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しおりを挟む俺の生まれた村では、親の居ない子供は「人」ではなかった。
「お前みたいなやつには麦一粒だって勿体ねぇんだ。神様に捧げるために米食わしてやってんだから感謝しろよ」
「はい。ありがとうございます」
玄関扉の前。夕食が盛られた盆を差し出していたのは、俺が世話になっている家の一人息子だった。
俺より5つ程年上で、それなりに体格も良く凛々しい顔つきをしている。村の中でも権力を持っている家の生まれということと、その豪胆で人情深い性格から、同年代の子供達からは頼りにされ、また一目置かれているような人だった。
ただ、人ではない俺相手にその噂通りの人格は適用されない。それが通常なので、特に気にしたこともなかったが。
嫌悪と蔑み交じりの視線を浴びながら、彼に一歩近づく。露骨に鼻を摘まれて顰められた顔を、申し訳ないと思った。
米と漬物と具のない汁物が乗ったそれを早く受け取ろうとして、意図せず指先が触れる。
その瞬間、支えを失った盆が傾き、がっしゃんと大きな音を立てて地面に料理が散らばった。
「きったねぇな!触んな!」
「すみません」
すぐさましゃがんで、逆さまに落ちた器を正しく盆に置き直す。
汁物は完全に土に吸われてしまっていたので諦めた。しかし、地面に盛られていた米と漬物は器に戻そうと手を伸ばして、
指先が届く寸前で、それらは上から降ってきた足に隠れて見えなくなる。
ぐちっ、ぐち、と湿った音を立てて彼の足が地面に擦り付けられた後、漸く浮いた履物の裏に、追い縋るようにくっついていた茶色の塊が時間差でぼてっと落ちた。
「土好きだろ?付けといてやったぜ」
「……」
咄嗟に反応できないでいると、それが気に障ったのか、突然髪の毛を鷲掴まれ上を向かせられる。
顔の近くでぶちぶちと毛髪が抜ける音がして、痛みに少しだけ目を細めた。
冷えた黒い目が至近距離でこちらを見る。
「礼は大事だよなぁ、オイ」
「はい、ありがとうございます」
それで少しは気が済んだのか、彼は俺を突き飛ばすように手を離すと、そのまま自身の家へ戻っていった。
俺は尻餅をついていた体勢を起こし、土に塗れた米と、散らばった漬物をつまんで集める作業に戻る。
「気色悪。何やられても表情一つ変えねぇのなお前」
扉が閉まる直前、そんな忌々し気な声と軽い舌打ちが聞こえた。
寝床として貸してもらえていたのは馬舎の端の藁置き場だ。すぐそばで馬が歩き回る音を聞きながら、じゃりじゃりと土の味がする米を頬張る。
その際、ふと視界に入った腕を前に翳した。
乾燥やひび割れで皮がむけてガサついた指。爪の先には洗っても取れない土汚れが詰まっていて、腕にもいくつかアザや傷があった。お世辞にも綺麗とはいえない見た目だ。
神様はこんなボロボロの人間でも食べてくれるんだろうか。
先程の彼が鼻を摘んでいたのを思い返して、次は自分の臭いを嗅いでみる。あまりわからなかったが、馬糞の掃除をしたりするし、寝床も同じ場所だ。自分ではもう嗅ぎ慣れて気付かないだけで、そんな匂いが染み付いていてもおかしくはない。
食べ終えた盆を隅に置いて、そのまま後ろへ倒れ込んだ。
ボスッ、と藁に包まれ、香ばしい香りがする。少しは糞臭さが上書き出来ないだろうかと思い、周りの藁を掻き集めて身体の上にも乗せた。そして、藁の山から顔だけ出した状態のまま、しばしぼーっと思考にふける。
いつもは水が勿体無いからと身体を洗わせてもらえないが、神様に食べられる日の前は許してもらえたらいい。臭くて、汚かったら食べてもらえないかもしれない。そうしたら、皆困るだろうし、俺が今まで生かされてきたことが無駄になってしまう。
生贄として神様に食べられるのは、俺にとって特に恐ろしいことではなかった。
孤児の俺は本来そのまま死ぬはずで、でも、飯を食わせてもらって、毎日やる事を与えてもらって、屋根のついたところで寝れている。
それは俺が生贄だからだ。神様の食事だからだ。
俺を生かしているのは神様だから、死ぬ理由も神様であるのが道理だと信じて疑っていなかった。
祭壇に捧げられた日、身を清めることは許されたが、神様を待つ間に熊に遊ばれて血塗れになってしまった。
折角身体を洗ったのに、これでは台無しだ、とどんどん寒くなる死にかけの身体で思う。
こんなに汚れていたなら、もう神様は嫌がってここに来てくれないのではないか、そう悲観していた時、彼は姿を現した。
一つに束ねられた夕焼け色の長い髪と、晴天を閉じ込めたかのような、吸い込まれそうに青い瞳。
