顔をしていたから何を見ているのか気になってしまったんだ」
「そうだったんですね」
「うん。それで一体君たちは何に夢中になっていたんだ?」
「これですよ、先生。あの授業の課題です。琳が……若月が先週からずっと考えていて。それで昨日ようやく彼なりにまとまったらしくて」
「ほう」
 先生は二人の向かい側に腰を下ろし、目の色を変えてひろげられたノートを覗き込む。二人は緊張の面持ちで彼の表情を伺う。目を通し終わった先生の顏が和らぐと、二人も安堵の表情を浮かべた。
「うん、悪くないね。切り口も面白いし、これならいいレポートが書けるはずだよ」
「………よかった。先生にそう言ってもらえると自信が持てます。ありがとうございます」
「よかったじゃない。バイトも『心ここにあらず』って感じだったんでしょ?方向性がまとまらなくて。先生のお墨付きももらったことだし、安心して書き始めたら?」
「ははは。でも安心するのはまだ早いよ。君なら大丈夫だと思うけど、気を抜かずに最後まで書きあげること。楽しみにしているよ」
 琳が力強くうなずくのを確認してから席を立つと、
「それじゃあ、また。あっ、そうそう如月さん今週のゼミでの発表、楽しみにしていますよ。」
 そう言って研究室から出ていった。残された二人は顔を見合わせてほほ笑みあうと、お互いの作業に戻った。研究室では紙をめくる音と、ペンを走らせる音とが知的なアンサンブルを奏でていた。これがよくある研究室の風景である。同じ部屋にいるが、互いに違う世界を訪れているのだ。だから会話もほとんどない。しかし二人にとってそれが当たり前になっており、一番研究が捗る環境に違いなかった。



 その日の夕方、大学のカフェテリアで、真緒は中学時代からの友人と会うことになっていた。その友人とはほとんど腐れ縁といってもいいほどだったが、真緒にとっては話しやすい部類に入る人物であったため、大学生の今でも関係が続いている。
「ごめん、ごめん、ごめん、待った?」
 待ち合わせ時刻よりも数分遅れて、カールさせた、栗毛の長い髪を手櫛で整えながら、彼女は、真緒の座っているテーブルにやってきた。
「ううん、そんなに待ってないよ。五分くらいかな。伊万里にしては上出来じゃない?これなら遅刻のうちに入らないもん」
「真緒にゃんって意外と辛辣だよね。ここ、座るね。最近どう?ほら、三年生になってから滅多に会わなくなったじゃない?私も若月君という目の保養がなくなって辛いのよぉ」
「あははは。伊万里、入学式の時から琳にぞっこんだもんね。まあ、専攻も違うし授業とか、大学にいる時間とかが被らなくなったから、会う回数が減ったのは仕方のないことだとは思うけどね。私も寂しく感じるときあるよ、やっぱり。腐れ縁の伊万里がいないと静かだし。でもね、ゼミは準備とか大変だけど楽しいし、充実してるよ。順風満帆とはいかないけど」
「ふうん。真緒にゃんて、やっぱり私がいないと寂しいんだね。大変よろしい。私もなんだかんだ言って結構充実してるよ、毎日。まあ週に一度も若月君を見れないときは辛いけど。あーあ、こんなことなら私も真緒にゃんと同じゼミにしておけば……専攻が同じならよかったのに」
「そうは言っても自分の興味のあることに忠実だもんね、伊万里。でも本当に最近多いんだよ、琳目当てに先生の授業に来る子。一番びっくりしたのは、ゼミを見学しに来た一年生がいたことかな。先生は『来るもの拒まず』って感じだからさ。授業終わりの彼を取り囲む女子たちの数といったら。伊万里も実際に見たら驚くと思うよ」
「あー、それはきついかも。若月ガールズにはとても入れそうにないわ、私。それで若月君本人は普段どんな感じなの?さっきから周りに集まる女子の話しか聞けてないんだけど……」
「うーん……そうだね。確かに見た目はまあ所謂『イケメン』って感じだけど、喋ると普通で、真面目な学生っていうか、考え方が面白いから一緒にいると刺激になる子かな。自分を取り巻こうとする女子たちには割合態度がそっけなくて、『興味関心まったくなし』って感じなんだけどね。でも興味のあることには饒舌で、目をきらきら輝かせて私の知らないこともいろいろ教えてくれるの」
「……真緒にゃん、単刀直入に聞いていい?」
「へ?」
「若月君のこと好きなの?」
「え?好きだよ、大事な学友だもん」
「それって渾身のボケなの?私が言いたいのは」
「わかってるよ、恋愛対象として好きかって聞きいてるんでしょ?……でも私、わからないから。琳のことは好きだよ、でもこれが恋愛感情かって聞かれたらさ、違う気がするんだよね。確かに琳に見つめられると照れちゃうし、あの澄んだ瞳に吸い込まれそうになることもある。でもそれって私に限ったことじゃなくて、誰にでもあることだから」
「うんうん、真緒にゃんの言いたいことはわかった。前より綺麗になった気がしたから聞いただけだよ。あんまり深く考えないでね。……でも、もし、もしだよ。もし万が一若月君のことを異性として好きになることがあったら、隠さず私に教えてね」
「え?そうなることはないと思うけど、もし、万が一なったとしても伊万里に教える筋合いはないもん」
「え?ひどいなあ。私と真緒にゃんの仲でしょ?私応援するよ!」
「うふふふ、冗談に決まってるでしょ。腐れ縁って言っても、私伊万里のことこれでも結構信頼してるんだからね。相談に乗ってほしいことができたらきっと話すよ。……それで伊万里も私に話してくれるんでしょ?」
「え?」
「だって今日私を呼んだのって、別に琳のことを根掘り葉掘り聞きたいわけじゃなくてさ……何か聞いてほしいことがあったからなんじゃない?」
「……さすがわが友、ご名答。実は……」
 それから二人の女子学生は、カフェテリアが閉まるまで話に花を咲かせた。



