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故郷と夕立 前編
しおりを挟む夏休みに入って二週間が過ぎた。
バイト帰りの猫西は自転車から降りた。ヘルメットを外し、滝のように流れる汗を拭うと自転車を押した。
橋を渡れば家まですぐだ。
緩やかな橋の勾配でも容易に発汗した。ソーダ味の塩飴を噛み潰し、束の間の爽快感を味わう。
前方から男が歩いてきた。
すれ違い様、猫西の目は同じ賃貸の住人だと認識し、耳は男の舌打ちを聞く。
男の鋭い視線は、出会ってきた人のそれ――公園にいた中年男性の怒気を含んだ声や猫を傷つけた部長の快楽に満ちた顔――に重なる。
猫西は急いで自転車に乗り、ヘルメットを被るのも忘れて走った。生ぬるい風がつらくとも、汗が止まらくとも、走らなければならなかった。
駐輪場に自転車を停め、駆け足で玄関に向かう。心拍音とけたたましい蝉の鳴き声が頭に響いた。
俊敏な動きで鍵を開けて室内へ。
鍵をかけて背中をドアに預けた途端、緊張の糸が切れた。体は脱力し、ズルズル、ズルと玄関口に座り込む。
買い物袋が倒れて中身が転がる音を聞きながら少し眠った。
数刻後、薄く目を開けるとフォースが足に顔を寄せていた。
「……無事で何より」
そのときだった。
誰かの扉の開閉音が、フォースの神経を逆撫でした。
フォースは声を荒げ、全方位に敵意を剥き出した。壁床に爪を立て、唸り、飛びつく。
おやつをあげてみる。
しかし、無理だ。
青い瞳を燃やし、怯えるフォース。
猫西は買ってきた食べ物を冷蔵庫にいれたり、携帯でバイトのシフト確認したりした。
ひとしきり暴れたフォースは、反撃される心配がないとわかると、ようやく静まり返った。
「びっくりしたよな」
フォースの隣であぐらをかく。するとフォースが腹に額を擦り付けてくるので、抱き寄せて背を撫でる。
「大丈夫、大丈夫」
フォースが腹から離れていくのを見届けたあと、キッチンに移動した。
鍋の水を沸騰させ、乾麺パスタを投入する。火が通るのを待ちながら「里親、はやく見つけないとな」とひとりごちた。
保護部が実質解体したあと。
一部の大学猫は里親のもとに渡り、今は猫サークルが大学猫の世話を引き継いでいる。
残るはフォースの里親探しのみ。
賃貸での世話は里親が見つかるまでの間だけと決めたものの、フォースのストレスが心配だ。近所から怪しまれはじめてもいる。
キッチン窓の隙間から外を見た。
日は傾き、町が闇に包まれていくところだ。赤紫の空。町から離れる鳥の群れ。見捨てるように沈んでいく太陽。人工光が灯れど、闇は確実に光を吸収する。あらゆるものの姿形は暗がりに隠され、孤立する。
どこまでも落ちていきそうな意識を、携帯の着信音が止めた。
コンロの火を止めると同時に、電話が切れてしまった。キッチン窓を施錠し、湯がいたパスタをケチャップで炒め、皿に盛り付ける。
片手でパスタの皿を持ち、洋室に向かいながら電話をかけ直した。
◯
お盆前、猫西はフォースが入ったキャリーバッグを持ち、電車に乗っていた。
里親になりたい人が見つかったと、猫西の母である多英が電話で話していたからだ。正月以来の実家帰省だった。
実家の最寄り駅を降りる。二つしかない改札口を抜け、閑散とした駅前に出た。
黒の軽自動車を見つけた。多英の車だ。近寄ると、運転席の窓が開いた。多英が薄い色のサングラス越しに視線を送る。
「おかえり」
「運転、変わろうか?」
「いいわ。猫をみてて」
猫西は頷き、キャリーバッグを抱えて後部座席に座った。
その後、猫西は口を開かなかった。話したい学生生活を送っているわけでもなし。学業についても詮索されたくない。
信号で車が止まると、多英がミラー越しに猫西を一瞥した。
「元気そうで安心した」
「うん」
「入院したって聞いたときは、お母さん、びっくりしたわ」
