吸血鬼専門のガイド始めました

椿

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41 狩られる側の吸血鬼

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「もう大丈夫。このまま休んでいれば元通り元気になるよ」

永兎は眼鏡の医者のその言葉に、漸く正常な呼吸を取り戻せた気がした。ベッドで落ち着いた様子で眠る故白を見てほっと安堵の息を吐く。どうやら薬がちゃんと効いているらしい。余程酷い顔をしていたのだろう、医者は永兎に椅子に腰かけるよう勧めてから、励ますように「今回はマシな方だよ」と笑った。

医者──若月は、実際にその場に居た永兎より現状を良く把握しているようだ。永兎は彼からの言葉で、初めて空が黄金律であることを知った。黄金律なんて永兎のような一般の吸血鬼にとってはフィクションのような扱いで、実際に見ることも、ましてや匂いすら嗅ぐことも無いレベルのものだ。吸血鬼全てを虜にするというその血の味に一切興味が無いわけでもなかったが、自分には一生関わりが無いものだと信じて疑っていなかったし、渇望することも無いんだろうなと思っていた。
──だけど、あれは駄目だ。
目の前にしたら、もうその赤しか見えなくなる。一瞬にして思考が食欲で塗り替えられる。理性など最初から無かったと言わんばかりの暴力的な衝動に、抗う術は無かった。

永兎は両手の指を絡め強く握った拳を額につけ、はあっ、と湿った吐息を吐き出す。

『次は一年毎じゃなくても、いつでも俺と故白さんに会いに来てください!!』

まだ新しいその記憶を思い出して、視界がじんわりとぼやけた。
大切な友達の命を、わけもわからないまま奪ってしまうところだった。止められて、いや止めて貰えて本当に良かった。あのまま空の血を吸い尽していたなら、永兎はもう生きる意味を失っていただろうから。
そうならなかったのは全部、故白が身を挺してくれたおかげだ。

彼の腕に巻かれた純白の包帯を見て、握る拳に力が入る。
痛いほどの感謝と申し訳なさを感じると同時、永兎はあの時感じていたある疑問を口に出していた。

「……あの、…ガイドさんは、純粋な人間じゃない、ですよね?」

若月はそのレンズの奥で一瞬驚いたように目を見開いて、それから「ああ、」と納得したように表情を緩めた。

「──牽制でもされたかい?」

牽制。確かには牽制だったのかもしれない。妙にしっくりくる表現に永兎はぎこちなく肯定を返す。

空に噛みつこうとしていたあの時、故白に香水を吹きかけられる前に永兎は既に正気に戻ることが出来ていた。何故なら、故白の血を口に含んだ瞬間に『声』が聞こえたからだ。いや、『声』という表現が正しいのかはわからない。明確な音ではない、脳に直接響くようなそれは『思念』と言ってもいいかもしれない。

『私のものだ』

所有と独占を示す意図を持つ恐怖をも感じさせる強い思念が、永兎に正気を取り戻させた。
本能的に抗えない服従を強制する、そんな力を持ったあの『声』は──、

「我らが始祖、ツェペシュ家の御当主様」
「!」

思ったことがそのまま口から出てしまったかと思い焦ったが、それはこちらに視線を向ける若月が発した言葉だった。目が合うと、ニッコリ笑いかけられる。

「こっちでは『紅華』って呼び名らしい。
椎名の血を吸って、彼の身体を別物にのは彼女さ」

「……始祖の、吸血」

それは、永兎達吸血鬼の間で口伝として伝わる吸血鬼創生の歴史。

「大昔、自然発生した始祖が人間の血を吸ったことで僕らの先祖を生み出した、とは聞くけど、実際にを見るのは椎名が初めてだったよ。…と言っても、始祖様にその意思が無かったのか何なのか、椎名は完全な吸血鬼僕らともまた違うけどね」

呆然と目を見開く永兎に、若月は続ける。

「たまたま日本に来ていた時に、『うっかり』噛んでしまったんだって。大声では言えないけど、迷惑な話さ。椎名の身体構造は短時間で急速に書き換えられて、人ではなくなった。かといって完全な吸血鬼でもない、世界に二人といないどっちつかずな生物始祖の眷属が誕生したというわけ」

若月は過去の出来事を思い返すように、眠る故白を静かに眺めた。







「──あら、営業時間外かしら。ごめんあそばせ」

気配も無く突然目の前に現れた少女と、清潔なタイルの床にドサリと落とされた成人男性に、昼休憩を取っていた若月は啜っていたカップ麺の中身をゴホッ!と勢いよく吐き戻してしまった。
人間界で吸血鬼専門の病院を持ってから20年以上が経過し、何となく吸血鬼達にも此処の存在が知れ渡り始めたか?と思えていた時の事だ。
始祖彼女が病院創立以来最大級に厄介な事態を持ち込んできたのは。

