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「ただいまー」

「おかえり」

帰宅後、誰も居ないだろうと思った故の悠也のハリの無い挨拶に、返答がある。
バッと勢いよく声の方に視線を向けると、いつかの朝のごとく、狭い玄関通路の壁に身体を凭れかからせて腕を組んだ伊織が立っていた。
ただあの時と違うのは、時間帯と、あからさまに不機嫌そうな伊織の表情である。

おっと、威圧感がすごい…。

「きょ、今日バイトは?」

「休み」

「そ、か…。 あ、弁当、ありがとな! 助かった!」

視線は意図的に合わせていないが、悠也は出来る限り通常を装って靴を脱ぐ。
そしてその会話の勢いのままリビングに直行するために、伊織が寄りかかっている壁の反対側を急ぎ足で通過しようとして――、

ドンッ!!
対面の壁を蹴りつけるような動きで伸ばされた伊織の長い足に、完全に動きを止められてしまった。

悠也の腰スレスレを通ったそれに、もう少しで本当に蹴られてたんじゃないかこれ?と、悠也は恐怖から壊れた機械のような動きでギギギと一歩後退する。
そんな悠也の一挙一動に、ハチの巣にでもしそうなくらいの圧を持った、伊織からの鋭い視線が突き刺さっていた。

「おい、最近の奇行を説明しろ」

「…な、何のことでしょうか…?」

「とぼけんな。 俺のこと避けてんだろ」

「いや、あの、……別に避けたくて避けてるわけじゃ、っ!?」

伊織からの追及をしどろもどろに躱していると、足を降ろした伊織から急に距離を詰められ、一瞬にして壁際に追い込まれる。
背には冷たく固い壁の感触、両脇には、悠也を逃がさぬよう伊織が手を付き、至近距離で悠也を糾弾するように見つめていた。

瞬きをするたびに風を運んできそうな伊織の長い睫毛、シミ一つないきめ細やかな肌、軽く合わせられた血色の良い唇、かすかに頬に当たる柔らかな息遣い、
それらをはっきりと知覚してしまう前に、悠也は咄嗟に顔を背け、出来るだけ伊織から距離をとろうとして壁に背を擦りつける。

行動自体は無意味であったが、その意図は伊織に伝わったようだった。

「……目、合わせねぇし。 ……あいつにはベタベタ触らせてたくせに」

最後、伊織が小声で何か言ったが、悠也がその言葉を聞き取ることは叶わなかった。
だが、もしかすると通常の会話レベルの音量で言われても、それを悠也が正しく理解できたかは謎である。

なぜなら――、
伊織が間近に居ることで悠也の心臓は痛いほどに騒ぎだしており、鼓動がドクドクと耳にまで響いて、酷く騒々しかったのだから。

悠也は羞恥に耐えかねて、伊織の胸あたりを両手で力強く押しやり、バランスが崩れた腕の隙間から素早く抜け出した。

「っ…!」

「い、伊織には関係ないから!!」

「…はあ? 吐くならもっとマシな嘘吐けよ!
潤には普段通りに接するし、会社でもおかしな態度じゃなかった。 俺に対する挙動だけ明らかに変だろ。 
……何か、理由があるなら、」

伊織が詰め寄った分だけ悠也も後退るため、先ほど帰宅したにも関わらず玄関ドアの方へ戻っていくという謎の光景が生まれていたが、今の二人に互いを客観視する余裕などない。
もう少しで悠也の足が三和土へ届くというところで、肉体的にも精神的にも追い詰められた悠也の思考は、どうしようという戸惑いから、(お前が俺をオカズに自慰してるのを見てから、お前のことを意識しちゃってます。なんて本人に言えるわけねーーだろッッ!?)という逆ギレへとシフトチェンジしかけていた。

