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第四章 異質殺し
4-50 黒い閃光
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◇
視界は暗闇の中にある。あらゆるものが黒に染まっている。体の感覚を取り戻すことができない。あらゆるものが黒で埋め尽くされている。そこに色彩を取り戻すことができない。
寂しくも悲しくもない。笑いも怒りもこみあげてこない。感情さえもよくわからない。ただ、現実がそこにあるだけで、そこにないだけ。
体がわからない。意識がわからない。世界がわからない。何もわからない。意味がわからない。そこにはなにもない。だからわからない。理解することなどできやしない。
すべては無だ。あらゆるものは無なのだ。それだけが俺にとっての世界であり、それだけが僕にとっての──。
▽
その一瞬、何が起きたのか私には理解できなかった。それを理解することなど、きっと私にはできなかったんだろう。
たまきの声が聞こえたとき、確かな安心感を私は覚えた。まだ赤い医者に殺されることなく、そして彼を目の前にして意識を取り戻したことに。彼の手には刃が握られている。そのまま振るってしまえば、赤い医者を亡き者にすることができる、という確かな予感を覚えていた。
──だが、そうはならなかった。
「何を言っている?」
赤い医者は困惑したようにそう呟いた。確かにたまきの発した言葉をとらえることはできなかったけれど、それを理解せずとも、きっと彼ならなんとかしてくれるだろう、という謎の期待が膨らんでいる。
「──すべてを、ゼロに」
──そして、気づく。
彼の手元にあったはずのナイフが、手品のように綺麗に無くなっていること。彼にとっての唯一の武器が、もうその手には残されていないこと。彼の周囲を見渡しても、あるのは赤い医者が刺したナイフくらい、──いや、それさえも床にはもうなかった。赤い医者はそのことに気づいていないようだった。
何が起きているのか?
私はわからないまま、その一部始終を見ていることしかできない。
体を動かしたい。動かして、彼の助けになる行動をとらなければいけない。そうしなければ、この先の展開など安易に予想がついてしまう。だから、動かなければ、動かなければ──。
「──還元する」
──その言葉が発された瞬間のことだった。
びりっ、と閃光のような稲妻が走った。いや、それは閃光ではない。それは光り輝くものではなく、確かに黒い光だった。その光の出現元は、言葉を吐き終わったらしい環の左手からだった。
黒の閃光が赤い医者に触れる。咄嗟のことに対応できず、赤い医者は音がしてから避けようと動いたものの、その意味はなかった。
「……ふむ」
赤い医者は、興味がないように言葉を吐きだす。何事もなかったかのようにふるまっている。
──赤い医者の右手首が、その黒い閃光によって弾け飛んだ、というのに。
黒い閃光は赤い医者の右手首にあたっていた。たまきから始まったその黒い稲妻は確かに赤い医者の右手をとらえていた。ばちっ、と音が鳴った瞬間、当たった右手は綺麗に弾けていた。
いや、弾けたのではない、触れた部分が綺麗そのままに無くなっていた。
手と腕をつなぐ関節の部分がなくなった。なくなったから手首が落ちた。手首が落ちて、ぼとっ、と鈍い音がした。ぼたぼた、と血が滴る重い音が聞こえてきた。
「なに、これ……」
お姉ちゃんはそう言った。いつものように取り繕うことはなく、以前のお姉ちゃんのふるまいをそこに見いだすように呟いている。私も同様の感情だった。
魔法だと思いたかった。でも、魔法のわけがない。詠唱もなしに行える魔法なんて存在しない、そして黒い稲妻なんて魔法はみたことも聞いたこともない。そして、悪魔祓いには魔法も黒魔法でさえも扱うことなんてできやしない。
それなのに、魔法のように状況が変わっていく。
──そして、不安感が募っていく。
目の前の彼が、私の知っているたまきが、そうではないものになっているのではないか。違う誰かにすり替わっているのではないか。そんな不安に。
「面白い」と赤い医者は呟いた。