ひとしきり咳込んで、それが落ち着いてもまだ違和感のある喉を鳴らしながら把握した現状は、酷いものだった。

身体を痙攣させながら荒い息を吐く男。きつく食いしばったその口から、掻き毟った顔から、爪の禿げた指から、凝固する間もなく流れ出る血液を見て若月は咄嗟に顔を歪める。見下ろした手元のカップ麺を食べる気はもう失せてしまっていた。

始祖とは初対面だった。種族のトップなのだ、勿論顔は知っているがそれは一方的なもの。しかし彼女は此処を吸血鬼に理解のある病院だとしっかり把握していたようだ。
偶に出回る写真と寸分違わない、感情の見えない凍てついた紅の瞳に背を冷やしながら、まあ始祖だし…、と余計な思考は隅に押しやって現状把握に努める。

「ええと、これは何事でしょう、始祖様…?」
「うっかり噛んでしまったの」
「うっかり噛んでしまったんですねぇ…」

吸血衝動も無い筈の始祖が??という疑問は全て封じ込めて、若月は死んだ目で復唱した。機嫌を損ねられても面倒だ。ひとまずは症状の原因が分かればそれでいい。
床に這いつくばる男が苦しんでいるのは、十中八九その始祖の吸血によってもたらされた強い催淫作用のせいだろう。吸血鬼の牙による催淫作用は、それぞれ個人差はあるもののやはり吸血鬼としての力が強い者程その効力も強い傾向にある。そして、目の前の少女はその吸血鬼の中で最上級の強さを誇る我らが女王。
その催淫作用がどんなものかは、…まあ、此処に居る貴重な患者が体現してくれているわけだけど。

毎秒ごとに終わりの見えない絶頂を繰り返し、ガクガクと気を失うことも出来ず震える男を今一度視界に入れて、流石に同じ男として同情する。とても正気で居られないだろう現状をどうにかしたかったのか、痛々しい自傷で彼の身体は見るからに満身創痍。しかし朦朧とした意識の中、その新しく研磨された刃のようにギラつく瞳は始祖だけを離さずに睨みつけていた。
怨嗟の念が強く込められた純度の高いそれに思わずゾクリとさせられた若月とは反対に、その目線を直接向けられているにも関わらず歯牙にもかけないどころか寧ろ嬉しそうにすらした始祖。彼女は纏っていた純白のワンピースに色々な男の体液が付くのも構わずに、横たわる男の前へとしゃがみ込んだ。

「…段々と動けなくなって、声も小さくなって、今はこんな風に無力」

細く小さな指が、男の無防備に晒された喉をツツツ、となぞる。それだけの刺激で「ぅ゛あ゛あ゛!」としゃがれた声を出して大きく痙攣した男に、始祖は小さく笑った。
それはまるで人間の少女が誕生日にペットをプレゼントされた時のような、または新しく出来た弟の誕生を喜ぶ時のような、無邪気で、歓喜だけが満ちた笑みだった。
若月がいつか見た写真の中に映る、この世の全てに興味が湧かないとでも言う風な貼りつけた愛想笑いとは全く異なった、見た目相応の少女然とした表情だ。

「うふふ。まるで赤ん坊にでも戻ったみたいね?可愛らしいわ」

笑みを見せるに至ったその思考については、人の気持ちを察する能力が高くないことを自負している若月には到底理解出来そうも無かったが。

「えーと、それで、始祖様はこの人間をどうされたいのでしょうか?このままにしておいたら死にそうですが」
「死なせたくないから診療所ここに来たんじゃない。早く何とかしてくださいな」

男に向けられていた笑みとは一転、スッと熱が冷めるように消された表情で淡々と告げられた言葉に、若月は一も二も無く反射で頷いた。基本、長いものにはとりあえず巻かれておく主義である。


男──椎名の身体を蝕む始祖の催淫剤はそれはもう凄まじく強力で、投薬治療を開始しても最初の数日は椎名の症状も変わらず、効いているのかもわからない程だった。緩やかに治まっていく、類を見ない程に長引いたそれが完治したのは4~5年後の事だ。普通の生活をするのにずっと薬が手放せない身体だった椎名も、そこで漸く健康体となれたわけである。
しかしその時には既に、彼の身体は純粋な人間ではなくなっていた。