「僕もびっくりした」
「まさか警察から電話があるとも思わなかったし」
また、多英がミラー越しに猫西を見る。
「それでも、保護活動を続けてるのね」
「……」
「やりたいことだから?」
多英の質問に、うんともすんとも言わない。首肯したら、そこまでやる理由は何かと問われ、否定しても別の質問が待っているだけだ。やりたいことでないのにフォースを連れてきたのはなぜだ、と。答えるだけ無駄だった。
「猫が好きなのは知ってる。大学で保護部に入ったのは知らなかったけど、やりたいことならいいと思う」
猫西の無言は、しかし多英にとって堪えた。
息子の考えはわからないけれど、心配する気持ちは伝わってほしい。そんな思いを抱きながら多英は言葉を紡ぐ。
「でも、お母さんは息子のあなたが大事なのよ。猫よりも、ね」
「わかってる」
「本当に?」
多英が振り返った先。
薄闇の車内に息子の無表情な顔が浮かぶ。
「どうしてそんな軽々しく言うの? 本当にわかってる?」
「……信号、青だよ」
いよいよ多英も口を噤み、前を向いてアクセルを踏んだ。
猫に噛まれてからの息子は、ずっとこうだ。
もともと大人しい性格で学校も休みがちだったが、猫に噛まれてからは、自ら進んで孤独を選んでいるように見える。
中高一貫校に入学してから欠席日数は減り、大学の進学理由も猫じゃなかったので安心していた。ひとり暮らしすると言ったときも笑顔で送り出した。
しかし先月、多英は警官からの電話で不安になった。
部活で世話している猫が原因でトラブルが起きたという。入院していると知って冷や汗が出た。
見舞いに行っても息子は多くを語ってはくれなかった。
話してくれたのは、示談を進めることと猫を一匹引き取ってほしいということだけ。
多英は、ミラーに映る息子の顔を覗いては恐怖した。
猫の妖怪にでも憑りつかれたに違いない。大切に育ててきた息子を遠くさせる、恐ろしい妖怪。はやく息子から離れて、返して!
車は夜道を駆け抜けていき、実家に到着した。
ひなびた二階建ての家。父方の祖父母が住んでいた家で、築年数も長く、赴きのある家だ。
猫西はキャリーバックを抱え、車から降りる。歩いていると庭が気になった。殺風景だった庭に影があるように感じるのだ。
「母さん、庭、変わった?」
「花を植えてみたのよ。昼間ならちゃんとルドベキアが見えるわ」
「へぇ」
「子育ても落ち着いたし。まさかそのあと猫を育てることになるとは思わなかったけど」
お礼を述べるのも謝罪するのも不適切に思われて、猫西は押し黙った。
「明日いらっしゃる人、昔は猫の保護活動のお手伝いをしていたらしくて詳しいんですって」
「そうなんだ」
「その方のほうがお母さんより向いてるかもしれないわね」
「母さんは育てたこともない猫を引き取ってくれた。感謝してる」
猫西のひと言に戸惑い、多英は生返事ひとつだけ漏らして鍵を回した。
元大学猫のミルクがふたりを出迎えたが、フォースの存在を察知し、警戒した。喧嘩しないよう、フォースを二階にある猫西の部屋に連れていった。
ふすまを開けると、猫西の部屋は畳と埃の匂いが漂っていた。
六畳の部屋に学習机とベッドが置かれた簡素な部屋。多英が掃除しているおかげもあり、きれいな状態に保たれている。
部屋の空気を入れ換える間、猫西はフォースのご飯やトイレ等を用意した。
窓を閉め、下宿先から持ち込んだタオルやおもちゃを置いてキャリーバッグを開けた。
フォースが出てきた頃には夜が更けていた。消灯したあと猫西が眠れずにいると、腹の上に乗ってきたのである。
「はぁ、緊張する。……フォースも同じ?」
フォースは小さく鳴き、猫西に尻尾を向けて丸まる。ひと撫ですると鬱陶しそうに尻尾を揺らした。
重さと暑苦しさを覚えながら、猫西も目蓋を下ろした。
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