「悪魔祓いにこんな力があることは初めて知った。ああ、そうだ、初めてだ。初めてでしかないのだ。は、はは、はははは!! いやあ面白い! これは貴重なサンプルじゃないか!! 悪魔祓いだというのに魔法使いのように身体が再生し、非現実を希うように現実を上塗りするその力ァ! この好機を逃してはならないッ!」
そう言いながら、彼は残っている左手を白衣のポケットに突っ込んだ。そこから現れたのは、日常的にも見ることのできるひとつの注射器であった。
まずい、と思った。
「たまき!!」
動かすことができない体に、唯一出すことのできた声で彼に危険を伝える。伝えることで環に危険が伝わればいい。そうすれば、なんとか彼は行動して、どうにか状況を回避することができるかもしれない。
──彼の血液は不思議だ。悪魔祓いという存在でありながら、魔法使いのように回復する性質を持っている。異質を浄化する作用を持ちながら、その異質を受け止めている。
でも、その血が完全に抜けきられれば? その結果回復できなくなったら? そのあとに彼は生きることができるのだろうか? そうでなくとも、彼の不思議な血を赤い医者に採られてしまえば、より大変な未来へとつながるのではないか。
そんな不安が積み重なっていく。
だから、希うようにたまきへの叫び声を紡ぐ。喉が焼ききれそうになりながら、彼に目の前の危険を回避してほしくて。もっとできることが私にもあったはずなのに、視野が狭まって行動することができない。この状況を、彼が危険な目に合うことを回避できるのは彼自身しかいないから。
──そうして、注射器の針は彼をとらえる。勢いよく突き刺すように、赤い医者は思い切りそれを振りかぶった。
──明確な悲鳴。叫び。嗚咽とも混じる、人間が苦しみを表現するうえで最たる声。それが、耳に届く。
そんな絶望を表現していたのは、目の前にいる赤い医者だった。
◇
暗い世界。暗い世界にいる。暗い世界にいることだけはわかる。視界が暗闇の中にある。暗闇だけが世界であり、それ以上のものは何もない。苦しさもなく、悲しさもなく、心地よさもなく、楽しくもなく、笑うこともなく、怒ることもなく、感じることはなく、何もない。
こういうときはどうすればいいんだっけ。
僕は、ぼうっとそう考えた。
俺は、手を伸ばせばいいんじゃないか? とそう答えた。
確かに、と僕は思った。
せめて、何かを確かめることができるように、僕《俺》は手を伸ばした──。
◆
「ああああああああああああああぁぁぁっ!?!」
目の前から叫び声が聞こえる。
みっともなく、どうしようもなく、鬱陶しさしか覚えない、苦しい声。きっと、それが自分のものであったのならば、相応に絶望を感じるのだろう。だが、それが自分のものではないということに、俺は安堵感を覚えている。僕は安心感を覚えている。俺は優越感を得ている。僕は快楽を得た。
どく、どく、と指先から走る鼓動のような感覚。僕の手の先に痛みはなく、生温かいものがそこにはある。どくん、どくん、と指先から音が伝わってくる。僕はそれを久しく感じるものだな、と思った。確かに、と俺も思った。
「……うるさいな」
指先の感覚しか感じない。耳からの情報しか感じない。視界の中は暗闇だけになっている。暗闇が、だんだんと色彩を取り戻そうとしている。いや、今はいい、という正直な気持ちを僕は抱く。俺は、もうわかっているんだろうに、とあきれながら返した。
──そうして、彩が戻っていく景色の中で、それを視認する。
頭の中で想像していた通り、いつかつかんだことがあるもの。
あの時は自分のものだったけれど、それが他人のものである、ということに、そして悪魔のものであるということに安堵感を覚えずにはいられない。
「──なぜっ、なぜぇ……?!」
不快感を覚える声だ。思い出すのも憎い。考えることが鬱陶しい。
きゅう、とそれを握りしめる。握りしめて、景色をきちんと頭の中に入れる。
──目の前が、空白だ。目の前にいる悪魔の腹の中が、空白だ。
何がどうしてそうなったのかはわからない。でも、すべてが開かれたように、目の前には赤い医者の心臓だけがある。
赤い医者は満身創痍だ。右手がなく、左手がない。血をだらだらとこぼし続けながら、口元に血をにじませている青年の顔が視界に入る。
「や、やめ──」
──退屈な景色だ。
俺《僕》は、そう思いながら。
