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悪夢と水溜 後編
しおりを挟む猫西は小刻みに震えていた。
息を吸い込めば、冷たく淀んだ空気が肺に広がる。動揺をおさえ込もうとすればするほど、ランドセルの肩ベルトを握る手に力が入るばかりだ。
「僕、知らなかった」
「知らなかったからいいわけないじゃん」
「……そうだね」
ほそ川は苦虫を噛み潰したような顔をし、緩やかに頬を紅潮させていく。
「なんでそんな平気そうなの? あんたが殺したんだよ」
真っ赤に染まる顔。ほそ川は「最低!」と言い捨て、通学路のほうへ走っていった。
○
猫西は目を覚ました。
ベッドから起き上がる。歩いて、キッチンへ向かう途中、何度も骨の軋む音がした。グラスに水道水を注いで飲み干した。
それから浴室へ行ってシャワーを浴びる。
十年近く同じ夢を見ている。
今さら怖くないが、目覚めは悪い。息苦しいときはシャワーを浴びるのだ。いつものように頭から爪先まで冷水を流していく。
シャワーの水飛沫が、ほそかわの目尻に浮かべていた涙を想起させた。
「まだ憎まれてるのかな。そうだといいな。……いや」
蛇口を捻る。
「忘れられてるほうが苦しいな。なら、そのほうがいい、っ」
突如、頭痛と吐き気に襲われ、息を詰まらせた。とりわけ頭痛がひどく、脈打つ血管の太さがわかるほどだ。
頭を手でおさえ、壁にもう片方の手をついて体を支えた。項垂れ、目を瞑る。長い前髪の先から落下する水滴の音が、意識を失っていないことを知らせる。
「はあ……」
吐き気がおさまり、ため息をこぼした。目蓋を開ければ、排水溝が詰まって水溜まりができている。無言で排水溝に溜まったゴミをとり、ついでに風呂掃除もした。
バスタオルで体に浮かぶ水滴を拭き取り、服に身を包む。それでも、しばらく鳥肌と体の震えが止まらず、くしゃみが出た。
スマホを手にとる。真っ黒な画面には明るい影と濃い影が映し出される。後者の影は猫西をかたどっていた。
これが悪夢を見た人間の顔。そう考えてまじまじと眺めれば、腑抜けた顔までも浮かび上がってきて不快だった。
スマホを捨て置き、家を出る。
日の届かない階段を、ふらついた足で降りていく。
今、階段を踏み外したら。転げ落ちたら、地獄の門に迎えられるだろう。過ちを洗いざらい告白し、そうして燃やされるのだ。ぞくぞくする。
朝の柔らかな日差しは体を温めてくれる。鳥のさえずりが鎮痛剤のごとく頭痛に効いた。風は穏やかで、撫でるように長い前髪を揺らす。
歩いていると、公園が見えてきた。
葉桜が風に揺れている。先日の雨のせいで花をほとんど落としていた。地面に落ちた花は色を失っている。散った花はもとに戻らず、華やかな色な失われたままだった。
それでも桜は新しい花を咲かせ、新たな春を目指すのだ。今も凛々しい枝に若葉を生やし、咲いて散っていった花をなかったことにしようとしている。
(桜は美しくあり続ける、そうはなれない人の気も知らないで……)
猫西は公園に足を踏み入れる。足裏に花を感じ、鼻で笑った。
「僕はなかったことになんかしない。お前たちみたいな美しさなんていらない」
葉桜を見上げて暫時、「最低」と呟いた。夢の中に出てきた少女のように。最低だ、最低だ、最低だ。脳内に刷り込むように、何度も同じ言葉を発し続けた。
喉に痛みを覚えても。
その言葉に体が拒否したとしても。
地面の水溜まりには、青空と葉桜が色鮮やかに描かれている。しかし、そこに猫西が混ざることはなかった。
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