始まりは、身体でも

彼方 紗夜

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3. 繋がりたい

6.

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 そっと重ねられた唇は、昨日のような激しさはない分だけその感触を生々しく伝えてきて、シエナは閉じた瞼の内側で容易く酩酊したようになった。ウォーレンに言われずとも、とっくに彼に堕ちていた。

 何度も角度を変えて重ねられるその唇が不意に離れて行く。名残惜しさにそっと目を開けば、ウォーレンがシエナに見せつけるように徐にその上唇に軽く歯を立てるのが目に飛び込んだ。喰みながらも、ちろりと彼の歯の間から覗いた赤い舌の先が、ゆっくりとシエナの唇をなぞっていく。ウォーレンは、今まさに舌舐めずりをしながら、これから捕食せんとする獲物を見る目をしていた。その瞳と、眼前で唇に歯を立てられる光景の卑猥さに、シエナの頭の中がじわじわと犯されていく。なのに視線は囚われたかのように、そこから外せなかった。全神経が唇からもたらされる感覚に粟立った。
 ぞくり、と背を駆ける刺激に無意識に身を捩る。

 同様に、下唇も同様に甘噛みされ、舌がねっとりと這っていった。ぞく、ぞく、と駆け下りる刺激は腰の奥に溜まっていく。

 「ふ……」

 堪らず鼻から抜けるような声が漏れる。そのまま彼の舌先が唇のあわいを突いてきてもう既に惚けた脳が従順に彼の舌の侵入を許した。




 ねっとりと圧倒的な質感でシエナの腔内に入り込んだ熱い舌が、獲物を狙い定めるように中を探っていく。それは歯列から口蓋へ、口蓋から頰の裏へと嬲るように這い進んだ。
 舌がずるりと艶かしく中を追い詰めてくるのが堪らなくもどかしい。昨日の荒々しさを知っているから余計に、じりじりと身体の奥が焦がされていくのが酷く淫らなようにも感じてしまう。
 とうとう待ちきれずに、シエナが自らの舌をウォーレンの舌に擦るように添わせると、狙い澄ましたように彼の舌に絡み取られ、吸い上げられた。

 「んっ……ん、ん、ぁっ」

 二人はまだ唇と舌だけでしか触れていない。ウォーレンの手は長椅子の背もたれに突いたままで、抱き合ってもいない。だと言うのに、何故か全身を……髪の毛の一房からつま先まで、余すところなく舐られているかのように熱く生々しい快感を拾い上げてしまい、シエナは恍惚に打ち震えた。

 ちゅくちゅくと唾液の混じり合う音が、身を震わせる度に上がる衣擦れの音に交じって、二人だけの部屋に満ちていく。

 昨日の奪うようなぶつけるような激しさとはまた違う、シエナが堕ちるのを誘うような、虎視眈々と狙うような、そんな舌使いにシエナはあえなく陥落するしかなかった。縋るように伸ばした手が、ウォーレンの両腕をぎゅっと掴んだ。

 不意に、舌が解かれ唇が離れた。

 「ぁ……」

 思わずそれを追うように舌足らずな声が出る。潤んだ目でウォーレンを見上げれば、彼の目も息を呑むほどの情欲を孕んでいた。

 「……返事は?」

 ウォーレンが、その目のままにほくそ笑んだ。自分をこんな風にしておいて今更じゃないか、とそう思うのに、その笑みにかつての少年を見てしまえば文句の一つも出て来なかった。掴んだ腕の力が緩んでいく。

 「ウォーレン……」

 こんな風に脳髄まで蕩かされては選択肢は一つしかないんじゃないかと思う。そう仕向けたのはウォーレンだ。文句の代わりに軽く彼を睨み付けるが、その視線に力が篭っていないことは自分でも良くわかっていた。治まったはずの涙がもう一粒頰を滑り落ちていく。泣き笑いのような顔で、きっとウォーレンの予想外だろう言葉がするりと唇から零れた。

 「愛してる……」




 ウォーレンが、目を瞠った。その驚きに固まった表情が、ほんの微かに赤みを帯びたようにも見えた。しかし何故か次の瞬間には何かを堪えるように歪んでいき、シエナは内心で首を傾げた。そんな苦しげな顔をされるようなことを言った覚えはない。

 「お前は、なんで……いつも先に言うんだ」

 照れを越えていっそ憮然とした声音でウォーレンが吐き捨てるように言った。シエナはその様子をきょとんとして見上げた。

 「え?」
 「俺より先に言うなよ。『好き』とか、……今のも」
 「え?」

 思わずまじまじとウォーレンを見返す。唐突な文句に何を言われているのかわからなかった。

 「でも、私、『好き』は先じゃないよ?」

 好きだと打ち明けたのは、ウォーレンにそう断言されたからだった、とあの夏の日を切なく思い返す。彼との関係に耐えられなくなっていった、あの夏。断言されて観念して……肯定せざるを得なかったのだ。それを告げるとウォーレンがそうじゃない、と軽く溜息をついた。

 「俺が、寄宿学校に入る前……お前、言っただろう」

 はっとした。確かにそうだった。あの時が初めてだった。困った顔をされて、思わず誤魔化してしまった、最初の告白。でもウォーレンはずっとシエナの気持ちに気付いてなかったと言った筈だった。今になってあの時のシエナの告白に気付いてくれたということだろうか。胸がきゅうと切ない感覚を訴えた。
 ウォーレンが苦々しそうに続けた。