それを握りつぶした。
視界は暗闇の中にある。あらゆるものが黒に染まっている。体の感覚を取り戻すことができない。あらゆるものが黒で埋め尽くされている。そこに色彩を取り戻すことができない。
寂しくも悲しくもない。笑いも怒りもこみあげてこない。感情さえもよくわからない。ただ、現実がそこにあるだけで、そこにないだけ。
体がわからない。意識がわからない。世界がわからない。何もわからない。意味がわからない。そこにはなにもない。だからわからない。理解することなどできやしない。
すべては無だ。あらゆるものは無なのだ。それだけが俺にとっての世界であり、それだけが僕にとっての──。
▽
その一瞬、何が起きたのか私には理解できなかった。それを理解することなど、きっと私にはできなかったんだろう。
たまきの声が聞こえたとき、確かな安心感を私は覚えた。まだ赤い医者に殺されることなく、そして彼を目の前にして意識を取り戻したことに。彼の手には刃が握られている。そのまま振るってしまえば、赤い医者を亡き者にすることができる、という確かな予感を覚えていた。
──だが、そうはならなかった。
「何を言っている?」
赤い医者は困惑したようにそう呟いた。確かにたまきの発した言葉をとらえることはできなかったけれど、それを理解せずとも、きっと彼ならなんとかしてくれるだろう、という謎の期待が膨らんでいる。
「──すべてを、ゼロに」
──そして、気づく。
彼の手元にあったはずのナイフが、手品のように綺麗に無くなっていること。彼にとっての唯一の武器が、もうその手には残されていないこと。彼の周囲を見渡しても、あるのは赤い医者が刺したナイフくらい、──いや、それさえも床にはもうなかった。赤い医者はそのことに気づいていないようだった。
何が起きているのか?
私はわからないまま、その一部始終を見ていることしかできない。
体を動かしたい。動かして、彼の助けになる行動をとらなければいけない。そうしなければ、この先の展開など安易に予想がついてしまう。だから、動かなければ、動かなければ──。
「──還元する」
──その言葉が発された瞬間のことだった。
びりっ、と閃光のような稲妻が走った。いや、それは閃光ではない。それは光り輝くものではなく、確かに黒い光だった。その光の出現元は、言葉を吐き終わったらしい環の左手からだった。
黒の閃光が赤い医者に触れる。咄嗟のことに対応できず、赤い医者は音がしてから避けようと動いたものの、その意味はなかった。
「……ふむ」
赤い医者は、興味がないように言葉を吐きだす。何事もなかったかのようにふるまっている。
──赤い医者の右手首が、その黒い閃光によって弾け飛んだ、というのに。
黒い閃光は赤い医者の右手首にあたっていた。たまきから始まったその黒い稲妻は確かに赤い医者の右手をとらえていた。ばちっ、と音が鳴った瞬間、当たった右手は綺麗に弾けていた。
いや、弾けたのではない、触れた部分が綺麗そのままに無くなっていた。
手と腕をつなぐ関節の部分がなくなった。なくなったから手首が落ちた。手首が落ちて、ぼとっ、と鈍い音がした。ぼたぼた、と血が滴る重い音が聞こえてきた。
「なに、これ……」
お姉ちゃんはそう言った。いつものように取り繕うことはなく、以前のお姉ちゃんのふるまいをそこに見いだすように呟いている。私も同様の感情だった。
魔法だと思いたかった。でも、魔法のわけがない。詠唱もなしに行える魔法なんて存在しない、そして黒い稲妻なんて魔法はみたことも聞いたこともない。そして、悪魔祓いには魔法も黒魔法でさえも扱うことなんてできやしない。
それなのに、魔法のように状況が変わっていく。
──そして、不安感が募っていく。
目の前の彼が、私の知っているたまきが、そうではないものになっているのではないか。違う誰かにすり替わっているのではないか。そんな不安に。
「面白い」と赤い医者は呟いた。
「悪魔祓いにこんな力があることは初めて知った。ああ、そうだ、初めてだ。初めてでしかないのだ。は、はは、はははは!! いやあ面白い! これは貴重なサンプルじゃないか!! 悪魔祓いだというのに魔法使いのように身体が再生し、非現実を希うように現実を上塗りするその力ァ! この好機を逃してはならないッ!」