一目見て分かった。姿形は人間の、それも20程の若い青年姿だったが、明らかに雰囲気が人のそれではない。
意識が神様に集中したからか、周囲の自然音がピタリと止み、今この世界には彼と俺の二人だけしか存在しないのだと錯覚する程だった。
目に血が入り、姿が見えなくなる。それを惜しむ間もなく、さく…、と微かに葉を踏み締める音がして、段々と距離が近づくのが分かった。
「神様、ありがとうございます」
俺を終わらせてくれて、ありがとうございます。
それは音になったかわからない。だが、伝わっていて欲しいと願った。
俺が何か粗相をした時、折檻したがるのは決まって件の息子だった。殴って、蹴って、その度感謝を強要されるものだから、口癖とは言わないまでも、どんな時でも感謝の言葉はすぐに出るようになっていた。そこに感情がなくとも。痛くて、苦しくたって、すぐに言えた。
だから今も言えた。
ただ、これは確かに感情が乗った、俺の本心だった。
しかし、そこで幕を閉じるかに思えた人生は何の因果かまだ続く。それも、天界という別世界で。
最初はここが所謂天国かとも思ったが、俺は不思議な力で怪我を治療されて死んでいなかったし、神様は神様ではなくて、俺を食べることもしないと言うし。色々と予想外で、一つ一つ状況を認識することで精一杯だった。
そして一番の予想外は、神様──晴君の俺に対する態度だ。
笑いかけてくる目が穏やかだった。触れる手が、かけられる言葉全てが優しかった。気にかけてくれて、気遣ってくれた。抱き上げられた腕の中が温かかった。些細なことで大袈裟なくらい褒められた。出来ない事があっても殴られたりしなかった。
名前を、くれた。
彼の声、仕草、行動全てに、大きく感情が揺れ動いて落ち着かない。こんなことは初めてで、戸惑って、咄嗟に冷静な判断ができなくて、近くに来られるとつい目を逸らしてしまう。遠ざけたいような、逆にもっと近寄りたいような、そんな相反する思考でドキドキ身体が熱くなり、冷まし方すら分からなくなる。
今まで向けられたことのない、その好意が透ける目に、最大限翻弄されてしまう自分が居た。
そんなこんなありながらも、早いもので、天界に来てそろそろひと月が過ぎようとしている。
衣服は雨君から程良い丈で動きやすいものを数着貰い受けた。自宅の部屋や物の場所、使い方は粗方覚えたし、自分なりの生活の流れのようなものも出来てきている。
食事に関しては最初こそ晴君に請われるがまま教えていたが、彼は色々と興味がありすぎるためか注意力が散漫で、度重なる失敗の末、もう教えて欲しいとは言ってこなくなった。今では彼に材料こそ貰うものの、自分の食事は全て自分で調理している。晴君は調理の様子を見るのは好きなようで、よく千晴の背後から覗いてきては凄い凄いと言ってくれていた。……正直、近くで見られると緊張するのでやめて欲しい。
そんな風に千晴が一人でも問題ないと分かったからか、最近になって彼は外の仕事場へと出かけることが多くなったように思う。そういう時は一人で外に出ないよう言われているので、大体自宅で留守番だ。
とりあえず掃除をしてみるが、いつもやっていることなのでそこまで汚れもなく、すぐにやることがなくなってしまう。
千晴はちゃぶ台の前で静かに座り込んだ。そのまま、何かできることはないものかと考える。
そもそも神様、もとい天人には、何をすれば喜んでもらえるのだろう。
村の人間であれば確か前、誰かが花を貰って喜んでいたような。あとは食べ物…は天人には不要だから…例えば、髪飾りとか…?
ありがとう千晴、と笑う晴君を想像して、ふ、と頬が緩んだ。直後、我に帰った千晴は自身の両頬を勢いよく手で抑える。
今、顔が勝手に動いた……。
怪訝に思いながらムニムニ頬を揉み込んでいると、不意に視界の端、テーブルの隅に白い紙の束が見えた。
そういえば昨日、あの人が「明日持っていかなかったら怒られるから、忘れないように、朝絶対に通る居間に置いておこう!」とか言って何かを置いていたな。もしかして…、忘れてる?
その結論にたどり着いた時、既に身体は動き、その数枚の紙束を手に取っていた。
今あの人は、これがなくて困っているかもしれない。俺が届ければ、喜んでくれるかもしれない。
外出の許可が出ていないことも忘れ駆け出した千晴の頭には、届けてくれてありがとうと笑う、あの優しい晴君の表情だけが鮮明だった。
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