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しおりを挟む少しばかり無言で歩いて、ふいに少女がまた花瓶越しに顔を出して問う。
その表情は最初の恐慌状態から徐々に落ち着いていっているようだった。
「ぼく桜鈴っていうんだ。あなたの名前は?」
「名前……」
千晴。
晴君から与えてもらい、意味も、字も教えてもらったその名詞を思い出し、胸がどきっと大きく鼓動する。
このひと月の間でも沢山呼ばれて、もうその単語が自分の名前であると頭で考えずとも認識できるようになっていた。
しかし、それが自分の名前だと、自分で誰かに伝える機会は今までなかったかもしれない。というかそもそも晴君と出会う前は名前すらなかったので、自分の名前を口に出す行為自体が初めてなのだと気付き、うっすら緊張が体表を走った。
頭で数度音を思い浮かべて、一度無意味に唾を呑み込んでから、漸く声に出す。
「千晴」
言ってみるとそれは何ともあっけなく、しかし、温かい響きは千晴の頬にじんわりと熱を集めた。
名前如きでそんな風になっているのは可笑しいかもしれないと思い、顔を見られないように少しだけ花瓶へ頭を寄せる。
「千晴くん、って、呼んでもいい?」
「はい、どうぞ。桜鈴様」
「様!?様なんてつけなくていいよ!と、というか、そんなに畏まらないでよ…。ぼく達同じ天子なんだし」
少女──桜鈴は恐縮したように言って少しだけはにかみ、「誰の天子か聞いてもいい?」と続けた。
ここでは師事者と呼ばれる偉い人と、それに付き従う人とで立場が二分されているらしく、大多数である従者の方を天子と呼ぶようだ。
誰の天子か、と聞かれて、確か初対面時の雨君がそれらしい呼称を使っていたなと記憶を巡らせる。
確か、
「晴れの天子」
「晴れの天子!?あ!もしかして君が噂になってた子!?」
「!?」
前のめりに反応されて、突然傾いた花瓶が重さを増す。何事かと目の前の桜鈴を見やれば、キラキラ興奮したような目つきがこちらに向けられていた。
「すごいね!晴れの君は天子が1人もいない事で有名だったのに!すごい!すごいよ…!千晴くんは特別に選ばれたんだね」
少し冷めていた頬にまた熱が集まる。
それは、名を貰った際に晴君から直接言われたことではあったが、周りからもそのように思われるのを知らなかった。
そうか、俺は、あの人の『特別』に選ばれたのか。
改めて実感して、どんどん早まる鼓動に夢中になるあまり、その後桜鈴が「でもそっか…晴れの君って朗らかな雰囲気の方なのに、千晴くんが慣れるくらい殴ったり蹴ったりするんだ……。人って見かけによらないな……」などと小さく呟いていたのを聞き逃してしまった。
晴君の風評被害が加速した瞬間である。
「あっ、千晴くんが噂の天子だったってことはぼくより歳下だ!わあ…歳下の天子なんて初めて会ったよ、嬉しいな!いくつなの?ぼくは一歳!」
何が琴線だったのか親し気な様子で畳みかけられて、その勢いに少しだけ驚いた。勿論その内容にも。
一歳??俺は七歳なのに??