そう言いながら、彼は残っている左手を白衣のポケットに突っ込んだ。そこから現れたのは、日常的にも見ることのできるひとつの注射器であった。
まずい、と思った。
「たまき!!」
動かすことができない体に、唯一出すことのできた声で彼に危険を伝える。伝えることで環に危険が伝わればいい。そうすれば、なんとか彼は行動して、どうにか状況を回避することができるかもしれない。
──彼の血液は不思議だ。悪魔祓いという存在でありながら、魔法使いのように回復する性質を持っている。異質を浄化する作用を持ちながら、その異質を受け止めている。
でも、その血が完全に抜けきられれば? その結果回復できなくなったら? そのあとに彼は生きることができるのだろうか? そうでなくとも、彼の不思議な血を赤い医者に採られてしまえば、より大変な未来へとつながるのではないか。
そんな不安が積み重なっていく。
だから、希うようにたまきへの叫び声を紡ぐ。喉が焼ききれそうになりながら、彼に目の前の危険を回避してほしくて。もっとできることが私にもあったはずなのに、視野が狭まって行動することができない。この状況を、彼が危険な目に合うことを回避できるのは彼自身しかいないから。
──そうして、注射器の針は彼をとらえる。勢いよく突き刺すように、赤い医者は思い切りそれを振りかぶった。
──明確な悲鳴。叫び。嗚咽とも混じる、人間が苦しみを表現するうえで最たる声。それが、耳に届く。
そんな絶望を表現していたのは、目の前にいる赤い医者だった。
◇
暗い世界。暗い世界にいる。暗い世界にいることだけはわかる。視界が暗闇の中にある。暗闇だけが世界であり、それ以上のものは何もない。苦しさもなく、悲しさもなく、心地よさもなく、楽しくもなく、笑うこともなく、怒ることもなく、感じることはなく、何もない。
こういうときはどうすればいいんだっけ。
僕は、ぼうっとそう考えた。
俺は、手を伸ばせばいいんじゃないか? とそう答えた。
確かに、と僕は思った。
せめて、何かを確かめることができるように、僕《俺》は手を伸ばした──。
◆
「ああああああああああああああぁぁぁっ!?!」
目の前から叫び声が聞こえる。
みっともなく、どうしようもなく、鬱陶しさしか覚えない、苦しい声。きっと、それが自分のものであったのならば、相応に絶望を感じるのだろう。だが、それが自分のものではないということに、俺は安堵感を覚えている。僕は安心感を覚えている。俺は優越感を得ている。僕は快楽を得た。
どく、どく、と指先から走る鼓動のような感覚。僕の手の先に痛みはなく、生温かいものがそこにはある。どくん、どくん、と指先から音が伝わってくる。僕はそれを久しく感じるものだな、と思った。確かに、と俺も思った。
「……うるさいな」
指先の感覚しか感じない。耳からの情報しか感じない。視界の中は暗闇だけになっている。暗闇が、だんだんと色彩を取り戻そうとしている。いや、今はいい、という正直な気持ちを僕は抱く。俺は、もうわかっているんだろうに、とあきれながら返した。
──そうして、彩が戻っていく景色の中で、それを視認する。
頭の中で想像していた通り、いつかつかんだことがあるもの。
あの時は自分のものだったけれど、それが他人のものである、ということに、そして悪魔のものであるということに安堵感を覚えずにはいられない。
「──なぜっ、なぜぇ……?!」
不快感を覚える声だ。思い出すのも憎い。考えることが鬱陶しい。
きゅう、とそれを握りしめる。握りしめて、景色をきちんと頭の中に入れる。
──目の前が、空白だ。目の前にいる悪魔の腹の中が、空白だ。
何がどうしてそうなったのかはわからない。でも、すべてが開かれたように、目の前には赤い医者の心臓だけがある。
赤い医者は満身創痍だ。右手がなく、左手がない。血をだらだらとこぼし続けながら、口元に血をにじませている青年の顔が視界に入る。
「や、やめ──」
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俺《僕》は、そう思いながら。
それを握りつぶした。
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