そしてその心の叫びが、恐らく伊織にとって最悪な言葉で伝わってしまった。

「理由があったとしてもっ…! ―――伊織には言えない!」

「――……っ、あっそ!!」

一瞬だけ見えた、くしゃりと苦しげに歪んだ伊織の顔に、(あ、しまった)と自身の放った言葉を後悔する。
伊織はすぐさま悠也に背を向けて、苛立ちに大きく床を踏み鳴らしながら自室へと向かっていった。
悠也が何か言葉をかけようとして、しかし何のフォローも思い浮かばず、口を魚のように動かすことしか出来ないでいると、自室の扉に手をかけた伊織がギッっと鋭い眼差しで悠也を振り返って、

「もう俺は、要らなくなったかよ」

「違っ…!」

「もういい」

バタン!!
激しく閉まるドアの音に、悠也は反射的に肩を揺らし、顔をしかめる。
それに対して、もっと家を大切に扱いなさい、なんて小言も思い浮かばないくらいに、悠也の中で先程の伊織の傷ついたような表情が、何度も繰り返し思い出されていた。
ゆっくり片手で額を覆うようにすると、深いため息を吐く。

あ――、なんでこうなっちゃうんだ…。


――その日の夕食時、普段通り3人で食卓を囲みはするが、潤への返事や相槌以外には一言も言葉を発しなくなってしまった伊織に、悠也は以前までとはまた異なる理由で気まずさが増してしまった。
一切悠也へと視線を向けないまま食事を終えた伊織は、使用済みの食器を流しに運び、無言でリビングを出る。

2杯目の白米をほおばる潤が不思議そうに首を傾げたのを、悠也は視界の端で捉えながらも、何故か伊織が出て行った扉から視線を逸らすことが出来なかった。





「悠也くん、兄ちゃんと喧嘩?」

夕食後、後片付けを終えリビングのソファーでぼーっとテレビを眺めている悠也の元に、風呂上がりの潤が話しかけてきた。
悠也の足の間にすっぽりと収まる形で床に三角座りをした潤は、まだ若干湿った髪の毛をそのままに、目の前のローテーブルにあるリモコンでテレビの番組表を操作し出す。

どうやら潤と入れ替わりに今は伊織が浴室に居るようだ。
それならば伊織がここに来る心配も無いかと、悠也は、手慰みに潤の髪の毛を肩にかかったタオルで拭いてやりながら質問に答えた。

「喧嘩っていうか…、俺が伊織を一方的に傷つけた…多分」

「謝った?」

「…いや、まだ」

「謝れそう?」

「……謝れる、けど、謝罪だけじゃあ伊織は納得しないと思う…から、謝れない…」

「難しいんスか」

「難しいんス」

見たいバラエティ番組へとチャンネルを変えた潤は、ポツポツと話す悠也のタオルドライに頭を揺られながら「う~~ん」と唸り声を上げる。
そして少しだけ間を空けると、首だけで悠也の方を見上げる形で、潤はソファーへ後ろ向きに頭を預けた。

次の瞬間、にぱっと、まるでひまわりのように晴れやかな満面の笑みを浮かべる。
男子高校生がこんなに可愛くていいのだろうか…?

「おれ、悠也くんと兄ちゃんのこと、同じくらい大好きだよ!」

「お、おぉ…、ありがと、俺も…って何だこれ! 照れるわ!!」

予期しないタイミングで真正面から弟に純粋な好意を示され、悠也はじんわりと赤くなる顔を咄嗟に片腕で隠した。
そんな悠也を下から仰ぎ見る潤は、好意を返されたことに嬉しそうに笑う。

潤の言葉には、裏表がない。
もちろん馬鹿正直というわけではなく、嘘もつくし、お世辞だってそれなりに言える。
だけど昔から、俺達かぞくに対しては特に、心の内を誤魔化そうとはしない奴だった。

「おれは、二人のこと大好きだから、思ったことは何でも言って欲しいし、頼って欲しいし、どんなことでも力になりたいって思うよ。
でも、悠也くんはおれ達のことが大好きだからこそ、心配かけないように黙ってることもあるんだって、分かってる。 …分かってるけど、それが、ちょっとだけ寂しかったりもする」