勝手に同年代かと思っていたが、天人の成長速度は人間と違うのだろうか。
処理が追い付かず何も答えられなかった千晴をどう思ったか、桜鈴は「あ、一歳以下って答えにくいよね。ごめんね」と気遣わしげな態度で謝罪した。
何がどう答えにくいのか分からないし、そういう問題じゃない。しかしこれで何がボロが出て、千晴が人間だとバレてしまうのもまずいので口を噤んでおく。沈黙が最適解である。
「でもぼく、千晴くんよりお兄さんなのに、叱られたりするの慣れないや…」
「……。よく叱るような師事者なのか?……えっと、」
お兄さんではない。年齢の意味でも。性別の意味でも。という言葉は飲み込んで、次に、そういえば桜鈴はどこの天子なんだろうと疑問が浮かぶ。
千晴が言い淀んだのが分かったのか、彼女はやや俯けていた顔を上げて、
「ぼくは雷の天子。師事者の雷君はとっても優しいよ。ぼくのこと沢山可愛がってくれて、本当に大好き。この花瓶と花も、雷君に喜んで欲しくて持って行ってるんだ」
ふわっとはにかんだその顔には、確かな親愛の感情が感じられた。雷君という人を本当に慕っているのだろうというのが分かる。
しかしその表情は次第に曇り、そして、言おうか迷うみたいにしばし逡巡してから、やっと口を開いた。
「ぼくを叱るのは、天徒のお兄様方」
「てんと?」
「あ、晴れの君のところには居ないから分からないよね。えっと、天徒っていうのは、天子の中でも地位がある人達のことで……、うーん……。と、とにかく、ぼくなんかよりずっと雷君のお役に立てている方々なんだ。その方々に…、ぼくはよく目をつけ……いや、目を、かけていただいていて……」
言葉を選んでいるようだが、つまりはその天徒という立場の強い人にキツくあたられているらしい。
徐々に力無く萎んでいく声と、涙ぐんで見える横顔を目にして、千晴はああそうかと一人納得する。
以前、村で同じような事例を聞いたことがあったからだ。
千晴はあの村で生贄という最底辺の地位だったため、ごく稀にだが、見下せる対象を求めて近寄ってくる人間もいた。
その内の一人であった名も知らぬ少女が、容姿が優れている女子は些細な事情で排斥されやすいのだと、孤独な現状を憤り交じりに訴えていたのを回顧する。
当時も、そして今も、千晴には共感できない事情なのは確かだが、似通った状況だと思った。桜鈴は女で、顔も整っていると思うし。
「可愛いからか」
「へ!?なっ、何急に!?」
独り言のつもりだったが、声が届いたようだ。頬を上気させた桜鈴が動揺したような目を向けてきて、何でもないとは言えなくなる。
「可愛い女子は、それを羨ましがられて厳しくあたられることもあると聞いた」
人間の世界のことは詳しく話せないため、誤魔化しながら簡潔に告げた。しかし千晴の発言の後、何か考え込むような仕草をする桜鈴を見て、もしかしたら変なことを言ってしまったか、と焦りが募る。
謝罪しようと口を開きかけたところで、あっ!と思考が晴れたような顔をした桜鈴が言った。
「女子って、人間の女のことか!ごめんすぐに分からなくて…。確か晴君は人間が好きだったもんね。そ、そっか、そんなこと仰ってたんだ、晴君。……ぼくは天人だから男体だけど、それでも当てはまるのかな…?」
え、男??
思わず今一度全身を凝視してしまった千晴は、「?」と困惑したようにはにかむ桜鈴を見て小さく謝罪した。
やはり天人には男しか居ないのだ。ここでそれを知れて良かった。……大分衝撃的だったが。
尚且つ、先程千晴の言ったことが何故か晴君から聞いた情報みたく勘違いされていたが、否定したところで本当のことも(人間界の女子のこと)も話せないので、まあそれでいいか、と千晴は再び口を噤んだ。
それから少しして、桜鈴が控えめに問う。
「……ぼくって、可愛い?」
「……変なこと言って悪かった」
「ち、違くて!千晴くんから見て、ぼくって、その、可愛い…のかなって」
「? 可愛いと思う(小ぢんまりしてて)」
「!! そ、そっか!うん……そっかぁ」
桜鈴はわかりやすく喜んだ顔をして、驚きつつも弾んだ声で頬を緩めた。
そしてそのまま照れくさそうに続ける。
「雷君もぼくのこと、よく「可愛い」って言ってくれるんだ。見つめられると、こう、胸の辺りがきゅーんって熱くなって、すごく嬉しい」
幸せそうな顔は、しかし数秒もしない内に曇る。
「でも、だからこそ、雷君に失望されるのが怖い。お兄様に叱られる度に、もしかしたら今度こそ、本当に雷君に見捨てられるかもしれないって思ったら、怖くて、頭が真っ白になって、何も考えられなくなる。だから、怒られるの、慣れない…」
「……」
桜鈴があまりにも思い詰めてるようで、千晴はそれを正しく理解しようと、我が事に置き換えて想像を巡らせた。
丁度その時、思考を遮るような険のある声がかかる。
「──桜鈴。いつまでかかってんの」
「! お兄様!」
こちらを見下す、高圧的な態度の麗人が前方に立ち塞がっていた。
見た目の年齢は、晴君と同じか、それよりやや下あたりに見えるが、桜鈴(一歳)の件もあるのであてにならない。男臭さのない中世的な顔と、紫がかった艶のある長い髪を手の甲で後ろにやるその姿は一見すると女性のようにも見えるが、天人であるからには男なのだろう。声も低めだ。
そして、桜鈴の呼び方からして、彼が天徒で、桜鈴を叱る天人なのだということが分かった。
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