吸血衝動とか、力が強くなるとか、そんな風に分かりやすいものではない。
ただ不老になった。老化では死ねなくなった。
それだけで、元々平凡な人間でしかなかった椎名には十分残酷だった。

もう何十年かは昔の話だ。椎名は人間との共存を諦めたようだった。知り合いとの関係を全て切って、しかし吸血鬼僕達と同じになることも出来ず、また受け入れることも無かった彼は益々孤独へとその足を進めていった。
椎名とは彼の通院で一応継続的な接触があったため、情が湧くのもそれほど不思議なことじゃない。始祖様の勧めでいつからかガイドとしての仕事を始めたらしい椎名だったが、出会った頃から比べて炎が消えていくみたいに何事にも無気力になっていく彼に何も思わないわけじゃなかった。



「──だから本当に嬉しかったんだよ、空君を助手にしたって聞いた時は。椎名がもう一度人と関わろうと思えていることが。
でも、永兎君の話を聞く限りじゃそれももう終わりなのかな…」

「残念!」と、若月は陰りのあった表情をわざと明るい笑みに変えて話を結ぶ。

「椎名の目が覚めたら、君も早くあちらの世界に帰りなさい。このままじゃ命を狙われる可能性があるからね」
「……、…はい」

静かに胸を上下させる故白を眺めながら返事をした永兎の脳裏には、つい今朝も見た彼と空の楽し気な会話風景が思い浮かんでいた。

──本当に、終わってしまうんだろうか?

窓を打つ激しい雨音が、思い起こした彼らの会話をかき消すように室内の静寂を埋める。現状を突き付けるようなそれが嫌で、永兎は両手で自分の耳を覆った。






「──故白さんと永兎さん、大丈夫かな……」
 
病室のベッドの上。仰向けに寝転ぶ俺は、二久君から暇つぶし用にと押し付けられていた何やら小難しい本を数ページだけ目で追って、……追った後、広げた状態のままのそれを顔に伏せながら呟いた。至近距離で自分のくぐもった声が返ってくる。

入院してから3日が経った。
二久君が言っていたハンター用の最新医療キットのおかげか俺の傷の治りは異常に早く、傷を負ってから3日目にしてもう殆ど完治してしまっているほどだ。それでも一応検査のためだとか何とかで今日すぐに退院というわけには行かないらしく、俺はこうして痛みも無くダラダラと個室の清潔空間を最大限満喫していた。
暇になると、人間どうしても色々なことに思考が割かれる。俺の場合は今こうなっている理由が理由なので、自然、二久君と再会したあの日にお互い大変な状態で別れてしまった故白さんと永兎さんについて考えることが多かった。

永兎さんは俺の血が原因で俺を襲おうとしたことを気に病んでいないだろうか。故白さんは永兎さんに血を吸われて平気そうにしていたけど、傷とか、……後は催淫作用とかで苦しまなかったのだろうか。ちゃんと若月先生に薬を貰いに行けたかな。
故白さんに関してはその他にも、あの場を収めてくれたことにちゃんとお礼をしたいし、故白さんは吸血鬼なんですか、とちゃんと本人から真実を聞いてみたい。後は、…俺の体質に関するちょっとした相談、とか…。
聞きたいことも、話したいことも沢山あるんだ。

俺は、アイマスクとして本来とは異なる目的で活用されていた本を顔から引き剥がした。3日経っても遅々と進まないページは、既に開き型がついてしまっている。
二久君から「読んで無いな」と真顔で指摘される未来に目を逸らしながら、俺はその綺麗な本をベッド脇に避け、代わりにスマホへと手を伸ばした。

何の通知も届いていないロック画面に、ほんの少し眉が下がる。

最初は、もしかすると体調の良くなった故白さんが俺を見舞いに病院まで来るんじゃないか、そうだったら二久君と鉢合わせにならないようにしなければ…、なんて浮かれたことを考えていたけど、そんな悩みは杞憂だった。いや当然なんだけどね!…でもちょっと期待してた分、微かな落胆もある。
会えない代わりに、一応「入院するのでバイト休みます」という旨の連絡をしようと二久君が居ない隙を狙って何度か電話をかけたが繋がらず、最終的にメッセージだけ送るも、返信は来ないまま。
忙しいのか、体調が優れないのか、それすらも分からない現状にどうにも気分が重くなる。


このまま会えないとか、無いよな?


悪い方向にばかり考えてしまう思考を止めるため、俺は消毒液の匂いがする枕にボスン、と勢いよく顔を押し付けた。

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