 「お前がそうやっていつも先を行くから、俺は追い掛けなきゃならなくなるんだ」
 「そんな……でも、昨日言ってくれたからいいじゃない、それに今だって」

 ウォーレンが忌々しそうに顔を歪めるのを、シエナは半ば宥めすかすように言った。

 「あれはずっと後悔してたからな……それに必死だったし。さっきもお前がまた離れて行くんじゃないかと思ったから」

 そうだったのか、と昨日のことを思い返す。シエナから見た彼は、シエナの気持ちが今も自分にあることを知っているのだと言わんばかりの、余裕のある態度だった。だからとても必死な風には見えなかったのだが……、帰国してすぐ会いに来てくれた、そのことも思い出してシエナはまた胸が締め付けられた。鼻の奥がつんと痛んだ。

 「そうでなきゃあんな小っ恥ずかしいこと言えるか」

 だが最後のウォーレンの投げやりにも聞こえる言葉に、シエナは思わずくすくすと声を上げて笑ってしまった。ウォーレンがバツが悪そうに顔を背ける。それが何だか可笑しくて、くすぐったくて、また笑ってしまった。




 「ウォーレン、……ウォーレンってば」

 腕は相変わらずシエナの脇に突いているものの、顔を背けてしまったままのウォーレンに声を掛ける。茜色の陽光がその横顔の線を鋭く浮かび上がらせていた。なかなかこちらを見ようとしない横顔は明らかに決まり悪げなもので、シエナは口元を綻ばせた。焦れったくて、こっちを向いて欲しくて、彼の腕に緩く添える程度だった手にきゅっと力を籠めた。ウォーレンのシャツがくんと僅かに引っ張られる。それで漸く彼がシエナに再び向き直った。
 その手も、その眼差しも、何もかも全て……自分を受け入れてくれる。求めてくれる。身体だけじゃなくて、丸ごとの自分を。

 「『はい』」

 シエナはウォーレンの瞳を覗き込むように心持ち身を乗り出して、溢れそうな程の想いをその2文字に乗せた。心配も不安もある。それでもそれを凌ぐ程、想いが強すぎて、手放せなくて。
 目の前の人が受け止めて、一緒に考えてくれるのなら、何だってする。何だって出来る気がする。歓びがじわりじわりと胸の内を浸し、満面の笑みとなって溢れていくのを止められなかった。

 「あ?」

 だというのに、ウォーレンは肝心な所でシエナの言う意味が理解出来なかったらしい。相変わらずその辺は鈍いみたいだ、と思えばまた笑みが広がった。今度は苦笑交じりだ。

 「だから、返事。『はい』……私でいいなら……、ウォーレンの奥さんに、してください」




 笑顔で見詰めた先の彼の纏う雰囲気が、不意にそれまでのものから変わったように思えた。ただ視線を絡め合った一瞬が過ぎて、シエナは無意識の内にこくりと喉を鳴らした。

 ウォーレンの手が自分に向かって伸ばされるのが見える。シエナもまた頭で考えるよりも先に彼の首に腕を回した。



 ウォーレンが座面に突いた片膝の方に体重を掛けてのし掛かってくる。シエナは長椅子の背に押し付けられるように倒れた。彼の手がシエナの腰をぐっと抱える。もう一方の手は頭の後ろに回されていた。
 お互いに目は相手の目を捉えたままだ。そして、その目が訴えていることも互いに同じだった。

 どちらからともなくまた唇を求め合う。既に先程みたいな、企むような誘うようなキスではなかった。激しく、貪り合うように二人の舌が絡み合う。まるで舌同士が交合しているような、そしてもう昇り詰めようとしているような錯覚に眩暈が起きた。
 あまりに強い陶酔にくらりと仰け反りそうになれば、ウォーレンの唇がまた離れていく。だが離れて行ったと思う間もなくすぐに腰に回されていた手が肩に置かれて、耳のすぐ下の皮膚に感じたつきりとした痛みにびくりと腰が跳ねた。
 所有の印を刻まれたのだと気付く。もたらされたのは痛みの筈なのに、漏れ出たのは甘く籠もった吐息だけだ。これまで肌を重ねてきたときとは、与えられる気持ち良さが格段に違った。そのことに気付くと更に陶酔は増した。
 そのまま今度は耳朶に舌が這わされる。ぞろり、と耳殻をなぞりあげられてはもう為す術もなく、甘やかな悲鳴があがった。

 「やっ、耳、だめっ……」

 ふっとウォーレンが笑ったのが耳に直接響いた。何度も耳殻をねっとりと舐められて、シエナはその度に嬌声を抑えることが出来ない。

 「お前が此処弱いの、知ってる」
 「ぁっ、ぁぁっ、んっ……」

 びくびくと全身が戦慄く。背がずり落ちてしまいそうだった。
 ウォーレンが反対の耳も同じように舐っていく。執拗な其処への愛撫に、もう既にシエナは追い詰められていた。熾火のような官能が、既にもう腰の奥をじりじりと疼かせている。
 夕方とはいえまだ陽のある時間にすることではない、そう諫めようとする側から、赤い痕を残された悦びに煽られた女の部分が、その先を欲し始めていた。堪らずに、窓から射し込む橙の光に透けるウォーレンの髪に手を入れて、くしゃりと掻き乱した。
 またつきりと耳のすぐ下に印が刻まれた。

 「明日の朝迄には帰すから……」

 耳元で囁かれた低く掠れた声。声にまで色が籠もるなんてずるいと思う。理性は容易くずぶずぶに融けていってしまう。
 その声は更に殆ど消え入りそうに小さくなりながら、続きを紡いだ。

 「……………」

 シエナは目を見開いた。聞こえた言葉に、自分の身体が全ての動きを忘れたようになった。

 さっき自分が彼に告げた言葉と同じ言葉。それをその声で耳に直接吹き込まれれば、もう、否などあろう筈がなかった。
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