 恋愛感情的な「好き」ってどういうことだろう。
 カフェテリアで伊万里と別れてから、真緒はずっと考えていた。思えば、今まで歳を重ねてきた中で、そういった感情を抱いたことがあっただろうか。中学時代も高校時代も、興味のあったことにのめり込み、誰かに恋い焦がれるだとか、お付き合いをするだとか、所謂「恋愛」とは無縁の生活を送っていた。もちろん、自分なりに青春を謳歌していたつもりだし、充実した日々だったとは思う。そんな真緒とは対照的に伊万里は、「恋愛」に一生懸命で、学校内外の色男と付き合ったり別れたりを繰り返していた。彼女は「もう誰とも付き合わない」と、破局する度に真緒に話を聞いてもらいに来ていたが、数か月後には違う人とデートをしている、そんな女子生徒だった。いつも話を聞かされていたから、いつの間にか、それが伊万里にとっての真剣な恋なのか、寂しさを埋めるための一時的なものなのかがわかるようになってしまっていた。今日の話を聞く限り、どうやら今度の伊万里の恋は真剣なもののようだ。そう真緒は感じたが、思いがけない彼女からの「琳のことを好きなのか」という問いで頭の中がいっぱいであったため、確信は持てなかった。
 伊万里は恋愛的な「好き」を、大まかに言うと「そばにいたいと感じる」ものだとか、「いつも自然と相手のことを考えてしまう」ものだとか、「そのことを考えると胸が締め付けられる」ものだと表現していた。真緒にとって琳は一緒にいることが多く、「そばにいたい」と感じたことはなかったし、彼のことを考えるときに「胸が締め付けられる」こともなかった。そもそも「琳のことを考えること」は滅多にない、というのが真緒の印象だった。考えるには、琳との距離が近すぎたのかもしれない。伊万里の物差しではかると、自分は琳のことが恋愛的な側面からみたとき、「好き」とは言えない。これが真緒の結論だった。
 では、自分にとって「好き」と思える人は誰もいないのか。そもそも伊万里の言う「好き」と自分の感じる「好き」はどこまで同じものなのか。「好き」とは一体何なのか。真緒の頭の中をぐるぐると問いが答えを探して回る。
「今日は寝られそうにないな」
真緒はぽつりとつぶやいた。

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