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偽と善 前編
しおりを挟む大学二回生の夏至。
時刻は正午を回ったところである。
猫西は、キャンパス内を黙々と歩いていた。その表情は憂鬱に染まり、黒Tシャツには汗が染みる。
梅雨による蒸し暑さだけではない。
今朝、大学猫が亡くなったと報告があったのだ。
正門からもっとも遠いとされる体育館の横。そこに隠れるように佇む二階建ての建物にやってきた。
階段を上がると、一番奥の扉――保護部に割り当てられた部室である――が開いた。
出てきたのは、ベージュ色のカジュアルスーツを着こなす女性だった。真顔でウェーブのかかった髪を耳にかけていたが、猫西に気づくと明るい笑顔を浮かべた。
「お疲れ様です。保護部の部員さんですか?」
「は、はい」
「素敵な活動ですね。頑張ってください」
「あぁ……、ありがとうございます」
猫西の目線が下がる。
彼女の純粋な眼差しは、取りこぼした命を思い出させた。
猫西は会釈だけして部室に入る。後ろ手でドアを閉め、背後の足音が遠ざかっていくまで、ドアノブを握り続けていた。その間の呼吸は浅く、手から肩にかけて痺れを感じた。
「あ、猫西くん。おはよう」
最初に猫西の影に気づいたのは、副部長だった。窓際のほうに座る彼は、白の半袖シャツを着、上からふたつ目のボタンを外しているところだった。
挨拶をされてもしばらく扉の前で突っ立っていた猫西だったが、やがて痺れが引いていき、猫西は室内に足を進めた。
部室の真ん中には会議用テーブルがあり、そのテーブルを囲むようにパイプ椅子が並ぶ。部室の両脇にはキャビネットとロッカーがある。圧迫感はあるものの、一年以上も通っているため慣れていた。
猫西は「おはようございます」と挨拶し、扉に近い席に腰を下ろした。
「……なんかあった?」
「なんか?」
目を丸くする副部長に対し、猫西はただ言葉を繰り返した。
「あ、いや。後輩くんがいつもと違うように見えて。気のせいだったらごめん」
「いえ、これから報告聞かなきゃなんで、たぶんそのせいだと思います」
「そうか……。うん、そうだね」
副部長は小さく頷いた。
猫西は会議テーブルの上に置いてあるプリントに目がいく。
「地域誌の取材のほうはどうでしたか?」
「ああ、よかったよ。と言っても副部長のぼくは見学だけどね。あ、近々テレビの紹介も決まってね。写真を送る予定だから、いい写真あったら送って」
「わかりました。すごいですね」
「すごくないよ、猫西くん!」
背後から拗ねたような、掠れ声が響いた。
振り向くと、部長がいた。
スーツを身に付けているが、すでにネクタイはほどかれ、気崩されていた。両手には昼食の弁当と炭酸を抱えている。
「テレビと言っても報道ニュースの、ほんの数分だ。その功績も現部長の俺が残したわけじゃない」
「そうなんですか。それでも、僕はすごいと思いますけど」
「ぼくもそう思うよ、部長。取材を受けるって滅多にないよ。それでもすごいことしたいのなら、今年の学祭で何かしたらいい。副部長として手伝うよ」
「そうだな、俺は……。大学猫の写真集、出す!」
と部長は炭酸を、喉をならしながら流し込んだ。
副部長は「いいね」と微笑み、腕時計に視線を落とした。
「大栗さん、遅いね。講義、長引いてるのかな」
大栗とは女子大生であり、一回生であり、件の亡くなった大学猫の発見者である。
「すみません、遅れました!」
噂をすれば大栗がやってきた。
白キャップに足首まであるアイボリーのワンピース、その上にエメラルドグリーン色のカーディガンを羽織っている。
「おはよう。落ち着いたらはじめようか」
「副部長、本当すみません」
と大栗がカーディガンを脱ぐ。肩で切り揃えられているまっすぐな茶髪が揺れた。
彼女は、二の腕から腕にかけての汗をシートで拭き取り、持ってきたジャスミン茶のペットボトルを飲み干した。その後、短い髪を手早く束ねる。
全員が着席し、ミーティングがはじまった。
序盤は各自昼食を取りつつ、恙無く報告が進んだ。記録係の猫西は昼食をコーヒー牛乳で流し込み、ノートパソコンで記録を取っていた。
「じゃあ今朝の話を聞こうか」
部長の重々しい声に深刻さが窺えた。
大栗は頷くと、割り箸から携帯に持ちかえた。
「工学部棟で発見しました。時刻は午前九時過ぎ。あ、写真は今送りますね。……送りました。写真の通り、工学部棟の外階段の下で倒れていました。動物病院で診てもらったら、外階段から落ちた可能性が高いみたいです」
張り詰めた空気の中、副部長は唸る。
「部長は事故死だと思う?」
「事故死だろう。故意だと思いたくないな」
「ぼくもだよ。ただ、大学猫の事故が続いているのが少し気になってね」
「確かにな」
ふたりの会話を聞き流しながら、猫西は写真を眺めた。元気で人懐っこい猫だったな、と悲しみ惜しんだ。短い溜息を吐き、議事録作成のために鳴りを潜める。
議事録に集中していると、だんだんと違和感が生じた。大栗の報告時には聞き流せていたことが、今は浮いて見えるのだ。
違和感が言葉になるまで、かなりの時間を要した。部長は大栗に今日のインタビューについて自慢していたし、副部長はテレビ取材の準備を相談していた。
「この子、いつも後ろ足を引きずってるからか高いところ嫌がってましたけど、そんな子が階段上がって落ちるんですかね」
事故ではないかもしれないと言外に含め、皆の反応を窺う。
猫西のぼやきにも似た声に、副部長と大栗は互いに目を合わせ、肩を竦めたり首を傾けたりした。
しかし、部長だけは猫西を見つめていた。納得も否定もない、無感情な顔だ。明らかに他のふたりと違った。
猫西も見つめ返すことしばし。
部長は壁掛け時計を一瞥した。
「昼休みが終わるな。また後で考えよう」
○
あのとき問い詰めておけば変わったのだろうかと、猫西は回想した。
大学キャンパスの端にある道。そこは農学部が育てる牛などの飼育場所に繋がる。動物特有の臭いが漂い、木の茂みで薄暗く、通行者は少ない。
そのような道で、部長が大学猫を殴打していた。
放り投げられた護身用警棒が地面に転がる。
衝撃で見開かれた猫西の瞳。粟立つ腕を冷えた指先でさすった。
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