「…潤、」

潤は、やや伏し目がちになっていた視線を再び悠也のそれに合わせると、続けて言った。

「きっと兄ちゃんもおれと同じ気持ちだろうから、悠也くんが思ったこと全部言ってもらえたら、それがどんなことでも嬉しいし、受け入れる…か最大限反発するよ!」

「反発という選択肢」

「嫌なことは嫌じゃん?」

「そうね…」


「――でも、少しでも寄りかかってくれたら、おれ達は嬉しい」

「――っ、」

目を見開く悠也に、潤はもう一度ニッ!と歯を見せて笑うと、「早めに仲直りしてね! ずっと重苦しい空気だと、おれ潰れちゃうから!」と言って、同級生と比べて伸び悩んでいる身長を理由にわざとらしく眉を寄せる。
暗い雰囲気のままにしないための潤の優しい気遣いを感じて、兄2人が本当にすみませんと申し訳なく思いながらも、心が温かくなった。

「……ふは、そうだな。 潤の身長が伸び悩んでも困るし?」

「それマジ深刻だから!! おれまだ伸びるよね!? これが上限じゃないよね!?」

「大丈夫大丈夫。 確か、俺も伊織も高2ぐらいで一気に伸びたし、きっと潤もこれからだよ。 …だがしかし、このサイズ感のままでいて欲しさもある! おーー可愛いーー! よーしよしよし!」

「やめて!! 摩擦で削れるーー!!」

足元に収まる潤の頭を抱き込み、撫でてじゃれ合っているところで、
バン!! とリビングの扉が開け放たれる音が響き、二人してピタリと動きを止める。

扉を開けた張本人である伊織は、その場から動かず、悠也達をチラリと見下ろすようにして、

「風呂」

「あ、ハイ」

一言だけを言い放ち、自室へと向かって行った。

「早く仲直り、ね?」

「はい…」

腕の中の潤にも改めて念を押され、了承の返事を返したはいいものの――、

結局その日から、伊織の方がより顕著に悠也を避けるようになってしまい、まともに話が出来る状態ではなくなってしまった。

兄である自分が何とかせねばとは思いつつ、食事以外はずっと自室に籠りきりの伊織に声をかけることも出来ず……。

そんなこんなでもたついていたら、あっという間に土曜日、休日を迎えてしまった。

潤は朝から部活をしに学校へ、伊織もバイトに行ってしまったため、家には悠也一人である。
一週間分のたまった家事を一通り済ませた後、リビングのソファーに凭れた悠也は、後一日で、丸々一週間伊織と気まずい関係が続いていることになるのか、と思い至り、深いため息を吐いた。
その瞬間を狙ったかのように、

ピンポーン、

軽快なインターホンの音が部屋中に響き渡る。

時間は午後3時のおやつ時、特に来客の予定も無ければ、配達されるようなものも無かったはずだ。
想像できない相手に首をひねりながら、悠也は玄関へ足を進めると、

「はーい…、え、」

「――突然押しかけてすみません、悠也さん」

ドアを開けた先に立っていたのは、雰囲気に合ったその明るい色の短髪を、高く上った太陽の光できらめかせてはにかむ、
伊織の幼馴染兼親友、若草 優わかくさ すぐる君、その人だった。

「優君! …えっと、伊織ならまだバイトだけど?」

「あ、はい、知ってます。 今日は伊織じゃなくて、悠也さんと話したくて来ました。 …お邪魔、でしょうか?」

伊織に用があるものだと思い込み、真っ先に優に不在の旨を伝えると、まさかの俺のお客様だったらしい。
彼は眉を少し下げてこちらを窺うが、悠也が断る理由などあるはずも無かった。

「とんでもない! 丁度暇してたところだから、来てくれて嬉しいよ。 どうぞ入って!」

「ありがとうございます! お邪魔します」

悠也の了承に人懐っこい笑顔を満面に浮かべた優は、小さく頭を下げ、慣れた動作で玄関の扉をくぐった。

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